マネー、著作権、愛

創作、学習、書評など

悪魔の契約 ~ 著作権譲渡について

今回は、一部のクリエイターから忌み嫌われている

著作権譲渡」について、ちょっと考えてみよう。

 

 クリエイターの目線から

あなたはフリーの若手イラストレイターだ。

自分の仕事に誇りを持っている。

 

ある日、塗装業の会社から依頼が来た。

「弊社は塗装ひとすじの会社です。

 技術力には自信があります。

 このたび創業30周年を迎えることになりました。

 これを機に、より多くの人に弊社のことを知ってもらいたいのです。

 弊社のイメージキャラクターを作っていただけないでしょうか?」

 

塗装業界のことはぜんぜん知らないが、

ギャラも悪くなかったので引き受けることにした。

担当者から塗装技術について色々と教えてもらい、

刷毛、エアスプレー、電着塗装などの機器を体に取り付けた

オリジナルキャラクター「ぬりぬり君」が完成した。

いい出来栄えだ。

 

そこへ、担当者から契約書案が送られてきた。

「弊社の総務部から、ちゃんと契約を結ぶように言われました。

 お手数ですが、内容をご確認ください」

 

読んでみると、気になる文章が見つかった。

「「ぬりぬり君」の著作権は譲渡します。

 著作権法第27条と第28条の権利も含みます」

 

これは、何かマズイ気がする!

 

先輩イラストレイターに相談してみた。

お酒を飲むといつも著作権について熱く語っている頼りになる先輩だ。

 

契約書をこっそり見せてみた。

「これはいけないよ!

 著作権の分のギャラは貰ってないでしょ?

 著作権はクリエイターの大切な権利なんだよ!?

 それをタダで奪おうとするなんて!

 クリエイターからの搾取だよ!

 それにこの「著作権法第27条と第28条」っていうのは、

 アニメ化、ゲーム化、着ぐるみ化の権利なんだ。

 その権利も取り上げようとするなんて!

 なんて悪質な会社なんだ! 

 悪魔に魂を売り渡すような契約にサインしちゃダメだよ!

 もっとクリエイターとしての誇りを持てよ!

 ここが頑張りどころだぞ!」

 

先輩にそう言われると、すごく不平等な契約に思えてきた。

腹が立ってきた。

塗装会社に思い切って返事をすることにした。

著作権譲渡なんて聞いてません。

 「ぬりぬり君」は私が精魂込めて作った大切なキャラです。

 あなた方にお譲りするつもりはありません。

 この話は無かったことにしてください。

 どうしても著作権が欲しければ、倍のギャラを払ってください」

 

発注者の目線から

この返事をもらった塗装会社の担当者は、ビックリしてしまう。

どうして!?

30周年のキャンペーンは来月に迫っているのに!

なぜ急にイラストレイターさんが怒り出したのか、ぜんぜん分からない!

着ぐるみを作ってイベント会場で活躍してもらうつもりだったのに。

このキャラクターはイベント後も自社のキャラとして

末長く使っていくつもりだ。

大切なキャラだから、手厚くギャラも払っているつもりだ。

そのことは、打ち合わせの席でちゃんと説明もしている。

今のところ予定はないが、

いずれはアニメのCMを作って流せたら良いなと思っている。

だから「著作権譲渡」と書いただけだ。

それを今になって急にゴネだすなんて!

キャンペーンの予算は使い切っているから、

今さら倍額なんて払えるわけがない!

なんて悪質な人なんだ!

もう二度と頼むか!!

 

キャンペーンはキャラクター無しで寂しく実施された。

イラストレイターはギャラを貰い損ない評判も落とした。

 

悪いのは誰?

こんな事件が起きてしまったとして、

悪いのは誰だろう?

 

まず言えるのは、

事前にしっかりと条件を確認しなかった両方ともが悪いということだ。

 

クリエイターもプロとしてやる以上は、

仕事を引き受ける前にしっかりと条件を詰めよう。

自分を守るためには、それしかない。

気を付けるべき点については、以前の記事で書いた通りだ。

 

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もちろん、依頼した会社にも責任がある。

しっかり確認した上で発注しないといけない。

世間の常識から考えても、個人よりも企業の方がちゃんとすべきだ。

何かあったときに責められやすいも、個人より企業だ。

 

(この取引が「下請法」という法律の対象になる場合で、

 著作権譲渡にしてほしいときは、企業から出す発注書に

 「著作権譲渡です。金額には著作権の対価も含みます」

 と書かないとダメです!という行政の指導もあったりする)

 

取引するときは、お互いに条件を確認しあう。

ここまでは、常識と言って良いだろう。

 

本当に悪魔の契約なのか?

クリエイターも発注企業も、両方が悪い。

でも、もう1人❝悪い人❞がいると思う。

 

クリエイターの先輩だ。

 

彼が後輩に「悪魔の契約だ!」と吹き込んだから、

今回の悲劇が起きてしまった。

 

でも、著作権譲渡を「悪」だと決めつけて良いのだろうか?

 

そもそもが企業のキャラクターなのだ。

常識的に考えて「その会社のものである」と考えるのが、

自然ではないのか?

 

仮に著作権譲渡しなかったとして、

エアスプレーや電着塗装を装備した「ぬりぬり君」を、

個人のイラストレイターが将来的にどう活用するというのか!?

誰にも使われず、死蔵されてしまうだけだろう。

「ぬりぬり君」にとっても不幸な話だ。


企業の側もクリエイターを騙して搾取しようなんて思っていない。

具体的に決まっているキャンペーンの内容は隠さず説明もしている。

ただ、将来の全ての可能性を1つ1つ説明できないだけだ。 

 

「自社のもの」を自社で今後も色々と使う。

そのためのキャラクターを制作する。

そういう、大まかな共通認識はお互いにあったはずだ。

それを契約書という形式に落とし込んだときに、

著作権譲渡」という言葉になることがある。

それだけの話だ。

 

一部のクリエイターは「著作権譲渡は悪だ!」と信じている。

そういう人は、「著作権譲渡」という言葉を見ると熱くなる。

ひどい!搾取だ!と言い始める。

 

冷静になろう。

その取引の本質を見よう。

著作権譲渡にするのが自然なケースもある。

「譲渡」にせずに「許諾」にすれば十分なこともある。

譲渡をした上で「ただしアニメ化のときは追加でギャラを」という

条件を付ければ良いときもある。

「作者としての名前は表示する」という点だけにこだわれば

済むこともある。

契約条件は「0か?100か?」ではない。

どこかに丁度良いポイントがきっとある。

「100%の悪」も「100%の正義」もない。

話し合おう。

 

その上で、目の前の仕事に全力を尽くし、相手に喜んでもらおう。

これこそ、クリエイターの誇りをかけるべきポイントだ。

 

著作権にこだわるべきシーンもあるが、

こだわり過ぎるのは良くないのだ。

 

覚えておこう。

 

 

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冬の日差しに感謝しよう

冬の本

本格的な冬が来る前に、読んでほしい本がある。

 

八甲田山死の彷徨』

 

戦後に活躍した小説家・新田次郎氏の傑作だ。

 

 

日露戦争が目前にせまっていた時期。

ロシアとの戦いに備えるため、

日本陸軍は寒冷地での予行演習をする必要があった。

雪と寒さの中で、どれだけのスピードで移動できるのか?

どんな装備や食料が必要なのか?

そこで、青森県の2つの部隊に

真冬の八甲田山を踏破させてみることにした。

 

軍の上層部は軽く考えていたが、

冬山の厳しさは想像を絶していた。

観測史上最大の寒波が襲ってきていた。

命がけの任務となった。

 

吹雪がつづき全く先を見通せない中、

胸の高さまである雪の中を泳ぐように進む隊員たち。

手足の感覚が失われていく。

持ってきた食料はカチコチに凍って食べられない。

それでも進まないといけない。

あたりは一面真っ白だ。

ただただ、寒い。

疲れた。

何も考えることができない。

眠ってしまいたい。

 

こんな隊員を率いる隊長には、ものすごい重圧がかかる。

作戦を成功させないといけない。

遭難してしまえば、自分のせいで隊員の命が奪われる。

でも、先は全く見通せない。

この道で正しいのか自信がない。

進むべきか?戻るべきか?

