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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(4)

第3章:辻村深月

前回までの記事を振り返ろう。

 

作家・辻村深月氏の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を

NHKがドラマ化しようとした。

しかし、脚本の内容について辻村氏が納得しなかったため、

講談社がドラマ化の許可を土壇場になって取り消した。

怒ったNHK講談社を訴えたが、裁判では負けてしまった。

 

講談社の立場で考えると、

自分では権利を持てないので、権利を持っている辻村氏と一心同体となり、

NHKに対して強い態度に出る必要があった。

 

NHKの立場からは、

俳優やスタッフみんながドラマ制作のために頑張っているのに、

講談社だけが邪魔しているように見えていた。

裁判しても勝てる見込みは低かったが、

今後のドラマ制作のことも考えて、あえて裁判を戦った。

 

以上が、これまでの流れだ。

 

残る謎は1つだ。

・結局のところ、損をしたのは誰か?

 

ここまでは、ずっとNHK講談社という大企業の目線で考えていた。

講談社が「辻村先生の作品を変えるな!」と主張すれば、

NHKは「辻村先生に会わせろ!」と対抗し、

両者は激しくぶつかっていた。

 

この間、当の辻村さんは何を考えていたのだろう?

 

今回は、辻村氏の目線で事件を考えたい。

「第3章:辻村深月」だ。

 

辻村氏について

辻村深月さんは、山梨県出身だ。

小さな頃から読書が大好きだった。

また『ドラえもん』のファンでもあったそうだ。 

 

大学卒業後は地元で働きながらも小説を書き続け、

ついに講談社の新人賞を受賞する。

これをきっかけに講談社とのつながりが出来たのか、

その後の作品の多くが講談社から出版されるようになる。

順調に作品の発表を続け、徐々に人気作家として認められるようになっていく。

自分を見出し育ててくれた講談社に対しては、強い信頼感をもっていただろう。

 

辻村さんの作品には、

若者の微妙な気持ちを、分かりやすい言葉で丁寧に描いたものが多い。

そんな作品の中でも、当時の辻村さんが「自分の代表作」と考えていたのが、

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』だ。

 

この作品の主人公は、

山梨県から東京に出ていき、また山梨に戻ってきた女性ライターだ。

設定、経歴ともに辻村さん本人に非常に似ている。

主人公を自分自身に重ねるような思いで書き上げたに違いない。

かなり思い入れの強い作品だっただろう。

 

当時、辻村さんは31才。

仕事をやめ作家に専念して3年ほどたっていた。

これから作家としてもっと上を目指そうとしていた時期だったと思う。

 

そんな時期に、日本最大の放送局・NHKから

「ぜひドラマ化させてください」と依頼が来たのだ。

しかも自分の代表作に対して。

嬉しかったに違いない。

 

しかしこの後、NHK講談社の交渉は難航し、

最後は不幸な結末を迎えることになる。

 

交渉の役割分担

事件の話に入る前に、

一般的に言って「交渉」とはどういうものか、確認しておきたい。

 

交渉とは、自分の希望と相手の希望をぶつけ合い、すり合わせ、

ほど良い落としどころを決定するプロセスだ。

 

日常生活では、その全てを自分1人で行うことがほとんどだが、

大きな組織同士の交渉では、

「交渉担当者」と「意思決定者」が分かれていることが多い。

 

なぜ分かれているかというと、そちらの方が上手くいくからだ。

 

営業担当者がお得意様から「もっと値下げしてよ!」と求められた場合、

意思決定する人が別にいるからこそ、

「一度社に持ち帰って上司と相談します」

と言って時間を稼ぎ、検討することができる。

 

意思決定する組織のトップが

「正しいのは我々だ!絶対に譲らない!」

と吠えている一方で、

相手と向き合う実務の担当者が

「トップはああ言ってますが、本心では仲良くやりたいと思っているんです」

とささやき、交渉をうまく進めることもできる。

トランプ大統領は、この方法で北朝鮮とのトップ会談を実現してしまった)

 

逆にトップ同士はにこやかに握手する一方で、

交渉担当者同士が厳しいやりあいをするパターンもある。

 

とにかく、「交渉担当者」と「意思決定者」が分担し、

「俺はこう言うから、お前はこう言え」としっかりと打ち合わせをし、

それぞれが違う役割を演じれば、何かと話を進めやすいのだ。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のケースで言うと、

「意思決定者」は「改変禁止権」を持っている辻村氏だ。

そして「交渉担当者」は講談社となる。

 

この2人の役割分担はどう進行したのだろうか?

