金魚電話ボックス事件
「自分のアートをパクられた!」という主張をしているのだ。
●「金魚電話ボックス」巡り提訴 金魚の街、奈良・大和郡山の商店街に「著作権侵害」と美術家
https://www.sankei.com/west/news/180919/wst1809190028-n1.html
注目を集めるために、あるオブジェを設置していた。
そのオブジェというのが、電話ボックスの内部に水をため、
その中に金魚を泳がせている。というものだった。
商店街の狙いはバッチリ的中し、
「インスタ映え」する写真を求める人々が全国からやってきた。
商店街はにぎわった。
しかし、山本伸樹氏はこれが気に食わなかった。
商店街が企画するずっと前から、
電話ボックスに金魚を入れ自分の「芸術作品」として発表していたのだ。
それなのに、商店街のオブジェの方が有名になってしまった。
「パクられた!」と思った山本氏は商店街に以下のことを要求した。
・金魚電話ボックスが山本伸樹の著作物であることを認める。
・オリジナル作品である(山本氏による)緑の電話機への付替えを認める。
(お金は要求しない)
しかし商店街はこれに応えなかった。
トラブルを避けるために
オブジェをさっさと撤去してしまうことを選んだ。
こうなると、山本氏の方は振り上げた拳の落としどころに困ってしまう。
もともとはお金目的ではなかったが、
330万円の損害賠償を請求するために裁判所に訴えることにした。
これに対し、商店街側は争う姿勢を見せているという。
これが事件の概要だ。
これを見て、あなたはどう感じるだろう?
著作権的に考えると・・
このブログの読者なら、以下のように指摘するだろう。
「電話ボックスに水を入れて金魚を泳がせるなんて、
ただの「アイディア」じゃないか。
単なるアイディアは著作権で保護されない。
山本氏の訴えは、的外れだ!」
この意見は正しい。
以前の記事で解説した通り、著作権制度の根っこには以下のような考え方がある。
「アイディアはみんなで共有すべきもの。
でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」
素晴らしいアイディアは、みんなで共有しよう。
その方がみんなが豊かになれる。
でも、越えてはいけない一線がある。
作家が苦労して生み出した「具体的な表現」までパクるのはやりすぎだ。
具体的な表現は著作権で守ろう。
こういう考え方が著作権のベースにはある。
これを電話ボックスに当てはめれば、答えは明らかだ。
電話ボックスに金魚を入れるのは、ただのアイディアにすぎない。
こんなものに著作権を認めてしまえば、
「金魚を電話ボックスに入れちゃダメ!」ということになる。
誰もアートとして電話ボックスに金魚を持ち込めなくなってしまう。
こんな結論は、不当だ。
アイディアが同じだからといって、著作権侵害にはならない。
実際の裁判がどういう展開になるかは分からないが、
山本氏が圧倒的に不利なのは間違いない。
(最近の裁判所に何でもかんでも「著作物だ」と認めたがる傾向があるのは、
以前の記事で書いた通りだ。
だから、部分的には山本氏の主張が認められる可能性はある)
著作権的には、これで一件落着だ。
「やれやれ。またやっかいな人が出てきたよ。
単なるアイディアなのに、著作権を主張するなんて。
困ったもんだ」
ということになる。
でも、本当にそれだけで片づけて良いのだろうか?
山本氏の主張には、何らかの意味があるのではないか?
もっと奥深い問いかけが含まれているのではないか?