休憩したくても休むと体温が下がって危険だ。

悩んだ末に決断をくだしても、上司や部下が言うことを聞かない。

どんどん追い詰められていく・・。

 

2つの部隊のうち一方は、

周到な準備と隊長の果断な行動のおかげで

全員が生きて山を下りることに成功する。

 

しかしもう一方は、

準備不足、指揮系統の乱れ等によって遭難してしまう。

隊員は次々と凍死し、部隊はほぼ全滅となった。

 

 実際に起きた悲劇をモデルにした物語だ。

 

寒さの描写

新田氏は山の厳しさを書き続けた作家だが、

この小説での寒さと疲労の描写はすさまじい。

 

「彼等は歩きながら眠っていて、突然枯木のように雪の中に倒れた。二度と起き上がれなかった。落伍者ではなく、疲労凍死であった。前を歩いて行く兵がばったり倒れると、その次を歩いている兵がそれに誘われたように倒れた。」

 

「雪の中に坐りこんで、げらげら笑い出す者もいた。なんともわけのわからぬ奇声を発しながら、軍服を脱いで裸になる者もいた。」

 

「「小便がしたい、誰か釦(ボタン)をはずしてくれ」

 と悲痛な声で叫ぶ者がいた。返事をする者はなかった。寒さと睡(ねむ)さで頭が朦朧としていて他人の世話をする気も起らないのであった。尿意を催して、叫ぶ者はいい方であった。声も発せずそのまま用便をたれ流す者が出てきた。異常な寒さのために急性の下痢を起こすものがあった。ズボンをおろしたくても、手が凍えてそうすることができなかった。悲惨を通りこして地獄図を見るようであった。自らの身を汚した者の下腹部は、その直後に凍結を始めた。彼等は材木が倒れるように雪の中に死んでいった。」

 

 

感想

読みながら、その恐ろしい描写に圧倒されてしまう。

冬山に立ち向かう人間の無力を思い知らされる。

適切な温度、風速、視界、食料・・

そういったものがたまたま揃っているから、

我々はこうして生きていられるのだ。

 

人工知能がもてはやされる時代でも、

ネット上で無限の選択肢を得られても、

拡張現実で自分の能力が上がったように感じても、

人間はどこまでいってもフィジカル(物理的・肉体的)な存在なのだ。

 

この本を読み終えた後に外出した。

良い天気だった。

暖かい太陽の光に包まれた。

幸せをジーンと感じた。

 

 おススメ

本格的な冬が来る前に、ぜひ読んでほしい。

冬の日差しだけでハッピーになれる。

太陽は無料だ。素晴らしい。

 

小説に登場する人物もみんな魅力的だ。

 

任務に対して真剣だからこそ、

部下や案内人へ冷たい態度をとる徳島大尉の二面性。

平民出身だというコンプレックスをバネに

頑張ってきた神田大尉の無念。

悲劇を引き起こした悪者として描かれる山田少佐の涙。

道具のように扱われる案内者たちの悲哀。

 

誰に対しても感情移入できる。

 

文章も非常に読みやすい。

これが50年前に書かれたものとは思えない。

技巧にたよらず平易な文を積み重ねることで、

これだけ心を揺さぶる小説が書けるのだ。

私もこんな文章が書けるようになりたい。

 

八甲田山死の彷徨』はおススメだ。

 

この作家の作品が気に入ったのなら、短編集も読んでみてほしい。 

 

 

自然の厳しさを肌身に感じると同時に、

自分のおかれた環境に感謝できるようになる。

 

冬は自宅に閉じこもって、本を読もう!

 


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マンガ作ったよ! & 権利はいつ切れるのか?

マンガ完成

制作していたマンガが完成した。 

 

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マンガ「助手席には流れ星」

 

(※実際の色味はもっと綺麗。写真撮影は苦手)

 

物流会社からの依頼を受けて制作したものだ。

トラック運転手が謎の女性と出会い、

ドライバーとして、人間として成長していく物語になっている。

 

マンガ制作は、端的に言って楽しかった!

そして、著作権への理解も深まった気がする。

 

創作の喜び

私はストーリー制作、脚本、ネーム(コマ割り)までを担当し、

作画を円井在郎(つぶらいあろう)氏にお願いした。

(ネット上のスキルマーケット「ココナラ」を通じて依頼。

 ほとんどネット上だけで作業が完結する。

 良い時代になったものだ)

 

創作活動はとにかく楽しかった。

 

物流会社の大豊物流システムさんからは、

知らなかった業界の話をたくさん伺うことができ、

非常に勉強になった。

 

ストーリー作りでは、

必要な要素をいかに効果的に構成するかを考え、

脳みそに汗をかいた。

 

脚本を作る過程では、

❝自分が創作した登場人物が、意志をもって勝手に行動し始める❞

という感覚を味わうことができた。

 

ネーム作りのときは、

これまで見てきた映画のカット割りが自分の中で醸成され、

見せたいカットを自然に選ぶことができた。

 

作画の段階では、

円井さんが描き出す人物の生き生きとした表情を見るのが

毎回楽しみだった。

「あ、このキャラはこんな顔もするんだな」という発見も多かった。

 

そして何より、最終的に良い作品ができた。

 

コンテンツ制作に携わることはこれまで何度もあったが、

今回ほど実際に自分の手を動かしてモノづくりをしたのは、

学生のとき以来だ。

みずみずしい気持ちを思い出した。

 

貴重な機会を与えてくれた大豊物流システムさんと、

素晴らしい仕事をされた円井在郎先生に、

心からの感謝を申し上げます。

 

著作権の保護期間

マンガを制作したからといって、

いっぱしのクリエイターを気取る気はないが、

今回は創作者の立場から著作権についての感想を語りたい。

 

強く違和感をもったのが、

なんといっても「著作権の保護期間」についてだ。

 

私のマンガの著作権はいつ切れるのだろう?

誰もが自由に使えるようになるのは、いつだろう?

 

なんと、私が死んだ70年後だ!

私が長生きしてあと50年生きるとしたら、今から120年後になる!

あまりに遠い先の話すぎて、自分では何一つ想像できない・・・

 

保護期間?存続期間?

保護期間の話をする前に、

少しだけこまかい言葉の整理をしておこう。

 

一般的には「著作権の保護期間」と言われている。

でも、これは本当は間違いなのだ。

 

作品が勝手にパクられないように発明された権利が「著作権」だ。

著作権は「手段」であって「目的」ではない。

本当の目的は「作品を(パクリから)保護すること」。

つまり保護すべきなのは、「著作権」ではなく「著作物(作品)」だ。

 

だから、正しい言葉づかいは「著作物の保護期間」だ。

どうしても「著作権」という言葉を使いたいなら、

著作権の存続期間」と言えば良い。

著作権法でも、丁寧に言葉の使いわけがされている。

 

ひじょーに細かい話なのだが、人間は言葉の影響を受けやすい。

何も気にせずに「著作権の保護期間」と言い続けると、

ただの手段に過ぎない「著作権」が保護すべき大切なものに見えてくる。

著作権こそが大事だ!」という思想に染まりやすい。

 

もちろん著作権は「人権」の一種なので、守るべきものなのだが、

どの程度大切にすべきかについては色んな見解がある。

そのあたりは以前の記事で「著作権・右派思想と左派思想」として

解説した通りだ。

 

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無頓着に「著作権の保護期間」と言うのはやめた方がいい。

このブログでも、今後はできるだけ

「著作物の保護期間」を使いたいと思う。

 

(分かりやすさ重視のときは「著作権の保護期間」と

 言ってしまうかもしれないけど)

 

創作意欲

著作権は「人権」であると同時に、「手段」でもある。

 

著作権がなぜあるかというと、

「作品をちゃんと保護すれば、

 作者がちゃんとお金を受け取れるようになる。

 そうなると、作者がやる気を出してもっと良い作品を生み出すだろう」

と考えられているからだ。

 

つまり、著作権は「作者からやる気を引き出すためのエサ」なのだ。

 

この考え方を延長していくと、こんな理屈になる。

「著作物を長いあいだ保護すれば、

 作者はもっとやる気を出して、もっと良い作品を生み出すだろう」

 

こうして著作物の保護期間はどんどん延びていった。

発行後14年から、作者の死後30年へ。

30年から50年へ。

50年から70年へ。

強い反対運動もあったにもかかわらず。

 

クリエイターはこう言われてきたことになる。

「あなた方は、保護期間が短いと、つまらない作品しか生み出せない。

 期間を20年延ばしてあげるから、もっとマシなもの作りなさい!」

 

それなのに、

ほとんどの作家や作曲家等は期間延長を喜んで受け入れてきた。

 

これっておかしくないか??

