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あなたもエコひいきしてませんか? ピカソ、バンクシー・・なぜ美術品だけが、あんなにも高額なのか 美術の特殊な世界(2)

以前の記事で「ダウンロード違法化」について解説していた。

 

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その後、法改正に向けて文化庁自民党の内部で

スッタモンダがあったようだが、最終的には見送られることになった。

ネット世論に配慮した安倍首相から、削除の指示が出たという報道もある。

 

●なぜ自民は了承したのか 首相の「鶴の一声」で違法DL項目削除へ

https://www.sankei.com/affairs/news/190308/afr1903080003-n1.html

 

●ダウンロード違法化法案、通常国会提出見送り 自民

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000027-asahi-pol

 

これでひとまずは安心だ。

(一方で、専門家のあいだでは評価の高かった

 「リーチサイト規制」に関する法改正も一緒に見送られてしまったが。)

 

私が著作権を勉強し始めた十数年前は、

著作権法は一部の業界の人しか気にかけない本当にマイナーな法律だった。

それが今や、総理大臣までもが気遣うようなメジャーな法律になってしまった。

著作権は国民全体の関心事になったのだ。

時代は変わるものである。

 

前回のタイトル

前回の記事のタイトルを

現代アートと芸術の歴史を5分で理解する」 としていたところ、

「5分じゃ読めないよ!」という声が聞こえてきた。

 

思った以上にじっくり読んでいただいるようで、有難いかぎりです。

「10分くらいで理解する」に修正させていただきました。

 

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今週も美術をテーマに考えよう。

 

なぜ美術品だけが、あんなにも高額なのか?

世界の美術品市場が活況だ。

今日も多くの作品が取引され、多額のマネーが流れ込んでいる。

 

●美術品市場にマネー流入、18年6%増の7.5兆円 世界のカネ余り映す

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42438150U9A310C1MM0000/

 

東京では、旬のアーティストであるバンクシーの作品(?)が発見され、

小池都知事を巻き込んで大騒ぎだ。

 

●都内で見つかったバンクシーらしき絵 小池都知事が対応を説明 「贈り物だと思います」「落書きを勧めているわけではない」

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1901/18/news107.html

 

なぜ騒ぐのか?

答えは決まっている。

本物なら物凄い値段がつくからだ。

 

でも、なぜだろう?

ニュースになるほど高値で取引されるのは、なぜいつも美術品なのだろう?

 

文化的に価値が高い作品は、美術品だけじゃない。

文学、音楽、映画、ゲーム・・・

色んなジャンルの文化作品がある。

しかし、文豪の直筆の原稿や、有名作曲家の直筆の楽譜がオークションに出て

「〇億円で売れた!」というニュースを耳にすることはない。

(ごくたまにあるかもしれないが、レアケース)

 

なぜ高額取引で話題になるのは美術品ばかりなのか?

みんな、美術品だけを「エコひいき」しているのではないか・・??

 

この理由を考えてみたい。

「たまたまそうなっただけ」という説(ネットワーク効果説)もあるが、

私はちゃんとした理屈があってそうなったと考えている。

 

著作物は手でさわれない

 ここに1人の音楽家がいるとする。

自分のコンサートの最中に気持ちが乗ってくる。

良いメロディーが頭に浮かび、アドリブで1曲演奏したとする。

当然、楽譜は無い。

この音楽に、形になったものはない。

演奏の瞬間に空中を漂っているだけだ。

しかし著作権は発生している。

アドリブであっても、著作物だからだ。

音楽の著作物は手でさわれない。

 

もう一方で1人の美術家がいたとする。

良い絵柄が頭に浮かび、その場で絵を描き上げてしまう。

作品が出来上がる。

この絵画には著作権が発生している。つまり著作物だ。

そしてこの絵には、紛れもなく形がある。

手でさわることができる。

 

こう書くと、

「著作物には2種類ある。

 手でさわれるものと、手でさわれないものに分類できる」

と思うかもしれない。

 

しかしそれは間違いだ。

全ての著作物は手でさわることができない。

 

「いやいや、絵はさわれるじゃないか!

 彫刻だってそうだ!形があるよ!」

と納得できない人も多いだろう。

 

でも本当だ。

 

絵を勝手に撮影したり、勝手にネットに流したりしたら、

著作権侵害になる。

この場合、犯人は絵という「物体そのもの」を

コピーしたり、アップロードしたりしているわけではない。

その絵に表現された「形や色などの構成」を写し取り送信しているのだ。

つまり、絵画というものに含まれる情報、今風に言うなら「データ」を

著作権で保護しているということになる。

 

音楽でも文学でも、全ての著作物について同じことが言える。

音楽の著作物は、楽譜やCDという物体ではない。

メロディーやリズムといったもので構成されたデータだ。

文学の著作物は、原稿や書籍という物体ではない。

文字という形式で表現されるデータだ。

 

全ての著作物は、データである。

手でさわることはできないものなのだ。

(そして著作権は、データをコントロールする権利と言い換えることも出来る)

 

そもそも、著作権とは人間が作ったルールにすぎない。

人の頭の中で勝手に作ったものであり、

物理的なモノに基づくものではないということだ。

 

ひらめきからファンの感動へ

著作物はさわれない。ということを前提に、

アーティストが作品をつくり、ファンへ届けるまでの流れを整理しよう。

 

大まかな順番でいうと、以下の4ステップになる。

 

1.アイディアがひらめく。

  ↓

2.具体的な表現に落とし込む。

  ↓

3.媒体を使って送り出す。

  ↓

4.ファンの心に届く。

 

ステップ1は、

アーティストの頭の中にインスピレーションがやってくる瞬間だ。

「欲張りな金貸しをトンチでやっつければ面白い脚本ができる!」

「ジャジャジャジャーンという音を繰り返して交響曲をつくろう!」

「女性の顔を複数の角度から描けば、みんな驚く!」

こうして作品の元になるアイディアが生まれる。

 

ステップ2で、アーティストは具体的な表現活動をしていく。

ウンウンとうなりながら、原稿や楽譜を書いたり、筆をふるったりする。

こうして作品が完成する。

 

そしてステップ3だ。

作品を何らかの方法でファンに届ける必要がある。

脚本を俳優に演じてもらったり、

楽譜を楽団に演奏してもらったりしなければ、ファンには伝わらない。

 

最後のステップ4で、

ようやくファンが作品を受け止め、味わい、解釈し、感動することができる。

 

こうして、アーティストの思いがファンの心に届く。

 

本当に価値があるのは、ステップ1のアイディアなのだろう。

アーティストの頭に浮かんだものを

そのままファンのハートに送ることができれば、

つまりステップ1からステップ4にダイレクトにデータを送信できれば、

それが一番いいのかもしれない。

しかし人間はスマホでなないし、テレパシー能力も持っていない。

どうしてもステップを順番に踏んでいく必要がある。

 

美術品の特殊性1:ダイレクト性

先週の記事でスポットを当てたのは、

ステップ1とステップ2の部分だ。

ステップ1で生まれたアイディアを保護しないでいいのか?

ステップ2の具体的表現を守るだけでいいのか?

ということをテーマにした。

 

今回注目するべきなのは、ステップ2、3、4の部分だ。

 

ステップ2から4へ行くにあたって、

脚本や音楽はどうしてもステップ3を必要とした。

 

しかし美術は違う。

絵の鑑賞方法は、だた「見る」ことだ。

作品をそのまま見れば、ダイレクトに心に届く。感動できる。

つまり、ステップ3をすっ飛ばせる。

ここが、美術品が他のジャンルと圧倒的に違う点だ。

 

我々人間は単純なので、

感動させてくれた目の前のものを「すごい!」と思う。

 

舞台劇やコンサートの場合、役者や歌手に人気が集まるのは、

彼らがファンに直接感動を届ける担い手になったからだ。

(もちろん、役者や歌手自身も十分に素晴らしいのだが。)

舞台で彼らが拍手喝采をあび、サインをせがまれている一方で、

作品を生み出した脚本家や作詞・作曲家は舞台袖で地味にたたずんでいる。

 

美術作品の場合、そんなことは起こらない。

ピカソが代表作の『アヴィニョンの娘たち』を展示したとき、

ギャラリーのオーナーが拍手喝采を受けたりはしなかった。

スーパースターのピカソと、そして何より作品そのものが絶賛されたのだ。

 

作品の良さがダイレクトに分かる。これが美術品の特徴だ。

 

美術品の特殊性2:モノ性

美術品の値段を高くするもう一つの要素が、

作品がモノ、物理的な物体である(ことが多い)ということだ。

 

今や多くの作家や作曲家は、パソコン上で創作している。

できあがる作品は、最初からデータの姿をしている。

 

しかしほとんどの美術家は、

いまだに絵の具を塗ったり、粘土をこねたり、部材を組み合わせたりして

作品をつくっている。

出来上がる作品は、モノだ。(データでもあるが。)

 

美術作品は形や色で表現されるものだ。

文学や音楽と比べて、モノとの「距離感」が近い。

また、何枚も同じものを作る写真などと違い、

美術作品は基本的に「一品もの」だ。

「美術作品は物体である」という考えが、人々のあいだで常識となりやすい。

この常識が「勘違い」を生み出すのだ。

 

ピカソの展覧会で、ファンが絶賛すべきだったのは、

作品の中に表現された構図や色彩というデータだった。

ファンが感動できたのは、絵に素晴らしいデータが詰まっていたからだ。

しかし、人々は勘違いする。

自分を感動させたのは『アヴィニョンの娘たち』というモノなのだ!

このモノこそが凄いんだ!と思ってしまう。

こうして、キャンバスに絵の具を塗りつけた物体の値段が跳ね上がることになる。

 

もし、ピカソの時代にIT技術が発達していて、

展覧会をLEDのスクリーンで行っていたらどうなっていただろう?

「勘違い」が起きづらくなる。

あの絵の価格は、今よりずっと低く据え置かれたに違いない。

 

データとモノの距離感が近い。これが美術品のもう一つの特徴だ。

 

美術品だけが高い理由:まとめ

ここまでの話をまとめよう。

 

・全ての作品の本質はデータだ。

・アーティストの脳内で生まれたデータをファンの脳内に届けるためには、

 いくつかのステップを経由しないといけない。

・美術品はそのステップの一つをショートカットし、

 直接ファンに届く。

・ファンは価値のある場所を、データではなく物体だと勘違いしてしまう。

 

こんなことが起きるのは、今のところ美術品だけだ。

だからこそ、美術品だけが「エコひいき」され、

値段がやたらと高いのだ。

 

イルカの原画を買うべきか?

もしあなたが、海で泳ぐイルカの絵を部屋に飾りたいと思っているなら、

高いお金を払って「原画」を買う必要はない。

そんなことは、勘違いした人のすることだ。

 

精細なコピー(海賊版ではないもの)を買って堂々と飾ろう。

 本当に絵が好きな人にとっての絵の価値は、

「モノ」の部分にはないのだから。

 

あなたが「投資対象」として原画を買うのなら、それでも良い。

その場合は、人々が勘違いから目を覚ます前に

高値で売り抜けて儲けてしまおう。

 

もしあなたがクリエイターで、

これから新しい作品を生み出すのなら、一工夫できるかもしれない。

それがどんなものであれ、「原作品」というモノを作ってしまうのだ。

出来あがったデータに何らかの物理的なものを付加して

「これこそが原作品です」と主張しよう。

(作曲の時に使った楽器と楽譜の組み合わせや、

 ゲーム開発時の特殊なキーボードと1本目のプログラムのコピーなど?