事件の流れを振り返ってみよう。

 

事件の流れ(辻村氏目線)

 2011年9月11日

NHKから講談社

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにしたい」

と企画書が送られる。

 

すぐに講談社から辻村氏にも連絡がいっただろう。

自分の代表作をNHKがドラマ化して全国に放送したいと言っている。

これは嬉しい。

 

「予定キャスト」として、長澤まさみ黒木華など、

そうそうたる役者の名前も挙がっている。

辻村氏が「小説のイメージにぴったり!」と思ったのか、

「少しイメージとは違うけど、どんな演技をしてくれるんだろう?」

と思ったのか、分からないが、

ワクワクしながら講談社に話を進めてくれるよう伝えただろう。

 

それからおよそ3か月後の12月19日、

第1話の脚本がNHKから講談社に提出され、それが辻村さんにも渡される。

 

脚本では原作と大きく変えられているところがあった。

主人公が母親とすぐに会ってしまっているのだ。

NHKは、主人公と母親の難しい関係を、

 ちゃんと分かってくれているのか・・?」

少し不安になってくる。

 

実は、この時点での辻村氏には『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の他にも、

映像化の話が進んでいる作品があった。

『ツナグ』という作品の映画化が、講談社東宝のあいだで進んでいた。

また、『本日は大安なり』という作品のドラマ化が、

こちらは角川書店NHKのあいだで進んでいた。

 

しかし、どちらも翌年に公開・放送する予定のものなので、

この時点では、完成作品として出来上がった映像はなかったと思われる。

辻村さんには自分の小説が映像作品になるという一連の流れを、

最後まで体験したことがなかったのだ。

 

自分には「映像化の経験値」が少ない。

そんな中で、自分にとって一番大切な作品がドラマ化される。

自分の思いとは全然違うモノになって全国の視聴者に届いてしまうかもしれない。

大丈夫だろうか・・・?

不安になって当然だ。

 

辻村さんは、映像化の経験が豊富なはずの講談社に相談しただろう。

「この部分、気になるんですけど、大丈夫でしょうか?」

 

これに対し講談社は、前回の記事で書いたような、

「ドラマ化する上での都合・セオリー」を説明した上で、

「大丈夫だと思います。第2話以降の脚本がどうなるか、様子を見ましょう」

とは答えなかった。

「先生のご懸念わかります。ちゃんと修正してもらいます」

と答えたようだ。

 

12月22日

講談社NHKに対して、

「主人公がいきなり実家に行くのはおかしい。

 原作の中の母と娘の関係を変えないようにしてください」

と要望した。

 

12月26日

NHKから講談社

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールが来た。

 

このメールの内容が、そのまま辻村氏に伝えられたかどうかは分からないが、

このあたりから、講談社NHKへの態度が厳しいものになっていく。

 

12月28日

講談社NHK

「一切譲歩できない」と伝えている。

 

以前の記事に書いたとおり、私は講談社の態度が変わった理由は、

講談社と辻村氏が「一心同体」であることを、NHKが疑ったからだと考えている。

 

疑われた講談社は、「我々は一心同体だ!」と示すことに必死になってしまう。

辻村氏に対しては

NHKは何にも分かってないですよねー。ガツンと言ってやりますよ!」

と言い、

NHKに対しては

「辻村先生の意思です。一切譲歩できません!」

と強く出ることになる。

 

こうして徐々に、相手と交渉する上で大切な「役割分担」のバランスが、

おかしくなっていったのではないか・・・。

 

辻村氏は、経験豊富な講談社に、自分とは違う目線でのアドバイスが欲しかった。

しかし「分担」するどころか「一体化」したい講談社

「辻村先生の言うことが正しいです!NHKの方が間違ってます!」

ということばかり言うようになる。

 