 

クリエイター代表

今回だけは勝手にクリエイターを代表して言わせてもらいたい。

 

ふざないでほしい!

俺たちはニンジンをぶら下げられた馬じゃない!

創作の喜びを知るひとりの人間だ! 

なぜ作品作りに打ち込むのかって?

そんなの決まってるじゃないか!

魂が「つくりたい!」って叫んでるからだよ!

それ以外の理由なんてない!

もちろん、大切な作品で好き勝手なことをされると困るし、

お金だって大切だ。

だから作品を守るための仕組みは必要だ。

それは認める。

でもそれは保護期間の延長ではない!

断じて違う!

自分が死んだ50年後に、あと20年プラスされる。

だから、もっとやる気を出して今より良い作品を作れるだろうって?

そんなわけないだろ!

俺たちはいつも目の前の作品に真摯に向き合っている。

いつだって真剣だ。

保護期間が短いからって、出し惜しみするわけないだろ!

もっとクリエイターの心、創作の喜びを理解してくれ!

 

心からそう思う。

 

企業の場合

個人としてのクリエイターの思いと、

企業としての意思決定は分けて考えるべきかもしれない。

 

個人なら多くの場合、やる気さえあれば作品をつくれるが、

企業の場合、「制作費をかけるべきか?」という意思決定が必要になる。

(大型予算の映画などを想像してほしい)

創作意欲だけではどうにもならない。

この作品が将来的にどれだけのキャッシュを生むか?を計算しないと、

制作に着手すらできない。

できるだけ長い期間のキャッシュフローがある方が、

前向きな意思決定がしやすい。

これは間違いない。

 

しかし、50年も先の話になると、

現実的にはあまり意味のない議論になってくる。

 

不動産なら「この物件は10年後も1億円の家賃収入がある」と

ある程度は確信をもって言うことが出来る。

でもコンテンツ産業の場合は全然違う。

「今年はこの映画の興収が10億円だった。

 だから10年後も興収10億円だろう」と言う人はだたのバカだ。

コンテンツの賞味期限は短い。

旬な期間はせいぜい最初の数年までだ。

10年後にそれなりのキャッシュを生んでいる作品は、

ごくごく一部の例外にすぎない。

ましてや50年後となると、いったいどれだけの作品が

「現役」として生き残っているというのか。

 

また、50年先のキャッシュは「現在価値」で考えると、

どれだけの価値があるのか?

(「現在価値」というのは、

 「10年後にもらえる10万円より、

  今日もらえる9万円の方がいい!」という考え方。

 つまり、遠い将来のお金は価値を割り引いて考えないといけない)

だれも本気で計算しようと思わないほどの額になってしまうだろう。

 

こう考えると、保護期間を50年から70年に延ばしたことで、

どれだけの企業が「よし!それなら制作費を出そう!」と思うのか?

きわめて疑問だ。

 

多くの論点

著作物の保護期間については、

「クリエイターのやる気」や「企業の意思決定」以外にも、

多くの論点がある。

 

たとえば、

「海外(特にヨーロッパやアメリカ)と同レベルにすべき」

「過去の名作が忘れ去られてしまう」

「効率的な権利処理システムがあれば大丈夫」

などだ。

 

以下のサイトでほぼ議論は尽くされているので、

興味がある人は読んでみてほしい。

どの論点でも保護期間を延ばすことに

説得力がないのが分かる。

 

著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム

 保護期間「延長派」「慎重派」それぞれのワケ

http://thinkcopyright.org/reason.html

 

保護期間の憂鬱

日本の著作権の保護期間は去年の年末に

「死後50年」から「死後70年」に延長された。

(映画以外の著作物についての話。

 映画は一足先に20年延長されていた)

 

10年前に同じような話があったときは、

大きな反対運動が起きて見送られたのだが、

今回は「TPPで決まってるから」ということで

反対運動をするヒマもないまま、シレッと延長されてしまった。

 

これは、色んな意味で憂鬱になる事態だ。

 

著作権が切れて「みんなのもの」になるはずだった作品が、

 この先20年は使えなくなってしまった。

 

・人は一度手に入れたものを奪われるのを極端に嫌う。

 (流行りの行動経済学が指摘するとおりだ)

 一度延長されてしまった期間が短縮される望みはない。

 

・国民の意見とは関係なく

 著作権法がシレッと改正されるなんてことが

 いまだに起きることが証明された。

 

我々の文化は、こんなんで本当に大丈夫なんだろうか?

そんな気持ちになってくる。

 

でも憂鬱になってばかりもいられない。

豊かな文化のために、何かできることはあるはずだ。

 

クリエイターのはしくれ(!)として良い作品を生み出しつつ、

崩れた著作権のバランスを回復させるべく、

できることを考えていきたいと思う。

 

保護期間については、

いずれ改めて1から分かりやすく説明する予定だ。

 


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日本は英語を愛しすぎている。憎みすぎている。(2)

日本人は英語に複雑な感情を抱えてることを、

前回の記事では解説した。

 

健全な「憧れ」と「劣等感」。

そして、不健全な「罪悪感」。(「後悔」と言ってもいい)

 

教育界から(意図的に)コンプレックスを植え付けらえれた我々は、

どうしたら良いのだろう?

 

理解する

一番の正攻法は、コンプレックスの原因をちゃんと理解することだ。

「私が英語をしゃべれないのは、私のせいじゃない!

 悪いのは自分じゃない!」

堂々と言えるようになろう。

 

そのためには、前回の私のブログを熟読しよう(笑)。

 

この本を読んでみるのもいいだろう。

『日本人の9割に英語はいらない 英語業界のカモになるな!』

 

 

癖のある本なので受け付けない人もいるだろうが、

書いてあることは❝まっとう❞だ。

英語なんてものに囚われる必要がないことを繰り返し主張している。

 

これで「あ、英語のこと気にしなくていいかも」と思えたら、

しめたものだ。

 

自信を持つ

次にお勧めするのは、日本語をもっともっと使うことだ。

 

日本語は非常にユニークな言語だ。

複数の文字、間延びした発音、文字と思考の一体化・・・

など、前回書いたような個性にあふれている。

その上で、高度な内容を扱うこともできる。

 

日本語で多くのことを表現すれば、

それだけ日本語と仲良くなれる。

 

たくさん本を読んで、たくさん文章を書こう。

作詞なんてしてみるのも良いと思う。

日本語の面白さが分かる。

 

そのうち

「日本語を軽々と使いこなす我々こそがユニークだ!」

と気づく。

それが自信になる。

 

私もこうして毎週文章を書いているが、

「よくもまあ、こんな珍妙な道具を使い続けているものだなあ。

 でも、このコトバじゃないと自分自身を表せないなあ。

 これこそ自分の個性だなあ」

と感じ続けている。

 

楽しくなって、最近では「脚本」まで書き始めてしまった。

 

自信を持っていこう。

 

あきらめる 

それでもコンプレックスが消えなければ・・・・

 

あきらめよう!

