以前の記事で「ダウンロード違法化」について解説していた。
スッタモンダがあったようだが、最終的には見送られることになった。
ネット世論に配慮した安倍首相から、削除の指示が出たという報道もある。
●なぜ自民は了承したのか 首相の「鶴の一声」で違法DL項目削除へ
https://www.sankei.com/affairs/news/190308/afr1903080003-n1.html
●ダウンロード違法化法案、通常国会提出見送り 自民
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000027-asahi-pol
これでひとまずは安心だ。
(一方で、専門家のあいだでは評価の高かった
「リーチサイト規制」に関する法改正も一緒に見送られてしまったが。)
私が著作権を勉強し始めた十数年前は、
著作権法は一部の業界の人しか気にかけない本当にマイナーな法律だった。
それが今や、総理大臣までもが気遣うようなメジャーな法律になってしまった。
著作権は国民全体の関心事になったのだ。
時代は変わるものである。
前回のタイトル
前回の記事のタイトルを
「現代アートと芸術の歴史を5分で理解する」 としていたところ、
「5分じゃ読めないよ!」という声が聞こえてきた。
思った以上にじっくり読んでいただいるようで、有難いかぎりです。
「10分くらいで理解する」に修正させていただきました。
今週も美術をテーマに考えよう。
なぜ美術品だけが、あんなにも高額なのか?
世界の美術品市場が活況だ。
今日も多くの作品が取引され、多額のマネーが流れ込んでいる。
●美術品市場にマネー流入、18年6%増の7.5兆円 世界のカネ余り映す
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42438150U9A310C1MM0000/
東京では、旬のアーティストであるバンクシーの作品(?)が発見され、
小池都知事を巻き込んで大騒ぎだ。
●都内で見つかったバンクシーらしき絵 小池都知事が対応を説明 「贈り物だと思います」「落書きを勧めているわけではない」
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1901/18/news107.html
なぜ騒ぐのか?
答えは決まっている。
本物なら物凄い値段がつくからだ。
でも、なぜだろう?
ニュースになるほど高値で取引されるのは、なぜいつも美術品なのだろう?
文化的に価値が高い作品は、美術品だけじゃない。
文学、音楽、映画、ゲーム・・・
色んなジャンルの文化作品がある。
しかし、文豪の直筆の原稿や、有名作曲家の直筆の楽譜がオークションに出て
「〇億円で売れた!」というニュースを耳にすることはない。
(ごくたまにあるかもしれないが、レアケース)
なぜ高額取引で話題になるのは美術品ばかりなのか?
みんな、美術品だけを「エコひいき」しているのではないか・・??
この理由を考えてみたい。
「たまたまそうなっただけ」という説(ネットワーク効果説)もあるが、
私はちゃんとした理屈があってそうなったと考えている。
著作物は手でさわれない
ここに1人の音楽家がいるとする。
自分のコンサートの最中に気持ちが乗ってくる。
良いメロディーが頭に浮かび、アドリブで1曲演奏したとする。
当然、楽譜は無い。
この音楽に、形になったものはない。
演奏の瞬間に空中を漂っているだけだ。
しかし著作権は発生している。
アドリブであっても、著作物だからだ。
音楽の著作物は手でさわれない。
もう一方で1人の美術家がいたとする。
良い絵柄が頭に浮かび、その場で絵を描き上げてしまう。
作品が出来上がる。
この絵画には著作権が発生している。つまり著作物だ。
そしてこの絵には、紛れもなく形がある。
手でさわることができる。
こう書くと、
「著作物には2種類ある。
手でさわれるものと、手でさわれないものに分類できる」
と思うかもしれない。
しかしそれは間違いだ。
全ての著作物は手でさわることができない。
「いやいや、絵はさわれるじゃないか!
