マネー、著作権、愛

創作、学習、書評など

日本の文化を強くしよう。

 

あけましておめでとございます。

 

昨年の12月の記事では、

マンガ『ONE PIECE』の制作体制や、著作権の管理のあり方について扱った。

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すると、先日放送されたテレビ番組『ホンマでっか!?TV』で、

尾田栄一郎氏の自宅とアトリエ(仕事場)が初公開された。

 

尾田栄一郎の自宅公開!さんま潜入&木村拓哉も登場 - シネマトゥデイ

 

尾田氏は自宅と隣り合った職場で『ONE PIECE』を描いている。

10人程度のスタッフのいる部屋とは少し離れた空間に

1人で閉じこもり、集中して作品を生み出しているという。

 

「ここで何億というマネーを稼ぐ著作権が発生しているのか。

 これだけの規模の作品なのに、会社組織の作品ではなく、

 あくまでも尾田氏個人の作品なのだな。」

と思うと、なかなか興味深い番組だった。

 

また、同じ記事の中で『ONE PIECE』の実写化についても触れていたところ、

その直後に本当にそれを実現したCMが公開された。

 

『ONEPIECE』とコラボで実写CM ルフィに斎藤工、ゾロに池内博之、サンジに窪塚洋介 ナミを泉里香 | ORICON NEWS

 

この実写化は成功しているだろうか?

「テコリンの壁」は越えられているだろうか?

もし越えているとしたら、この映像の中のルフィは、

作者の尾田氏、役者の斎藤工氏、どちらのものなのだろう?


このブログは、

最新ニュースや時事ネタを追いかけることを目的にはしていない。

しかし、記事の内容と深くリンクする報道が、

年末年始に連続してあったことになる。

どうやら、世間の動きと自然とシンクロできているようだ。

 

「先にブログを読んでいたから、

 ニュースに触れたときに、

 人とは違う目線で見れた!」

そう感じてもらえるブログになっていれば嬉しい。

 

去年の振り返り

去年は、具体的な事例をあげながら

著作権の制度の基本や、権利ビジネスをする上で重要になる考え方を

解説した。

 

東京オリンピックエンブレム・パクリ疑惑」に関する記事を読めば、

 ・パクリか?そうでないか?の見分け方

 ・著作権と商標権の違い

 ・炎上騒ぎが起きたときに一番大切にすべきこと

についての知見が得られる。

 

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「ロックバンドのGLAYが結婚式での楽曲使用を無償に」の記事を読めば、

 ・音楽に関する著作権の基礎

 ・JASRACジャスラック)とはどういう組織か

について理解できる。

 

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NHK講談社が小説のドラマ化について裁判」の記事を読めば、

 ・クリエイティブ・エンタメ業界に登場する全ての権利者

 ・出版社の立場と弱点

 ・映像化権の仕組み

について正しい視点を持つことができる。

 

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スパイダーマン VS ルフィ」の記事を読めば、

 ・マンガの制作体制と著作権管理

 ・実写化した場合の役者の権利との兼ね合い

 ・日本とアメリカのマンガの違い

について勉強することができる。

 

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上記の知識・視点を持っているだけで、

クリエイティブ業界、エンタメ業界においては、

大きなアドバンテージになるだろう。

 

おかげ様で読者からは

「分かりやすい」

「おもしろい」

という評価をいただいた。

 

しかし一方で、

「長い」

「読むのに時間がかかる」

という声もいただいている。

 

今後は、もっと分かりやすく、おもしろく、役に立つ記事、

しかもコンパクトに読める記事を書いていきたい。

(でも、そんなに短くならないと思う)

 

今年は

今年はさらに知識の幅を広げていこう。

 

以下のようなテーマの記事を予定している。

 

・「肖像権」とは?

 友達の顔の写真を勝手にネットに上げちゃいけないのか?

 タレントの写真もダメなのか?

 

・「テレビ局」と「インターネットテレビ局」の違いは?

 ❝オワコン❞と言われるテレビ局の生存戦略とは?

 

・「日清カップヌードル」について記事を書くときに、

 Ⓡマークがないと、訴えられるのか?

 

・歌手、俳優、タレント、モデル・・どの職業になるのが

 一番「お得」なのか?

 

・作家、音楽家、画家、写真家・・どの職業になるのが

 一番「お得」なのか?

 

・結局のところ、著作権が切れるのはいつなのか?

 

その他、著作権のルール全体について

ストーリー形式で分かりやすく解説する連載も始めたいと考えている。

 

目的

ここ数十年のテクノロジーの進歩のおかげで、

我々の生活はずいぶんと楽に、便利になった。

時間に余裕ができた。

誰でも簡単に文章、音楽、映像、ゲームなどを制作し、

世の中に発表できるようになった。

世界中の人が創作した様々な作品を

いつでもどこでも楽しめるようになった。

我々は「自由」を手に入れた。

 

一方で、「コンプライアンス」なんていう

昔は見たこともなかった言葉を毎日のように聞くようになった。

やっちゃいけないことが増えた。

少しでもルールから外れたり目立ったりすると、

ネット上でめちゃくちゃに非難されるようになった。

我々は「不自由」も手に入れた。

 

こんな世界の中で、我々の「文化」はどこへ向かうのか?

 

私は、もっと面白い小説が読みたい。

もっと感動する音楽をききたい。

もっとワクワクするマンガを味わいたい。

もっと驚くような映画がみたい。

もっと夢中になれるゲームがしたい。

 

多くの著作権コンプライアンスの解説書では、

「気を付けないと、こんな恐ろしいことが起こりますよ!」

といって「不安」を与える書き方をする。

 

こういう「不安」を持つことも大切だが、

それだけじゃダメだ。

バランスが悪い。

 

私はクリエイターに

「不安」ではなく「自信」を与える側にまわりたいと思う。

 

素晴らしいアイディアを思いついたときに、

コンプラ的にひっかりそうだから、やめておこう」

と簡単に諦めてしまっては、もったいない。

正しく判断した上で

「大丈夫。やろう!」

と言ってほしいのだ。

 

また、今まで文化を支えてきたクリエイティブ・エンタメ企業には、

これまで以上に稼ぎまくって元気になってもらいたい。

過去の作品を活用するとともに、

新しい作品をどんどん生み出してほしい。

 

そのために役立つ記事を書いていくつもりだ。

 

そして、読者と一緒に

日本の文化を強くしていきたい。

と考えている。

 

日本のユニークな文化が活性化すれば、

世界の文化も、きっと今より素敵になるはずだ。

 

本年もよろしくお願いします。

 

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スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ 日米2大ヒーローの対決に完全決着!(3)

先週までは、スパイダーマンとルフィを題材として

日米のコミックヒーローを比較した。

 

大きな違いは2つ。

 

1つ目は、「作品が誰のものか?」という点。

日本では、マンガの著作権はマンガ家個人のものだが、

アメリカでは、会社が組織として権利を管理する。

 

2つ目の違いは、「素顔かマスクか?」という点。

日本のヒーローは素顔のままだが、

アメリカでは、多くのヒーローがマスクをして戦う。

 

この2つの違いにより、アメリカのコミックヒーローの方が

個人の持つ弱みに振り回されることなく、

より「組織的・長期的」に活躍できるシステムが

組み立てられていることが分かった。

 

では、全ての面でアメリカの仕組みの方が優れているのだろうか?

日本のヒーローは、アメリカンヒーローに勝てないのだろうか?

 

もちろん、そんなことはない。

 

アメリカンコミックの弱み

アメリカではマーベル社のような会社が複数のクリエイターを雇い、

チームを編成し、かなりの期間と予算を使って作品を生み出していく。

 

こうなると「冒険」がしづらい。

過去のデータを分析し、ある程度の読者が見込める企画、

好まれそうなビジュアル、ファンを引き付けそうなストーリーになっていく。

クリエイターの一人がマニアックな企画を思いついたとしても、

なかなか企画会議を通ることはないだろう。

ニッチな作品では採算がとれないからだ。

 

こうしてアメリカのコミック作品は、どれも同じようなものになっていく。

実際、アメリカのコミックではヒーローもの以外のジャンルの作品が少ない。

シン・シティ』のような王道の犯罪ものであっても、

「異色作!」と評価されてしまうぐらいなのだ。

 

そして、会社にとって一番手堅いのは、

すでに実績のあるキャラクターを再登場させることだ。

これならファンの数も読める。

スパイダーマンをそろそろ復活させようじゃないか。

 なぁに、大丈夫さ。

 ファンは同じものを何度でも味付けを変えて楽しみたいだけなのさ」

ということになる。

 

これでは、ヒーローの「新陳代謝」、「世代交代」が進まない。

ヒーローの世界が、年老いた「大御所」ばかりになってしまう。

1930年代生まれのスーパーマン(およそ80才!)が

いつまでたっても第一線で頑張っているのがアメリカなのだ。

これでは若いヒーローが活躍しづらい。

(まるで日本企業の悩みのようだ!)

デッドプール』が人気になったのは、

そんな硬直しきった業界構造や「大人の事情」をネタにし、

面白おかしく茶化してみせたからだ。

デッドプールの存在こそが、アメリカンコミックの限界を証明している。

 

日本のマンガの強み

日本はどうなっているだろう?

 

日本では個人が作品を生み出し、個人が権利をもつ。

作品が売れなくても、そのリスクを負うのはマンガ家個人だ。

この体制なら、思いきって好きなことを書きやすい。

 

こうして日本では、

マンガ家の個性が爆発した作品が、たくさん生み出された。

 

 アメリカの出版社の企画会議で、

素人が描いたような❝ド下手❞なタッチの作品に「GO」が出るだろうか?

(『珍遊記』)

 

アメリカには、

離島で医者をしているだけの地味な男を

「ヒーロー」として描き切るクリエイターはいるだろうか?

(『Dr.コトー診療所』)

 

アメリカ人は、

ひたすら麻雀しているだけの物語を、

面白い!と感じ、ファンとして支え続けることはできるだろうか?