 

我々は若い時から洗脳を受けながら育った。

「世界を舞台に活躍しなさい」

「外国人とは英語でしゃべりなさい」

「日本語だと世の中から取り残されます」

 

全部ウソッぱちだと頭では理解していても、

数十年がかりでかえられた❝呪い❞は、そう簡単には解けない。

 

「自信を持とう」と言っている私自身、

英語で会話中に「ウっ」と言葉に詰まってしまうと、

コンプレックスが一気に噴き出してくる時がある。

心がズキッと痛む。

 

これはもう仕方がない。

あきらめよう。

 

そのうち他のもっと重大な悩み事が湧いてくる。

英語の悩みなんてどうでも良くなるだろう。

 

それでも英語を勉強したいなら

私は英語が好きだ。

他の言語を学ぶのは楽しい。

中国語も少しだけ勉強している。

 

 趣味としての語学なら、好きなだけやればいいと思う。

 

好きでないのなら無理して英語を学ぶ必要はない。

 

それでも・・・どうしても英語を勉強したいなら。

世間体のために、モテるために、コンプレックス解消のために、

勉強したいのなら。

 

とりあえず私から言えるのは3つだ。

 

・お金を無駄にしない。

・日本語の特徴から解放される。

・できるだけ先延ばしにする。

 

お金を無駄にしない

外国語の習得には、地道な努力が必要だ。

地道な努力。

それ以外の方法はない。

本当にない。

 

でも世の中は、努力が要らないかのような教材やコースであふれている。

 

「CDを聞き流すだけ!口から自然と英語が飛び出す!」

「200フレーズ暗記するだけ!これで英会話は全てOK!」

「ペラペラになるにはコツがある!

 優秀な教師があなたを最短コースへお連れします!」

 

冷静に考えると

「そんなわけねぇだろ!」の一言で済んでしまうものばかりだ。

そして、そういうものに限って値段が高い。

 

それでも「英語があなたを救う!」という宗教にに囚われ

熱くなってしまった人間には、魅力的に見えてしまう。 

あなたのコンプレックスにつけこむ悪質な業者は多い。

 

勉強するのはあなた自身だ。

高級な教材も教師も、あなたの代わりに勉強してくれない。

お金を無駄にしないよう気を付けよう。

 

日本人には英語が大人気なので、英語教材のマーケットは巨大だ。

そこでは熾烈な競争が行われている。

だから、安い教材でも十分にクオリティが高い。

自分のレベルに合わせてリーズナブルなものを選べば良いのだ。

 

日本語の特徴から解放される

以前の記事に書いた通り、言語の本質は「音」だ。

「文字」はそんなに大事じゃない。

 

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しかし、日本語はユニークだ。

中国から輸入した「漢字」と悪戦苦闘しながら成長したせいで、

「音」だけではなく「文字」の方も重要になった。

 

だから教育現場でも、ついつい「文字重視」になっていた。

難しい漢字や漢文の読み書きができて、その奥深い意味を説明できる。

つまり「漢字を知っている」ということが「教養」だった。

 

英語教育でも、ついその癖が出てしまう。

英単語や英文の読み書きができることや、

文法を正確に理解していることが必要以上に重視されるように

なってしまった。

 

でも英語は日本語とは違う。

英語の本質は「音」だ。

文法を習うのは、英語の音に十分に慣れた後でいい。

 

日本語とその学習法からは解放されよう。

音をひたすら勉強しよう。

 

私の場合は、この教材は非常に役に立った。

『英語耳』 

 

 

 他の教材でも良いと思うが、

とにかく飽きるほどに「s」「sh」「th」などの音を聞き発音することで、

❝英語の本質❞に迫っている実感が湧くと思う。

 

できるだけ先延ばしにする

そして一番大事なのはこれだ。

英語の勉強を始めるのは、できるだけ後回しにしよう。

 

人生には他にもっと大切なことがある。

 

山に登って素晴らしい景色を見ること。

美味しいごはんを食べること。

大好きな人と過ごすこと。

 

使うあてのない英語のために、

あなたの貴重な時間を費やしてる場合じゃない。

 

本当に英語が必要になったら、その時に必死になればいい。

真剣さが違うので、短時間で習得できるだろう。

何とかなる。

私も何とかなった。

 

そして、先延ばしにするメリットはもう1つある。

 

それは、技術の進歩を当てにできることだ。

 

今や自動翻訳のおかげで、簡単なやりとりには困らなくなってしまった。

「ポケトーク」の精度は日々向上しているので、

日本語しか使えなくても

海外旅行でマゴつくようなことは無くなってしまうだろう。

 

 

 ただし、自動翻訳に多くを期待しない方が良い。

AIは文章の「意味」を理解できない。

長い文章や、深い意味を込めた言葉を翻訳することは、

いつまでたっても出来るようにならないと思う。

 

期待したい技術の進歩は、

「自動翻訳」よりも、むしろ「教育手法」の方だ。

 

これまでは「効果的な英語の学習方法」について、

色んな専門家や実務家が好き勝手なことを言えていた。

 

「俺はこのやり方で英語を習得した!

 これこそが正しい学習法だ!」

「私はわが子をペラペラに育てました。

 秘訣を公開します!」

「私は脳の専門家です!

 これが科学的に正しい唯一の方法です!」

 

どれも結局は、その人にとってだけ正しい自己流の手法に過ぎない。

(上記で私が書いた「音に慣れる」も、その一種だ)

信じて実践してみても、あなたには合わないかもしれない。

(だいたいの場合、あなたには合わない)

 

しかし最近では統計学が大きく進歩している。

以前の記事で少しだけ紹介したRCT(ランダム化比較試験)が、

世の中の様々なことについて

「何が効果があるのか」を明らかにしようとしている。

 

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RCTを使えば、自己流とは格段にレベルの違う、

強い証拠能力に裏打ちされた「効果的な英語の学習方法」が

開発されるだろう。

 

私の知る限りでは、今のところそんな研究は行われていないようだ。

「学生を実験材料にできない」とか、

何か倫理的な問題があるのかもしれないが、

いずれは実施されると思う。

 

「いつかは英語をやらなきゃ・・」と思っている人は、

それまで待てば良いのだ!

統計的に効果のある学習法が開発された後で英語の世界に入っても

遅くはない。

 

英語の勉強はできるだけ先延ばしにしよう。

 

まとめ

今回のまとめは以下だ。

 

・あなたが英語をしゃべれないのは、おかしな教育のせいだ。

 あなたのせいじゃない。

・日本語はすごい。

 英語なんて気にしなければいい。

・どうしても英語を学びたければ、

 ラクな方法は無いことを理解してお金は節約しよう。

・発音の練習に力を入れると良いかも。

・英語の勉強は後回しにするのが利口。

 

英語に限らず、

コトバの問題は人が人と関わって生きる上で避けては通れないものだ。

より良い解決法ないか、今後も考えていきたい。

 


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日本は英語を愛しすぎている。憎みすぎている。(1)

大学入試に民間の英語試験を活用する件について、

延期が決定され、大騒ぎになっている。

 

●安どと不満の声 英語民間試験延期 教育現場から

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191101/k10012160221000.html

 

「若者たちには世界で活躍してほしい!」

「英語はこう教えるべきだ!」

 

日本人は英語教育の話題が大好きだ。

 

今回は、英語について私の感じていることを

多少の独断と邪推もまじえながら書いておきたい。

 

日本語のユニークさ

日本語は非常にユニークな言語だ。

 

・発音の種類が少なく、全体的に間延びした音になる。

 (英語だと「strike!」と一息に言ってしまえるが、

  日本語だと「ス・ト・ラ・イ・ク」となってしまう!)

 

・漢字を巧みに使うことで、高度に抽象的な概念を扱える。

 (「抽象」「概念」って、すごく難しいことばを普通に使えてる!)

 

・文字が多彩で、ひらがな、カタカナ、漢字を使いこなす。

 (コトバ遊びにチョー便利!)

 

同音異義語が異常なほど多い。

 (「キシャのキシャがキシャでキシャした」

  →「貴社の記者が汽車で帰社した」

  ことば遊びに最適!)

 

・「音」だけではなく「字(漢字)」を思い浮かべながらでないと、

 人と会話ができない。

 (「希望するコーコーに一発で合格してくれました。

   ほんとに親コーコーな息子です」

  →「高校」と「孝行」を一瞬で思い浮かべている!)