 適切な具体例を示せなくて申し訳ないが、もっと良い案があると思う)

この考え方を頭の片隅に置いておこう。

ピカソを見習い正しくマーケティングできれば、

新たな価値が生まれるかもしれない。

上手くいけば、データとモノの両方を売ることだって可能になるだろう。

 

著作権的には

著作物とは、突き詰めると「データ」だ。

「モノ」にではなく、データの方に価値の本質がある。

 

しかし美術の著作物だけは、

例外的にデータではなくモノの方に価値が偏っているのが現実だ。

 

モナリザ』のデータを元にして

本物と全く同じ絵を再現して展覧会を開いたとしても、

誰も見に来てくれないだろうが、

本物が来日すれば、日本中から「一目見よう」とお客さんがやってくる。

 

絵画という「モノ」でお金を稼ぐという構造になっているのだ。

 

もし私がピカソから

「『アヴィニョンの娘たち』の所有権と著作権、どっちが欲しい?」

と聞かれれば、

「所有権!」と即答する。

つまりデータよりモノが欲しい。

そっちの方が稼げるからだ。

(オークションに出してもいいし、展覧会で世界を回ってもいい)

 

東野圭吾に同じことを聞かれたら

「あなたの手書きの原稿なんか要りません!

 それより、作品の著作権を譲ってください!」

と答えるべきなのとは対照的だ。

 

そのあたりは著作権法をつくった人もよく分かっていて、

美術の著作物には特別な決まりがある。

 

美術作品の展覧会を開いてお金を稼ぐ権利は、

絵を描いた人ではなく、

その絵を買った人にあるということになっている。

つまり、著作権よりも所有権の方を優先させているのだ。

(「著作権法」なのに・・!)

 

(※厳密な説明をすると以下のようなことになるが、あまり気にしなくて良い。

 美術の著作物の展示権は原作品にのみ働き著作権者が専有するが、

 原作品の所有者またはその同意を得た者が展示する場合は権利が制限される

 

その作品を手に入れるのにウン億円も使ったんだから、

展覧会を開いてその資金を回収することぐらいは許してあげましょう。

という考え方になっている。

厳しいというイメージのある著作権法だが、なかなか柔軟だ。

 

美術品だけを「エコひいき」していたのは、我々だけではなかった。

法律も美術品だけを特別扱い、ある意味「エコひいき」しているのだ。

 

次回

美術品だけは特別で、「モノ重視」「所有権重視」

という考え方になっていることは分かった。

 

それでは、もしも画家が自分の作品を売った後に

(つまり所有権を手放した後に)

作品の評価が上がり、値段が何百倍にもなったらどうだろう?

画家はどうすることも出来ないのか・・・?

 

といったことを、これから考えよう。

 

今週の記事で書いてしまうつもりだったが、

このままいくと「10分じゃ読めないよ!」と言われてしまいそうだ。

次週に回したい。

 

 

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金魚を電話ボックスに入れちゃダメ! 現代アートと芸術の歴史を10分くらいで理解する 美術の特殊な世界(1)

金魚電話ボックス事件

現代アートの作家・山本伸樹氏が、奈良県の商店街を訴えた。

「自分のアートをパクられた!」という主張をしているのだ。

 

●「金魚電話ボックス」巡り提訴 金魚の街、奈良・大和郡山の商店街に「著作権侵害」と美術家

https://www.sankei.com/west/news/180919/wst1809190028-n1.html

 

金魚の名産地として有名な奈良県大和郡山市の商店街が

注目を集めるために、あるオブジェを設置していた。

そのオブジェというのが、電話ボックスの内部に水をため、

その中に金魚を泳がせている。というものだった。

 

商店街の狙いはバッチリ的中し、

インスタ映え」する写真を求める人々が全国からやってきた。

商店街はにぎわった。

 

しかし、山本伸樹氏はこれが気に食わなかった。

商店街が企画するずっと前から、

電話ボックスに金魚を入れ自分の「芸術作品」として発表していたのだ。

それなのに、商店街のオブジェの方が有名になってしまった。

 

「パクられた!」と思った山本氏は商店街に以下のことを要求した。

 

・金魚電話ボックスが山本伸樹の著作物であることを認める。

・オリジナル作品である(山本氏による)緑の電話機への付替えを認める。

(お金は要求しない)

 

しかし商店街はこれに応えなかった。

トラブルを避けるために

オブジェをさっさと撤去してしまうことを選んだ。

 

こうなると、山本氏の方は振り上げた拳の落としどころに困ってしまう。

もともとはお金目的ではなかったが、

330万円の損害賠償を請求するために裁判所に訴えることにした。

これに対し、商店街側は争う姿勢を見せているという。

 

これが事件の概要だ。

 

これを見て、あなたはどう感じるだろう?

 

著作権的に考えると・・

このブログの読者なら、以下のように指摘するだろう。

 

「電話ボックスに水を入れて金魚を泳がせるなんて、

 ただの「アイディア」じゃないか。

 単なるアイディアは著作権で保護されない。

 山本氏の訴えは、的外れだ!」

 

この意見は正しい。

以前の記事で解説した通り、著作権制度の根っこには以下のような考え方がある。

 

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

 

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素晴らしいアイディアは、みんなで共有しよう。

その方がみんなが豊かになれる。

でも、越えてはいけない一線がある。

作家が苦労して生み出した「具体的な表現」までパクるのはやりすぎだ。

具体的な表現は著作権で守ろう。

こういう考え方が著作権のベースにはある。

 

これを電話ボックスに当てはめれば、答えは明らかだ。

電話ボックスに金魚を入れるのは、ただのアイディアにすぎない。

こんなものに著作権を認めてしまえば、

「金魚を電話ボックスに入れちゃダメ!」ということになる。

誰もアートとして電話ボックスに金魚を持ち込めなくなってしまう。

こんな結論は、不当だ。

アイディアが同じだからといって、著作権侵害にはならない。

 

実際の裁判がどういう展開になるかは分からないが、

山本氏が圧倒的に不利なのは間違いない。

(最近の裁判所に何でもかんでも「著作物だ」と認めたがる傾向があるのは、

 以前の記事で書いた通りだ。

 だから、部分的には山本氏の主張が認められる可能性はある)

 

著作権的には、これで一件落着だ。

「やれやれ。またやっかいな人が出てきたよ。

 単なるアイディアなのに、著作権を主張するなんて。

 困ったもんだ」

ということになる。

 

でも、本当にそれだけで片づけて良いのだろうか?

山本氏の主張には、何らかの意味があるのではないか?

もっと奥深い問いかけが含まれているのではないか?

 

10分くらいで理解する美術史

山本氏の主張の本当の意味を理解するためには、

「芸術」というものの歴史を理解する必要がある。

 

少し遠回りになるが、西洋の美術史を簡単に振り返ったうえで、

もう一度、電話ボックスに戻ってくることにしよう。

 

理解するのは、西洋の美術史だけで十分だ。

日本の美術史、中国の美術史、アボリジニの美術史などを振り返る必要はない。

山本氏の属する「現代アート」は、

ほとんどが西洋美術の歩みから生まれたものだからだ。

 

現代に至るアートの大まかな流れを理解したければ、

分厚い本を開く必要はない。

以下の3点だけを把握すれば良い。

 

・「人間至上主義」の発展

・資本主義の成長

・カメラの発明

 

順番に見ていこう。 

 

「人間至上主義」の発展

今から1000年ぐらい前、つまり「中世」と呼ばれる時代は、

神様が中心の時代だった。

 

教会の教えが世界に意味を与えていた。

「神様の命令が聖書に書いてあります。

 だから人間はそれに従って行動すべきです」

 

ローマ教皇キリスト教徒にこう言った。

「中東に行って、イスラム教徒を殺してきなさい。

 神様がそう望んでおられるのです!」

こうして十字軍が結成され、たくさんの人間の血が流された。

 

こんな時代には、芸術家も教会の言う通りに絵を描いた。

神様や、キリストや、天使の絵ばかり描いていた。

上手く絵が描けたとしても、それは画家のおかげではなかった。

神様が画家に「インスピレーション」を与え、神様が描かせたものだからだ。

手柄は画家から取り上げられ、神様のものになった。

だから芸術家は大して稼げず、モテなかった。

やる気を失った彼らは、

死んだ魚の目をした魅力のない神様や聖人を描くことしか出来なかった。

 

しだいに教会の支配にウンザリした人が増え始める。

そんなとき、十字軍に参加していた人が帰ってきて

イスラム世界で保存されていた古代ギリシャ古代ローマの文化を紹介する。

これを1つのきっかけにして人々が気付きだす。

大昔の文化は素晴らしかった!

大昔の作品は躍動感がある!

神様だけじゃなく、人間自身を題材にして、自由に創作している!

この方向で行こう!!

 

これが「ルネッサンス」だ。

レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロのような天才が、

生き生きとした本当の人間の姿を描くようになっていく。

 

この流れはヨーロッパ中に広まった。

少しずつ神様の地位が下がっていく。

そのかわりに「人間こそが尊いのだ!」ということになっていく。

 

「人間至上主義」が生まれ、世界中に広がっていく。

 

フランス革命の闘士は

「神から与えられた使命、神の前の平等、神の愛」を重視しなかった。

彼らが唱えたのは「自由、平等、友愛」つまり

「人間の自由、人間の平等、人間同士の愛」という

人間中心のスローガンだ。

そして、神様から権力を与えられている王様の首を

ギロチンでちょんぎってしまった。

 

哲学者のニーチェが「神は死んだ」と言えば、

政治家のリンカーンは「人民の人民による人民のための政治」と言い出す。

 

神は必要ない。

大切なのは人間だ。

価値観はガラリと変わった。

 

「人間至上主義」についてもっと知りたければ、

ベストセラーとなった『ホモ・デウス』を読めばよい。

人間が神の座を奪い取っていく様子がよく分かる。

 

 

人間至上主義は、芸術のコンセプトにも影響を与える。

人間である画家が世界をどう見て、どう表現したか?が大切になってくる。

こうして「印象主義」のような、

画家独自の目線を全面に押し出した作品が生まれ始める。

画家の人間としての個性が重視されるようになる。

 

絵が評価されたとしても、昔のように神様に手柄を奪われることもない。

その絵は、画家自身の魂から生み出されたものだからだ。

芸術家が正当に評価される時代がやってきた。

「もっと評判になる絵を描こう!」と画家はがぜんやる気になる。

「野獣派」「キュービズム」のような、

新しい絵画が勢いよく生み出されるようになった。

 

資本主義の成長

人間至上主義と歩調をあわせて、「資本主義」も生まれた。

 

人間にこそ価値がある!という考えが広まれば、それはつまり

「人間が価値があると感じるものに本当の価値がある」

ということになる。

 

もう神様に価値を判断してもらう必要はない。

人間こそが基準なのだ。

 

この考えを押し進めれば

「多くの人が価値があると感じるものに、より多くの価値がある」

という概念が生まれる。

 

これにより「株式会社の株」にも間違いなく価値があるということになった。

だって、みんなが「あの株はいい」と言ってるんだから。

 

株式、債券、不動産・・・

人間への信頼が高まるにつれ、

みんなの評判が良いものを安心して買えるようになっていく。

お金がどんどん回りだす。

 

人間が人間を信頼する。

これが資本主義の本質だ。

 

絵画のような美術品も同じだ。

人間に価値があるので、その絵をみた人間の評価が価値の基準になる。

そして、多くの人の評価を集める絵は価値が高いに違いない。

美術作品は投資対象になった。

 

こうして、美術市場にも大量のマネーが流れ込む。

評判を集めた絵の値段が、爆発的に跳ね上がるようになる。

 

カメラの発明

次に美術界に大きな影響を与えたのが、カメラの発明だ。

 

昔は「リアルに描く」ということが大事だった。

 

自分のかっこいい姿、美しい姿を残したい人は、

絵の上手い画家に肖像画を描かせた。

画家も依頼者に気を使って、多少は美男美女にみえるように描いただろうが、

それでも大切なのは「本物のように見える」ことだった。

 

殺風景な部屋に飽きた貴族は、画家に美しい風景画を描かせ部屋にかざった。

「窓の外に本当にステキな景色が広がっている!」と思えるような

写実的な絵が評価されていた。

 

画家にとっては、本物のようにリアル描くという「技術」が大切だったのだ。

 

しかし、カメラの登場によって全てが変わってしまう。

 

カメラの性能が向上するにつれ、画家はリアルさでは勝てなくなっていく。

人々は肖像写真を撮り、部屋には写真のポスターを貼るようになる。

画家だけのものだった技術が、機械に置き換えられていく。

当時の画家たちの焦りは、

「AIに仕事を奪われる!」と騒いでいる現代人よりも

はるかに切羽詰まったものだっただろう。

 

拠り所を失いかけた彼らが見つけた突破口が、人間至上主義だった。

人間に価値がある!