それなのに、NHKから送られる脚本では、

気になっているポイントが全然修正されてこない・・・。

 

脚本制作の現場や、NHK講談社の交渉の現場から遠いところにいた辻村さんは、

どんどん不安に、そして、孤独になっていったのではないだろうか。

 

年の明けた1月10日、撮影開始のスケジュールが近づく中、

第1話の脚本(修正版)と第2話の脚本が、

講談社に届く。

第1話の脚本の中で、

主人公が最初から母親と会ってしまう点は変わっていない。

しかし、自分から進んで会いにいったわけではなく、

仕方なく行った。ということが分かるように設定が変わっていた。

 

これを読んで、辻村氏はどう考えたのか。

 

あることを考え、辻村氏は講談社NHKへのコメントを託す。

そのコメントの中で辻村氏はこう書いていた。

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、

 ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

 

このコメントを読んで、あなたはどう感じるだろう?

 

脚本に対して、仕方なくOKを出しているように読めないだろうか?

「今後の第3話~第4話で、

 母親との関係の描き方をちゃんと意識して作ってくれるなら・・

 納得したわけではないけど・・・OKです。」

そう言っているように感じないだろうか?

私はそう感じる。

 

これは、辻村氏からの「隠しメッセージ」だ。

講談社は「先生の言う通り!」しか言わなくなってしまっている。

こんな講談社に対して、

「やっぱり、OKすることにしました」

とは、直接には言いづらい。

そんなことを言えば、「一切譲渡できない!」と自分のために頑張っていた

講談社の顔を潰すことになるかもしれない。

講談社にはお世話になっているし、そんなことは出来ない。

かといって、スケジュールの差し迫ったNHKが困っているのも分かる。

せっかくのドラマ化の話が壊れてしまうのも嫌だ。

 

ひとまず、NHKに「OK」という自分の気持ちを、さり気なく伝えよう。

それで何か状況が動くかもしれない。

講談社も、自分のメッセージをくみ取って理解してくれるかもしれない。

 

こんな、ささやかな希望を込めて辻村氏はコメントを書いたのだ。

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、

 ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

 

裁判へ

しかし、状況は変わらなかった。

講談社NHKへの厳しい態度を崩さない。

撮影スケジュールがどんどん迫ってくる。

NHKとの交渉を講談社に任せてしまっている辻村氏は、

「隠しメッセージ」が届かなかった以上、もう何も言えない。

講談社の意向に沿う形で、手紙まで書くことになってしまう。

 

撮影ギリギリになってNHKは大幅に譲歩する。

脚本は辻村氏と講談社の希望にあう方向に修正されることになり、

撮影は延期されることになった。

それでも講談社は態度を変えなかった。

NHKに対して

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」

と通告した。

ドラマ化の話は無くなった。

 

こうして、

最初は「ウキウキ」した気持ちで始まったものが、

「不安と孤独」をさんざん感じさせた末に、

最後は「絶望」で幕を閉じることになった。

 

しかし、これだけでは終わらなかった。

今度はNHKが怒り出すのだ。

「無駄になった6000万円を賠償しろ!」と講談社に要求する。

 

こうなると、裁判になる可能性が出てくる。

講談社にとっては、

「出版社は権利者だ!作家の味方だ!」

と示すために、絶対に負けられない戦いだ。

 

講談社には、ますます辻村氏と一枚岩になる必要が出てくる。

NHKがこんな恥知らずなこと言ってきてますよ!