 

こんなに変わった言語は、(おそらく)他にはない。

以前の記事に書いた通りだ。

 

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日本と英語の関わりの歴史

日本人は、西洋の文化・文明をどう受け入れてきたのか。

 

基本的には、他の「欧米以外の国」と同じだ。

 

欧米から先生を呼んで学問を教えてもらう。

国内のエリートが欧米に留学し、知識を仕入れ、

帰国し、学んできたことを伝える。

国内の知的レベルを上げていく。

こうして明治維新が推進されていった。

 

そして、その中心的役割を果たしたのが大学だ。

大学は、西洋の文化・文明を輸入するための施設だった。

 

大学では、英語を使えることは必須の能力だった。

(明治ではドイツ語とか他のヨーロッパ言語も大事だったが、

 ここでは英語で代表させておこう)

教材は全て英語で書かれている。

英語が分からないと授業にならない。

当時の学生の苦労は、夏目漱石の『三四郎』を読めばよく分かる。

 

 

英語ができないと学問ができない。

そして、出世もできない。

 

一部の家柄、血筋、地位の人でない限り、

出世してエリートの仲間入りをするためには、英語が必要だった。

英語が使えないと、❝お国のため❞に役立つ人材にはなれなかった。

 

こうして日本人の心の中には「英語への憧れ」が育っていく。

それと同時に、

英語が使えない人は「劣等感」を感じるようになっていく・・。

 

こう書くと悪いことのように感じるかもしれないが、

これはただの「自然現象」にすぎない。

それぞれの文化・文明を背負った言語同士の関係の中で、

どうしても「序列」「上下関係」が出来てしまうのだ。

これは避けようがない。

「出世したいけど英語がしゃべれない・・」と劣等感を持つ若者が、

「よし!英語を勉強しよう!」と考えるのは、

極めて自然で健全な向上心だと思う。

そうやって明治の偉人たちは道を切り拓いた。

 

ここまでは、他の「欧米以外の国」と同じ流れだ。

西洋文化・文明を取り込むときには、普通に起きることだ。

現在の途上国でも同じ状況がみられる。

 

しかし、日本ではその後ちょっと違う方向へ進んでいく。

 

日本語の進化

明治の知的エリートはすごく頑張った。

漢字を駆使して英語を次々と日本語に変換していった。

「science」「phylosophy」「life」「insurance」を

「科学」「哲学」「生活」「保険」と翻訳した。

識字率の高かった日本の庶民たちも、

新しい言葉を次々と理解していった。

日本語は劇的に進化した。

非常にユニークな言語になった。

 

しばらくすると、日本語だけで高度な学問をできるようになっていた。

英語がしゃべれなくても出世できるようになった。

 

今の学生たちは英語ができなくても東京大学を卒業できる。

英語が苦手でも、医者にも弁護士にもなれるし、

大学教授にだってなれる。

高級官僚にもなれるし、世界的大企業の社長にもなれる。

 

こんな国は、(おそらく)他には無い。

 

(ヨーロッパなら、自国の言葉だけで上に行ける仕組みはあるだろうし、

 アジアにもそういう傾向の国はあるだろうが、

 やはり日本の特殊性は際立っていると思う。

 「新しい大臣は英語が得意!」なんてことが

 話題になってしまう国なのだ!)

 

英語への姿勢

こうなると、日本人の英語に対する姿勢がおかしくなってくる。

 

明治の世の中と違い、英語の必要性は下がった。

英語なんか使えなくても出世できるのだ。

 

それでも、 言語の序列意識はそう簡単には変わらない。

日本人は相変わらず「英語への憧れ」と「劣等感」をもち続けた。

 

英語は、

「現実世界の役には立たないけれど、

 意識の中の序列付けにだけ使える言語」

になった。

つまり、日本人は「世間体」のためだけに英語を勉強するのだ。

 

ハイソサエティー❞の有閑マダムは、

歌舞伎を観に行ったり生け花を習ったりするのと同じ感覚で

英会話教室に通い、

イケメンの白人から使うアテのない言い回しを教わっている。

自分の序列を上げるために。


教育者の多くは、

自分の教え子が英語ペラペラになることを本気で望んではいない。

そんな生徒がいたら、自分の英語力の低さがバレてしまう。

大学教授の「権威」を守り、学内の「序列」を崩さないためにも、

生徒たちには英語が苦手でいてくれないと困る。

それでも教え子は出世していくので、自分の評価が下がることもない。

 

こうして英語教育は、実用性が低く、形だけのものになっていく。

重箱の隅をつつくような文法問題ばかりの大学入試テストが開発された。

現実の役には立たないけど、序列付けには最適のテストだ。

大学入試に合わせて、中学と高校の学習内容も細かい文法ばかりになった。

 

 こんな教育が行われているうちに、

「長年英語を勉強しているのに、全然しゃべれるようにならない!」

「テストの成績は良いのに、外国人をみるだけで緊張してしまう!」

「自分に問題があるのでは??」

と悩む生徒が増えていく。

 

こうして日本人の心の中では

健全な「憧れと劣等感」に、不健全な「罪悪感」がプラスされた。

(本人に罪はないのに!)

 

親は「子供たちにはこんな思いをしてほしくない!」とばかりに

英語教育にさらに熱心になる。

子供たちの心の中に「憧れ・劣等感・罪悪感」が再生産される。


多くの日本人が英語の話題になると

「いや~、いつかはやらなきゃと思ってるんだけどね・・」

と恥ずかしそうに笑ってごまかすようになった。

 

私の場合

こんなことを書いている私自身も、

「憧れ・劣等感・罪悪感」を抱えている1人だ。

 

私は日本人全体の中で言うと「英語ができる部類」に入ると思う。

 

学校での英語の成績は良かった。

(中高の英語の先生は、非常に熱心に文法を教えてくれた。

 個人個人の先生は生徒のためを思っている)

 

TOEICでは、上位1%ぐらいに入る点数を取ったこともある。

(4択の中で正解を見つけるのは得意。

 ギリギリで1%からは漏れたけど)

 

英語の本もたまには読む。

(日本語の本より時間がかかるけど)

 

ある程度の会話や議論もできなくはない。

(相手が配慮して会話のペースを落としてくれるなら)

 

それでも英語の話になると、

「いや~、もっと頑張らなきゃと思ってるんだけどね・・」

と恥ずかしそうに言ってしまう。

 

染み付いた「憧れ・劣等感・罪悪感」からは、

なかなか解放されない。

困ったものだ。

 

特に日本人特有の「罪悪感」はタチが悪い。

「憧れ・劣等感」だけなら、

英語力さえレベルアップすれば、いつかは克服できるだろう。

でも「罪悪感」だけは消えない。

これまでに費やした学習時間を無かったことにはできないからだ。

「こんなに勉強したのに・・悪いのは自分では?」

という思いだけは、消せない。

 

どうすれば?

日本人は英語に対して

非常に複雑な感情をもつようになってしまった。

 

だから誰もが英語教育の話になると、

ついつい感情的に熱くなる。

自分の経験に基づいて何かしら語りたくなってしまう。

日本人は英語教育の話題が大好きだ。

 

(余談だが、数十年後には「プログラミング教育」でも

 同じことが起きそうな気がしてしょうがない)

 

我々は今後、どうするべきなのだろう?

 

大学入試に民間英語試験を導入すれば解決するような話ではない。

これは、制度や技術の問題というよりは、

感情的・心理的な問題なのだ。

 

次回はこの大問題について、考えてみたい。

 


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ゲームの歴史と著作権の未来を考える

 

ゲームとは、映画である。

 

いやいや、別に比喩表現で深いことを語りたいわけじゃない。

 

著作権の世界では、

ゲームは間違いなく映画だということになっている。

そういう話だ。

 

著作物のジャンル

小説、音楽、絵画・・・など、

著作物と言われるものには色んなものがあるが、

とりあえずのジャンル分けがされている。

 

著作権法には、以下のように書いてある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(著作物の例示)
第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。

一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
二 音楽の著作物
三 舞踊又は無言劇の著作物
四 絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物
五 建築の著作物
六 地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
七 映画の著作物
八 写真の著作物
九 プログラムの著作物

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

自分のつくった作品が、上記1~9のどのジャンルに分類されるのか?