(『麻雀飛翔伝 哭きの竜』)

 

アメリカには、

珍遊記』や『Dr.コトー』や『哭きの竜』を作り出す力はない。

これらは、日本でないと絶対に生まれなかった個性的な作品だ。

これほどバラエティに富んだマンガが読める国は、日本以外にはない。

 

制作体制や著作権を、全て個人任せにしてしまう日本のマンガ業界は、

驚くほどの多様性を生み出した。

 

そして今日も、

今まで見たこともないような新しいマンガ、

非常にニッチなヒーローが新たに生み出されているのだ。

 

今後の戦略

日本とアメリカは、コミックの世界では2大強国だ。

 

アメリカの強みは、組織力が生み出す安定性。

日本の強みは、個性が生み出す多様性。

 

この2つの特徴の「いいとこどり」はできないだろうか?

 

きっと出来ると思う。

 

日本の個性を生かす仕組みはそのままに温存しながら、

部分的にアメリカの体制をマネしてしまおう。

 

組織的にマンガを制作する体制を作ってしまうのだ。

出版社がやってもいいし、それ以外の会社が参入しても良い。

今大流行しているマンガアプリの運営会社がやってもいいだろう。

(彼らは他のアプリと差別化するために、オリジナルのコンテンツを求めている)

 

会社がマンガ家を(可能な範囲の期間で)雇ってしまうのだ。

チームを組織し、プロデューサーの指揮のもと、

役割分担しながらマンガを描こう。

 

マスクをかぶったヒーローも登場させてみよう。

文化の差もあり、日本では受け入れられるのに時間がかかるかもしれないが、

そのうち読者も慣れるはずだ。

 

素顔とマスクの「中間点」を探ってみても良い。

参考になるのは、『ガッチャマン』だ。

あの奇妙なヘルメットは、非常によくできたデザインになっている。

あれをかぶせれば、

誰にでもガッチャマンだと分かる程度には上手に描くことができる。

実写化したときも、ヘルメットがあればガッチャマンには見える。

役者の交代も簡単だ。

こうしたマスクのメリットを生かしつつ、

一方でちゃんと表情を見せることもできるデザインになっているのだ。

(他にも『タイムボカン』や『キャシャーン』など、

 タツノコプロのヒーローのヘルメットは、みな「優れモノ」だ。)

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ガッチャマン」DVDより ©タツノコプロ/2013映画「ガッチャマン」製作委員会

 

 日本オリジナルのマスクヒーローを開発し

組織の力を使って積極的に宣伝、商品化、映像化を展開し、

世界に売って出よう!

 

マンガ家のキャリア

同じことを1人のマンガ家のキャリアという目線で考えてみると、

分かりやすいかもしれない。

 

あるマンガ家の卵が、こんな夢を持っているとしよう。

「思い切り好きな作品を描きたい!

 有名になって大金持ちになりたい!」

 

いきなり個人としてマンガ家活動を始めても良いが、

自分1人でやっていく自信はない。

まだそんなに上手く描けないし、収入のアテもない。

かといってバイトをしながらマンガを描くような生活はしたくない。

自分の時間の全てをマンガに注ぎ込みたい。

 

そんなとき、ある出版社が契約社員としてマンガ家を募集しているのを知る。

申し込んだ結果、採用された。

こうして「社員」としてマンガを描く毎日が始まる。

部分的な作業を任せてもらい、プロデューサーの指示に従って描く。

キャラクターはマスクヒーローなので、描きやすい。

苦手な作業のコツは「先輩社員」に教えてもらえる。

本人の適性に合わせて、定期的に担当する仕事が変わったりもする。

脚本だけを作るライター専任の時期もある。

自分が部分的にでも貢献した作品が読者に届くのは嬉しい。

やりがいになる。

残念ながら担当していた作品は人気が出ずに打ち切りとなったが、

心配ない。

他の作品を制作する部署に異動になるだけだ。

新しい部署では、これまでとは違う作風を経験できる。

(有名なマンガ家にアシスタントとして雇われている友人もいるが、

 経験できる仕事の幅と、安心感が全然違う。)

給料は決して高くはないが、生活することはできる。

採用されるかどうか分からないマンガを個人で描きながら、

不安定な生活をするよりは、ずっといい。

その代わり、作品の権利は全て会社のものだ。

 

数年後、経験を積んだこのマンガ家は、キャリアアップを考え出す。

契約更新の時期にあわせて他社に移っても良いかもしれない。

いや、そろそろ1人立ちする時期なのではないか?

実は、温めてきた企画がある。

出版社の企画会議では通らないような、

マニアックで尖った企画だ。

でも、自分ならめちゃくちゃ面白いマンガに仕上げられる自信がある。

やろう。

自分の名前で作品を発表し、自分が権利者になるのだ。

 

こうして、自分のキャリアの中で油の乗った時期に独立し、

思う存分に活躍してもらえば良い。

そのとき生み出した作品やキャラクターの権利は個人のものだ。

権利ビジネスでしっかり儲けよう。

 

しかし、いつまでも調子の良い時期は続かない。

創作のアイディアが切れてしまうこともあるし、

作風が時代と合わなくなってしまうことだってある。

 

そんなときは、また会社に雇ってもらうのだ。

特定の技能に優れた「職人」としてキャリアをつないでいくのも良いし、

後輩の指導役になっても良い。

キャリアを生かし、

プロデューサーとして再ブレイクを狙ってみるのも良いだろう。

 

この場合、彼が個人で活動していた時期に生み出したキャラクターの権利は

どうなるだろう?

個人で管理しても良いが、ここはやはり会社が組織として管理した方が良い。

それなりの対価をもらい、著作権を会社に譲渡してしまおう。

精魂込めて生んだキャラクターが、自分の手元を離れるのは辛いかもしれない。

でもそれは、「自分だけのキャラクター」が、

会社を通じて「みんなのキャラクター」となっていき、

時代を超えて愛されるシンボルへと成長していくためのプロセスなのだ。

 

これは、自分が創業した会社が成長し、ついに株式公開する瞬間に似ている。

「自分のもの」だった会社が「社会全体のもの」になるのだ。

創業者は寂しさを覚えつつも、誇らしい気持ちで一杯のはずだ。

 

もちろん、著作権を譲渡するときに

「創作者として絶対に譲れないポイント」だけは

決めておくべきだ。

(例えば、「このキャラクターは、お酒のCMには出しちゃダメ!」のような)

契約で明確にしておこう。

でもそれ以外のことは、

出来るだけ会社が自由に使える条件にした方が良いだろう。

 

こうして、このマンガ家は「社員→個人→社員」

というキャリアを歩むことになった。

もちろん、これ以外のルートがあっても良い。

 

これまでのマンガ家には、

個人として「イチかバチか」で勝負し、

ヒット作を生み出せれば、その作品で稼ぎきる。

という成功モデルしかなかったように思う。

(それでも、いずれは「往年の人気マンガ家」と呼ばれ、

 過去の人になっていく)

 

「人生百年時代」と言われている中で、マンガ家にも 

もっと様々なキャリアの選び方があって良いと思うのだ。

 

日本のキャラクター

今回の連載では、マンガヒーローだけに論点を絞って考えてきた。

しかし日本のキャラクターは、マンガヒーローだけではない。

もっと色んな種類、性格、出身のキャラクターがいる。

 

・動物系

 キティちゃん、ドラえもんピカチュウなど。

・ロボット系

 アトム、ガンダムエヴァンゲリオンなど。

・特撮もの出身

 ゴジラウルトラマン、戦隊ヒーローなど。

・ゲーム出身

 マリオ、ロックマンなど。

ご当地キャラ

 ひこにゃんくまモンふなっしーなど。

 

その他にも、数えきれないほどたくさんいる。

どう分類したら良いか分からないほどだ。

 

さすが「八百万神(やおろずのかみ)」の国・日本。

日本で生まれ、世界中で愛され続けているキャラクターも多い。

 

これらキャラの中で、

世界規模・長期目線で見ると活躍しきれていないジャンルが、

1つあった。

それが、マンガヒーローだったのだ。

 

あなたが子供の頃に夢中で読んだマンガの登場人物で、

今でも現役で活躍しているヒーローはどれだけいるだろうか?

ほとんどいないのではないか?

 

マンガ出身のヒーローの多くが、一時的に日本国内で大人気となり、

世代がかわるとともに「過去のヒーロー」となってきた。

 

もったいない!

日本のマンガクリエイターは、誰よりも実力を持っているのに!

私自身、ヒーローの熱いセリフと行動に

何度となく勇気をもらって生きてきた。

だから分かる。

日本のコミックヒーローの本当の力はこんなもんじゃない!

 

仕組みを少しかえるだけで、もっと実力を発揮できるはずだ。

 

日本人お得意の組織力で生み出されたヒーローと、

マンガ家の個性が輝くヒーロー、

両方が一緒になって大活躍している世界を見てみたい。

そしてそのヒーロー達が国境を越え、世代を越え、

みんなに愛されるヒーローに成長していく様子を見てみたい。

 

そしていつか、どこかの国の親子にこんな会話をしてほしいのだ。

 

「マイク、何読んでるんだい?」

「『ルフィーマン』のコミックだよ。僕、大好きなんだ。」

「そうか!お父さんも子供のころは、ルフィーマンが大好きだったんだ!

 今でも当時のコミックは大切に保管してるんだぞ。

 ところで知ってたかい?

 ルフィーマンって、もともとは日本のコミックだったんだよ。」

「へー、そうなんだ!

 ねえお父さん、昔のルフィーマンってどんなだったの?」

「うん、きっと今と変わらないよ。

 昔からルフィーマンは、仲間のためにガムシャラに頑張る奴だった。

 お父さんは、友情の大切さをルフィーマンに教えてもらったのさ」

「へー、面白そう!

 お父さんのコミックと僕のコミック、交換して一緒に読もうよ!」

 


これが、今回の連載を書いた動機だ。

 

 

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読者の皆様、

本年はお付き合いいただきありがとうございました。

来年も良い記事を書いていく予定です。

 

来週の連載はお休みします。

 

良い新年をお迎えください!