大事なのは小手先の技術じゃない!

画家の魂から生み出されたものが大切だ!

画家の魂が世界をどう見ているか。それをどう表現したかが重要なのだ!!

 

こうして画家たちは、「腕前」ではなく「頭と心」で絵を描くようになる。

できるだけ写真とは違うフィールドで勝負するようになっていく。

技術に頼らず、魂の奥底から絵を生み出すようになっていく。

何を書いているのか分からない抽象的な絵が描かれるようになったのは、

こういう訳だ。

 

ピカソの登場

・「人間至上主義」の発展

・資本主義の成長

・カメラの発明

この3つの動きが、美術界を揺るがしていた。

 

でも、個々の画家たちは歴史の大きな流れの全体像を分かっていたわけではない。

目の前の状況に対応していただけだ。

「〇〇主義」が流行ればその流行にとびつき、

絵がたまたま高く売れれば喜び、

周りに合わせて芸術論を語っていた。

 

そんな20世紀の初頭に、

美術界の巨大な変化の全てを完璧に理解していた男が1人だけいた。

 

パブロ・ピカソだ。

言わずとれ知れた20世紀最大の芸術家である。

 

 

ピカソは子どもの頃から素晴らしく絵が上手かった。

父親も画家だったが、息子の描く絵に勝てないと感じ、

自分で描くのを諦めてしまったという逸話があるくらいだ。

 

しかし、そんな彼が描く絵は「上手な絵」ではなかった。

もともとはリアルに描く腕前を持っていたのに、その技術を封印した。

そして、ガタガタに歪んだ女性の顔を描いた。

めちゃくちゃに「ヘタな絵」だった。

ピカソは「元祖・ヘタうま」だ!)

多くの批評家は、ピカソの絵の良さが分からなかった。

 

ピカソはマスコミを巧みに利用し、

ピカソという偉大な人間の魂が個性的に表現されている」

というメッセージを送り続けた。

「私は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」

「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」

などの「名言」(つまりキャッチコピー)を言い続けた。

 

そのうち「ピカソの絵、凄いかも」と思う人が増えていく。

評価が上がっていく。

批評家も空気を読んで絶賛するようになる。

「みんなが良いと思うものには価値がある」の法則にしたがい、

彼の作品の値段が一気に上昇する。

資本主義のビッグウェーブに乗ったピカソは、大金持ちになる。

 

たまにピカソは作風をガラリと変える。

これは、人気のあるブランドがリニューアルするようなものだ。

彼の絵は、また話題になり、また注目される。

ピカソ自身がブランド化していく。

 

彼は、スーパースターになった。

妻以外にも複数の愛人を持つようになった。

 

以前のブログで「ピカソは史上最高のマーケターだ」と書いたことがあるが、

こういうわけだ。

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世の中の流れを読み、これまでになかった視点を世間に届け、

それを信じ込ませ、大儲けする。

これこそ、理想的なマーケティングの姿でないか!

 

20世紀の芸術

ピカソによって「新しい時代の芸術家像」が示された。

後に続く者たちは、彼からの教訓を正確に理解した。

つまり、こういうことだ。

 

「とにかく目立てば、儲かる。モテる。」

 

20世紀の芸術が幕を開けた。

それは、「目立った者勝ち」の競争となった。

 

サルバドール・ダリは、クリンと巻いた口ひげとギョロリと見開いた目で、

グニャリととろけた時計を描いた。

 

ジャクソン・ポロックは、キャンバスに塗料をぶちまけただけの、

誰にも理解不能なグチャグチャな物体を自分の芸術だと言い張った。

 

世間をアッと言わせた者は、批評家に認められた。

 

この流れに乗って、人より早く行き着く所まで行っちゃったのが、

マルセル・デュシャンだ。

彼の代表作の一つに「泉」という作品がある。

彼は、ただの男性用小便器に「泉」というタイトルを付け、

美術展に展示した。

本人にしてみれば、ただの冗談だったらしいが、

これを見た批評家がうっかり感心してしまった。

「1人の人間の魂がこれを美しいと感じたのだ!

 それなら、価値があるのかもしれない!」

「この作品は、美術というものに対して我々が持っている固定観念

 揺り動かしてくれる!素晴らしい!」

 

これをきっかけに、芸術は「何でもアリ」になった。

もはや、何かの作品を作り上げる必要すらない。

とにかくアイディア勝負だ。

新しいことをやって、世間を驚かせたり、感心させたりすれば良い。

 

スープの缶詰を並べただけの絵を「アートだ!」と言う男が現れた。

アンディ・ウォーホル

 

大きな建物をスッポリと布でくるんで見る人をビックリさせる芸術家が現れた。

(クリスト&ジャンヌ=クロード)

 

自分のウ〇コを缶詰に入れてアートとして売り出す奴まで現れた。

(ピエロ・マンゾーニ)

ちなみに、それを高額で買う人もいた。

 

もはや「やったもん勝ち」だ。

芸術は「社会を舞台にした壮大な大喜利大会」になった。

上手いウン・・ではなく、トンチをひねり出せば良い。

そうすれば、圓楽師匠や歌丸師匠が

「うまい!ざぶとん1枚!」と言ってくれるかわりに、

サザビーズのオークションで「欲しい!200万ドル!」と言ってもらえる。

 

これが現代アートの現状なのだ。

 

現代アート著作権

以上、中世から現代アートに至るまでの道のりを、駆け足で振り返った。

 

芸術家たちは神を乗り越え、人間を信じ、

人間の奥底から生まれたアイディアに価値があることを見出した。

 

世間の注目を集め、

今まで誰も思いつかなかったような新しい世界の見方(アイディア)を

提示することにこそ、価値がある。

というのが、現代アートの一般的な考え方だ。

 

つまり、大切なのは「具体的な表現」ではなく「アイディア」である。

ということだ。

 

しかし、この考え方は著作権とは相性が悪い。

悪すぎる。

先に述べたとおり、「アイディアはみんなのもの」なのだ。

著作権現代アートを保護することは難しい。

 

山本氏の行動

こうして考えると、

山本伸樹氏が金魚電話ボックスに著作権を主張していることに対して、

少し違う見方ができるようになる。

 

山本氏は現代アートの作家として、

我々が持っている「著作権固定観念」を揺り動かそうとしているのかもしれない。

 

山本氏の訴訟は、その行動自体がアートだ。

「本当に表現の保護だけでいいの?

 アイディアは保護しなくていいの?

 もっと違う考え方もできるんじゃないの?」

と問いかけてくる、一種のパフォーマンス・アートになっている。

 

山本氏自身がそこまで考えて行動しているかどうかは知らないが、

結果的に、私に著作権を考え直す視点を与えてくれた。

 

無数の芸術家たちが何百年もかけてたどり着いた

「アイディアこそ大切」という結論。

著作権では守れませんから」と言って

あっさり切り捨ててしまって良いのだろうか・・?

 

著作権という思想も

「人間が生み出したものは尊いから守ろう!」

という考え方をしている点では同じだ。

著作権現代アートも、

人間至上主義という同じ親から生まれた兄弟なんじゃないか?

なぜアイディアだけが、不当に低く扱われないといけないのか・・?

 

山本氏は裁判でどんな主張を繰り広げてくれるのだろう?

芸術家らしく、目新しく、奇想天外なアイディアを、

ぶちかましてくれるのではないか?

注目したい。

 

「アイディアではなく具体的な表現を侵害されており・・」などと、

普通の弁護士が言いそうなことを主張するのは、くれぐれもやめてほしい。

 

山本氏が新しい価値観を提示することに成功すれば、

裁判では負けるだろうが、アーティストとしての名声が得られる。

つまり、目立った者勝ちだ。

賠償金の330万円をはるかに超える利益を得ることもできるだろう。

 

山本氏には、皮肉ではなく本気で期待している。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

次回は、もう少し美術と著作権の関係について語りたいと思う。

私の好きなゴッホも登場する。

 

 

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アリータ!スパイダーマン!ドラえもん! 最新キャラクター映画から貰ったもの

先週は「ダウンロード違法化」の法改正が行われつつある状況を解説した。

このまま進んでしまうのか・・・と思われていたが、

自民党でストップがかかったようだ。

 

●ダウンロード違法化拡大、自民総務会が了承先送り

https://www.asahi.com/articles/ASM314VP6M31UTFK012.html

 

●「賛成意見を水増し」DL違法化、専門家が文化庁を批判

https://www.asahi.com/articles/ASM3351BKM33UCVL007.html

 

世間で反対の声が上がっていることに対して、政治家が反応した結果だ。

日本の民主主義は、まだ機能しているらしい。

 

とはいえ、この先どういう流れになるかは分からない。

引き続き注目していきたい。

 

注目映画3本

このブログの筆者としては見逃せない映画が上映中だ。

しかも3本同時に。

 

スパイダーマン:スパイダーバース』

アリータ:バトル・エンジェル

『映画ドラえもん のび太の月面探査記』

 

週末を使って3本全てを見ることができた。

新たな気づきもあったので報告しようと思う。

 

スパイダーマン:スパイダーバース』

まずは1本目。

スパイダーマン:スパイダーバース』。

おなじみのアメコミ・ヒーローが活躍するCGアニメーション映画だ。

 

●映画『スパイダーマン:スパイダーバース』オフィシャルサイト

www.spider-verse.jp

 

これまでのスパイダーマンといえば、

白人の高校生ピーター・パーカーが

クモの特殊能力を手に入れたことをきっかけに

ヒーローとして成長していく物語だった。

 

ところが今回のスパイダーマンの主人公は、

黒人の少年、マイルス・モラレスだ。

新しい学校になじめず自分に自信を持てないマイルスが、

クモの特殊能力を手に入れ、

少しずつヒーローとして目覚めていく・・というお話になっている。

 

この映画、映画会社が黒人の観客を取り込むために

白人の主人公を黒人に置き換えました。という安易なものではない。

もっと複雑で重層的な構造の映画だ。

 

我々の住んでいる世界とは別の次元に別世界があり、

それぞれの世界にそれぞれのスパイダーマンがいる。という設定。

つまり、スパイダーマンが何人も出てくるのだ。

 

黒人のスパイダーマン

白人のスパイダーマン

女性(白人)のスパイダーマン

日本人だってスパイダーマンとして登場する。

(他にも、〇〇や〇〇のスパイダーマンが・・!!

 劇場で確かめてほしい)

 

こんなにもバラエティ豊かなスパイダーマンたちが協力して悪と戦うのだ。

盛り上がらないわけがない!