彫刻だってそうだ!形があるよ!」
と納得できない人も多いだろう。
でも本当だ。
絵を勝手に撮影したり、勝手にネットに流したりしたら、
著作権侵害になる。
この場合、犯人は絵という「物体そのもの」を
コピーしたり、アップロードしたりしているわけではない。
その絵に表現された「形や色などの構成」を写し取り送信しているのだ。
つまり、絵画というものに含まれる情報、今風に言うなら「データ」を
著作権で保護しているということになる。
音楽でも文学でも、全ての著作物について同じことが言える。
音楽の著作物は、楽譜やCDという物体ではない。
メロディーやリズムといったもので構成されたデータだ。
文学の著作物は、原稿や書籍という物体ではない。
文字という形式で表現されるデータだ。
全ての著作物は、データである。
手でさわることはできないものなのだ。
(そして著作権は、データをコントロールする権利と言い換えることも出来る)
そもそも、著作権とは人間が作ったルールにすぎない。
人の頭の中で勝手に作ったものであり、
物理的なモノに基づくものではないということだ。
ひらめきからファンの感動へ
著作物はさわれない。ということを前提に、
アーティストが作品をつくり、ファンへ届けるまでの流れを整理しよう。
大まかな順番でいうと、以下の4ステップになる。
1.アイディアがひらめく。
↓
2.具体的な表現に落とし込む。
↓
3.媒体を使って送り出す。
↓
4.ファンの心に届く。
ステップ1は、
アーティストの頭の中にインスピレーションがやってくる瞬間だ。
「欲張りな金貸しをトンチでやっつければ面白い脚本ができる!」
「ジャジャジャジャーンという音を繰り返して交響曲をつくろう!」
「女性の顔を複数の角度から描けば、みんな驚く!」
こうして作品の元になるアイディアが生まれる。
ステップ2で、アーティストは具体的な表現活動をしていく。
ウンウンとうなりながら、原稿や楽譜を書いたり、筆をふるったりする。
こうして作品が完成する。
そしてステップ3だ。
作品を何らかの方法でファンに届ける必要がある。
脚本を俳優に演じてもらったり、
楽譜を楽団に演奏してもらったりしなければ、ファンには伝わらない。
最後のステップ4で、
ようやくファンが作品を受け止め、味わい、解釈し、感動することができる。
こうして、アーティストの思いがファンの心に届く。
本当に価値があるのは、ステップ1のアイディアなのだろう。
アーティストの頭に浮かんだものを
そのままファンのハートに送ることができれば、
つまりステップ1からステップ4にダイレクトにデータを送信できれば、
それが一番いいのかもしれない。
しかし人間はスマホでなないし、テレパシー能力も持っていない。
どうしてもステップを順番に踏んでいく必要がある。
美術品の特殊性1:ダイレクト性
先週の記事でスポットを当てたのは、
ステップ1とステップ2の部分だ。
ステップ1で生まれたアイディアを保護しないでいいのか?
ステップ2の具体的表現を守るだけでいいのか?
ということをテーマにした。
今回注目するべきなのは、ステップ2、3、4の部分だ。
ステップ2から4へ行くにあたって、
脚本や音楽はどうしてもステップ3を必要とした。
しかし美術は違う。
絵の鑑賞方法は、だた「見る」ことだ。
作品をそのまま見れば、ダイレクトに心に届く。感動できる。
つまり、ステップ3をすっ飛ばせる。
ここが、美術品が他のジャンルと圧倒的に違う点だ。
我々人間は単純なので、
感動させてくれた目の前のものを「すごい!」と思う。
舞台劇やコンサートの場合、役者や歌手に人気が集まるのは、
彼らがファンに直接感動を届ける担い手になったからだ。
(もちろん、役者や歌手自身も十分に素晴らしいのだが。)
舞台で彼らが拍手喝采をあび、サインをせがまれている一方で、
作品を生み出した脚本家や作詞・作曲家は舞台袖で地味にたたずんでいる。
美術作品の場合、そんなことは起こらない。
ギャラリーのオーナーが拍手喝采を受けたりはしなかった。
スーパースターのピカソと、そして何より作品そのものが絶賛されたのだ。
作品の良さがダイレクトに分かる。これが美術品の特徴だ。
美術品の特殊性2:モノ性
美術品の値段を高くするもう一つの要素が、
作品がモノ、物理的な物体である(ことが多い)ということだ。
今や多くの作家や作曲家は、パソコン上で創作している。
できあがる作品は、最初からデータの姿をしている。
しかしほとんどの美術家は、
いまだに絵の具を塗ったり、粘土をこねたり、部材を組み合わせたりして
作品をつくっている。
出来上がる作品は、モノだ。(データでもあるが。)
美術作品は形や色で表現されるものだ。
文学や音楽と比べて、モノとの「距離感」が近い。
また、何枚も同じものを作る写真などと違い、
美術作品は基本的に「一品もの」だ。
「美術作品は物体である」という考えが、人々のあいだで常識となりやすい。
この常識が「勘違い」を生み出すのだ。
ピカソの展覧会で、ファンが絶賛すべきだったのは、
作品の中に表現された構図や色彩というデータだった。
ファンが感動できたのは、絵に素晴らしいデータが詰まっていたからだ。
しかし、人々は勘違いする。
自分を感動させたのは『アヴィニョンの娘たち』というモノなのだ!