 我々は先生を守るために戦ったというのに!」

のようなことを言って、辻村氏の意思を確認しようとしただろう。

 

辻村氏は内心

NHKはそんなに損しちゃったんだ・・。悪いことしたな」

と思っていたかもしれない。

しかし今となっては、講談社に「そうですよねー」と返答するしかない。

 

こうして、NHK講談社は裁判に突入する。

日本を代表する放送局と出版社の戦いだ。

当然、大きなニュースになる。

 

かといって、多くの人はニュースの内面までしっかり理解するわけではない。

「作家の辻村深月が何かモメたんだ」とだけ記憶される・・。

 

敗者

NHK講談社の対決。

「本当の敗者」は、辻村深月氏だ。

 

さんざん苦労したのに、

ドラマ化で入ってくるはずだった権利料は入ってこなかった。

ドラマの効果で、原作の本があらためて沢山売れるはずだった。

その分の印税も入ってこなかった。

 

何よりも、

自分が心を込めて作り上げた作品を、より多くの人に届けるチャンスが失われた。

作家にとっては、一番残念なことだ。

 

でもそれだけじゃない。

 

「作家・辻村深月」に、脚本が気に入らず許可を取り消したという

「実績」ができてしまった。

 

将来、辻村氏の小説を読んだ若いプロデューサーが

「これ、ドラマにできないか?」と考えることもあるだろう。

そこで、ウィキペディアなどで辻村氏のことを調べてみる。

そこにはなんと、

ドラマの撮影開始の当日になって許可が取り消された事件のことが

書いてあるではないか!

これはプロデューサーにとっては、考えたくもない事態だ。

 

「辻村先生って、難しい人なんだな・・」と多くのプロデューサーが考える。

それだけで諦めてしまう人は多くないとしても、

ドラマ化を検討する上での1つのハードルになることは確かだ。

 

事件の後、辻村氏の作品がドラマ化されることが、

全く無くなってしまったわけではない。

東海テレビWOWOWなどで数件のドラマが作られている。

 

しかし辻村氏の作品の魅力を考えると、これでは少なすぎると、

筆者は感じてしまう。

 

半沢直樹』や『下町ロケット』など、

書く小説が片っ端からドラマ化されてしまう

池井戸潤氏のような作家もいるというのに。

 

ドラマ化されることが全てではないし、

池井戸氏と単純に比較しても仕方ないが、

辻村氏の作品だって、十分にドラマ化に合った小説だ。

 

なぜこんなことになってしまったのか?

 

NHK講談社が大々的に戦ったからだ。

NHKが「辻村先生に分かってほしかった!」と主張し、

講談社が「辻村先生が変えるなと言っている!」と主張する。

この戦いの様子を少し引いた目線から見ると、

2つの巨大企業が協力して、1人の作家について

「私たち、辻村先生のことでモメてます!」と世間に大声で宣伝している、

というグロテスクな構図が浮かび上がってくる・・。

 

私は思う。

そんなことをしたら、辻村さんがかわいそうじゃないか!!

NHKは、辻村さんの作品に惚れ込んでドラマ化しようと思ったんじゃないのか!?

講談社は、誰よりも辻村さんの将来を考え、

守らないといけないんじゃなかったのか!?

それなのに、何で自社のことばかり考えて戦ってるんだよ!

 

以前の記事で触れたように今回の事件については、

辻村さんが出産直後だったという特殊な事情があったのかもしれない。

だから「辻村先生には会わせられない」ということになり、

余計に話がこじれたのかもしれない。

しかしだからこそ、何よりも辻村さんのことをちゃんと考えてほしかった。

 

相手に対する怒りや、絶対に勝ってやる!という思いに駆られるのではなく、

作家のことを大切にする気持ちを忘れずにいてほしかった。

そうすれば、もっと他の解決方法が見つかったのではないだろうか?

非常に残念だ。

 

その後

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化は無くなってしまったが、

それとは別に話が進んでいた『本日は大安なり』については、

無事にドラマが完成し、NHKで放送された。

この話の窓口になったのは、講談社ではなく角川書店だった。

 

講談社に任せたドラマ化の話は失敗した。

一方で、角川に任せたドラマは放送され、多くの人に届いた。

 

この結果について、辻村氏が何を思ったのかは分からない。

しかし、デビュー以来ほとんどの作品を講談社で出版してきた辻村氏が、

この事件以降は、他の出版社で精力的に作品を発表するようになる。

そして、講談社で出版する作品を極端に減らしている。

辻村氏が講談社との間に距離をとっているように思える。

 

そして、最近では小説以外にも仕事の幅を広げているようだ。

なんと、憧れだった『ドラえもん』の映画の脚本の仕事を引き受けている。

来年の3月に公開予定だという。楽しみだ。

 

辻村さんは、実力のある作家だ。

今後も沢山の素晴らしい作品を生み出してくれるに違いない。

 

次回

 今回の連載では、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件について、

出版社、放送局、作家、それぞれの立場から、

何を考えてたのか?について推理した。

 

それぞれの立場で頑張った結果、不幸な結末になってしまった事件なのだが、

全体的には、講談社について厳しい見方をすることになった。

講談社がもっと上手くやっていれば、違う結果になっていたのでは・・?