 

吉沢計

 

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スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ 日米2大ヒーローの対決に完全決着!(2)

今回は、ルフィがスパイダーマンンに勝てない理由の

2つ目を説明したい。

 

マーベル映画の勢い

マーベル社のコミックを原作としたハリウッド映画の勢いが止まらない。

『アイアンマン』、『キャプテン・アメリカ』、

マイティ・ソー』、『インクレディブル・ハルク』・・・

次々と実写映画化され、ヒットを飛ばしている。

 

そして、彼らコミック・ヒーローが集結し、

莫大な製作費を注ぎ込んで作られた

超巨大作『アベンジャーズ』シリーズ。

このシリーズも大ヒットとなった。

マーベル映画は、単発で終わりがちだったアメコミ実写映画を

別次元に引き上げつつある。

 

一連のマーベル映画のプロデューサーを務めたケヴィン・ファイギ氏は、

プロデュース作品の全米累計興行収入が、

スティーヴン・スピルバーグ氏を抜いて歴代1位となってしまった。

あのスピルバーグを超えてしまうなんて、とんでもないことだ。

 

来年はシリーズの総まとめとなる

アベンジャーズ/エンドゲーム』の公開が予定されているし、

アベンジャーズ』以外のマーベル映画の企画も着々と進んでいる。

マーベル・キャラクターの勢いは止まりそうにない。

 

一方で、マンガ大国・日本の現状はどうか?

 

人気ヒーローの数、魅力では全く負けていない。

集英社の「週間少年ジャンプ」出身のキャラだけでも、

ドラゴンボール』の孫悟空

ONE PIECE』のルフィ、

北斗の拳』のケンシロウ

聖闘士星矢』の星矢、

ジョジョの奇妙な冒険』のジョジョ

NARUTO -ナルト-』のナルト・・・

挙げだしたらキリがないほど沢山の素晴らしいヒーロー達が活躍し、

輝かしい歴史を刻んできた。

 

実写映画化の例も多く、最近では

銀魂』(主演:小栗旬)、『BLEACH』(主演:福士蒼汰)などの作品が

制作・公開されている。

 

では、日本のコミックヒーローも、

マーベル映画のように次々とヒットを重ねることができるだろうか?

アベンジャーズ』のように映画の歴史を変えてしまうようなシリーズを

作ることができるだろうか?

 

このままでは、できない。

 

日本映画とハリウッド映画のCG技術の差や、

資金力の差を言っているのではない。

魅力あふれるコンテンツなら、海を越え、

ハリウッド映画として制作されることだってある。

2009年公開の『DRAGONBALL EVOLUTION』や、

今後ハリウッドで制作される『進撃の巨人』のように。

 

今回は、

制作体制の差ではなく、ヒーローそのものの差について分析したい。

 

日本のコミックヒーローは、ある❝限界❞を背負っているのだ。

 

見れば分かる。

アメリカと日本のヒーローの差。

その答えは簡単だ。

見れば分かる。

 

これが、マーベル社のヒーローたち。

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マーベル公式HPより ©MARVEL

 

そしてこれが、「週間少年ジャンプ」のヒーローたち。

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週刊少年ジャンプ50周年ゲーム「ジャンプチヒーローズ」公式HPより

 

どこが違うのか? 

 

そうだ。

アメリカのヒーローの大半がマスクで素顔を隠しているのに対して、

日本のヒーローは、ほとんどが素顔なのだ。

 

マスクと素顔。

 

この極めて単純な違いが、長期的には大きな差となって表れてくる。

 

素顔のヒーローにマスクをかぶせることで

さまざまな効果が生まれるのだが、

大きなメリットとしては、3つある。

 

 メリット1:描きやすい

マスクヒーローの方が、描きやすい。

上手く描ける。

 

論より証拠だ。

 

筆者の描いたスパイダーマンを見てほしい。

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次は、ルフィだ。

 

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 どっちが本物に似ているだろうか?

どっちがヘタに見えるだろうか?

(念のため申し上げると、どちらの絵も真剣に描いている)

 

我々の脳は、人間の顔の表情に敏感だ。

微妙な違いでもすぐに気づいてしまう。

 

かなりの訓練をつまないと、

尾田栄一郎氏が長年描いてきたルフィそっくりに見える顔を

描くことはできない。

 

一方でスパイダーマンの顔は、人間の顔とは全然違う。

目の形、顔の模様を再現するだけで、

誰にでも「スパイダーマンだ」と分かる程度には似せて描くことができてしまう。

子供にだって簡単に描ける。

 

この違いは、ファンを増やすうえで、長期的には大きな差となる。

自分が描いたキャラクターを「上手に描けたね!」と褒められた体験が、

その子のキャラクターへの愛を育むことになるだろう。

絵に自信のないアマチュア

人気コミックのパロディなど二次創作作品を発表するときも、

マスクキャラの方が扱いやすい。

そんなクリエイターの卵たちが、いずれはプロとなり、

子供のころから親しんだキャラクターを思う存分に描くようになる。

 

「誰でも描きやすい」という特徴は、

前回の記事で説明したアメコミの「分業体制」という特徴とも、

ぴったりとマッチする。

経験の浅いクリエイターでも、ある程度のレベルのスパイダーマンは描けるのだ。

これにより、多くのクリエイターが組織的に作品を生み出せるようになり、

キャラクターの強さが安定し、いつまでも「元気」でいられるということは、

前回書いたとおりだ。

 

メリット2:実写化しやすい

マスクヒーローは、素顔のヒーローに比べて

実写の映画にしやすい。

 

実写化はマンガキャラクターにとって非常に大切だ。

今までとは違う媒体で表現されることで、

新たなファンを獲得できる。

それに、キャラクターのイメージをリフレッシュして

作品の寿命を延ばすことだってできる。

 

しかし、実写化は簡単ではない。

マンガのキャラを実写化するときに大きな障害となるのが、

「マンガだと格好よかったのに、

 実写にすると何だかヘンテコリンになってしまう」

という問題だ。

筆者はこれを「テコリンの壁」と呼んでいる。

この壁を越えるのは、なかなか難しい。

 

 スーパーマンは、マンガの中だと華やかなコスチュームに身を包んだ

宇宙からやってきたスーパーヒーローだが、

実写化したとたんに、現実感が出てしまう。

青い全身タイツ着て赤いパンツをはいた

「変なおじさん」になってしまうのだ。

だって、顔が人間のおじさんなんだから。

 

ルパン三世』の実写映画では、

セクシーキャラの峰不二子黒木メイサ氏が演じた。

でも、どうしても彼女が峰不二子には見えなかった。

「なんで黒木メイサが「ルパン♡」なんて言っちゃってるの?」

という気持ちになってしまう。

想像上のキャラクターを生身の人間が演じるのは難しい。

我々がすでに持っている役者のイメージと、

キャラクターのイメージが頭の中でケンカしてしまうのだ。

そのせいで、ヘンテコリンな感覚が生まれてしまう。

 

テコリンの壁は高い。

 

しかし、マスクがあれば、この壁がかなり低くなる。

 

マーベル映画快進撃の出発点となった映画『アイアンマン』(2008年)で、

主役のアイアンマンを演じたのは、

個性派俳優ロバート・ダウニー・ジュニア氏だ。

ロバート氏は私生活で薬物問題を起こしたこともあり、

イメージの悪い存在だった。

『アイアンマン』の主演が発表されたとき、

「え!?あのロバートがスーパーヒーローに!?

 無茶でしょ!?」

と多くの人が感じていた。

 

しかし、アイアンマンとロバートは、そんな不安を吹き飛ばした。

ロバートがスクリーン上でアイアンマンのマスクを装着したとき、

紛れもなく、「本物のアイマンマン」がそこにいたのだ。

 

ロバート氏の素晴らしい演技が、映像に説得力を与えたのは間違いない。

しかし、マスクの効果も極めて大きい。

ロバート氏の顔をマスクで隠す。

そうなると、見た目がアイアンマンなのだから、

有無を言わさずアイアンマンなのだ。

これ以上に説得力のあるものはない。

 

ロバートが・・

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映画『アイアンマン』より

 

マスクを装着すると・・

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映画『アイアンマン』より

 

アイアンマンの出来上がり。

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映画『アイアンマン』より

 

「あ、この人がアイアンマンなんだ!」と、誰の頭にもスッと入ってくる。

 

人間の顔を隠し現実感をなくしつつ、役者のイメージも消すことで、

違和感が、かなり減るのだ。

 

メリット3:役者個人とヒモづけずに済む

3つ目のメリットも重要だ。

マスクを付けることで役者個人の影響を受けずに済むようになるのだ。

 

先に述べたように、素顔のキャラクターを実写にする場合、

立ちはだかるテコリンの壁は高い。

この壁を、役者の本格的な役作りと見事な演出で乗り越えることに成功し、

映画が大ヒットしたとしよう。

 

こうなると、新たな問題が生まれる。

「その役者こそが、そのキャラクター」になってしまうのだ。

 

銀魂』の実写映画では、主演の小栗旬氏が主人公・坂田銀時になりきった。

彼の完璧な役作りにより、原作ファンからも評価の高い映画となった。

しかし、こうなってしまうと

映画の展開を考えるうえで小栗氏の意向に沿うかどうかが、

非常に重要な問題になってしまう。

 

小栗氏のような人気の高い有名人には、

パブリシティ権」という特殊な権利が発生する。

簡単に言うと、「タレントパワーを勝手に使わせない権利」だ。

小栗氏が銀時の姿をした写真を使った

銀魂グッズ」を売り出すためには、小栗氏の許可が必要になる。

 

それに、もし『銀魂』の続編映画を作りたくなった場合、

今さらキャストの変更はできない。

坂田銀時というキャラクターと小栗氏の顔は、

ファンの中で完全に結びついてしまっている。

小栗氏には絶対に出てもらわないと困る。

(実際『銀魂2』でキャスト変更はなかった。)

 

スタッフは、小栗氏の機嫌を損なうようなことは出来なくなる。

 

つまり「坂田銀時」というキャラクターの権利が、

原作者や映画会社だけではなく、実質的に「小栗旬のものでもある」

ということになってしまうのだ。

 

前回の記事でも説明したとおり、

キャラクターの権利が集約できず、複数の人が持っている状態は、

ビジネス的には弱い。

 

また、個人とヒモづけられたキャラクターは弱い。

小栗旬氏という個人に何か問題が発生するだけで、

銀時のイメージまで悪くなってしまう。

キャラクターの生命が脅かされることになりかねない。

 

一方で、マスクを付けたキャラならどうだろう?