または、どれにも当てはまらないのか?

(あくまでも「例示」なので、当てはまらない著作物もあり得る)

それによって、法律的な扱いが変わることがある。

 

例えば「美術の著作物」。

美術品が著作権法の中で特別な扱いがされていることは、

以前に説明したとおりだ。

 

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ジャンルはけっこう大切なポイントだ。

 

ジャンル分けを見ていて気付くのは、

「あれ?マンガ、アニメ、ゲームは??

 書いてないの?

 日本が世界に誇る文化のはずなのに??」

ということだ。

 

まあ、これは仕方がない。

この法律は、1970年に出来たものだから。

マンガ、アニメ、ゲームが全く存在しなかったわけではないが、

今ほどメジャーではなかった。

わざわざ法律に書きこむようなものではないと

考えれらたのだろう。

 

(「プログラムの著作物」という異質なものが

 紛れ込んでいることに気付いた人もいるだろうが、 

 今回は無視してほしい。

 これは、アメリカの要求で後付けで入ってきたものだ)

 

マンガ

手塚治虫氏が『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』などを

描いていたのは、1950年代。

有名なトキワ荘藤子不二雄氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏らが

活躍を始めたのも50年代からだ。

だから法律が出来たときには、

マンガはみんなが読むものになっていた。

 

それでも、著作権法の中には入れてもらえなかった。

「マンガはレベルの低い読み物にすぎない。

 高尚な文化を守る法律に入れるなんてケシカラン!」

みたいなことを言う人がいたのかもしれない。

 

マンガファンにとっては見過ごせない話かもしれないが、

実質的な面では、特に問題はなかった。

マンガのストーリーやセリフは、

「小説」や「脚本」と同じように「言語の著作物」として扱えば良いし、

マンガの絵柄は、

「絵画」なので「美術の著作物」と考えれば良いからだ。

 

マンガは「言語の著作物」と「美術の著作物」を組み合わせたものだ。

この説明で、十分いけた。

 

著作権法の世界では無視(?)されていたマンガだが、

 今では逆にマンガを守るために「ダウンロード違法化」を

 無理やり成立させようとしている。時代は変わるものだ)

 

アニメ

東映動画(現:東映アニメーション)が

白蛇伝』や『太陽の王子 ホルスの大冒険』などの傑作を

作ったのは50年代から60年代にかけて。

手塚治虫氏が『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの

テレビアニメを手掛けたのは60年代だ。

 

マンガと同様、商業的にも十分な存在感を見せていたが、

著作権法に「アニメ」と書かれることはなかった。

そして、それで問題なかった。

 

 黒澤明監督や小津安二郎監督の作った作品と同じ

「映画の著作物」のジャンルに入れてしまえば、

それで十分だったからだ。

 

ゲームはどうなる?

それでは、ゲームはどうだろう?

上記のジャンルの中の、どれに当てはまるだろう?

 

ゲームは、マンガやアニメより歴史が浅い。

 

著作権法が出来た1970年。

ゲームはまだまだ黎明期だった。

一部のコンピューター愛好家や先進的な企業が

原始的で簡単なゲームを作っていた時代だ。

「ゲームは著作物なのか?

 どのジャンルなのか?」

などとは、誰も考えていなかった。

 

1977年、アタリ社が家庭用ゲーム機「Atari2600」を

アメリカでヒットさせる。

翌年、日本では『スペースインベーダー』が喫茶店で大流行。

1980年代に入ると、

任天堂ゲームウォッチファミコンを大ヒットさせる。

一気にゲームがメジャーになった。

 

コンピューターの処理能力の向上とともに

数々の名作タイトルが生まれた。

パックマン』『ゼビウス

スーパーマリオブラザーズ』『ソニック・ザ・ヘッジホッグ

ドラゴンクエスト』・・

子どもも大学生も、みんなが夢中になった。

 

中でも鮮烈な光を放ったのが1997年発売の

ファイナルファンタジーⅦ』だ。

全編3Dの美しい表現。

繊細なCGで描かれた登場人物たちが繰り広げる

熱いアクションと悲しいドラマ。

これを機に表現の幅が一気に広がった。

ゲームは芸術だ!と堂々と言えるようになった。

 

しかし、この時点でも

「ゲームは著作物のどのジャンルに入るのか?」

は明らかになっていなかった。 

長年はっきりしないままだった。

 

中古ゲームソフト事件

この疑問に答えを出したのが、「中古ゲームソフト事件」だ。

エニックスカプコンナムコセガ、SCE・・・など、

名だたるゲームメーカーが、中古ソフトの販売業者を訴えた事件だ。

 

ゲームメーカーにとっては、

遊び終わったソフトがすぐに中古品として売られてしまうと、

新品が売れなくなってしまう。

中古品の販売を禁止したい!

 

メーカーが勝つためには、2つのハードルを越える必要があった。

 

1つ目は、「ゲームは映画だ」と認めさせること。

ゲームは映像で表現されるものだ。

そういう意味では映画と同じだ。

他のジャンルと違って、

「映画の著作物」には「頒布権(はんぷけん)」という、

映画の流通を支配できる強力な権利がある。

全国の映画館のうち、

次はどこに映画のフィルムを渡すのか決めることができる権利だ。

「ゲームも映画だ」となれば、この特別な権利が手に入る。

 

2つ目は、

「頒布権は特別なんだから、中古品の流通もコントロールできる」

と認めさせること。

例えば本屋で小説を買ったあなたが、

読み終えた後にブックオフなどの古本屋に売ることは自由だし、

ブックオフが他の人に売ることも自由だ。

小説に著作権(譲渡権=販売権)があっても、

いったん本が売れた後に再販売することには口出しできない。

中古ゲームも同じではないのか・・?

「いやいや!そうじゃない!

 頒布権というのは、すごーく特別なんだから、

 一緒にしないでください!

 映画の場合は、中古品の販売にも権利が働きます!」

というのが、メーカー側の主張だった。

 

この2つのハードルを越えることが出来たのか・・?

 

疑問への回答

結果としては、

1つ目のハードルは越えたが、2つ目は無理だった。

 

2002年の最高裁判所で結論が出た。

 

「ゲームは映画の著作物だ。だから頒布権がある」

そこまでは認められた。

 

でも、

「いくら頒布権があるといっても、

 一般の消費者向けに販売しているゲームソフトは、

 本と同じように中古品の販売は自由にすべきでしょう」

ということになった。

 

中古品の業者は今まで通りの商売を続けられるようになった。

ゲームメーカーは敗北した。

「ゲームは映画だ」という長年の疑問への回答だけを残して。

 

(ちなみに、映画会社はトバッチリを受けた。

 自分たちが戦う前に「頒布権では中古品販売を止められない」と

 結論が出されてしまったからだ。

 映画の中古DVDを売ることは自由になった)

 

私見だが、映画であることを裁判所が認めたことに、

ファイナルファンタジーⅦ(FFⅦ)』の功績は大きかったように思う。

平面的な画面を単純なキャラクターがピコピコと動き回るだけの

ゲームでは「映画だ」と断言しづらい。

でも『FFⅦ』レベルまで昇華された表現なら、

「映画だ」と言うことに何の抵抗も感じない。

裁判官がゲーマーだったのかどうかは知らないが、

『FFⅦ』以降の進化したゲームを見せられて確信したのだろう。

「ゲームを映画のジャンルに入れよう」と。

 

最初は著作権の世界から見向きもされなかったゲームだが、

少しずつ進化を積み重ね、

ついには「映画の著作物だ」と認めさせるに至ったのだ!