 

コミックがそのまま動き出したような独特の映像も新鮮だし、

音楽も要所要所でキッチリとテンションを高めてくれる。 

 

自信の無かった主人公マイルスが、悩みを吹っ切り、

真のスパイダーマンとして覚醒するクライマックスは

爽やかで、熱い。

 

大人が観ても十分に感動できる。

 

すでに沢山の映画賞を受賞していたが、つい先日、

アカデミー賞の長編アニメ賞まで受賞してしまった。

(日本からノミネートされていた『未来のミライ』は、この映画に敗北)

いわゆる❝上質な❞映画が好まれることの多いアカデミー賞の舞台で、

スパイダーマン」のような❝俗っぽい❞映画が受賞するなんて異例のことだ。

それほど完成度が高いということになる。

 

まだ観ていない人は、

急いで観に行った方が良いだろう。

 

マスクの力

私がこの作品に注目していたのは、アカデミー賞をとったからではない。

 

以前このブログで、

アメコミヒーローと日本のマンガヒーローの違いについて分析したことがある。

 

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この連載の中で以下のようなことを書いていた。

アメリカのヒーローはマスクをかぶっていることが多い。

・マスクをかぶれば、アメリカ人でもインド人でもそのヒーローになれる。

 

スパイダーマン:スパイダーバース』は、

まさに上記マスクヒーローのメリットを証明する映画となっている。

私が映画を観に行ったのは、そのことを確かめたかったからだ。

 

白人のスパイダーマンに慣れ親しんだ私にとって、

黒人のマイルスが登場するシーンでは、

「え?この子がスパイダーマンに??」

という違和感は少なからずあった。

 

しかし物語が進み、試練を乗り越えた彼がマスクをかぶるクライマックスでは、

まぎれもなく「本物のスパイダーマン」がそこにいた。

最初の違和感は吹き飛んだ。

 

黒人の少年だけではない。

女性だってマスクをかぶり、本物のスパイダーマンとして

違和感なく大活躍している。

 

素顔をマスクでおおうことで、どんな人種の人でもスパイダーマンになれる。

 

この映画はCGアニメだが、実写化しても十分に通用するだろう。

 

マスクの力は、やはり偉大だった。

マスクは人種、そして性別の壁も越える。

 

この映画の最後のセリフに、その全てが表現されていた。

 

「誰もがマスクをかぶることができる。

 そう、君もね!」

 

日本のマンガヒーローは?

一方で日本のマンガヒーローは、マスクをかぶらないことが多い。

ほとんどが素顔だ。

人種の壁を越えにくい。

 

ONE PIECE』のルフィが複数登場し、

それぞれが東洋人、黒人、白人、女性・・・だったりするシーンは想像しづらい。

アニメ映画ならギリギリ成立しそうな気もするが、

実写映画にすると、致命的に「変な感じ」になってしまう。

 

その違和感を逆手に取った演出で

物珍しいシーンを撮ることは出来るかもしれないが、

スパイダーマン:スパイダーバース』のような、

チームの一体感を感じさせるものにはならないだろう。

 

やはり日本のヒーローマンガは、実写化に向いていないのか・・。

 

ルフィや孫悟空

もっともっと世界的な規模で活躍してほしい私としては、

アメリカの傑作アニメを素直に楽しむことは出来なかった。

 

アリータ:バトル・エンジェル

映画をみて勝手に落ち込んでいた私に希望を与えてくれたのが、

2本目の映画『アリータ:バトル・エンジェル』だ。

 

●映画『アリータ:バトル・エンジェル』オフィシャルサイト

www.foxmovies-jp.com

 

この映画の原作は、日本のSFマンガ『銃夢(ガンム)』。

荒廃した未来の世界で悪と戦いながら

たくましく生き抜く女性サイボーグのガリィが主人公のお話だ。

(体は機械だが、脳は人間の少女)

 

このマンガに、

ハリウッド映画の巨人ジェームズ・キャメロン氏が目を付けた。

アバター』などの制作を挟みながらも、

10年以上の歳月をかけて映画を完成させたのだ。

 

北米や中国を中心に世界的なヒットとなっている。

日本マンガ原作としては史上最高の興収を記録する模様だ。

 

●北米映画興行収入=「アリータ:バトル・エンジェル」が初登場首位

https://jp.reuters.com/article/usa-boxoffice-idJPKCN1Q7048

 

●「アリータ:バトル・エンジェル」中国で公開 3日で北米超える興行収入

http://j.people.com.cn/n3/2019/0225/c206603-9549664.html

 

「日本発のマンガヒーロー(ヒロイン)もやるじゃないか!」

ということで、前日に原作マンガを読み込み、

「予習」を済ませた上で観に行ってきた。

 

そして、観おわったときの感想としては、

「この手があったか!」

というものだった。

 

テコリンの壁

上にあげた連載の中で、「テコリンの壁」というものを解説したことがある。

 

「マンガだと格好よかったのに、

 実写にすると何だかヘンテコリンになってしまう」

という問題のことだ。

 

実写にしてしまうと、

スーパーマンが派手な全身タイツを着た変なおじさんになってしまう。

峰不二子峰不二子に見えず、女優本人に見えてしまう。

これが、テコリンの壁だ。

 

テコリンの壁は2つの要素に分解できる。

 

第1の壁:原作とのギャップ

原作マンガ・アニメを知っている人にとっては、

原作のイメージと、生身の役者が演じる登場人物との間に違和感が生まれてしまう。

 

第2の壁:周囲とのギャップ

マンガキャラの衣装や髪形は、派手で現実離れしていることが多い。

しかし実写映画では、我々の暮らす現実の世界に

そんな派手なキャラが登場する。

つまり、周囲は現実感・生活感があるが、そこにいる人物だけが浮世離れしている。

(家族連れでにぎわうショッピングモールに、

 ビジュアル系バンドの人が歩いているのを発見したときの感覚に近い)

周囲の人、景色からキャラだけが浮いてしまう。

 

第1の壁は「原作とのギャップ」。

第2の壁は「周囲とのギャップ」。

ということになる。

 

マンガの実写化がなぜ失敗したかについては、

この「テコリンの壁理論」に当てはめれば、だいたいうまく説明できる。

(「ストーリーやセリフが悪い」という論点は別)

 

スーパーマン(特に昔のスーパーマン)は、

原作とのギャップ、周囲とのギャップの両方を埋められていない。

峰不二子(女優の黒木メイサ氏が演じたもの)が失敗だったのは、

原作とのギャップが大きかったからだ。

 

アメコミヒーローの場合、第1の壁はそんなに高くない。

多くの場合、マスクがあるからだ。

どんな役者でも、マスクをかぶれば顔が見えなくなる。

画面に映るのは役者の顔ではなく、マスクヒーローの顔だ。

原作との違和感はなくなる。

第2の壁をどう越えるか?に集中すれば良い。

(1989年のティム・バートン監督の『バットマン』では

 美術に徹底的に力を入れ、背景の全てをマンガのような世界にしてしまうことで、

 「周囲とのギャップ」を埋めてしまっている)

 

一方で日本のマンガヒーローの場合、

「原作とのギャップ」「周囲とのギャップ」、2つの大きな壁が立ちはだかる。

ドラゴンボール』の実写化映画『DRAGONBALL EVOLUTION』は

この両方の壁を越えられずに失敗した。

 

そして『銃夢(ガンム)』である。

ガリィ(アリータ)の顔は「素顔」だ。

マスクをかぶっていない。

 サイボーグとはいえ、人間の女の子の顔だ。

 

「テコリンの壁理論」を

アリータ:バトル・エンジェル』に当てはめて考えると、どうなるだろう?

 

アリータとテコリンの壁

上映が終わり映画館から出ていく道すがら、

アリータとテコリンの壁について色々と考えてみた。

 

この理論をこの映画に当てはめると・・・

 

不思議なことに、これが何とも当てはめにくいのだ!

 

 

私が見た限りでは「原作とのギャップ」はほとんど感じなかった。

原作マンガのイメージをしっかりと持っていた私は、

実写のアリータ(本当はCG)をみて、最初は違和感を感じた。

「こんなのガリィじゃない!」と言いたくなった。

 

でもそれは最初だけだった。

アリータが走り、笑い、戦い、恋に落ちる様子を見ているうちに

ガリィの本質をつかんでる!

 そうだよ!実写のガリィはこんな感じだよ!」

という気持ちになっていく。

ガリィとアリータの間にあったギャップが消えていく。

しまいには、アリータに恋してしまいそうになったぐらいだ。

 

 

でもこれって「原作とのギャップ」を越えていると言えるんだろうか?

アリータは、実写のように見えるとはいえ、CGなのだ。

生身の役者が演じているわけではない。

「原作マンガのキャラと生身の役者とのギャップ」という問題が、

もともと存在していない。

 

「周囲とのギャップ」にしてもそうだ。

背景は実写とCGが合わさったものだし、

アリータの周りにいる登場人物は、生身の役者とCGキャラが入り乱れている。

見せ場だけでCGを使っていた昔のSF映画と違い、

この映画では全編にわたって実写とCGが融合している。

「現実離れしたキャラと現実世界の景色とのギャップ」という問題も、

あって無いようなものだ。

 

そもそも、この映画を「実写映画です!」と

言い切ってしまって良いかどうかも分からない。

 

テコリンの壁は、越える必要が無くなっていた。

壁そのものが消えていたのだ!

 

CG技術の進歩によって、実写映画とアニメ映画の区別がつかなくなってきている。

実写とアニメの中間のような映画は、これからどんどん増えていくだろう。

 

そんな映画には、テコリンの壁理論がマッチしない。

この理論は、時代遅れのものになりつつあるのかもしれない。

 

そして、SF映画の新時代には、

日本のマンガヒーローにチャンスが回ってくる。

テコリンの壁が完全に消えたとき、

素顔であることのデメリットから解放されたヒーローたちが、

縦横無尽に活躍してくれるだろう!

 

・・そんなことを予感をさせてくれる映画だった。

 

読者の皆さんはどう感じるだろうか?

アリータ:バトル・エンジェル』をみて感想を聞かせてほしい。

 

ドラえもん のび太の月面探査記』

3本目は、ドラえもんの最新作『映画ドラえもん のび太の月面探査記』。

 

●『映画ドラえもん  のび太の月面探査』公式サイト

doraeiga.com

 

ミステリー作家の辻村深月氏が

初めて脚本を書くことに挑戦した映画だ。

 

辻村氏は子供の頃からドラえもんの大ファンだった。

そんな彼女が渾身の力で作り上げた脚本だ。

これは気になる。

 

辻村氏については、以前に連載で取り上げたことがある。

小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化にあたり、

原作者の辻村氏がNHK講談社の争いに巻き込まれ

さんざんな目にあった。という内容だった。

 

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辻村さんのことは応援したい!

ということで、数十年ぶりにドラえもんの映画を観に行ってきた。

 

ストーリーは、のび太くん達が月を舞台に大冒険するというものだ。

 

前半にさりげなく張られた伏線を、

次々と回収していく後半は見ていて気持ちがいい。

さすがはミステリー作家の脚本だ。

 

ドラえもんのび太のドジっぷりを見ているのも楽しい。

劇場では、子供たちの笑い声があちこちから聞こえてくる。

久々に、ほっこりした気分になれる映画体験だった。

 

1つだけ難点を挙げさせてもらうと、上映時間が長い。

初期のドラえもん映画は90分程度だった。

最近では少し長くなって100分強ぐらいになっているが、

今回の映画は111分ある。

途中でトイレにいく子供たちが多く目についた。

 

でも、それ以外の点では十分に楽しめる。 

辻村さんは脚本の才能も持っているようだ。

 

読者の皆さんも、

子供の頃の懐かしい友人たちに会いに

劇場に足を運んでみてはどうだろう?

 

映画3本

以上、映画3本をレビューした。

 

スパイダーマンには興奮させられると同時に落ち込まされた。

アリータからは希望をもらった。

ドラえもんには癒された。

 

自宅で落ち着いて映画をみるのも楽しいが、

劇場での体験は格別だ。

 

このブログのテーマに沿った内容の映画があれば、

今後も報告していきたいと思う。

 

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スカートめくりを撲滅しよう! ~ダウンロード違法化について~

ある小学校での事件

とある小学校で、いたずら好きの男子生徒が女子生徒のスカートをめくった。

スカートめくりにショックを受けた女の子は、泣き出してしまう。

 

これを聞いた女子生徒の両親は激怒する。

「うちの大切な娘に何てことを!

 学校の管理はどうなっているんだ!」

 

怒鳴りこまれた小学校の教頭先生は謝罪に追い込まれる。

「申し訳ございません。

 わが校の校則では「スカートめくり禁止」になっているのですが・・

 早急に対策を考えます!」

 

こうして、教頭先生は何らかの対策をとらないといけなくなった。

 

「どうしたらスカートめくりが無くなるんだろう?