このモノこそが凄いんだ!と思ってしまう。
こうして、キャンバスに絵の具を塗りつけた物体の値段が跳ね上がることになる。
もし、ピカソの時代にIT技術が発達していて、
展覧会をLEDのスクリーンで行っていたらどうなっていただろう?
「勘違い」が起きづらくなる。
あの絵の価格は、今よりずっと低く据え置かれたに違いない。
データとモノの距離感が近い。これが美術品のもう一つの特徴だ。
美術品だけが高い理由:まとめ
ここまでの話をまとめよう。
・全ての作品の本質はデータだ。
・アーティストの脳内で生まれたデータをファンの脳内に届けるためには、
いくつかのステップを経由しないといけない。
・美術品はそのステップの一つをショートカットし、
直接ファンに届く。
・ファンは価値のある場所を、データではなく物体だと勘違いしてしまう。
こんなことが起きるのは、今のところ美術品だけだ。
だからこそ、美術品だけが「エコひいき」され、
値段がやたらと高いのだ。
イルカの原画を買うべきか?
もしあなたが、海で泳ぐイルカの絵を部屋に飾りたいと思っているなら、
高いお金を払って「原画」を買う必要はない。
そんなことは、勘違いした人のすることだ。
精細なコピー(海賊版ではないもの)を買って堂々と飾ろう。
本当に絵が好きな人にとっての絵の価値は、
「モノ」の部分にはないのだから。
あなたが「投資対象」として原画を買うのなら、それでも良い。
その場合は、人々が勘違いから目を覚ます前に
高値で売り抜けて儲けてしまおう。
もしあなたがクリエイターで、
これから新しい作品を生み出すのなら、一工夫できるかもしれない。
それがどんなものであれ、「原作品」というモノを作ってしまうのだ。
出来あがったデータに何らかの物理的なものを付加して
「これこそが原作品です」と主張しよう。
(作曲の時に使った楽器と楽譜の組み合わせや、
ゲーム開発時の特殊なキーボードと1本目のプログラムのコピーなど?
適切な具体例を示せなくて申し訳ないが、もっと良い案があると思う)
この考え方を頭の片隅に置いておこう。
新たな価値が生まれるかもしれない。
上手くいけば、データとモノの両方を売ることだって可能になるだろう。
著作権的には
著作物とは、突き詰めると「データ」だ。
「モノ」にではなく、データの方に価値の本質がある。
しかし美術の著作物だけは、
例外的にデータではなくモノの方に価値が偏っているのが現実だ。
『モナリザ』のデータを元にして
本物と全く同じ絵を再現して展覧会を開いたとしても、
誰も見に来てくれないだろうが、
本物が来日すれば、日本中から「一目見よう」とお客さんがやってくる。
絵画という「モノ」でお金を稼ぐという構造になっているのだ。
もし私がピカソから
「『アヴィニョンの娘たち』の所有権と著作権、どっちが欲しい?」
と聞かれれば、
「所有権!」と即答する。
つまりデータよりモノが欲しい。
そっちの方が稼げるからだ。
(オークションに出してもいいし、展覧会で世界を回ってもいい)
東野圭吾に同じことを聞かれたら
「あなたの手書きの原稿なんか要りません!
それより、作品の著作権を譲ってください!」
と答えるべきなのとは対照的だ。
そのあたりは著作権法をつくった人もよく分かっていて、
美術の著作物には特別な決まりがある。
美術作品の展覧会を開いてお金を稼ぐ権利は、
絵を描いた人ではなく、
その絵を買った人にあるということになっている。
つまり、著作権よりも所有権の方を優先させているのだ。
(「著作権法」なのに・・!)
(※厳密な説明をすると以下のようなことになるが、あまり気にしなくて良い。
美術の著作物の展示権は原作品にのみ働き著作権者が専有するが、
原作品の所有者またはその同意を得た者が展示する場合は権利が制限される)
その作品を手に入れるのにウン億円も使ったんだから、
展覧会を開いてその資金を回収することぐらいは許してあげましょう。
という考え方になっている。
厳しいというイメージのある著作権法だが、なかなか柔軟だ。
美術品だけを「エコひいき」していたのは、我々だけではなかった。
法律も美術品だけを特別扱い、ある意味「エコひいき」しているのだ。
次回
美術品だけは特別で、「モノ重視」「所有権重視」
という考え方になっていることは分かった。
それでは、もしも画家が自分の作品を売った後に
(つまり所有権を手放した後に)
作品の評価が上がり、値段が何百倍にもなったらどうだろう?
画家はどうすることも出来ないのか・・・?
といったことを、これから考えよう。
今週の記事で書いてしまうつもりだったが、
このままいくと「10分じゃ読めないよ!」と言われてしまいそうだ。
次週に回したい。
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