10分くらいで理解する美術史
山本氏の主張の本当の意味を理解するためには、
「芸術」というものの歴史を理解する必要がある。
少し遠回りになるが、西洋の美術史を簡単に振り返ったうえで、
もう一度、電話ボックスに戻ってくることにしよう。
理解するのは、西洋の美術史だけで十分だ。
日本の美術史、中国の美術史、アボリジニの美術史などを振り返る必要はない。
山本氏の属する「現代アート」は、
ほとんどが西洋美術の歩みから生まれたものだからだ。
現代に至るアートの大まかな流れを理解したければ、
分厚い本を開く必要はない。
以下の3点だけを把握すれば良い。
・「人間至上主義」の発展
・資本主義の成長
・カメラの発明
順番に見ていこう。
「人間至上主義」の発展
今から1000年ぐらい前、つまり「中世」と呼ばれる時代は、
神様が中心の時代だった。
教会の教えが世界に意味を与えていた。
「神様の命令が聖書に書いてあります。
だから人間はそれに従って行動すべきです」
「中東に行って、イスラム教徒を殺してきなさい。
神様がそう望んでおられるのです!」
こうして十字軍が結成され、たくさんの人間の血が流された。
こんな時代には、芸術家も教会の言う通りに絵を描いた。
神様や、キリストや、天使の絵ばかり描いていた。
上手く絵が描けたとしても、それは画家のおかげではなかった。
神様が画家に「インスピレーション」を与え、神様が描かせたものだからだ。
手柄は画家から取り上げられ、神様のものになった。
だから芸術家は大して稼げず、モテなかった。
やる気を失った彼らは、
死んだ魚の目をした魅力のない神様や聖人を描くことしか出来なかった。
しだいに教会の支配にウンザリした人が増え始める。
そんなとき、十字軍に参加していた人が帰ってきて
イスラム世界で保存されていた古代ギリシャや古代ローマの文化を紹介する。
これを1つのきっかけにして人々が気付きだす。
大昔の文化は素晴らしかった!
大昔の作品は躍動感がある!
神様だけじゃなく、人間自身を題材にして、自由に創作している!
この方向で行こう!!
これが「ルネッサンス」だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような天才が、
生き生きとした本当の人間の姿を描くようになっていく。
この流れはヨーロッパ中に広まった。
少しずつ神様の地位が下がっていく。
そのかわりに「人間こそが尊いのだ!」ということになっていく。
「人間至上主義」が生まれ、世界中に広がっていく。
フランス革命の闘士は
「神から与えられた使命、神の前の平等、神の愛」を重視しなかった。
彼らが唱えたのは「自由、平等、友愛」つまり
「人間の自由、人間の平等、人間同士の愛」という
人間中心のスローガンだ。
そして、神様から権力を与えられている王様の首を
ギロチンでちょんぎってしまった。
哲学者のニーチェが「神は死んだ」と言えば、
政治家のリンカーンは「人民の人民による人民のための政治」と言い出す。
神は必要ない。
大切なのは人間だ。
価値観はガラリと変わった。
「人間至上主義」についてもっと知りたければ、
ベストセラーとなった『ホモ・デウス』を読めばよい。
人間が神の座を奪い取っていく様子がよく分かる。
人間至上主義は、芸術のコンセプトにも影響を与える。
人間である画家が世界をどう見て、どう表現したか?が大切になってくる。
こうして「印象主義」のような、
画家独自の目線を全面に押し出した作品が生まれ始める。
画家の人間としての個性が重視されるようになる。
絵が評価されたとしても、昔のように神様に手柄を奪われることもない。
その絵は、画家自身の魂から生み出されたものだからだ。
芸術家が正当に評価される時代がやってきた。
「もっと評判になる絵を描こう!」と画家はがぜんやる気になる。
「野獣派」「キュービズム」のような、
新しい絵画が勢いよく生み出されるようになった。
資本主義の成長
人間至上主義と歩調をあわせて、「資本主義」も生まれた。
人間にこそ価値がある!という考えが広まれば、それはつまり
「人間が価値があると感じるものに本当の価値がある」
ということになる。
もう神様に価値を判断してもらう必要はない。
人間こそが基準なのだ。
この考えを押し進めれば
「多くの人が価値があると感じるものに、より多くの価値がある」
という概念が生まれる。
これにより「株式会社の株」にも間違いなく価値があるということになった。
だって、みんなが「あの株はいい」と言ってるんだから。
株式、債券、不動産・・・
人間への信頼が高まるにつれ、
みんなの評判が良いものを安心して買えるようになっていく。
お金がどんどん回りだす。
人間が人間を信頼する。
これが資本主義の本質だ。
絵画のような美術品も同じだ。
人間に価値があるので、その絵をみた人間の評価が価値の基準になる。
そして、多くの人の評価を集める絵は価値が高いに違いない。
美術作品は投資対象になった。
こうして、美術市場にも大量のマネーが流れ込む。
評判を集めた絵の値段が、爆発的に跳ね上がるようになる。
カメラの発明
次に美術界に大きな影響を与えたのが、カメラの発明だ。
昔は「リアルに描く」ということが大事だった。
自分のかっこいい姿、美しい姿を残したい人は、
絵の上手い画家に肖像画を描かせた。
画家も依頼者に気を使って、多少は美男美女にみえるように描いただろうが、
それでも大切なのは「本物のように見える」ことだった。
殺風景な部屋に飽きた貴族は、画家に美しい風景画を描かせ部屋にかざった。
「窓の外に本当にステキな景色が広がっている!」と思えるような
写実的な絵が評価されていた。
画家にとっては、本物のようにリアル描くという「技術」が大切だったのだ。
しかし、カメラの登場によって全てが変わってしまう。
カメラの性能が向上するにつれ、画家はリアルさでは勝てなくなっていく。
人々は肖像写真を撮り、部屋には写真のポスターを貼るようになる。
画家だけのものだった技術が、機械に置き換えられていく。
当時の画家たちの焦りは、
「AIに仕事を奪われる!」と騒いでいる現代人よりも
はるかに切羽詰まったものだっただろう。
拠り所を失いかけた彼らが見つけた突破口が、人間至上主義だった。
人間に価値がある!