 世間ではセクシャル・ハラスメントが大問題になることも多い。

 小学校とはいえ、ちゃんとしないと大騒ぎになってしまう・・。

 かといって、すでに「スカートめくり禁止」のルールはあるし、

 先生が指導もしている。

 これ以上、何をすれば良いのか・・・」

 

考えはまとまらない。

 

そんなとき、テレビのニュースが目にとまる。

変質者が女子高生のスカートの中を盗撮して捕まった!というニュースだ。

 

これを見た教頭先生は考えた。

 

「女性のスカートの中が見られてしまうという意味では、

 スカートめくりも盗撮も一緒だよな・・・」

 

「そうだ!

 盗撮対策に力を入れよう。

 盗撮の被害者がうちの学校にいるわけではないけど、

 女性のスカートの中を守ることは大切だ!」

 

「そういえば、椅子に座った女性を正面から写真撮影をした場合、

 角度によっては中のパンツが写ってしまうことがあるな・・・。

 これは良くない。

 スカートを着て座った女性を撮影することを禁止すればいいんじゃないか?」

 

「パンツが写った写真がSNSで拡散してしまったら、大変なことになる。

 女性の心が傷つくに違いない。

 スカートを着て座った女性の写真をネットに上げることも

 禁止にした方が良さそうだ」

 

「これで、女子生徒と保護者も安心してくれるだろう」

 

ここまで考えた教頭先生は、生徒会の生徒たちに指示を出す。

 

「君たち、女性のスカートの中を守るために、検討会議を開いてくれないか。

 教師が勝手に決めてしまうよりも、

 生徒自身で考えて、より良い校則の案を作ってほしいんだ。

 ちなみに私は、

 スカート着て座った女性の撮影とアップロードに問題があると思う」

 

こうして生徒会の優等生たちは

「スカートの中の保護・検討会議」を組織する。

 

検討会議

生徒会は優秀だ。

「そもそも、スカートめくりと盗撮って、別問題じゃないか?」

こうは思うものの、

教頭先生の意図をしっかりと汲み取って、検討会議のメンバー選びをする。

 

盗撮問題に詳しい生徒。

セクハラ問題に詳しい生徒。

校則に詳しい生徒。

 

次々とふさわしいメンバーが決まっていく。

 

でもこれだけだとバランスが悪く見えるから、

写真部の部長(男子生徒)も入れておく。

 

検討会議の資料は、生徒会が用意する。

内容はこんな感じだ。

・座った女性を撮影したときに間違ってパンツが写ってしまった事例

・インターネットで情報が拡散するスピードについての研究

・座った女性の撮影とアップロード禁止化の提案

・他校の似たような校則の例

 

資料に従い、

「撮影とアップロードは問題じゃないか」という雰囲気で

会議は進んでいく。

 

写真部の部長が

「禁止にするのは、いくらなんでも厳しすぎるんじゃないでしょうか?

 これだと写真撮影がやりづらくなります」

と意見を言ったが、流れは変わらない。

 

検討会議の「まとめ」は生徒会が作る。

そこにはこう書かれてあった。

「写真撮影がしづらくなるという意見も一部にはあったが、

 全体としては、撮影とアップロードを禁止することで

 スカートの中を守ることが大事だという意見だった」

 

こうして新たな校則の案が作られることになった。

 

【スカートの中 保護校則案】

・この校則は、女性のスカートの中を保護することで、

 女性の心を守り、女子と男子が仲良く学校生活を送るためのものである。

・着座した女子生徒を撮影することを禁止する。

・着座した女子生徒の写真をネットにアップロードすることを禁止する。

・この校則に違反した生徒は、1週間の停学処分とする。

 

校則案が発表されると、全校生徒に動揺が走った。

「撮影禁止ってどういうこと!?」

「友だちとカラオケしてる写真とれないの!?」

SNSできなくなるじゃん!」

「生徒会、何やってるんだよ!」

今まで生徒会の活動に興味のなかった生徒たちまで騒ぎ出す。

 

生徒会にとっては、この状況は誤算だった。

今までは、生徒会活動なんて、

ほとんどの生徒にとって「どうでもいいこと」だったからだ。

今までは、ほとんどの校則が誰にも気づかれずにシレっと成立していた。

今回もそうなる予定だったのだ。

 

生徒会の予想を超えて、新しい校則案への非難の声が高まっていく。

 

遂には、ことの発端となったスカートめくりの被害者の女子生徒も声をあげる。

「こんなこと、求めてなかったのに!」

 

 

・・・これが、今さわぎになっている「ダウンロード違法化」の現状だ。

 

ダウンロード違法化

「ダウンロード違法化」の問題ついては、知っている読者も多いと思う。

 

著作権侵害、スクショもNG 「全面的に違法」方針決定

https://www.asahi.com/articles/ASM2D6F8NM2DUCVL03V.html

 

●違法ダウンロード対象拡大 海賊版対策、誘導サイト規制も 

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41217310T10C19A2CR8000/

 

山田太郎さんが懸念する表現の自由侵害の危機・静止画DL違法化とコスプレの著作権違反化

https://togetter.com/li/1297860

 

多くのメディアで取り上げられているので詳しい解説はここではしない。

大まかにいうと、以下のような話だ。

 

 

・これまでも、権利者に勝手にアップロードすることは禁止だった。

 今後は、それをダウンロードすることも禁止になる。

・それが個人的に使うためであっても禁止。

・ただし、ネットに上がっていることが違法だと知っていた場合に限る。

・今までは動画や音声データだけが対象だったが、

 これからは写真、画像、漫画、文章など全ての著作物が対象になる。

 

この法改正案にたくさんの批判が出ているのだ。

「ネットにあがっているもので、

 どれが違法でどれが適法かなんて分かるわけない!」

「一般の人が日常的にやっていることが、違法なことになってしまう!

 全国民を犯罪者にするつもりか!」

「法改正しても、肝心の違法サイトは取り締まれないじゃないか!」

「ネット上の資料を手元にコピーしておくことができないと、

 新たな創作活動がしづらくなる!」

 

法改正の経緯

いつの間にこんな法改正の話が進んでいたのだろう?

 

この法改正は、上記の「スカートめくり」の話と同じような流れをたどっている。

 

大まかに言うと、以下のような流れだ。

 

・「漫画村」のような違法なサイトが話題になる。

  ↓

・「漫画家の著作権を保護することは大切だ!

  何とかしないと!」という話になる。

  ↓

・権利者に無断でアップロードすることは、すでに禁止されている。

 「それでも何かしないと!」というプレッシャーがかかる。

  ↓

・サイトをブロッキング(強制的に見れなくすること)できる制度を

 作ろうとするが、「通信の秘密」を大切にする人の反対にあって失敗する。

  ↓

・ダウンロードを禁止にすればいいんじゃないか?

 という案が浮上する。

  ↓

・政府の会議(文化審議会著作権分科会)に有識者が集められ、

 ダウンロード違法化の方向で検討される。

  ↓

漫画村のような違法サイトから漫画家を守る!という話とは

 ズレた話になっちゃっていることに皆気づいているし、

 反対意見も出るが、会議は進んでしまう。

  ↓

・ダウンロード違法化すべし!という結論にまとめられる。

  ↓

・このことがニュースになり、多くの人が反対の声を上げる。

  ↓

・本来守りたかったはずの漫画家の皆さんからも

 「こんなもの要らない」という反対の声が出てくる。

 

多くの漫画家は、ネット上で見つけた写真や文章を

「参考資料」として手元にコピーして取っておく。

そしてそれを自分の創作活動に生かしているのだ。

コピーできなくなると、新しい漫画を作りづらくなってしまう。

(これが「個人的な利用のためのコピー」と言えるかどうかは

 微妙な問題だが、実務上は問題になっていない)

 

 

●こんな違法化「誰が頼んだ?」漫画家や専門家ら声上げる

https://www.asahi.com/articles/ASM2L748HM2LUCVL04G.html

 

●「漫画家と二次創作コミュニティは近くにいる」伝説の漫画家、竹宮惠子さんも「違法DL拡大」に反対

https://www.bengo4.com/internet/n_9230/

 

 

トホホ・・・である。

「スカートの中 保護校則」と同じくらい馬鹿げたことになっている。

 

「何かやらなきゃ!」ということになり、

優秀な人たちがアサッテの方向を向いた会議を行い、

本来の目的とはズレた誰も望んでいないルールが

出来上がろうとしているのだ。

 

政府の読み違い

そんなバカげたことが起こっているわけがない!と思う人がいるかもしれないが、

こういうことは、これまで何度も行われてきている。

(いずれ記事でとりあげたい)

 

以前は「著作権法」というのは、

特に注目を集めない「マイナーな法律」だった。

 

一部の人の意見や思惑だけで議論が進み、

検討の形式だけが整えられ、

国民の注目を集めないままに、

シレッと法改正されることが多かったように思う。

 

しかし時代は変わったようだ。

 

日本の漫画、アニメ、ゲームは重要な産業になった。 

インターネットが普及したおかげで、

人の作品を楽しみつつ自分も作品を作って公開できるようになった。

多くの人が日常的に著作権に関わるようになった。

 

マイナーだった著作権は、国民の関心を集めるようになった。

著作権法は「メジャーな法律」になった。

 

政府は、ここのところを読み違えたのではないか。

昔の感覚でシレッと通そうとしたが、

予想以上に注目が集まってしまったのではないか。

 

今後「著作権法をいじりたい」と思う人は、

時代の変化をしっかりと認識しないといけないだろう。

 

どうしたらいいのか?

たくさんの反対意見が出ているものの、法律は改正されてしまうようだ。

(条文が作られていく中で、あまり厳しくないものになるかもしれない)

 

ダウンロードが違法になってしまったら、我々はどうすれば良いのか?

 

ダウンロードはやめといた方がいいのか?

どうしてもしたければ、

全てのネット上のデータが違法じゃないかどうか

自分でチェックしないといけないのか・・?

 

結論を言うと、特に気にしなくて良い。

 

そもそもが「とにかく何かしなきゃ!」ということで始まった話なのだ。

法改正をして「ちゃんと対策してます!」という形さえとれたら

それで良い。と政府が考えていることは間違いない。

この法律を使って個人のダウンロードを取り締まろう!

などとは誰も考えていない。

警察もそんなにヒマじゃない。

 

今まで通り、必要なものがあれば個人的にコピーをとって保存しておけば良い。

 

ただし、「この人、違法なダウンロードをしてますよ!」と嫌がらせで

通報される可能性はある。

あきらかに悪質なサイトを利用するのはやめよう。

それだけで十分なはずだ。

 

実際の法律の条文がはっきりしたら、

あらためて対策について説明しようと思う。

 

作家やアーティストの皆さんは、

必要以上に怖がらずに他人の作品を参考にしながら、

新たな素晴らしい作品をつくってほしい。

 

つまり、

萎縮せず、自信をもって行こう! 

ということだ。 

 

ツイッター

以前書いた通り、

このブログは最新ニュースや時事ネタを追いかけることを目的にしていない。

 

しかし今回は、政府の動きがあまりにお粗末であり、

クリエイターに不安が広がっているようだったので、

記事でとり上げることにした。

 

今後、時事ネタがある場合は、ツイッターで発信していきたい。

 

吉沢計

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人口知能 × 著作権 第3次AIブームを振り返る(5)

 

今回の連載では、AIを入口にして

色んな方向へ考えを進めてきた。

 

・作家やアーティストは、AIに仕事を奪われるのか?

・AIの活躍する時代に、コンテンツの長さはどうあるべきか?

・そもそも著作物とは何か?