と、ついつい考えてしまう。

 

私は出版社を嫌っているわけではない。

以前の記事にも書いたが、私は紙の本を愛している。

出版社がなくなってしまうと、本当に困る。

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そこで次回は、出版社、放送局、作家のそれぞれが、

将来に向けてどう向き合ったら良いのか?について考えてみよう。

特に、出版社のあり方については、重点的に検討したいと思う。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(3)

第2章:NHK

前回の記事では、講談社の目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返った。

 

出版社は自分では権利という武器を持っていない。

だから、権利を持っている作家と一体化するしか、生き残る道がない。

作家の権利を預かりつつ、対外的には自分も権利者であるかのように振る舞う。

このような基本戦略に従って、講談社NHKと向き合った。

NHKが作家と直接会いたいと希望し、

出版社と作家が一心同体であることを疑う姿勢を見せたので、

講談社は、ドラマ化の許可を取り消した。

このような流れだった。

 

この事件について、残る謎は2つだ。

 

・なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

・そして、最終的には誰が損をしたのか?

 

今回は、NHKの目線に立って、事件を振り返ってみよう。

 

ドラマ化の権利の仕組み

テレビ局のプロデューサーが、小説や漫画を原作にしたドラマを作りたいなら、

その小説や漫画を映像化するための「許可」を得ないといけない。

ここまでは、常識だろう。

 

しかし著作権的に言うと、この「許可」は、2種類の許可に分解される。

プロデューサーは2段階に分けて許可をもらわないといけないのだ。

 

原作者は、映像化について2つの権利を持っている。

「映像化禁止権」と「改変禁止権」だ。

 

映像化禁止権は、

原作をもとに映像化する作業をスタートすることを禁止できる権利だ。

つまり、この権利の許可がないと、脚本を書き始めることもできない。

ドラマ化をスタートするときに「瞬間的に」働く権利と言える。

(違う説明の仕方をする専門家もいるが、実務上はこの理解で良い)

 

この権利は、もともとは作家が持っている権利だが、

出版社との契約によって出版社に預けられていることも多い。

 

一方の改変禁止権は、

原作の内容を変えることを禁止できる権利だ。

この権利の許可がないと、ストーリーの流れを変えたり、

登場人物を増やしたり減らしたりすることも、セリフを変えることもできない。

 

許可をとる側の人間からすると、この権利の扱いはやっかいだ。

改変することで、ストーリーがさらに面白くなっても、

登場人物がもっと魅力的になっても、それでOKとは限らない。

改変することで作品が良くなるかどうかは、直接は関係ない。

この権利の許可が出るのは、原作者の気に入ったときだけだ。

 

脚本を作り、俳優に演技をしてもらい、それを撮影し、編集するという

一連のドラマ化の作業の流れの中で、

「原作者が気に入るかどうか?」を常に気にしておかないといけない。

 映像化をスタートする瞬間に働く権利ではなく、

ドラマが完成するまで「連続的に」少しずつ積み重ねるように働く権利と言える。

(実務上は、脚本のチェックだけで済ませることも多い) 

 

この権利は、出版社に預けられることはなく、原作者が持ったままになる。

 

理屈上は、映像化禁止権の許可だけあれば、映像化することはできる。

しかし実際には、そんなことは有りえない。

映像化するときに原作を一切変えないということは、不可能だからだ。

文章と映像は違う。

何らかの改変をする必要が出てくる。

 映像化禁止権と改変禁止権は、必ずセットで働く。

 

まとめると、こうだ。

 