 

最近は、そして未来は

その後もゲームの進化は止まらなかった。

 

コンピューターはさらに高速になり、

オンラインで世界中とつながれるようになった。

ゲームは単に楽しむものではなく、

その世界に没入して体験するものになった。

 

一昨年のことになるが

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

には、本当にハマった。

私は主人公のリンクになりきった。

 

ハイラル王国の美しい景色の中で自由に駆け回る解放感。

竜骨モリブリンバットでガーディアンを打ちのめす興奮。

ライネルに見つかり逃げ惑う絶望感。

ゼルダ姫を救いたいという一途な思い。

 

仕事をサボって1週間家に閉じこもった。夢中になった。

私の人生の中で最も充実した時間の1つになった。

 

ゲームはまだまだ進化する。

 

eスポーツが浸透し、プロゲーマーは憧れの職業になった。

VR、AR、MR技術の登場で、

ゲームと現実世界の境目が消えつつある。

超人スポーツが注目をあび、

人間の肉体とデバイスも結びつこうとしている。

 

ゲームの中で人と出会い、友だちになり、

作詞や作曲をし、アイドルに歌ってもらい、

新しい街を建設し、買い物する。

ゲーム世界が「生活空間」となり「経済圏」になっていく。

マトリックス』や『レディ・プレイヤー1』でおなじみの世界観だ。

 

そのとき、ゲームは「映画の著作物」と言えるのか?

 

「映像で表現されているから・・」なんて理屈が

説得力を持たなくなっていくだろう。

 

17年前には、やっとのことで「映画の著作物」の仲間入りを

させてもらえたゲームだが、今では立場が全然ちがう。

もはや「著作物」という枠組みさえも飛び越えそうな勢いだ。

 

ゲームという巨大な存在をどう扱ったらいいのか??

近いうちに著作権法が向き合う大テーマになるだろう・・。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

秋は、読書の季節でもあり、ゲームの季節でもある。

ゲームもたっぷり楽しもう!!

 

 


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読書は数珠つなぎ

読書の楽しみ

秋は本を読もう!

たくさん読もう!

 

「あ!ここで書かれていることは、

 あの本の内容とつながってる!」

 

そんな発見があれば、

読書は途方もない楽しみを与えてくれる。

 

今回は良い本を紹介しつつ、

頭の中で本の記憶がつながっていく様子も説明したい。

 

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』

最近読んだ本はこれだ。

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』

 

 

死とは何か?

死は悪いことか?

死を恐れるべきか?

自殺は許されるか?

どう生きるべきか?

 

全ての人間が悩む大問題について、

丁寧に理屈立てしながら追求していく本だ。

 

古典的な哲学や倫理学上のテーマを

非常にわかりやすく解説した上で、

著者の考えも聞かせてくれる。

 

人生の価値

例えばこんなテーマがある。

「人生に価値があるかどうか、どう測れば良いのか?」

 

1つの考え方はこういうものだ。

人生における良いこと、悪いこと、

すべてのプラスとマイナスを合計した結果がプラスなら、

その人生には価値がある。

マイナスなら価値がない。(というかマイナス)

 

2つめの考え方は、1番目の考え方を調整したものだ。

人生の中身の問題とは別に、「生きることそのもの」に価値がある。

だから上記の計算に加えて、「生」の価値をプラスすべきだ。

結果として合計がプラスなら、人生には価値がある。

 

3つめの考え方は、「生」の価値を絶対視する。

人生で何があったとしても、「生」は無条件にすばらしい!

だから、辛いことしか起きない人生にも価値がある。

全ての人生に価値がある。

 

本の筆者は、1番目と2番目の見方のあいだで揺れている。

もちろん、簡単に答えなど見つかるわけはない。

4つめ、5つめの考え方だってあるだろう。

 

仮に2つめの考え方に立つとして、

「生」の価値、つまり「命の価値」って、どう測ったら良いのだろう・・?

 

ルクレーティウスの難問

他にも面白い論点が紹介されている。

古代ローマのルクレーティウスが提起した難問だ。

 

私たちは自分がいずれ死んでしまうこと残念がる。

自分という存在がなくなってしまうからだ。

でも「自分が存在しない」という意味では、

生まれる前も同じ状態だ。

なぜ人は、死ぬことは残念がるのに、生まれる前を残念がらないのだ??

 

たしかにそう言われれば、不思議な気がする。

多くの人は「あと10年の人生が欲しい」というときに、

死ぬタイミングを「後ろ」にずらして考える。

生まれるタイミングを「前」に発想する人はめったにいない。

どちらも同じ10年なのに。 

なんとも不合理だ。

 

人間は「未来志向」だから、過去よりも未来の方が大事なんだ!

とりあえずそう説明することはできる。

でも、なぜ未来志向なのか?それは正当な考え方なのか?

納得のいく回答は無い・・。

 

ん?

なんか、こんな議論を別の本で読んだ気がするぞ・・。

そうだ!

経済学の本だ!

 

行動経済学の逆襲』

思い出したのは、この本だ。

行動経済学の逆襲』 

 

 

内容をきわめて大雑把にまとめると、こんな内容だった。

 

・ これまでの経済学は、

 人間は合理的に判断して行動することを前提に理論を作っていた。

・しかし実際の人間はそんなんじゃない。

 不合理な行動をとることが多い。

・人間の脳には「不合理な判断をするクセ」がある。

 それを理解した上で、良い方向へ人を動かす経済政策をとろう。

 

人間の脳のクセに焦点をあてて経済を考えるのが、行動経済学

この20年ぐらいで何度もノーベル賞をとっている成長分野だ。 

 

クセの中でも代表的なものが以下の例だ。

 

質問1:あなたはどちらを選びますか?

A:100万円が無条件で手に入る。

B:コインを投げて、表なら200万円が手に入るが、

  裏なら何ももらえない。

 

質問2:あなたには200万円の借金がある。どちらを選びますか?

A:無条件で借金が100万円免除になる。残りの借金は100万円。

B:コインを投げて、表なら借金が全てチャラになる。

  裏なら借金200万円のまま。

 

多くの人が質問1ではAを選び、質問2ではBを選ぶ。

リスクを嫌い確実な利益を好む我々は、

借金を背負うとなぜか急にリスクを好みだす。

なんとも不合理だが、これが脳のクセなのだ。

 

なんだかこの議論、

さっきの「ルクレーティウスの難問」に似ていないか?

 

人生を前に延ばすより、後ろに延ばしたがる傾向・・・

これって、ただの「脳のクセ」に過ぎないのでは??

 

「過去より未来に価値を感じるのはなぜか?」という疑問に

真正面から答えてはいないが、

「ただのクセです」と言わてれしまえば、それはそれで納得感がある。

人類が数千年も悩んできた哲学的難問に、

行動経済学が「正解」を与えてしまったのかもしれない。

 

すごい。

さすがは、ノーベル経済学賞

 

そういえば・・・今年の経済学賞はRCTの人だった。

ランダム化比較試験(RCT)の手法を使って

世界の貧困問題に取り組んだ人が受賞していた。

RCTを解説した本も読んだことがあるぞ・・。

 

『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』

これは、統計学の本だ。

『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』

難しい本が多い中で、これは読みやすかった。

 

  

大量のデータが計測される現代社会では、

データを正しく分析する力が重要だ。

 

しかし、統計を駆使してどんなに正しく分析しても、

「因果関係」が分からない。

 

「広告を打ったときにアイスクリームの売上が伸びた」と分かっても、

広告を打ったからなのか?

その夏が暑かったからなのか?

景気が良かったからなのか?

全然違う原因があるのか?