 

スパイダーマンは、ここ15年ほどで繰り返しシリーズ映画化されている。

主役を演じる役者は、

トビー・マグワイア

→ アンドリュー・ガーフィールド

  → トム・ホランド

と、次々と変わっているが、問題ない。

誰が演じても、ちゃんと「スパイダーマン」になっている。

3人の顔の系統はかなり違うが、役者の顔がどんなであっても、

あのマスクを付けさえすれば、「本物のスパイダーマン」になれるからだ。

 

今後トム・ホランドに何か問題が起きたとしても、

続編は作られ続けるだろう。

 

また、スパイダーマンのビジュアルに役者の顔は入っていない。

グッズ展開をするときに役者の許可を得る必要もないのだ。

 

マスクを付けたキャラクターは、役者個人のものではない。

ということだ。

 

マンガキャラは人間と違い、 

文句を言わない。問題を起こさない。いくらでも働かせられる。

と言われている。

マスクによって、このメリットを全て受けることができるのだ。

 

その他のメリット

他にもメリットはあるが、もう一つだけ挙げておきたい。

 

マスクのキャラクターは、人種の壁を越えやすい。

もともとは白人の設定だったキャラクターを、

インドで映画化するときはインド人の役者でリメイクすることだって出来る。

どの国の人であっても、マスクをかぶれば同じキャラクターになれる。

つまり、ローカライズしやすい。

ビジネスの海外展開を考える上では、

忘れてはいけないポイントになるだろう。

 

デメリットは?

ここまでは、メリットばかりを強調してきたが、

もちろんマスクは万能ではない。

デメリットもある。

 

マスクの1番の悪いところは、

顔の表情が見えなくなってしまうことだ。

 

ヒーローは、悪者に対して怒る。

ピンチにおちいり苦しむ。

逆転勝利をつかんで笑う。

 

その様子にファンは自分の気持ちを重ねて一喜一憂する。

これが、ヒーローの楽しみ方だ。

 

しかし肝心のヒーローの表情が見えないと、

泣いているのか笑っているのか分からない。

感情移入がしづらくなってしまう。

 

実写映画の場合だと、特にそのデメリットが大きくなる。

 

ふつうの映画なら、一番盛り上がるクライマックスのシーンで、

役者には最高の演技・表情を見せてほしいところだ。

しかしマスクヒーローは、

その一番大事なところでマスクをかぶっちゃっている。

 

せっかくスター俳優に高額のギャラを支払っていても、

これでは何のことか分からない。

映画の制作費を効率的に使えていないことになってしまう。

 

役者にとっても不満は溜まる。

主演を務めているのに、一番大事なところで自分の顔が映らないのだ。

これでは、実力のある役者がマスクヒーローを演じたがらなくなってしまう。

バットマンの役者が短期間のうちに、

 マイケル・キートン → バル・キルマー → ジョージ・クルーニー

 と次々と交代したのも、この辺りに原因があるのではないか。

 顔を隠された彼らが「ちぇっ、悪役の方が目立ってるじゃないか」

 と考えたとしても無理はない。)

 

これがマスクの最大のデメリットだ。

マスクヒーロー達は、長年この問題に悩まされてきた。

 

マーベル映画の努力

しかし、最近のハリウッド映画(特にマーベル映画)は、

長年の試行錯誤を経て、徐々にこの問題を乗り越えつつあるようだ。

 

いくつかの例を挙げよう。

 

 2000年代に制作された映画『スパイダーマン』の3部作を思い出してほしい。

クライマックスになると、

必ずスパイダーマンのマスクは燃えたり、破れたりしていた。

役者の表情を見せるため、

スパイダーマンのマスクは、燃えやすくないといけなかった。

 

一方で、アイアンマンのマスクは鉄でできているので、

簡単には燃えたり破れたりしない。

そこで、マスクの外側と内側の画面を切り替えるという手法を使っている。

 

マスクの外側ではこうだが・・

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映画『アイアンマン』より

中身はこうだ。

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映画『アイアンマン』より

ちゃんと表情がみえる!

 

ブラックパンサー』で、マーベル社はさらに新しい手法を編み出した。

ブラックパンサーのマスクは

ナノマシン」という技術で作られたことになっている。

この技術によって、一瞬でマスクをつけたり、顔を出したりすることが

可能になったのだ。

 

マスクを付けているが・・

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映画『ブラックパンサー』より

 

ナノマシンのおかげで・・

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映画『ブラックパンサー』より

 

顔が見えるようになった!

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映画『ブラックパンサー』より

 

このアイディアにより、画面を切り替えることなく

いつでも好きなときに顔の出し入れができるようになっている。

 

ナノマシンは使い勝手が良かったようで、

その後に制作された映画では

アイアンマンやスパイダーマンにも同じ技術が応用されている。

 

マーベル社は様々な手法を駆使しながら、

マスクのメリットと素顔の良さの両方をいかそうと努力し続け、

大人気シリーズを育て上げたのだ。

 

マスクのまとめ

ここまでをまとめる。

 

マスクヒーローの特徴は以下のとおり。

・描きやすい。

・実写化しやすい。

・役者の影響が少ない。

・弱点は表情が見えないこと。(でも乗り越えられる。)

 

素顔のヒーローの特徴は、上記の逆になる。

・描きにくい。

・実写化しづらい。

・役者個人に振り回される。

そしてこれが、日本のマンガヒーローが

最近のマーベル映画のような大活躍をできない理由だ。

 

アメリカ文化

アメリカのヒーローは、なぜマスクをかぶっていることが多いのか?

はっきりした理由は分からないが、

アメリカの歴史・文化に関係がありそうだ。

 

アメリカに移民としてやってきた白人たちは、

自分の身は自分で守るしかなかった。

異なる民族・人種との軋轢もあった。

彼らは銃を手に取り、自警団を組織した。

自警団たちは復讐や処罰を恐れ

素性をかくすために覆面をかぶるようになった。

 

民間人が武装し、マスクをかぶって戦うというスタイルは、

アメリカ(の白人)の伝統なのだ。

 

アメリカが「銃社会」であることと、

アメコミヒーローがマスクをかぶっていることは、

同じルーツをもっていると思う。

 

スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ

ここまで来て、やっと最初の問題に戻る。

スパイダーマンとルフィ、どちらが強いのか?

 

この日米2大ヒーローの最大の違いは、マスクの有無だ。

 

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ⒸMARVEL

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ONE PIECE』第1巻


もし尾田栄一郎氏が病気になってしまい、

弟子にルフィの絵を描かせ始めたらどうなるだろう?

微妙なタッチの違いにファンはすぐに気づく。

尾田氏以外の人にルフィを任せるわけにはいかない。

 

もし  『ONE PIECE』を実写映画化したらどうなるだろう?

簡単にテコリンの壁は越えられない。

非常に違和感のあるルフィが「海賊王に俺はなる!」と叫び、

観客をゲンナリさせているだろう。

 

もし奇跡的に実写化が成功したらどうなるだろう?

ルフィを演じた役者の影響を受けるようになる。

役者の意見や役者の起こす問題に気をつかわないといけなくなる。

 

一見、天真爛漫に見えるルフィだが、

実はたくさんの「悩み事」を抱えているのだ。

 

一方でスパイダーマンは、そんな悩みとは無縁だ。

 

描き手や役者といった個人の影響を受けず、

実写化されるたびに新たな命を吹き込まれ、

これからも大活躍を続けていくだろう。

 

ルフィは素顔。スパイダーマンはマスク。

これが2つ目の理由だ。

ルフィは、スパイダーマンに勝てない。

 

次回は

ここまでは日米のコミックヒーローを比較し、

アメリカのヒーローの方がビジネス的に強いと論じてきた。

 

では、日本のマンガヒーローは、

アメコミヒーローにどうやっても勝てないのだろうか?

 

そんなことはない!と私は思う。

 

次回は、アメコミの弱点、

日本のヒーローのあり方について考えてみたい。

 

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スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ 日米2大ヒーローの対決に完全決着!(1)

スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ

今回は、スパイダーマンと『ONE PIECE』のルフィ、

どちらが強いのか?について考えたい。

 

スパイダーマンは、

マーベル社のコミック『アメイジングスパイダーマン』から生まれた

キャラクターだ。

冴えない高校生だったピーター・パーカーが、

特殊なクモに噛まれることで超能力を手に入れる。

壁に貼りついたり手から飛び出るクモの糸を使ったりして、自由自在に動き回り、

悪者をやっつける。

1960年代に誕生して以来、何度もアニメ化、ドラマ化、映画化されている

超人気キャラクターだ。

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初期の『アメイジングスパイダーマン』のコミック表紙 ⒸMARVEL

 

一方で、モンキー・D・ルフィは、

集英社の少年ジャンプで連載中の『ONE PIECE』(作:尾田栄一郎)の

キャラクターだ。

海賊にあこがれる少年・ルフィは、

悪魔の実」を食べることで、全身伸び縮みするゴム人間なってしまう。

この能力をいかし、両手両足を自在に操り悪者をやっつけながら、

冒険の旅を続けている。

1997年の連載開始以来、

日本人なら誰もが知っている超人気キャラクターに成長した。

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ONE PIECE』(作:尾田栄一郎)第1巻

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コミック『ONE PIECE』より

 

アメリカと日本を代表するマンガ・ヒーロー。

どちらも、❝ビヨーン❞と伸びる力を使って

変幻自在に空間を移動する能力をもっている。

この2人、いったいどっちが強いんだろう・・?

日米のコミックファンなら、議論が尽きないテーマだろう。

 

しかし、この「夢の対決」の勝者はどちらか?という難問に対し、

答えは簡単に出る。

 

スパイダーマンの圧勝だ。

 

ファンにとっては悔しいだろうが、ルフィではどうやっても勝てない。

 

理由は2つある。

これからそれを説明したい。

 

勝敗の目線

スパイダーマン VS ルフィ。

すぐには決着がつかないだろう。

どちらも幅広いファンを持ち、

映像化やグッズ化など収益化の手段もたくさん持っている。

どちらか一方だけが力尽きるということは、簡単には起きそうにない。

 

しかし、10年後ならどうだろう?

スパイダーマンもルフィも、今と同じように❝元気❞だろうか・・?

30年後なら?

 

きっとスパイダーマンは元気だ。

でもルフィは、元気を失っているだろう・・。

 

このブログの読者なら、もうお分かりだと思うが、

2人の人気キャラを空想の中で殴り合わせて決着をつけさせよう!

という話をしているのではない。

2つのキャラクターは、どちらがビジネス的に強いのか?