・原作をもとにドラマ化をする場合、

 「映像化禁止権」と「改変禁止権」の2段階の許可が必要。

 

・映像化禁止権の許可を出版社から得て、ドラマ化の作業をスタートできる。

 

・脚本→撮影→編集という流れの中で、

 原作者本人がもつ改変禁止権はずっと働きつづける。

 

「ドラマ化する上で原作のOKが必要」ということは、常識として知られているが、

原作の許可は2段階に分かれているということを、理解しておくことが重要だ。

 

ちなみに、

専門家は映像化禁止権のことを「翻案権(ほんあんけん)」と言ったり、

改変禁止権のことを「同一性保持権(どういつせいほじけん)」と言ったりする。

覚えておこう。

 

切り分けが大事

ドラマ化するプロデューサーは、

頭の中でこの2つの許可をはっきりと分けて考えておかないといけない。

そうしないと、無用なストレスが生まれてしまう。

「最初はOKって言ってたのに、なんで途中でNGなんて言うんだよ・・・」

という考えに、おちいりやすくなってしまうのだ。

 

男子中学生が憧れの女の子に

「付き合ってください!」

と告白し「OK」をもらったとする。

しかし、デートに行ってもなかなか手を握らせてもらえない。

キスも断られる。

男子中学生は怒り出す。

「なんだよ!付き合うって言ったじゃんか!

 なんでキスがダメなんだよ!」

 

しかし、交際をスタートすることが「OK」でも、

キスが「OK」ということには、ならないのだ。

 

 ここまでを押さえた上で、

NHKの目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返ってみよう。

 

事件の流れ(NHK目線)

「小説をドラマ化したい」と申し込んだNHKに対し、

2011年の11月15日、講談社

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と返答した。

 

「2段階の許可」のうち、「映像化禁止権」のOKが取れたことになる。

(厳密に言うと「この時点では正式な許可ではなかった」と後の裁判で

 言われているが、細かい説明が必要になるので省略)

 

これで、晴れて映像化の仕事をスタートすることができる。

 

NHKは、脚本家の大森寿美男氏に「脚本を書いてください」と依頼する。

そして、大森氏が第1話の脚本を書き上げる。

 

この脚本の中で主人公は、原作とは違う行動をとっていた。

原作では、主人公は母親と仲が悪いので、母親に会うのを避ける。

しかし、脚本では主人公はすぐに実家に行って、母親に会う。

なぜこんな改変をしたのか?

 

脚本家の大森氏は、

大河ドラマ風林火山」や「精霊の守り人」などの脚本を担当したこともある、

実力も実績もある脚本家だ。

何らかの狙いがあって主人公を実家に帰らせたのだろう。

 

ドラマは、全てを映像とセリフで表現しないといけない。

小説なら

「主人公は実家に帰ることも考えたが、

 母親に会うことを考えると気持ちが乗らなかった」

と文章で書くこともできる。

しかしドラマではそれができない。

主人公の気持ちを表現するためには、

主人公と母親を直接会わせて、表情やセリフで表した方が伝わりやすい。

 

また、連続ドラマの場合、第1話は❝顔みせ❞の意味合いもある。

視聴者に

「このドラマには、こんな役者が出てるんですよ。

 だから、第2話以降も見てくださいね」

というメッセージを送る必要がある。

重要な登場人物は、早めに出しておきたい。

 

それ以外にも、映像作品としての演出上のさまざまな狙いがあって、

大森氏とNHKは、主人公と母親を第1話で会わせることにしたのだろう。

 

しかし、原作者の辻村氏は、この改変ポイントが気になった。

辻村氏は、主人公と母親がずっと会わないということ、

そして、最後の大事なときに初めて母親と出会うという物語の流れに、

強いこだわりを持っていた。

最初から母親と会ってしまうと、

最後のシーンのインパクトが弱くなってしまう。

 

辻村氏と大森氏、どちらのストーリーの方が良いのだろうか・・?