 

今日は、これらの話題の中で掘り下げられなかったテーマや

関連する小ネタをとりあげようと思う。

 

AIが作曲

・AIが活躍しやすい分野は、作曲。

・AIの生成した音楽を人間の作曲家が活用できる。

 

連載の中で、私は上記のようなことを予想していた。

すると、6日前に本当にそんな内容の記事が出てきた。

 

●【音楽の未来】AIとのコラボで生まれる創造性に満ちた音楽の世界

https://newspicks.com/news/3664960/body/

 

タリン・サザンというアーティストが、

世界で初めてAIで作曲・編曲されたアルバムをリリースしたそうだ。

記事によれば、

AIが作った作品をサザン氏がアレンジ・編集し、

まとまりのある曲に仕上げたという。

 

やはり、音楽の「部品」を提供するという役割なら、

AIが活躍することは十分に出来るようだ。

今後も、サザン氏に続くクリエイターは増えるに違いない。

 

でも、このテのニュースを目にする機会は少しずつ減っていくだろう。

AIが使われなくなるからではない。

その逆だ。

AIが使われることが珍しくなくなっていき、

ニュースとしての価値を失うからだ。

 

本当はAIに頼っていても、そのことを隠すクリエイターもいるだろう。

「全てを自分の頭から生み出すこと」と、

「AIを自在に操って効率的に作品を生み出すこと」のあいだに

価値の差があるのか?

といった議論も起きるかもしれない。

 

(食品の世界では似たような議論が既にある。

 物質としては全く同じものでも、

 「天然由来成分」と「化学的に合成された成分」には、

 違いがあると主張する人も多いし、

 「天然由来」を売りにした商品、それを欲しがる消費者も多い。)

 

AI作曲については、今後も注目していこう。

 

 音楽の長さと著作権

「どのくらいの長さの文章なら著作権が発生するのか?」については、

連載の中で詳しく解説した。

 

では、文章ではなく音楽なら?

メロディが何秒以上なら著作物といえるのだろうか?

 

「4小節までなら大丈夫(つまり、著作権は無い)」

といった「常識」を、昔はよく聞いた。

もちろん、これは俗説にすぎない。

4小節以内の音楽でも著作権がある可能性は高い。

 

RPGゲームの傑作『ドラゴンクエスト』の音楽で有名な

すぎやまこういち氏は、

あの、レベルアップの曲(♪パカパカパンパンパ~ン♪)にも

著作権が発生すると主張している。

 

●やさしい著作権のお話~すぎやまこういちを囲む会にて~

http://sugimania.com/says/backnumber1.html

 

しかし、ここまで短い曲の場合、

裁判になってみないと確かな結論は出せないだろう。

 

「著作物かどうか?」の判断基準は文章の場合と全く同じだ。

 

「思想又は感情」

「創作的」

「表現したもの」

「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」

この4つで判断するしかない。

 

そして「結局のところ、明確に判断できる基準はない」というのも、

文章と同じだ。

 

「自分の作った曲の一部のパーツが、人の曲の一部と似てしまっている!」

「世の中の全ての曲の短い「部分」までチェックするのは不可能!」

と心配になる作曲家がいるかもしれないが、

必要以上に怖がらなくても良いと思う。

 

「記念樹事件」という有名な裁判がある。

大物作曲家の小林亜星氏が、これまた大物作曲家の服部克久氏を

「パクリだ!」と言って訴えた事件だ。

 

●「音楽著作権侵害の判断手法について -『パクリ』と『侵害』の微妙な関係」

https://www.kottolaw.com/column/000051.html

 

この裁判では、

「メロディーのはじめと終わりの何音かが同じ」とか、

「メロディーの音の72パーセントが同じ高さの音」のように、

「曲全体」を比べながら争った結果、小林氏がギリギリで勝利した。

 

曲のごく短い部分がたまたま似ている。という程度で、

著作権侵害になってしまう可能性は低いだろう。

(もちろん、意図的に部分的なパクリをやるのはダメ)

 

マンガで名作を読む

連載の中で、

「短いコンテンツが好まれるようになっている。

 有名な文学作品もマンガ等で短時間で読めるようになった」

という状況を紹介した。

 

記事の文脈の中では、少し否定的なニュアンスで書いたが、

私は文学をマンガで読むのも「全然アリ!」だと思う。


「名作の良さは文章じゃないと伝わらないよ」という人もいるが、

そういう人だって海外の有名作品は

日本語(もしくは英語)への翻訳作品で読んでいるはずだ。

作品をダイレクトに楽しんでいるわけではなく、

翻訳家のフィルターを通して味わっていることになる。

マンガという表現も、そうしたフィルターの一種だ。

マンガ家の理解を通じて文学作品の世界に飛び込んでみるのも、

アリだと思う。

 

以前の記事で書いたとおり、

文化というものは先人の作品に手を加え新しい作品を生み出し、

さらに次の世代の人が手を加えることを繰り返して発展してきた。

 

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文学作品をマンガにすることも、文化の発展のプロセスの一部だ。

文学、マンガ、映画・・・色んなスタイルで自由に楽しめばいい。

マンガを読んで興味が湧いたら、

その元になった文学作品に挑戦してみるのも良いだろう。

それぞれの作品の違いを発見するのも楽しい。

 

 

ちなみに、有名作品をマンガにした『まんがで読破』というシリーズが

あるのをご存知だろうか?

 

このシリーズの一部が、

アマゾンのKindleで、なんと1冊10円でセールされている!

 

いつまでセール価格になっているかは分からないが、

「いつかは読みたかったあの名作」を手っ取り早く読破する良い機会だ。

気になっていた作品がないか、チェックしてみよう。

 

 

 

私にも、学生時代から何度か挑戦し、

結局は難しすぎて最後まで読めなかった本が何冊かある。

そのうちの1冊がカントの『純粋理性批判』だ。

今回のセールのおかげで、たったの30分、たったの10円で、

長年の夢がかなってしまった!

ありがとう!アマゾン!

 

 

 

 

 

「意味」の意味

今回の連載では、繰り返し以下のように主張した。

 

「AIは意味を理解しない。

 人間は作品に意味を込めるべきだ」

「意味のある作品を生み出していれば、大丈夫です!」

 

ところが、偉そうに言っていた筆者に対して

「意味って何?」という、鋭すぎる質問が飛んできた。

 

「意味」の意味とは?

 

めちゃくちゃ難しい!

哲学者なら、それだけで1冊の本が書ける。

神学者なら「神の意図です」と一言で答えてしまうかもしれない)

 

意味とは何か?は難問だが、

「人は何に対して「意味がある」と感じるのか?」

という視点でなら考えることが出来そうだ。

 

私の考える「意味」とは「物語」だ。

 

そして、「物語」とは「人の感情を動かす因果関係」のことだ。

 

「宝くじで1億円が当たる確率は0.0001パーセントです。」

これは物語ではない。

ただのデータだ。

 

「宝くじで1億円が当たる確率は0.0001パーセントです。

 この確率に従って、100万人の中から田中さんが当選しました。」

ここには因果関係があるが、感情が動かない。

 

「宝くじで1億円が当たる確率は0.0001パーセントしかありません。

 田中さんは、当選を願って毎朝神社にお参りしました。

 すると、100万人の中から田中さんが当選しました。」

こうなってくると、感情が少し動く。

物語になってくる。

「意味」のある話のような気がしてくる。

 

AIには、神社と宝くじの因果関係を理解することは出来ないだろう。

だって、理論的には因果関係なんてあるはずが無いから。

でも、人間は「神社に行ったから宝くじが当たった」と感じてしまう。

 

素晴らしい文学、音楽、映画には、全て「物語」がある。

 

人間は、独自の感性で原因と結果のつながりを感じ取り、

それによって感情が動かされたときに、

「物語」を感じる。

「意味がある」と感じるのではないか・・?

 

今のところ、私に言えるのはこれぐらいだ。

 

ついつい因果関係を考えてしまう人間の特徴。

感情が動くものに価値があると感じてしまう人間の性質。

このあたりに、「意味」というものの本質が隠れている気がする。

 

最後に

今回の連載は、人工知能をテーマにしておきながら、

気が付けば「人間とは?」ということばかりを考えていた。

 

・人間は意味が理解できる。

・人間は意味を求める。

・人間にとって大切な文化・芸術とは。

 

AIという比較対象に照らし出されることで、

人間というものの姿がよりはっきりと見えてくる

 

江戸時代に日本で暮らしていた人々が、

幕末に外国人と接触することではじめて

「日本人とは?」と考え始めたようなものだ。

 

AIの出現によって、

我々はやっと「人間とは?」を考えるスタート地点に立ったのかもしれない。

 

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人口知能 × 著作権 第3次AIブームを振り返る(4)

AIは、短い作品なら作り出すことができる。

 

では、短い作品に著作権は発生するのだろうか?

どの程度の長さから著作権は生まれるのか?

AIが作った作品に著作権はあるのか?

 

こうした疑問に答えたい。

 

今回は、これまでで一番「お勉強チック」な記事になるが、

著作権の神髄」に最も近づくことができる回になるだろう。

 

クイズ

以下の文のうち、「著作物」といえるもの。

つまり、著作権が発生しているものはどれだろう?

 

① 世界の人口は70億人以上です。

 

② 女性が差別されているのを見ると悲しくなる。

  人間は性別によって差別されるべきではありません。

 

③ 8日の日経平均先物は3日続落した。3月物は前日比235円安の2万0305円で終え、大阪取引所の終値を15円上回った。米中貿易協議の難航見通しや、欧州景気の減速懸念を背景に売りが進んだ。米株式相場が下げ幅を広げる場面で、3月物は一時2万0160円まで売られた。取引終了にかけては米株式相場が下げ渋り日経平均先物にも買いが入った。3月物の高値は2万0535円だった。

日本経済新聞の記事)

 

④ 咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや

(20世紀を代表する俳人中村汀女の俳句)

 

⑤ 咳をしても一人

(自由律俳句の俳人・尾崎放哉の俳句)

 

⑥ ボク安心 ままの膝より チャイルドシート

交通安全のスローガン

 

⑦ 朝めざましに驚くばかり

(古文の単語を記憶するための語呂合わせ)

 

⑧ 音楽を聞くように英語を聞き流すだけ 英語がどんどん好きになる

(英会話教材のキャッチフレーズ)

 

⑨ 鈴懸(すずかけ)の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの

AKB48の歌のタイトル)

 

⑩ にこにこうぱうぱブルーベリー

(AIが作った歌詞) 

 

どうだろう?

答えられるだろうか?

 

著作物か?

著作物ではないか?

1つずつ正解を確認していこう。

 

「著作物」とは

著作権をテーマにしたブログを開始して半年。

ついにこの時が来てしまった。

著作権の基礎中の基礎、「著作物」とは何か?

について語る時が・・。

 

先に結論から言ってしまうと、

著作物かどうか?の判断基準について、

いまだに誰もはっきりした結論にたどり着いていない。

裁判で結果が出ているもの以外では

「この作品は著作物である」と、

断言できる人はいないのだ。

 

そんな無茶な話ってあるか!?

みんな著作権があるということを前提に、

権利にお金を払ったり、ビジネスを成立させたりしてるんじゃないのか?

その前提がアヤフヤなら、全てがひっくり返っちゃうじゃないか!?

と言いたくなる話だが、それが現実だ。

 

そんな状況の中でも、

我々は法律や裁判所の言っていることをヒントにしながら、

個々の作品について「著作物かどうか?」を判断していくしかないのだ。

 

というわけで、法律や実際の裁判を見ながら、

上記10個のクイズを解いていこう。

 

法律は何と言っているか?