という話をしたいのだ。

 

ビジネス的な観点でいうと、

・キャラクターの権利をちゃんと集約できているのか?

・キャラクターの権利を集約しているのは誰か?

という点が重要になる。

 

結論から言うと、それぞれ以下のようになる。

 

ルフィ

・権利は(当面は)集約できている。

・権利を集約しているのは、マンガ家の尾田栄一郎氏。

 

スパイダーマン

・権利は集約できている。

・権利を集約しているのは、マーベル社。

 

この違いによって、スパイダーマンとルフィの❝強さ❞に差が出るのだ。

 

まずは、

・権利の集約

・誰が権利をもつか

について、1つずつ解説しよう。

 

マンガキャラクターの権利を分解

マンガの著作権は、大まかにいって2つの著作権に分解できる。

1つは、マンガの「ストーリーやセリフ」についての著作権

もう1つは、マンガの「絵」についての著作権だ。

 

日本では「ストーリーやセリフ」と「絵」の両方を

1人のマンガ家が作っているケースが多い。

 

しかし、そうでない作品もけっこうある。

人気マンガ『DEATH NOTE』のストーリーやセリフは大場つぐみ氏が考えているが、

絵を描いているのは小畑健氏だ。

 

もしも、大場氏と小畑氏がケンカしたらどうなるだろう?

 

小畑氏が自分の描いた『DEATH NOTE』のキャラクター(例えば、死神のリューク)を

グッズ化したいと考え、

キャラクターの絵を新たに書き起こす。

そして、リュークの絵がプリントされたマグカップを売り出す。

でも大場氏には、これが気に食わないとしたら・・。

 

リュークはマグカップが似合うキャラじゃない!

 湯呑みにプリントするべきよ!」

と主張する。

カチンと来た小畑氏も反論する。

「あなたの作ったストーリーもセリフも一切使ってませんよ。

 あくまで、私が生み出したリュークの絵を使っているだけですよ。

 あなたにとやかく言われる筋合いはありません!」

大場氏も負けてはいない。

「私が考えたストーリー、キャラクター設定があったからこそ生まれたものでしょ?

 リュークは私の許可なく使えません!」

 

あくまで想像上のケンカだが、両者の主張どっちが正しいのだろうか?

著作権的には、すでに結論は出ている。

 

キャンディ・キャンディ事件」(最高裁平成13年10月25日)という

裁判があった。

人気少女マンガ『キャンディ・キャンディ』の権利について争われた裁判だ。

 

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キャンディ・キャンディ』の表紙絵

ストーリーを考える水木杏子氏と、絵を描くいがらしゆみこ氏が、

モメてしまったのだ。

いがらし氏の描いた主人公の絵を使ったグッズを販売したことに対し、

水木氏は

「私のストーリーから生まれたキャラクターは、

 私の許可なく使えません!」

と主張し、

いがらし氏は

「表紙絵は、ストーリーとは関係なく描いたもの。

 水木氏の許可はいらないはず!」

と主張した。

 

裁判所の出した結論は

「水木氏はマンガの原作者にあたるので、

 水木氏の許可なく勝手に絵を使うことはできません」

というものだった。

 

専門家からは

「いくらなんでも、水木氏の権利を広く認めすぎじゃないか?」

と批判の出ている裁判だが、最高裁が出しちゃった結論なんだから仕方ない。

 

結局2人がモメてしまったせいで、

キャンディ・キャンディ』は絶版になってしまった。

アニメ化もされた人気作品だったのだが、今ではそのアニメを見ることもできない。

ファンにとっては非常に残念な事態になってしまっている。

 

これを先ほどの『DEATH NOTE』の例に当てはめると、

ストーリーを考えた大場つぐみ氏の主張の方が正しいことになる。

 

つまり、マンガのキャラクターについては、

ストーリーやセリフを考えた人と、絵を描いた人の、

両方の意見が一致したときだけしか使えないということになる。

 

これは、キャラクタービジネスを考える上では非常に不安定な状態だ。

キャラクターグッズを売り出す人は、

常に「権利者の2人がモメることはないか?」と、

おびえながらビジネスを進めることになってしまう。

 

権利を1人に集約できていないと、ビジネス的には不利なのだ。

 

権利は個人のもの?会社のもの?

次に「誰が権利をもつのか?」について解説しよう。

 

 例えば新聞社に勤める記者が、事件を取材し記事を書いたとして、

その記事の著作権は誰のものになるだろう?

 

記者個人ではなく、新聞社のものになる。

 

日本には「職務著作」という考え方があり、

社員が会社の仕事として著作物を生み出した場合、

その会社のものとして発表する性質のものなら、権利者は会社になる。

 

アメリカにも似たようなルールがあり、

しかも日本より少し「会社のもの」として認められる範囲が広い。

 

個人と会社、どちらが著作権を持っている方がビジネス上有利だろうか?

 

会社が持っている方が有利なことが多い。

 

会社の法務部門やライセンス部門が、

専門的な知見からビジネス展開を考えることができる。

 

作家個人の「気に食わない!」などの感情に振り回されることなく、

(良くも悪くも)冷静にビジネス的観点で判断できる。

 

悪質な業者に権利侵害されても、組織的に対応できる。

 

作者個人が何らかの理由(事故、不祥事、スランプなど)で

作品を生み出せなくなっても、

会社という組織で作品を続けることができる。

(『るろうに剣心』は作者・和月伸宏氏が不祥事を起こしたせいで、

 使いづらい作品になってしまった。

 「和月氏の作品」ではなく「会社の作品」だったら、

 このようなことにはならなかっただろう。)

 

作者個人が亡くなってしまった後も、会社は残る。

会社が権利者になっていれば、

作者の遺族全員に著作権が相続され、権利がバラバラになってしまうこともない。

 

会社が権利を持つと不利な点も多少はあるが(「保護期間」など)、

全体的には有利なことの方が圧倒的に多いのだ。

 

ONE PIECE』について

ここまでの解説をまとめる。

 

キャラクターの「ビジネス的な強さ」を考えた場合、

・権利は1人に集約しておくべき。

・個人ではなく会社が権利を集約しておくべき。

ということだ。

 

この観点でみると、『ONE PIECE』はどうなっているだろう?

 

「 ストーリーやセリフ」も、「絵」も、

両方を尾田栄一郎氏が生み出しているので、

尾田氏1人に権利を集約できている。

 

しかし、その権利を持っているのは、尾田氏という「個人」だ。

(おそらくは、尾田氏の個人会社で管理していることになっていると思うが、

 実質的には「個人」の管理だ。)

 

今のところは、

出版社である集英社と連携しながらビジネス的な展開を組織的にできているだろう。

 

でも、将来は分からない。

尾田氏と集英社がモメてしまうかもしれない。

不吉なことを言って申し訳ないが、尾田氏個人に何かの問題が起き、

ONE PIECE』を続けることができなくなってしまうかもしれない。

遠い将来には、尾田氏の子どもや孫に権利がバラバラに相続されているかもしれない。

そのとき、モンキー・D・ルフィは「元気」でいられるのか?

キャンディ・キャンディのように、徐々にファンに忘れられていくのではないか?

非常に心配だ。

 

また、『ONE PIECE』が無事最終回まで描きあげられたとして、

その後はどうなるだろう?

グッズは販売され続けるだろうし、関連作品は制作され続けるかもしれないが、

❝尾田氏個人のもの❞であるルフィが、尾田氏自身によって❝引退❞させられた結果、

キャラクターの勢いは少しずつ失われていくだろう。

日本のコミックキャラクターは、ほとんどの場合そのような流れをたどる。

 

アメイジングスパイダーマン』について

一方で、スパイダーマンの方はどうだろう?

 

アメリカン・コミックの世界は、

日本では考えられないほどに「分業体制」が発達している。

 

ストーリーや脚本を作る「ライター」。

鉛筆で下書きをする「ペンシラー」。

下書きにインクでペン入れする「インカー」。

絵に色をぬる「カラリスト」。

(アメコミは、全ページカラーなのが普通)

文字や擬音語(「ゴゴゴゴ!」みたいな)を入れる「レタラー」。

これらの人の共同作業で作品を作り上げている。

 

そして、それぞれの「ペンシラー」や「インカー」なども、

1人でやっているのではなく、分業している。

 

ちなみに、先日惜しまれながら亡くなったスタン・リー氏は、

上記の「ライター」を主に担当していた。

本当に天才的なクリエイターで、

スパイダーマン」、「ハルク」、「X-MEN」、「アイアンマン」、

マイティ・ソー」、「アントマン」、「ファンタスティック・フォー」など、

多数の魅力的なキャラクターを生み出している。

冥福を祈りたい。

 

アメコミの世界では、 スタン・リー氏のような大天才でも、

1人で作品を生み出すわけではない。

多くのクリエイターとの共同作業でキャラクターを生み、活躍させている。

 

そして、彼らを集め、雇い、賃金を払い、作品を作らせているのは、

マーベル社のような出版社なのだ。

 

このような体制を作り、

上記で説明した「職務著作」という考え方を使うことで、

マーベル社という「会社」に権利を集約できている。

 

分業にすると権利者がたくさん生まれてしまい、

作品の権利がバラバラになってしまいそうなイメージがあるが、

その分業を徹底することで、かえって権利を集約できてしまっているのだ。

 

これは、キャラクターのビジネス展開を考える上では非常に有利だ。

 

クリエイターの1人に何か問題が起こったとしても、

作品を作り続けることができるからだ。

実際スタン・リー氏が亡くなった後でも、

マーベル社のキャラクターは元気に大活躍を続けている。

 次の世代のクリエイターが力を合わせて書きつないでいるからだ。

 

10年後、30年後であっても、スパイダーマンは大活躍し、

バリバリとお金を稼いでいるだろう。

 

(会社が色んなキャラクターの権利を集約してしまうことで、

 色んなキャラを総出演させる『アベンジャーズ』のような企画も

 やりやすいというメリットもある。)

 

(実は、スパイダーマンの権利については、

 その50年にもおよぶ歴史の中で何度かモメている。

 でも今回の記事の趣旨とはズレる話なので省略)

 

以上をまとめると、こうなる。

 

ルフィは作者個人に生み出され、個人が権利をもつ。

だから、その個人の状況に左右される不安定な存在だ。

 

スパイダーマンは、組織的に制作され、組織が権利をもつ。

だから、特定の個人に振り回されることもなく、常に「現役」でいられる。

 

これが、ルフィがスパイダーマンに勝てない理由の1つ目だ。

 

 

日米文化比較

一般的には、

アメリカ人は個人主義だが、日本人は組織に所属することを好む。

とよく言われる。

 

しかしマンガの権利の世界では、全く逆の現象が起きている。

 

アメリカのマンガは、組織に所属した多くの人が協力して作品を作り、

組織が権利者になる。

「キャラクターの権利は組織のもの」という文化が根付いている。

非常に「日本的」だ。

 

日本のマンガは、個人が作品を生み出し、個人が権利をもつことで、

有名作家になれば大金をつかめる。

まさにアメリカン・ドリーム!