因果関係がわからない。

 

こうなると正しい行動がとりづらい。

売上アップのために、広告を打つことに意味があるのか、

証拠に基づいた判断ができない。

 

統計は因果関係が苦手だった。

 

しかし、学問は進歩する。

ランダム化比較試験(RCT: Randomized Controlled Trial)

という方法が開発され、因果関係が分かるようになってきた。

 

RCTは、現実の世界で実際に実験をしてしまう手法だ。

ランダムにグループ分けした上で、

結果の差を比べることで因果関係を調べることができる。

 

例えば、消費者をAグループとBグループにランダムに分け、

片方には広告を見せ、片方には見せない。

各グループの売上の差を分析することで広告の効果を明らかにするのだ。

(こう書くと簡単なようだが、いつもRCTが使えるわけではなく、

 特定の条件に当てはまったときに初めて有効になる)

 

こうして、様々な問題の解決策がわかるようになってきた。

実際にアメリカでは、

政府がRCTを活用して政策を決めるようになってきている。

アイスクリームの広告と同じように

「この政策は効果がある」という科学的な証拠に基づいて、

国の予算が組まれているのだ。

 

そういえば、

科学的な政策決定についての本も読んだことがあるな。

何だっけ・・・

 

ナッジ

行動経済学は、人間のクセを分析する。

この新しい経済学から得られる知見を活かし、

うまく相手を良い方向へ誘導する手法が「ナッジ」と呼ばれている。

(「ナッジ」=「ひじで軽くつつく」)

 

例えば、年金制度に多くの人に加入させるため、

「初期設定」を「加入」にしておく。

嫌なら加入しないことも選べるが、自分でそれを選択しないといけない。

そのようにデザインしておく。

たったそれだけのことで、加入率が跳ね上がるのだ。

 

大切なのは、「強制」ではないこと。

最終的に選択する権利は、ナッジを受ける人々に残すという点だ。

 

そういえば、何かと話題の小泉進次郎氏も、ナッジが好きだったな・・。

 

小泉進次郎オフィシャルブログ 「ナッジ」とは。

https://ameblo.jp/koizumi-shinjiro/entry-12422659472.html

 

よく考えてみれば、ナッジに近いことは昔から行われてたんじゃないか?

政府が国民を誘導するって、普通にやることなんじゃないか?

例えば、子育て世帯にたくさんの補助を与えることで

子作りを奨励するとか。

 

そういえば、このあいだ読んだ歴史の本にも似たようなものがあったな・・。

 

オスマン帝国500年の平和』

 この本も本当に面白かった。

オスマン帝国500年の平和』

歴史の本だが「戦争」よりは「統治」に重点がおかれた内容だ。

 

 

行動経済学統計学と同じように、

オスマン帝国の研究もここ数十年で大きな進歩を見せている。

 

オスマン帝国は、13~20世紀に繁栄した多民族帝国だ。

アナトリア、バルカン、アラブ地域などを支配していた。

 多種多様な文化、宗教、風習をもつ民族を治めるのは大変だ。

この本は、帝国のスルタン(皇帝)や官僚たちが、

苦労しつつも柔軟に統治を進めていった様子を詳しく教えてくれる。

 

オスマン帝国は「右手に剣、左手にコーラン」を持って、

 征服した民族を無理やりイスラム教に改宗させていた。❞

以前は、そんなイメージが一般的だったが、

研究の進んだ今は、全然ちがう。

間違ったイメージだったとわかっている。

 

それぞれの民族が、

それぞれの宗教を認められながら平和に共存していた。

 

それでも帝国の「公式な」宗教はイスラム教だったので、

できるだけ多くの人にイスラムの教えを信じてほしい。

 

そこで帝国は「イスペンチ」という税金を導入した。

これによって、イスラム教を信じない人は、

イスラム教徒より少しだけ多く税金がとられるように調整した。

でも、改宗することは強制ではない。

自分の宗教を信じ続けることは自由だ。

 

これって、「ナッジ」のようなもんだな。と思う。

 

民族の時代

おおむね平和に統治されていたオスマン帝国だったが、

18~19世紀に「民族の時代」がやってくる。

 

それまでの人々のアイデンティティは宗教だった。

「俺はイスラム教徒だ」「キリスト教徒だ」「ユダヤ教徒だ」

そうやって自分を理解していた。

イスラム教は他の宗教を認めていたので平和だった。

 

しかし「民族の時代」には、

「俺はギリシャ人だ」「セルビア人だ」「ブルガリア人だ」

と、民族で自分を定義するようになった。

「なぜ俺たちが、他の民族に支配されないといけないんだ!」

となっていく。

 

こうして中東やバルカンで民族紛争が際限なく起きるようになった。

多くの人が死んでいった。

 

以前に紹介した『オシムの言葉』と『ブラック・スワン』で、

ユーゴスラビアレバノンの内戦を話題にしたが、

オスマン帝国を学んだおかげで、そのルーツがよく分かるようになった。

また読み直してみたい。

 

 

 

 

 

『シンプルな政府 ❝規制❞をいかにデザインするか』

 オスマン帝国の政策はわかった。

そうだ!現代の❝帝国❞、アメリカの政策の本を思い出した。

『シンプルな政府 ❝規制❞をいかにデザインするか』 

 

 

行動経済学統計学を使い、

オバマ大統領の下で❝科学的証拠に基づいた❞政策を

実際に作っていた人が書いた本だ。

 

環境規制や福祉の分野で「ナッジ」を活用しまくって

政策を作っている様子がよく分かる。

アメリカって、やっぱり凄い。

 

日本の著作権も、うまく科学的証拠に基づいて再設計できないだろうか?

「作品を創作した人に、著作権という❝ご褒美❞を与える」

これもある意味「ナッジ」かもしれないが、

そんな大雑把な仕組みではなく、

もっと緻密に科学的に制度を作れないだろうか??

そんなことも考えてみたくなる。

 

命の価値

この本の中で印象的だったのが、

「命の価値」をお金で計算している部分だ。

 

例えば、ある政策を実施することで10億ドルのコストがかかるとする。

それによって大気汚染が減り結果的に1000人の人間が

肺がんにかからずに済み、命が助かるとする。

でも、10億ドルを別の政策に使った方が、

もっと人々の幸せを向上させるかもしれない。

この政策を実施すべきか?

 

こんなときは、「命の価値は何ドルか?」を算出しないと、

判断のしようがない。

「人の命は地球より重い!」と叫んで何もしないより、

命の値段を決めた上で前向きなアクションをとった方がいい。

 

では、命の値段って、いくらなの??

 

難しい問題と思われるかもしれないが、 

実は、命の価値はすでに決まっている。

我々が悩むとっくの前に「市場」が決めてしまっているのだ。

 

例えば、同じ会社に勤めるAさんとBさん。

2人とも普通のデスクワークをしているが、

Bさんにだけ特別な業務がある。

工事現場に行ってガス漏れがないか確認する業務だ。

Aさんよりも、ほんの少しだけ危険な仕事だ。

もちろんめったなことは起きないが、

この業務のせいで死んでしまう確率は10万分の1だけある。

だからBさんには危険手当として50ドルのボーナスが支払われている。

Bさんもそれを納得している。

 

この場合、Bさんの命は

「50ドル × 10万 = 500万ドル」

ということになる。

 

市場を調査して広く受け入れられている金額をもとに、

命の値段は算出できる。

というか、いつの間にか市場の中で決まっていたのだ。

命の価値は測れる。

 

ん?

こんな議論、どこかで見た気がするぞ・・。

 

そうだ!

『「死」とは何か』の本の中にあった論点だ!

「生」の価値をどう測るか?

こんな哲学的な難問に、市場が答えを見つけていたのだ!

 同じように人生の喜びや苦しみの価値も値付けしてしまえば、

人生に価値があるかどうか、分かるようになるかもしれない!

 

少しゾッとするような考え方だが、

こんなドライな結論が案外正しいのかも・・。

 

いやいや!そんなことはない!

人の命の価値を数字で測れるわけはない!

そう反論してみたい気もする。

この反抗心こそが「人間らしさ」なのかもしれない・・。

 

読書は数珠つなぎ

こんな感じで、良い本に巡りあうと

次々と本の記憶が呼び覚まされる。

思考が数珠つなぎになっていく。

知識が立体的になったのが分かる。

脳の中で、❝グオッ❞と巨大な建物がたちあがる感じ。

この快感は、他では代えられない。

 

私は読書が大好きだ。

これだけで、私の人生の価値はプラスだ。

間違いない。

 

気になる本を手あたり次第に読めば、

あなただけのつながりが見つかる。

自分だけの建物ができる。

それがあなたの個性になる。

 

秋は本を読もう!

たくさん読もう!

 


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