このブログは、法律の条文を紹介することを避けてきた。

だって、「お堅い」文章になっちゃうから。

 

でも、今回は避けられない。

 

著作権法で「著作物」はちゃんと定義されている。

以下の通りだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【「著作物」の定義】

思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

やっぱりお堅い文章だが、これだけは理解する必要がある。

 

 

 条文を分解した上で、1つ1つ見ていこう。

まずは、以下の4つに分解しよう。

「思想又は感情」

「創作的」

「表現したもの」

「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」

 

それぞれの言葉を理解するには、「著作物とは何か?」ではなく、

「何が著作物ではないか?」という発想で考えると良い。

 

●「思想又は感情」のないものは著作物ではない。

喜び、悲しみ、愛情・・そういった人間らしい気持ちや、

自由、平等、博愛・・といった人間の考えこそが、

著作物を生み出す。

そういう気持ちや考えのこもっていない物は著作物ではない。

つまり、単なる「事実」や「データ」は著作物にはならない。

 

だから、クイズの第1問の文章

「世界の人口は70億人以上です。」

は著作物ではないと判断できる。

単なる事実・データに過ぎないからだ。

 

●「創作的」でないものは著作物ではない。

作家が表現を工夫し、個性を発揮してこそ、素晴らしい作品が生まれる。

どんなに価値のある「感情」や「思想」であっても、

ありきたりのフツーの表現しかしていなければ、著作物とは言えない。

 

だから、

クイズの第2問

「女性が差別されているのを見ると悲しくなる。

 人間は性別によって差別されるべきではありません。」

は著作物ではないと言える。

言っている内容は立派でも、ありきたりな表現でしかないからだ。

 

第3問の日本経済新聞の記事は、結構な長さのある文章だが、

これは2重の意味で著作物とは言えない。

単なるマーケットのデータに過ぎないし、

書き手の個性が全く感じられない文章だからだ。

長い文章だからといって、必ずしも著作物になるとは限らない。

 

●「表現したもの」でないものは著作物ではない。

これは当たり前のことだ。

いくら作家が

「素晴らしい作品が私の頭の中で完成している!

 まだ書いてないだけだ!」

と主張しても意味がない。

その頭の中の作品を、

「頭の外」に出してはじめて他の人が鑑賞することができるからだ。

(映画『アマデウス』には、

 「曲は頭の中で出来ている」と言うモーツァルトに対し

 依頼主が「それじゃ意味がない」と答えるシーンがある)

ちなみに頭の外に出す方法は、実際に書く必要はなく、

口で語るという方法でも良い。

どんな方法でも「表現した」ということにはなるからだ。

(だから、即興で演奏した音楽は譜面がなくても著作物にはなる。)

 

また、作品の形になっていないアイディア段階のものも

「表現したもの」とはいえない。

 

●「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」でないものは著作物ではない。

これは、大まかにジャンルを決めている言葉だ。

「文化・芸術の範囲に入るもの」を著作物ということにします。

と言っている。

逆に、「自然科学」や「工業・産業」のジャンルに入るものは、

著作物ではないということだ。

万有引力の法則」「相対性理論」といった、

ニュートンアインシュタインの研究成果は素晴らしいものだが、

それ自体は著作物にはならない。

また、電球、テレビ、自動車といったものは、

世界を変えた凄い発明品・工業製品だが、著作物ではない。

 

以上が、法律が決めている「著作物」の定義だ。

 

解説書・裁判所の傾向

著作権についての解説書は多い。

もちろん、その中では「著作物とは何か?」について

法律の条文をもとに詳しく解説されている。

 

多くの解説書では、このような趣旨・ニュアンスのことが書いてある。

 

「この条文の大事なポイントは3つです。

 「思想又は感情」、「創作的」、「表現したもの」。

 この3点を覚えておきましょう。

 その後に書いてある

 「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」は、

 ただの目安です。

 あんまり大事じゃありません。」

 

興味がある人は本屋などで実際に確かめてほしい。

ここまであからさまに書いてあることは少ないが、

こういう気持ちがにじみ出た解説書が多い。

 

しかし、私は違うと思う。

 

我々が大切にしたい文化・芸術を守り、育てていくために

著作権法は存在している。

その「我々が大切だと思う文化・芸術って何だろう?」という視点を、

「文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」という言葉は与えてくれる。

この根本を見つめることを避けるわけにはいかない。

 

例えば、「友だち」の定義について考えてみよう。

以下のような定義だったとしてみよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【「友だち」の定義】

毎月1回以上は話をする相手で、将来の夢について語り合ったことがあり、

友情を感じている相手

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「毎月1回以上は話をする」と

「将来の夢について語り合ったことがある」という条件は、判断しやすい。

「YesかNo」で答えの出るデジタルな基準だ。

でも、一番根本的なのは「友情を感じる」という

曖昧でアナログな部分のはずだ。

 

「友情なんて人それぞれの感じ方なんだから、そこを考えても仕方がない。

 判断しやすい「毎月1回以上の話」「将来の夢」の2つの基準でいいじゃないか」

という人がいるかもしれないが、

その人は、致命的な間違いを犯してしまうことになる。

2つの基準だけだと、

「仕方なく付き合っている仕事上のお得意様」や「進路指導の先生」まで

友だちだと判断することになりかねないからだ。

 

「友だちとは何か?」を知るためには、

「友情とは何か?」という、非常に難しい問題に向き合う必要がある。

 

著作物についても同じことが言える。

 

「文化・芸術として何が大切かなんて、人それぞれだから決めようがない。

 そんな曖昧な基準に頼るより、

 「思想又は感情」、「創作的」、「表現したもの」の3点に絞って

 デジタルに判断した方が明確だ」

そういう考え方をする人が多い。

しかし、それでは重大な間違いが起きてしまうのだ。

 

実際、こういう考え方で判断する裁判所が増えているように感じる。

 

その結果、

昔だったら「著作物だ」と判断されることがあり得なかったような物まで、

著作物だと認定されてしまう裁判が出てきている。

 

中でも一番有名な例が「トリップトラップ事件」だ。

 

●椅子デザインにも「著作権」、知財高裁「実用品は意匠権」から一転、保護長期化、そっくり家具姿消す?

https://messe.nikkei.co.jp/ac/news/132056.html

 

幼児向けにオシャレにデザインされた椅子が、

「著作物です」と認められてしまった事件だ。

 

「こんな、よくある家具のデザインにまで著作権を認めてしまったら、

 自宅で写真をとってSNSにアップすることさえ、

 おちおち出来なくなるじゃないか!」

と衝撃の走る裁判となった。

 

椅子のデザインを守るための権利には「意匠権」というものがある。

これは、「文化・芸術」のジャンルではなく、

「工業・産業」の分野の権利だ。

椅子という工業製品を守りたいのなら、

著作権ではなく意匠権を使うべきだった。

 

この裁判の結論は、

「思想又は感情」「創作的」「表現したもの」というデジタル基準だけを重視し、

「文化とは何か?何を文化として守るべきか?」というアナログ基準を

考えることを軽視してしまった結果、

出てしまった結論だと思う。

 

我々の文化・芸術として大切にすべきものは何か?

文化・芸術と、工業・産業の線引きをどうすべきか?

この世界における文化・芸術の意味は?

 

簡単に答えの出る問題ではないが、

この問いかけから逃げるわけにはいかない。

 

我々はAIではない。

人間だ。

デジタルな基準だけに頼らず、

アナログな考え方で答えを見つけ出せるはずだ。

 

「テクノロジーとアートが融合する!」と世間で騒がれている中で、

今後も国民全体で取り組まないといけないテーマになるだろう。

 

「文化・芸術とは」で判断

ここでクイズの問題に戻る。

 

第4問「咳の子のなぞなぞ遊びきりもなや」という俳句は、

著作物だろうか?

 

著作物と言えるだろう。

「思想又は感情を創作的に表現したもの」と言えるからだ。

 

しかし、本当にそうだろうか?

この俳句が表しているのは、母と子の情景だ。

風をひいた子が、なぞなぞ遊びの相手になってくれるように母親にせがむ

かわいらしい様子を思い浮かべることができる。

この様子を「5・7・5」のたった17文字で表現しようと思えば、

誰が作ってもだいたいこんな俳句に落ち着くのではないか?

本当に作者が個性的に表現していると言えるのか?

本当に「創作的」といえるのか?

実は、著作物じゃないんじゃないのか・・・?

 

こう考え出すと、よく分からなくなってくる。

 

でも、先ほどの問題意識を思い出し、こう質問するとどうだろう?

「俳句は、日本の文化だろうか?

 この俳句は、我々が守り育てるべき文化だろうか?」

 

こう考えると、

自信をもって「Yes!」と答えることができるのではないだろうか。

 

 

次に第5問を見てみよう。

「咳をしても一人」

5・7・5の形式にとらわれない自由律俳句の俳人・尾崎放哉氏の俳句だ。

 

これは著作物だろうか・・?

 

さすがにここまで来ると、私にも分からない。

「咳をしても一人だった」という状況をそのまま言っているだけで、

何の工夫もない「創作的」ではない作品のようにも思える。

が、この俳句から漂ってくる何ともいえない寂しさ、わびしさを考えると、

守るべき文化だという気もする。

 

裁判になった作品ではないので明確な結論は出せないが、

この作品に著作権を認めるわけにはいかないだろうと思う。

ここまでシンプルな表現にも著作権があるとしたら、

その後の人たちが大変だ。

誰も小説の中で「咳をしても一人」と書けなくなる。

SNSで「1人で咳をした」とさえ書けなくなるかもしれない。

「くしゃみをしても一人」と言ったら逮捕されちゃうかもしれない。

そんな世の中は嫌だ。

シンプルさを大切にする日本文化と、

著作権のバランスを取るのは、とても難しい。

 

 

第6問はこれだ。

「ボク安心 ままの膝より チャイルドシート(交通安全のスローガン)」

 

これは、実際に裁判になった作品なので結論は出ている。

著作物だ。

 

例によって裁判所が

「思想又は感情」、「創作的」、「表現したもの」の3点を重視して

デジタルに判断した。

 

私はこの結論に不満だ。

たしかに「5・7・5」という俳句と同じ形式で表現されているから、

俳句と同じように著作物であるべきだ!

という考え方にひっぱられた裁判所の気持ちも分かる。

でも、これは単なる交通標語なのだ。

本当に「守るべき文化」と言えるほどのものだったのだろうか?

 

難しいことだとは思うが、形式だけにとらわれず、

作品の内容やその価値に踏み込んだ判断をすべきだったのではないだろうか。

 

 

続いて第7問。

「朝めざましに驚くばかり(古文の単語を記憶するための語呂合わせ)」

 

これは学生向けの学習参考書にのっていた語呂合わせだ。

(「鳴くようぐいす平安京」で794年を記憶するようなもの)

日本の古文に特有の「あさまし」「めざまし」という単語に

「驚くばかりだ」という意味があることを表している。

 

この語呂合わせについても、裁判で「著作物だ」と認められてしまった。

 

こんな短い文章に著作権があるというのだ!

 

上記第6問と同じく、裁判所が「守るべき文化」について考えなかった結果、

出してしまった結論と言えるだろう。

 

 

第8問はこれだ。

「音楽を聞くように英語を聞き流すだけ 英語がどんどん好きになる

 (英会話教材のキャッチフレーズ)」

 

これについては裁判所も著作権を認めなかった。

「誰が作っても似たようなフレーズになる」つまり、

「創作的な表現ではないから」というのが、その理由だ。

 

これについても、

「創作的な表現かどうか?」を判断する以前に、

「そもそも、文化じゃないじゃん!」と私は思う。

 

 

ここまで、第1問から第8問まで見てきた。

 

これで、「著作物かどうか」を判断できるようになった!

と感じている読者はいないだろう。

 

最初に私が

「「著作物かどうか?」の判断基準について、

 いまだに誰もはっきりした結論にたどり着いていない。」

といった理由が分かってもらえたと思う。

 

短い文章というジャンルに限ってみても、

裁判所の判断はフラフラしているのだ。

 

タイトル・AI

最後に、第9問と第10問を見てみよう。

 

第9問は以下だった。

「鈴懸(すずかけ)の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの

AKB48の歌のタイトル)」

 

これは、著作物にはならない。(多分。)

 

そこそこの長さのある文章だし、作者の気持ちや個性が表れているように感じるが、

なぜ著作物ではないのか?

 

それは、「著作物のタイトル」だからだ。

 

マヨネーズには「キューピーマヨネーズ」というような「商品名」が付いている。

マヨネーズ商品の「中身」と、「商品名」は別だ。

これと同じで、小説、歌、映画の「中身」と「タイトル」は別物だ。

「中身」には著作権があるが、

「タイトル」に著作権は無いということになっている。

 

なぜか?

そうしないと、何かと困るからだ。

 

テレビやネットで作品の紹介をしたくても、

タイトルに著作権があったら、そのタイトルを簡単に言えなくなってしまう。

「昨日めちゃくちゃ面白い映画をみてきました!