非常に「アメリカ的」だ。

 

この不思議な違いがどういう経緯で生まれたのかは、よく分からない。

日本のマンガが成長し始めたときに、マンガの神様・手塚治虫氏が、

そのような体制を作ったことが原因かもしれない。

もしくは、日本人特有の「職人信仰」のようなものが原因かもしれない。

単に、日本の出版社と作家が明確な契約を結ばなかったせいで、

気づいたらそうなっていただけかもしれない。

 

いずれにせよ、この日米の文化の差によって、

日米のコミック・キャラクターの寿命に違いが生まれている。

 

スーパーマンバットマンスパイダーマン・・・

アメリカには、1930~60年代生まれの「ご長寿ヒーロー」が多い。

 

日本のマンガに、彼らに匹敵する長命のヒーローがいるだろうか?

全然いないのではないか?

(あえて挙げるなら、マンガ作品として生まれ、

 今は特撮ドラマの世界で生き続けている仮面ライダーぐらいか。

 それでも1970年代生まれだが。)

 

「マンガ大国・日本」で、この状況は悔しい。

 

2つ目の理由

最初に述べたとおり、スパイダーマンの方が強い理由は2つある。

 

1つ目の理由は「組織と個人の差」によるものだった。

2つ目の理由は、もっとシンプルな理由だ。

 

それは、

最初にあげたスパイダーマンとルフィの絵を見れば、一目瞭然の理由なのだ。

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ⒸMARVEL

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ONE PIECE』第1巻

 

次回は、そこを説明しよう。

 

その後に、アメコミの弱点や、

日本のヒーローコミックの素晴らしさと未来についても

語りたいと思う。

 

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人生最高のパロディ

先週は世界知的所有権機関というところに行ってきた。

特許や著作権などについて、世界的なルールを作っている場所だ。

そこでは、テレビとインターネットの関係を決定づけることになる

刺激的な議論が交わされている。

後日あらためて記事として取り上げたい。

「最近のテレビはつまらない」

「テレビはオワコンだ。これからはネットだ」

というような、よく聞く議論とは一味違う話ができると思う。

 

最高のパロディ

前回は、

「パロディ、オマージュ、原作、原案・・・色々あるけど、どうちがうの?」

ということをテーマにした。

結論としては

「どの言葉を使うかは、あまり気にしなくて良い」

ということだ。

 

今回は、私が今まで読んだ本の中で最高のパロディ本を紹介しよう。

 

パロディには「元ネタ」がある。

私が紹介したい本の元ネタは『無人島の三少年』。

今から160年前に書かれた少年少女向けの冒険物語だ。

 

内容は以下の通り。

 

ラルフ、ジャック、ピーターキンという3人の少年が嵐にあい、

無人島に流れ着く。

大人は誰もいない。

自分たちでサバイバルするしかない。

絶望的な状況だ。

しかし3人の少年は、めげない。

森の果物を食べたり、魚を釣ったりして食料を確保する。

ときには槍などの狩りの道具を手作りし、野生の豚を追う。

仲良く3人で水遊びををしたりもする。

正義感が強く頼りになるジャック、いつも落ち着いているラルフ、

ひょうきん者のピーターキンは、

仲良く協力しながら、明るく、たくましく無人島で生き延びていく。

そこへ悪い海賊がやってきて3人は大ピンチにおちいるが、

少年たちの友情はゆるがない。

みんなで協力してこの危機を乗り越えていく・・。

 

こんな、明るく楽しい大冒険のお話だ。

 

残念ながら、この本は絶版になってしまっている。

興味がある人は、中古の本を買うか、

児童書が充実している図書館で探してみてほしい。

 

 

でも、私が紹介したい「最高のパロディ本」を理解する上では、

上で書いた内容が分かっていれば十分だ。

 

『蠅の王』

 紹介したい本は『蠅の王』だ。

書いたのはイギリスの作家、ウィリアム・ゴールディング

 

物語は『無人島の三少年』と同じように、

子供たちが無人島にたどり着くところから始まる。

 

子供たちの数は数十人。

島で生き延びるために、

彼らはみんなで協力してやっていくべきだと自覚した。

そしてラルフがリーダーとして民主的に選ばれる。

ラルフの指揮のもと、

焚き火をして狼煙(のろし)をあげるプロジェクトがスタートする。

近くを通る大人たちに気づいてもらい救助されるためだ。

こうして、少年たちの明るく秩序正しい生活が始まるかと思われた。

 

しかし、すぐに規律は崩れてゆく。

彼らはまだまだ子供だ。

粘り強く焚き火を燃やし続けることに飽きてしまう。

好き勝手に水遊びを始める。

焚き火は消えてしまう。

 

ラルフと協力関係にあったジャックは、野生の豚を狩ることに夢中になる。

子供たちにとって、焚き火よりも狩りの方が断然楽しい。

狩りに参加するメンバーが増えていく。

森の中で豚を追い回すうちに、彼らの中で徐々に新しい感覚が芽生えてていく。

野生の感覚、獣のような凶暴さが目覚め、人間らしさを失っていく。

 

もはやラルフの指示を聞こうとするメンバーは、ほとんどいない。

ジャックを中心としたグループとラルフは激しく対立し、憎みあうようになる。

豚狩りのために作った槍を、人間相手に向けるようになっていく。

 

そんな中、ただ一人だけ冷静なのが、サイモンだ。

彼だけは、

「人間らしさとは何か?

 秩序正しくお互いに愛情をもって協力して生きていくことか?

 それとも、獣のように本能のままに生きることこそが人間らしさなのか?」

と一人静かに考える。

そして、たった一人で「蠅の王」と対決する。

(タイトルにもなっている「蠅の王」が何を指しているのか?については、

 本書を読んで確かめてほしい。)

 

ラルフとジャックが対立する中で、

ジャックは自分が狩った豚の肉をみんなに振る舞うパーティーを開催する。

肉にかじりつきながら踊り狂ううちに、彼らの凶暴性が爆発する。

そして、ある恐ろしい事件が起きてしまう・・・。

 

こんな物語だ。

 

この本の中で、たびたび『珊瑚島』という本のタイトルが出てくる。

これは『無人島の三少年』の原題だ。

作者のゴールディングは明らかに『珊瑚島』を意識して

『蠅の王』を書いている。

ジャックやラルフといった、主要な登場人物の名前も一致している。

 

『蠅の王』は『珊瑚島』の素晴らしいパロディだ。

(もちろん、「オマージュ」といっても「原案」といっても良い。)

明るく楽しく無邪気な冒険小説の設定を借りながら、

人間の残酷な本性に迫る哲学書のような物語に作りかえてしまっている。

私が今まで読んだ本の中で、間違いなく最高の❝パロディ本❞だ。

 

中学生のときに初めて読んで以来、繰り返し読んでいるが、

読むたびに共感してしまう登場人物が変わる。

 

楽天家だが、リーダーシップを発揮できないことに悩むラルフ。

みんなのために頑張っているのに、

ラルフに認められなかったせいで意固地になってしまうジャック。

一番頭が良いのに、見た目のせいでいじめられてしまうピギー。

仲間を愛しているのに、うまく表現できないサイモン。

 

それぞれのキャラクターが、魅力的で人間臭い。 

 

何度でも楽しめる名作だ。

ぜひ読んでほしい。

 

 

 

関連本

 無人島で少年たちがサバイバルする物語として一番有名なのは、

ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』だろう。

 

無人島の三少年』が書かれた時期と、『蠅の王』が書かれた時期の

あいだに書かれた小説だ。

  

 


内容的にも中間的な内容になっていて、
無人島の三少年』では、少年たちは最初から最後まで仲が良いのに対し、
十五少年漂流記』では、彼らの中に対立が生まれグループが二つに分かれる。
しかし最後は仲直りして、熱い友情が生まれる。
一方で『蠅の王』では、少年たちの対立は深まる一方で恐ろしい結末に向かう。

 

無人島の三少年』→『十五少年漂流記』→『蠅の王』

この流れを見れば、一つの作品をもとに新たな作品が生まれ、

さらにその作品をもとに素晴らしい作品が生まれるプロセスがはっきり感じ取れる。

こうして我々の文化は発展してきたのだ。

 

冬の寒い日には、

自宅にこもって読書をしながら、こんなことを感じてみるのも良いと思う。

 

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パクリならNG! オマージュならOKか?

質問

以前の記事で、「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」のパクリか?

という問題を題材にして、

著作権の制度を理解する上での基本的な考え方を解説した。

 

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この記事に関連して筆者のもとには、

「パクリはダメなのは分かったが、パロディなら許されるの?」

「「あなたの作品を尊敬したオマージュです」といえばOKになるの?」

といった質問が寄せられた。

 

たしかに「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」に非常によく似ていた。

でもこれは

ジャングル大帝」を元ネタにしたパロディだったと言えないだろうか?

 

ディズニー側が、実は手塚治虫氏を尊敬していて、

その気持ちを表現するために「ジャングル大帝」に捧げたオマージュとして

ライオン・キング」を作ったのだとしたらどうだろう?

 

今回はこの疑問に答えたい。

 

パクリ・パロディ・オマージュ・リスペクト・インスパイア

「パロディ」や「オマージュ」以外にも、

よく使われる言葉として「リスペクト」、「インスパイア」がある。

 

「「ジャングル大帝」へのリスペクトを「ライオン・キング」に込めました!」

「「ジャングル大帝」にインスパイアされて、「ライオン・キング」を作りました!」

という風に使われる。

 

これらの言葉、どう違うのだろう?