大事なのは小手先の技術じゃない!
画家の魂から生み出されたものが大切だ!
画家の魂が世界をどう見ているか。それをどう表現したかが重要なのだ!!
こうして画家たちは、「腕前」ではなく「頭と心」で絵を描くようになる。
できるだけ写真とは違うフィールドで勝負するようになっていく。
技術に頼らず、魂の奥底から絵を生み出すようになっていく。
何を書いているのか分からない抽象的な絵が描かれるようになったのは、
こういう訳だ。
ピカソの登場
・「人間至上主義」の発展
・資本主義の成長
・カメラの発明
この3つの動きが、美術界を揺るがしていた。
でも、個々の画家たちは歴史の大きな流れの全体像を分かっていたわけではない。
目の前の状況に対応していただけだ。
「〇〇主義」が流行ればその流行にとびつき、
絵がたまたま高く売れれば喜び、
周りに合わせて芸術論を語っていた。
そんな20世紀の初頭に、
美術界の巨大な変化の全てを完璧に理解していた男が1人だけいた。
パブロ・ピカソだ。
言わずとれ知れた20世紀最大の芸術家である。
ピカソは子どもの頃から素晴らしく絵が上手かった。
父親も画家だったが、息子の描く絵に勝てないと感じ、
自分で描くのを諦めてしまったという逸話があるくらいだ。
しかし、そんな彼が描く絵は「上手な絵」ではなかった。
もともとはリアルに描く腕前を持っていたのに、その技術を封印した。
そして、ガタガタに歪んだ女性の顔を描いた。
めちゃくちゃに「ヘタな絵」だった。
(ピカソは「元祖・ヘタうま」だ!)
多くの批評家は、ピカソの絵の良さが分からなかった。
ピカソはマスコミを巧みに利用し、
「ピカソという偉大な人間の魂が個性的に表現されている」
というメッセージを送り続けた。
「私は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
などの「名言」(つまりキャッチコピー)を言い続けた。
そのうち「ピカソの絵、凄いかも」と思う人が増えていく。
評価が上がっていく。
批評家も空気を読んで絶賛するようになる。
「みんなが良いと思うものには価値がある」の法則にしたがい、
彼の作品の値段が一気に上昇する。
たまにピカソは作風をガラリと変える。
これは、人気のあるブランドがリニューアルするようなものだ。
彼の絵は、また話題になり、また注目される。
ピカソ自身がブランド化していく。
彼は、スーパースターになった。
妻以外にも複数の愛人を持つようになった。
以前のブログで「ピカソは史上最高のマーケターだ」と書いたことがあるが、
こういうわけだ。
世の中の流れを読み、これまでになかった視点を世間に届け、
それを信じ込ませ、大儲けする。
これこそ、理想的なマーケティングの姿でないか!