 主役はトム・クルーズでカッコいいんです!

 ハラハラドキドキします!

 皆さんも是非ご覧ください!

 でも、その映画のタイトルは言えません!」

こんな映画紹介は嫌だ。

 

 

 AKB48のプロデューサーの秋元康氏も、

せっかく自分が作った歌のタイトルが紹介してもらえないのは困るはずだ。

 

タイトルに著作権はない。

というのが基本ルールだ。

 

 

最後の第10問はこれだ。

「にこにこうぱうぱブルーベリー(AIが作った歌詞) 」

 

これも著作物ではない。

 

 そもそも著作権というのは「人権」の一種だ。

人権は人間にしかない。

だから、AIが作品を生み出しても著作権が発生することはないのだ。

 

見た目には人間が作ったものと見分けがつかない作品であっても、

著作物ではない。

という、不思議な結論になる。

 

(AIを操って作品を作った人間の方に権利を与えよう。

 という議論が一部でされ始めている)

 

今回のまとめ

以上、10問のクイズを通して

著作物かどうか?の判断基準を勉強できた。

 

短い文章に範囲をしぼってのクイズだったが、

それ以外のジャンルでも考え方は同じだ。

 

ポイントは以下の通り。

 

・「思想又は感情」のないものは著作物ではない。

・「創作的」でないものは著作物ではない。

・「表現したもの」でないものは著作物ではない。

・大切にしたい文化・芸術とは?という視点も大事。

・タイトルに著作権はない。

・AI作品は著作物ではない。

 

著作権について考えるとき、これが基礎中の基礎になる。

覚えておこう。

 

 

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人口知能 × 著作権 第3次AIブームを振り返る(3)

今回は、「コンテンツの長さ」という視点で見てみたい。

 

AIが文化・芸術作品を作るうえでの特徴については、

以下のようにまとめられる。

 

・長い作品、意味のある作品は作れない。

・作品の「部品」になるような短いものなら作れる。

 

 これを出発点に考えてみよう。

 

TikTok

動画アプリのTikTok(ティックトック)が人気を集めている。

ダンスや一発ネタなどの動画を投稿し共有できるアプリだ。

 

インパクトのある動画を投稿し、世間に注目されれば、

一躍有名人、インフルエンサーになれるかもしれない!

そう考える多くの人々が、たくさんの動画を日々アップし続けている。

 

このアプリで共有される動画の基本の長さは、15秒だ。

「私に注目して!」と言わんばかりのティックトッカーたちが

15秒ごとに次から次へ

入れ替わり立ち代わりのパフォーマンスを繰り広げてくれる。

 

ダンサーやお笑い芸人が瞬間的に入れ替わる舞台を見ているようで、

「次はどんな人が?」「もう少しだけ見てみよう」と、

ついつい見入ってしまう。

 

このアプリをしばらく楽しんだ後に、

YouTube(ユーチューブ)を見てみるとどうだろう?

試しに、5分程度のミニコンテンツを見てみよう。

画面の中では、人気ユーチューバーが

体を張って必死にユーザーを楽しませようとしてくれている。

 

しかし、TikTokを見た直後だと、こう感じる。

「なんか、テンポが悪いな~。

 5分って長!!」

 

ユーチューバーの全力のパフォーマンスも空しい。

古臭い昔のコンテンツを見ているような気になってしまう・・。

 

これは、なんとも不思議な現象だ。

 

ほんの少し前までは、

YouTubeのような短いコンテンツが今の時代に合っている!

 1時間も見なきゃいけないテレビ番組は古い!」

と言われていたのだ。

 

1時間から5分へ。

5分から15秒へ。

動画コンテンツはどんどん短くなっていく。

 

コンテンツの短縮化

これは、動画に限った話ではない。

他の種類のコンテンツも、徐々に短くなってきている。

 

日々の出来事や自分の考えを世の中に発表したい人々は、

以前なら自分のブログで数千字程度の長さの文章を書いていた。

今では、彼らはTwitterで140字以内でつぶやいている。

 

ここ数年よく売れているのが、

「有名な本の内容が、短時間で理解できます!」

という本だ。

本屋に行けば、

『あらすじで読む世界の名著 ー 世界文学の名作が2時間でわかる!』

『一冊で日本の名著100冊を読む』

『有名すぎる文学作品をだいたい10ページの漫画で読む。』

こんなタイトルがたくさん目に入ってくる。

トルストイの長編小説『戦争と平和』を

5分で読めてしまうとしたら、

どれだけ「便利」なんだ!と驚いてしまう。

 

音楽も同じ傾向のようで、1曲の長さが年々短くなっているようだ。

 

SpotifyApple Musicなど音楽ストリーミングの影響でヒット曲がどんどん短くなっている

https://gigazine.net/news/20190121-spotify-make-music-shorter/

 

この記事によると、Billboard Hot 100にランクインする曲の長さの平均が

この5年間で3分50秒から3分30秒にまで縮まったらしい。

サクッと聴ける2分台の曲も増えている。

 

多くの人がスマホを手にしている時代だ。

通勤時間、待ち合わせ、エレベーター待ちの時間でさえ、

コンテンツにアクセス出来るようになった。

細切れの時間でも楽しめる短いものが人気になるのも無理はない。

 

こんなニーズに合わせて、

企業も個人もどんどん短いものを作って発信するようになる。

 

こうして我々のコンテンツは、どんどん短くなっていく。

この傾向は今後も変わらないだろう。

 

こんな時代に、成功を目指す作家やアーティストは、

どんな作品を作れば良いのだろう?

 

世間の流れに合わせて、できるだけ短い作品をつくるべきだろか?

 

人間とAIが出会う日

思い出してほしいが、

AIは長い作品を作ることはできないが、

細切れの短いものなら作るのは得意だった。

 

今後、大量のデータから学習することで、

作れる作品の長さは少しずつ伸びていくだろう。

 

一方で、人間の方は創作するコンテンツをどんどん短くしていっている。

 

作品を長くしようと努力するAI。

作品を自分から短くしていく人間。

 

山の両側からトンネルを掘り進んでいるようなものだ。

両者はいずれ出会う。

人間の作る作品とAIの作る作品の長さが一致する日がやってくる。

 

その時、何が起きるだろうか?

 

AI作品が人間の作品を圧倒するに違いない。

 

AIは、人間の脳と違って迷わない。疲れない。

もの凄いスピードで24時間作品を生み出し続けることができる。

人間のティックトッカーが

「次はどんな映像にしよう?」と悩んでいるうちに、

「疲れたから明日にしよう」と休んでいるうちに、

数千、数万もの短い映像を生成しているだろう。

 

もちろん、その作品のほとんどは意味不明のつまらないものだろう。

でも、何しろ作品の数が膨大だ。

下手な鉄砲も数うちゃ当たる。

「まぐれ当たり」によって、大ヒットするコンテンツも出てくる。

 

それでも当面は、人間らしい表現、表情、声、質感によって、

人間の作る作品とAI作品との区別はつくだろう。

だが映像・音声の品質は向上する。

いずれは人間と見分けがつかない

AIティックトッカーが大活躍するようになる。

 

山の両側からトンネルを掘り進んだ両者が出会った瞬間、何が起きるか?

人間は徒歩でトンネルを通り抜けようとするが、

山の反対側から猛スピードやってくる機関車に蹴散らされてしまうのだ。

 

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の恐怖再び

前回の記事で私は

「作家やアーティストがAIに仕事を奪われることはありません!」

と請け合った。

 

しかし、それは

「意味のある作品を生み出し続ける」

という条件を守っていれば。の話だ。

 

人間の方から積極的に「意味」を捨て、

感覚だけに頼った短い作品しか作れなくなった瞬間に

AIの勝利がやってくる。

 

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を書いた新井紀子氏が

雇用の未来を心配したのと同じように、

私は文化・芸術の未来に危機感を覚え始めている。

 

もちろん私も

「最近の若者の文化は軽薄だ!ケシカラン!」などと、

つまらないことを言いたいわけではない。

短いコンテンツの交換は、

友達と楽しい時間を共有するには最高の方法だろう。

 

ただ、短いものしか作れない人、短いものしか楽しめない人が増えることで、

長い作品が絶滅してしまうのではないか?

長い作品にしか表現できない気持ちや考え方が

世の中から消えてしまうのではないか?

多様な文化が無くなってしまうのではないか?

ということを心配している。

 

これからの創作

AI時代の創作活動は、どうやっていけば良いのだろう?

未来を予測するのは簡単ではないが、考えてみよう。

 

小説家や作曲家など、長いコンテンツを作るのが好きな人、得意な人は、

そのまま続ければ良い。

自分の持ち味を生かして、作品を生み出そう。

 

短い作品に慣れた人が増えるにしたがって、

あなたの作品は「長い」と言われ、避けられるようになるかもしれない。

でもそれは仕方ない。

無理に時代に合わせる必要なんて無いと思う。

長い作品に込められた深い意味を味わえる人は、

いつの時代にも必ずいると信じよう。

多くのライバルが長い作品の制作から撤退すれば、

あなたの作品には希少価値が生まれる。

自分を信じて自分らしい表現を続けていれば、

AIに脅かされることのない唯一無二の存在になれる。

そのまま行けば良い。

 

一方で、TikTokのように短い瞬発的なコンテンツを作るのが好きな人に、

「やめときなさい」などと言う気はない。

そのまま続けて良いと思う。

 

ただし、それだけで稼いでいけるようになる可能性は低い。

少しずつAIに市場を奪われていくからだ。

あくまでも「楽しみ」と割り切って、どんどん作品をつくろう。

 

そして、ごく一部の天才には別の可能性もある。

コンテンツがどんどん短くなっていけば、

その先には今まで見たこともないような

新しいタイプの「表現の形式」が生まれる可能性だってあるからだ。

 

今はそんなに深い意味のないように見える15秒動画にも、

奥深い感情や思想を込めることは出来るはずだ。

 松尾芭蕉が、言葉を極限まで切り詰めて

「俳句」という新しいスタイルを生み出したように。

 

俳句は「世界で一番短い詩」と言われている。

5・7・5のたった17文字にさまざまな意味を含ませ、

宇宙の広がりだって表現できてしまう。

 

 荒海や 佐渡に横たう 天の川

 

日本の文化には、

短くシンプルな表現に深い意味を込めるという伝統がある。

今の時代にピッタリじゃないか!

日本のティックトッカーが、

全く新しいショートコンテンツの形式を創造する日がくるかもしれない。

「短いコンテンツをあれこれ工夫して作るのが楽しい!」

「俺、天才かも!?」

と思う人は、ぜひとも突き詰めていってほしい。

「現代の松尾芭蕉」の登場が楽しみだ。

 

そして、ここでも大切になるのは「意味」だ。

単純な感覚だけに頼らず、

短いながらも沢山の意味を込めたコンテンツを作り続けていれば、

AIには到達できない高みに上ることができるだろう。

 

熱中できることを

結局のところ、

自分が伝えたい意味のあることを

自分が熱中できるスタイルで表現しよう。

ということだ。

 

洞窟に壁画を描き、宴会で歌っていた人類のご先祖様は、

「最近の世の中の傾向」を考えながら

そんなことをしていたわけではない。

描いている瞬間、歌っている瞬間は、

ただ喜びを感じていたはずだ。

 

そもそも創作活動というのは、楽しいことなのだ!

 

「AI時代にどんな作品をつくるべきか?」

そんな問いかけ自体がナンセンスなのかもしれない。

 

長い作品でも、短い作品でも良い。

自分が打ち込めることをすれば良いのだ。

 

AIの時代には、熱中することこそが大事になる気がする。

 

次回

次回は、今回の連載に合わせた著作権の話をしよう。

 

AIは「にこにこうぱうぱブルーベリー」と作詞することができる。

こんな短い作品にも著作権は発生するのだろうか?

 

いや、そもそもAIが作った作品に著作権はあるのか?

 

こういった疑問に答えたい。

 

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