 

ネット上で「わかりやすい!!」と話題になった投稿に以下のものがある。

 

 元ネタがバレて困るのがパクリ、

 バレなきゃ始まらないのがパロディ、

 わかる人にだけわかればいいのがオマージュ、

 元ネタの製作者にわかって欲しいのがリスペクト、

 暗黙の了解がインスパイア。

 

どうだろうか?

これでスッキリ理解できただろうか?

 

たしかに、うまいこと説明できている感じはする。

(最後の「暗黙の了解がインスパイア」だけはよく分からないが。)

 

おおまかな理解としては、これで良いと思う。

 

著作権的な解説

次に著作権的な目線で解説したい。

 

「パクリ」「パロディ」「オマージュ」「リスペクト」「インスパイア」。

それぞれの意味の違いはどこにあるのか?

どう使い分ければ良いのだろうか・・?

 

答えはこうだ。

「考えても仕方ない。」

 

それぞれの言葉に、ちゃんとした定義はない。

作品を見た人が「パクリだ!」と思っても、

作った人は「オマージュです」と言うかもしれない。

作者本人は「リスペクト」のつもりで作っても、

見る人は「元ネタをバカにしたパロディだ!」と理解するかもしれない。

 

そもそも、作者が相手を本当に尊敬しているかどうかなんて、

誰にも分らない。

 

これらの言葉に、あまりこだわっても仕方がないということだ。

 

ある作品が他の作品の著作権を侵害しているかどうかは、

以前に解説した通り、「3つの条件」で判断される。

 

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3つの条件は以下のとおり。

 

1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

これが全てだ。

「パロディなら許される」とか、「オマージュならOK」とか、

そんなルールは一切ない。

 

なんとも味気ない結論だが、少なくとも日本の法律ではそうなっている。

 

(もちろん、単にアイディアを借りただけなら著作権侵害にはならない。

 「アイディアはみんなのもの。」だからだ。)

 

原作?原案?

「原作と原案の違いは?」という、よくある疑問にも簡単に答えておこう。

 

「原作」は、

小説を元にしてマンガを作ったり、マンガを元にして映画を作るときに、

よく使われる言葉だ。

著作権が働く場合がほとんどなので、

原作者の許可がないと勝手にマンガや映画を作ることはできない。

(この場合は、ちゃんと「原作:◯◯」と表示しないといけない。)

逆に、原作のない作品は「オリジナル」と言ったりもする。

 

一方で「原案」は、

単にアイディアを使わせてもらっているだけで、

ストーリーの中身には関わっていないときに

よく使われる。

「アイディア」に著作権はないので、

原案者の許可がなくても作品を作ることができる。

 

おおまかに言うと、こういう理解で良い。

 

しかし「原作か?原案か?」についても、あまりこだわっても仕方がない。

ちゃんとした定義はないので、はっきりと線引きできないからだ。

 

著作権的には、「3つの条件」で判断される。

それだけだ。

 

素晴らしいポスターを発見!

「原作」「原案」「パロディ」「オマージュ」・・・

これらの言葉の意味にこだわらなくて良い。

自分の中で一番❝しっくりくる❞言葉を選んで使えばよいのだ。

 

先日、このことを完璧に理解している素晴らしいポスターを発見した。

舞台『ゲゲゲの先生へ』のポスターだ。

舞台は『ゲゲゲの鬼太郎』で有名なマンガ家・水木しげる氏を

テーマにしたものだという。

 

https://www.gegege-sensei.jp/

 

あいにくホームページにはポスターのデータが掲載されていないが、

私の発見したポスターには以下のような言葉が書かれていた。

 

「原案=水木しげる

水木しげる原作としか呼べないオリジナルの演劇に挑戦!」

水木しげる作品への大胆なオマージュ」

 

もはや、「原案」なのか「原作」なのか「オリジナル」なのか「オマージュ」なのか、

さっぱり分からない。

 

でも、これで良いのだ!

この舞台の制作者の心の中で、全ての言葉が❝しっくり❞きてしまったのだろう。

 

ポスターを見る人にとっては、「いったいどんな作品なのか?」と

謎が深まるばかりだ・・・

この謎を解くためには舞台を見るしかない。

残念ながらら公演は終わってしまっているようなので、再演を期待しよう。

 

正しいルールは?

パロディやオマージュだからといって、著作権的にOKにはならない。

これが日本のルールだ。

 

これって、厳しすぎではないか?

 

ある作品を元にパロディを作ろうとしたら、

どうしても著作権侵害になってしまう場合が多い。

つまり、自由にパロディ作品を作ることはできないということだ。

 

でもパロディだって、一つの文化のあり方だ。

 

『ウエストサイドストーリー』は『ロミオとジュリエット』のパロディだ。

日本には古くから「本歌取り」という伝統だってある。

(「本歌取り」とは、『万葉集』に掲載されるような有名な和歌をパロディすること)

コミケコミックマーケット)で販売されるマンガの多くは、

有名なマンガのパロディだ。

パロディ作家からプロのマンガ家へ成長する人も多いという。

 

パロディによって、我々の文化が発展してきたという歴史があるのだ。

 

それなのに、パロディを作ったら著作権侵害になってしまうって、

おかしくないか?

 

こういう疑問をもった人はこれまでにもいた。

実際、日本の政府でも「パロディはOK」という法律を作れないか

検討されたことはある。

 

しかし、法律化は見送られているのが現状だ。

 

(欧米には「パロディやオマージュならOK」と法的に認めるルールが

 一部にはある。)

 

人が作った作品の著作権を尊重することは大切だ。

それと同じくらい、人の作品を元に自由に創作できることも大切だ。

どういうルールにすれば、より良い文化・世界を作ることができるのだろうか?

 

これは非常に深いテーマなので、また改めて記事でとり上げたいと思う。

 

質問募集など

今回お答えした質問以外にも、

何か聞きたいことがあれば「お問い合わせフォーム」でお送りだください。

記事の中で回答させていただく場合があります。

 

お問い合わせ - マネー、著作権、愛

 

 

※筆者は来週、

 世界知的所有権機関ジュネーヴ)というところに取材に行く予定です。

 このため来週の記事はお休みします。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(5)

より良い関係へ

前回までの記事では、ドラマを制作するにあたって、

出版社、放送局、作家がそれぞれの立場で考え行動した結果、

残念な結果になってしまうまでの過程を見てきた。

 

これじゃダメだ。

こんなことを続けていると、みんなが不幸になってしまう。

 

そこで今回は、三者がより良い関係になれる方法を

それぞれの立場から考えてみたい。

 

難しく考える必要はない。 

考え方は、いたってシンプルだ。

 

 出版社の戦略

今後、出版社はどうしていくべきだろう?

 

ここまでの連載で書いたとおり、出版社には権利がない。

権利を持たないままインターネット時代に突入するのは恐ろしい。

恐怖にかられ、ネットの浸透を少しでも遅らせるよう頑張ってみたり、

権利を持っている作家に近づき権利者のように振る舞うような行動をとってきた。

 

しかしそんなことを続けていても、

第二の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を起こしてしまうだけだ。

そのうち作家からも放送局からも相手にされなくなってしまい、

長い目でみると「本当の敗者」は出版社だった。ということになりかねない。

 

では、どうするべきか?

 

シンプルに考えよう。

 

出版社の「恐怖」を克服すれば良いのだ!

恐怖の原因が、権利を持っていないことなら、

権利を獲得してしまえば良い!

 

権利を持つ方法として、3つの方法を提案したい。

 

・権利を共有するパターン

・プロモーションを頑張るパターン

・制作工房になるパターン

 

1つずつ説明しよう。

 

権利を共有するパターン

編集者がよく言うセリフがこれだ。

「今回の作品については、とことん作家と話し合いました。

 テーマや登場人物について掘り下げ、2人で考え抜きました。

 作家と私の二人三脚で作り上げた作品です!」

 

これを受け、作家もこう言う。

「編集の〇〇さんがいなかったら、この作品は生まれていませんでした!」

 

これを聞いた私は思う。

「じゃあ、なんで作品の著作権は作家が独り占めしてるの??」

 

作家と編集者が本当にいっしょに作り上げた作品なら、

その作品の権利もいっしょに持つ。

これは、ごくごく普通の発想ではないだろうか。

 

昔なら、出版社は権利を持たなくても十分やっていけた。

ヒット作が出れば、紙の本を沢山印刷して売れば儲かったからだ。

「権利」ではなく、紙の本という「物」で商売が成り立っていた。

だから、出版社が作品づくりにどれだけ貢献していても、

その対価として権利を要求することは無かった。

 

しかし時代は変わった。

もし本当に編集者が作品づくりに深く関わり、

作家にとって無くてはならない働きをしたのなら、

その分の取り分をもらっても良いはずだ。

 

作家の権利を要求するなんて、

長年のやり方に慣れた人にとっては抵抗があるかもしれない。

でも作家の方だって、本当に編集者を必要と感じているのなら、

交渉に応じてくれるはずだ。

 

出版社が本来もっている

「作家の才能を見出す力」と「作家を育てる力」に自信を持とう。

そして、遠慮なんかせず腹を割って、

堂々と権利について作家と話をしよう。

 

作品が出来てからではなく、作り始める前に、

ちゃんと話し合って契約しておいた方が良いだろう。

(例えば、出来上がった作品の著作権を「作家:出版社=8:2」で持ち合う。

 のような条件を決めておく)

 

こうすれば、出版社は「本当の権利者」だ。

これからは放送局に対して

「出版社も権利者です!」などと無理に威張って見せる必要もなくなる。

作家を囲い込んで、外部の人に会わせまいと頑張る必要もなくなる。

肩の力が抜けたスムーズな交渉が進むようになるだろう。

 

こんなことを言うと、一部の人からは、

著作権の教科書には「作家が権利者で出版社は権利者ではない」と書いてある!」

という、ピントはずれの反論があるかもしれない。

 

それでも、やってみよう。

法律で決まっているルールであっても、

お互い納得していればルールに縛られる必要はない。

 

もちろん、出版社が作品づくりにちゃんと貢献することが大前提だ。

何の役にも立っていないのに、作家の権利を搾取(さくしゅ)するなんてことは、

やってはいけない。

 

ある意味、これまで以上に出版社の存在意義が問われることになる。

それでも、自分を信じてやってみよう。

きっと道はひらける。

 

プロモーションを頑張るパターン

次に紹介する方法は、プロモーションを頑張るパターンだ。

 

音楽出版社」という会社があるのをご存知だろうか?