20世紀の芸術
ピカソによって「新しい時代の芸術家像」が示された。
後に続く者たちは、彼からの教訓を正確に理解した。
つまり、こういうことだ。
「とにかく目立てば、儲かる。モテる。」
20世紀の芸術が幕を開けた。
それは、「目立った者勝ち」の競争となった。
サルバドール・ダリは、クリンと巻いた口ひげとギョロリと見開いた目で、
グニャリととろけた時計を描いた。
ジャクソン・ポロックは、キャンバスに塗料をぶちまけただけの、
誰にも理解不能なグチャグチャな物体を自分の芸術だと言い張った。
世間をアッと言わせた者は、批評家に認められた。
この流れに乗って、人より早く行き着く所まで行っちゃったのが、
彼の代表作の一つに「泉」という作品がある。
彼は、ただの男性用小便器に「泉」というタイトルを付け、
美術展に展示した。
本人にしてみれば、ただの冗談だったらしいが、
これを見た批評家がうっかり感心してしまった。
「1人の人間の魂がこれを美しいと感じたのだ!
それなら、価値があるのかもしれない!」
「この作品は、美術というものに対して我々が持っている固定観念を
揺り動かしてくれる!素晴らしい!」
これをきっかけに、芸術は「何でもアリ」になった。
もはや、何かの作品を作り上げる必要すらない。
とにかくアイディア勝負だ。
新しいことをやって、世間を驚かせたり、感心させたりすれば良い。
スープの缶詰を並べただけの絵を「アートだ!」と言う男が現れた。
大きな建物をスッポリと布でくるんで見る人をビックリさせる芸術家が現れた。
(クリスト&ジャンヌ=クロード)
自分のウ〇コを缶詰に入れてアートとして売り出す奴まで現れた。
(ピエロ・マンゾーニ)
ちなみに、それを高額で買う人もいた。
もはや「やったもん勝ち」だ。
芸術は「社会を舞台にした壮大な大喜利大会」になった。
上手いウン・・ではなく、トンチをひねり出せば良い。
「うまい!ざぶとん1枚!」と言ってくれるかわりに、
サザビーズのオークションで「欲しい!200万ドル!」と言ってもらえる。
これが現代アートの現状なのだ。
現代アートと著作権
以上、中世から現代アートに至るまでの道のりを、駆け足で振り返った。
芸術家たちは神を乗り越え、人間を信じ、
人間の奥底から生まれたアイディアに価値があることを見出した。
世間の注目を集め、
今まで誰も思いつかなかったような新しい世界の見方(アイディア)を
提示することにこそ、価値がある。
というのが、現代アートの一般的な考え方だ。
つまり、大切なのは「具体的な表現」ではなく「アイディア」である。
ということだ。
しかし、この考え方は著作権とは相性が悪い。
悪すぎる。
先に述べたとおり、「アイディアはみんなのもの」なのだ。
山本氏の行動
こうして考えると、
山本伸樹氏が金魚電話ボックスに著作権を主張していることに対して、
少し違う見方ができるようになる。
山本氏は現代アートの作家として、
我々が持っている「著作権の固定観念」を揺り動かそうとしているのかもしれない。
山本氏の訴訟は、その行動自体がアートだ。
「本当に表現の保護だけでいいの?
アイディアは保護しなくていいの?
もっと違う考え方もできるんじゃないの?」
と問いかけてくる、一種のパフォーマンス・アートになっている。
山本氏自身がそこまで考えて行動しているかどうかは知らないが、
結果的に、私に著作権を考え直す視点を与えてくれた。
無数の芸術家たちが何百年もかけてたどり着いた
「アイディアこそ大切」という結論。
「著作権では守れませんから」と言って
あっさり切り捨ててしまって良いのだろうか・・?
著作権という思想も
「人間が生み出したものは尊いから守ろう!」
という考え方をしている点では同じだ。
人間至上主義という同じ親から生まれた兄弟なんじゃないか?
なぜアイディアだけが、不当に低く扱われないといけないのか・・?
山本氏は裁判でどんな主張を繰り広げてくれるのだろう?
芸術家らしく、目新しく、奇想天外なアイディアを、
ぶちかましてくれるのではないか?
注目したい。
「アイディアではなく具体的な表現を侵害されており・・」などと、
普通の弁護士が言いそうなことを主張するのは、くれぐれもやめてほしい。
山本氏が新しい価値観を提示することに成功すれば、
裁判では負けるだろうが、アーティストとしての名声が得られる。
つまり、目立った者勝ちだ。
賠償金の330万円をはるかに超える利益を得ることもできるだろう。
山本氏には、皮肉ではなく本気で期待している。
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次回は、もう少し美術と著作権の関係について語りたいと思う。
私の好きなゴッホも登場する。
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