音楽業界では昔からある業態の会社だ。

 

音楽を作る人は、作詞家・作曲家だ。

しかし彼らが曲を作るだけでは、誰の耳にも届かない。

ヒット曲にするためには、

才能ある歌手に歌ってもらったり、ラジオでたくさん流してもらったりして、

沢山の人に聞いてもらえるよう頑張る必要がある。

つまり、「プロモーション」が必要だ。

そのことが分かっている作詞家・作曲家は、

自分が作った音楽の著作権を、音楽出版社に譲ってしまうのだ。

 

音楽出版社は、プロモーションを頑張る。

あらゆる手段を使って、その曲が人々の耳に触れるよう努力する。

例えば、テレビ局のプロデューサーと交渉して、

ドラマの主題歌に使ってもらえるようにしたりする。

 

そして、その努力の代償として、しっかりお金も取る。

音楽著作権で儲かったお金の一部を、自分の取り分としてもらうのだ。

(例えば、儲けの50%だったり、33%だったりする。)

その残りを作詞家や作家曲に配分している。

 

これが、音楽出版社の仕事だ。

 

これと同じことを、出版社もやってみよう。

 

作家から作品の著作権を譲ってもらい、その作品のプロモーションを頑張るのだ。

テレビ局のプロデューサーに

「次のドラマの原作に使ってみませんか?

 その代わり、ドラマの視聴率を上げるために我々も最大限に協力しますから!

 サービスしますよ!!」

などと売り込みをかけても良いだろう。

(もしこんな関係が出来ていたら、

 NHK講談社の交渉は、全然ちがう流れになっていたはずだ)

 

紙の本を売るためだけに宣伝費を使うのではなく、

もっと多方面に展開しよう。

 

そして、プロモーションの貢献度にふさわしいお金を、堂々ともらおう。

 

作家にとっても、

出版社がこれまで以上に積極的にプロモーションしてくれるのは大歓迎だろう。

 

もちろん、プロモーションという名目で作家の権利を搾取するのは、

言うまでもなくダメだ。

 出版社がプロモーションを頑張ることが大前提になる。

 

実際には、先に挙げた「権利を共有するパターン」と

「プロモーションを頑張るパターン」は、組み合わせるのが現実的だろう。

 

出版社の果たす役割、つまり、

「作品を生み出すことへの貢献」と「作品をプロモーションすることへの貢献」を

はっきりと認識した上で作家と話し合い、

出版社の貢献に見合ったお金が手に入るように、

権利の持ち方を整理することが必要だ。

 

制作工房になるパターン

3つ目の方法は、制作工房になるパターンだ。

 

このパターンの場合、小説よりもマンガ作品の方がイメージしやすい。

 

マンガ『ONE PIECE』の作者は、尾田栄一郎氏だ。

彼は、作品を1人で書いているわけではない。

複数のアシスタントと一緒に書いている。

 

尾田氏とアシスタントは、全体として

「マンガ制作工房・尾田栄一郎」として仕事をしている。

 

尾田氏とアシスタントの契約がどんな形態になっているか詳しく知らないが、

おそらくは尾田氏の個人会社がアシスタントを雇っている。

正社員がいたり、アルバイトがいたりするのだろう。

そんなアシスタント達と尾田氏は、協力して『ONE PIECE』を書いている。

 

しかし、作者の名前として

「作:尾田栄一郎山田太郎・佐藤二郎・鈴木花子・・・」などと

アシスタントの名前が一緒になって表示されることはない。

あくまでも「作:尾田栄一郎」と表示される。

 

また、

作品の著作権

尾田氏とアシスタントが共同で持ち合うこともない。

権利者は尾田氏1人だ。

 

なぜこんなことになっているのか?

アシスタントがかわいそうではないのか・・?

 

尾田氏がストーリーを組み立て、主要な絵を描いているからだが、

それだけが理由ではない。

 

尾田氏が『ONE PIECE』の制作を企画し、自分のお財布から彼らに給料を払い、

作品を完成させる責任を背負っているからだ。

 

詳しくは別の記事で書きたいと思うが、著作権的に考えても、

尾田氏1人だけが権利者として扱われるのは、間違ったことではない。

 

この尾田氏と同じ立ち位置に、出版社も立てば良いのだ。

 

出版社が主体的に作品の企画を立てる。

この作品を制作するためのクリエイターを集める。(1人でもよい)

正社員という形でも、アルバイトという形でも、派遣社員という形でも良い。

彼らにはしっかりと契約内容を理解してもらい給料を支払う。

作品が完成するまで責任を負って面倒をみる。

そして「作:講談社」として発表する。

そうすることで「作家の作品」ではなく、

「出版社の作品」にしてしまうのだ。

 

作家個人ではなく、出版社が主体となった「制作工房」になるということだ。

これで、「正真正銘の権利者」になれる。

 

実際アメリカンコミックの出版社は、この方法で自らが権利者になっている。

(近いうちに、記事でとりあげたい)

 

以上、3つの方法を駆け足で紹介した。

どれも「権利がなくて恐いのなら、権利を持とう!」という

きわめて単純な発想に基づく戦略だ。

 

放送局のドラマ作り

次に、テレビ局の立場から考えたい。

 

テレビ局のプロデューサーは、

原作者が積極的にドラマ制作に関わることを、あまり歓迎しないことが多い。

 

原作者は自分の書いた小説にこだわりを持っていて、

内容を変えられてしまうのを嫌がる。

脚本家は映像のプロとして仕事をしているのに

原作者にケチをつけられていると感じてしまう。

そのことが分かっているから、

プロデューサーは脚本制作の打ち合わせに原作者を呼んだりしない。

原作者と脚本家がケンカになってしまっても困るからだ。

どちらがヘソを曲げてもドラマ制作が止まってしまう。

 

しかし、ここでも私の提案はシンプルだ。

 

もっとクリエイターを信じよう!

原作者だって、脚本家だって、少しでも良いものを作りたいと願っている。

彼らの熱い気持ちをぶつけ合えば、きっと「化学反応」が起きる。

顔を合わせて話し合おう。

原作者が作品に込めた思いを聞こう。

脚本家が原作をどう解釈したのか?それをどう脚本に表現したのか?

その狙いを伝えよう。

もちろん、監督にも参加してほしい。

そうすれば、新しい発想が生まれる。

もっと面白いドラマになる。

もし何も解決策が出てこなかったとしても、

顔をみて話し合っていれば、相手の情熱だけは分かる。

「あいつら、全然わかってない!」とお互いにストレスを溜めあい、

対立を深めるようなことにはならないはずだ。

 

楽観的すぎるだろうか?

しかし第二の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を起こさないためにも、

主要なクリエイターが腹をわって話し合うことは非常に重要だ。

私は、あくまでもクリエイター達の前向きな気持ちを信じている。

 

放送局のもう一つのドラマの作り方

テレビ局のプロデューサーには、あともう1つ提案したい。

 

プロデューサーが原作を読まない。ということだ。

 

ドラマ制作のスタッフの中で、

プロデューサーは「船長」としての役割をになっている。

船長は最も冷静でいなければならない。

そして、作品を視聴者と同じ目線で評価できないといけない。

「私はこの原作が大好きだ!この作品の世界観をドラマで表現したい!」と

熱くなりすぎると、

視聴者には伝わらない空回りした作品が出来上がってしまう。

 

だから、「あえて原作を読まない」という選択肢は、アリだと思うのだ。

原作を知らないからこそ、初めて脚本を読んだときに

「このセリフじゃ、原作を読んでいない視聴者には伝わらない」

「この表現にこだわる必要はないんじゃない?」

といった意見を適格に言えるようになる。

 

原作にのめり込み、「ぜひドラマ化させてください!」と原作者を口説き落とし、

その熱い思いで俳優やスタッフ全体を巻き込み、

素晴らしいドラマを作るタイプのプロデューサーも、もちろん必要だ。

 

しかし、それ以外のパターンの作り方も積極的に試してみてほしいと思うのだ。

もっともっと自由にドラマを作って良いと思う。

 

作家のあり方

作家も、どんどん外に出よう!

 

出版社に囲い込まれている時代ではない。

出版社の人が

「先生はゆっくりしていれば大丈夫です。

 面倒なことは全てお任せください」

と言ってきても、言うことを聞く必要はない。

積極的に、その「面倒なこと」に関わろう。

 

もしドラマ化の話があれば、打ち合わせに出席させてもらうべきだ。

出版社やテレビ局の人に最初は戸惑われてしまうかもしれない。

でも気にしなくて良い。

前向きに「私もドラマづくりに貢献したい!」という気持ちを伝えれば、

拒否する人はいないはずだ。

脚本家や監督など、自分と違う考え方をするクリエイターの意見を聞けば、

必ず作家自身にとっても勉強になる。

 

ドラえもん」の脚本を引き受けた辻村深月さんのように、

積極的に違うタイプの仕事もやってみよう。

映像化する上でのセオリーなど、

今までなかった視点から自分の作品を見ることができるようになる。

次の作品づくりにも生かせるだろう。

 

もし出版社から

「作品づくりやプロモーションに貢献するから、権利の一部を譲ってほしい」

と言われたら、ちゃんと話を聞こう。

契約内容についても、ややこしがらずにちゃんと聞こう。

本当に納得できたときだけ契約すれば良い。

 

もしテレビ局のプロデューサーから

「私はあなたの作品を読んだことがありません。

 でも、ドラマ化したいと思っています」

と言われても、

「失礼な!まずは作品を読んでから申し込むのがスジだろう!」

と怒ってはいけない。

色んなタイプのドラマ制作があって良いはずだ。

 

作家も、もっともっと自由になろう。

 

まとめ

今回の連載では『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を題材に、

出版社、放送局、作家、それぞれの立場を解説した。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化が散々にモメた末に裁判になり、

辻村氏にとって極めて残念な結果になってしまったのは、

結局のところ、

お互いが自分の立場に捉われて本音を言える場を作れなかったからだ。

 

今回の連載の結論はこうだ。

 

出版社も、放送局も、作家も、

もっともっと自信を持とう!

自由になろう!

そして、思っていることをぶつけ合おう!

 

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