私は、どちらのパターンも見てみたい気がする。

しかし「どちらの方が面白いか?」は、著作権の世界では重要ではない。

先に述べたように、原作者は「改変禁止権」という絶対的な権利をもっている。

「辻村氏が気に入るかどうか?」だけが問題になるのだ。

 

権利の強さにおいて、原作者と脚本家のあいだには、明確な差がある。

同じクリエイター同士、あまり良い印象を持っていないことも多い。

原作者の方は「自分の大切な作品を変にされる」と感じ、

脚本家の方は「映像化のセオリーを理解せずに、文句ばかり言う」と感じがちだ。

そのことを知っているプロデューサーも、

ドラマ制作の打ち合わせに原作者を呼びたいとは、ほとんどの場合考えない。

最初の「顔合わせ」や、撮影現場に「お客さん」として来てもらう。

という程度になることが多い。

 

この時点で、

2段階の許可のうち、後半の許可はまだ得られていない。

 

12月22日、NHK講談社から

上記のポイントを修正するように要請される。

 

しかしNHKも、ちゃんとした理由があって、

あえて主人公を母親と会わせている。

できればこのまま行きたい。

 

12月26日、NHK講談社

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールしている。

 

その後、講談社から「一切譲歩できない」と言われたNHKは、

やむをえず脚本を修正することにする。

主人公が最初から実家に行くことは変えないが、

仕方ない事情があって行くという話に変えることにしたのだ。

 

しかし、それでも講談社は首を縦に振らない。

 

こんなやりとりが続くうちに、NHKにフラストレーションが溜まっていく。

上記の男子中学生のように。

「なんだよ!OKっていってたじゃないかよ!」

 

NHKは辻村氏と直接会って話せば、分かってもらえると信じ、

「先生と会わせてください」とお願いする。

しかし、前回の記事で説明した通り、講談社は作家を外の人に会わせたくない。

いくらお願いしても、講談社は断る。

NHKにとっては、講談社が邪魔しているように見えてくる・・。

 

ドラマ作りの現場

NHKのプロデューサーが、

「2段階の許可」を明確に切り分けて理解できていたかは分からない。

作家と一心同体であることを強調したい講談社から、

わざわざ「映像化禁止権は講談社、改変禁止権は辻村先生。別物です」と、

丁寧に説明されることは無かっただろう。

NHKの認識が甘かった可能性は高い。

 

しかしそれでも、私はNHKに同情してしまう。

 

ドラマは、沢山のスタッフの共同作業で制作される。

脚本家、監督、出演者、撮影監督、美術監督、編集マン、音楽監督・・・

などなど、みんな、こだわりの強い❝曲者❞ぞろいだ。

全員が「この作品をこう作りたい」という考えを持っている。

プロデューサーは、そんな彼ら全員をまとめ上げながら、

予算内で期限までにドラマを完成させるという、重い責任を負っている。

 

プロデューサーからして見れば、原作者や出版社は、

沢山いる関係者の1つにすぎない。

もちろん一番重要な関係者だが、原作者と出版社から許可がもらえたとしても、

それだけでは、ドラマは完成しない。

関係者全員の協力が必要だ。

 

ドラマの撮影中に長澤まさみ氏が

「わたし、このドラマに出るのやーめたっ!」

と言えば、それだけでドラマ化の企画は失敗におわる。

脚本を書いた大森氏が

「この脚本を使っちゃダメ!」

と言い出せば、全ては1からやり直しだ。

 

しかし彼らは、そんなことはしない。

「みんなで1つの船に乗っている」ということが分かっているからだ。

 

ドラマの制作プロセスは、

乗組員の全員が爆弾をもって1つの船に乗り込むようなものだ。

何か気に食わないことがあれば、

誰もが「やーめたっ!」と言って、爆弾のスイッチを押すことが出来る。

船は大破し、ドラマ作りは失敗する。

しかし、そのスイッチを押した本人も大ケガを負う。

「ドラマの制作に協力する」と契約した上で、船に乗り込んだ以上、

爆弾を押せば「契約違反」になってしまうからだ。

 

だから、よほどのことが無い限り、誰も爆弾のスイッチは押さない。

最終的には、船の船長であるプロデューサーの指示に従う。

 

しかし、そんな乗組員の中で、だた1人スイッチを押しても無傷で済む人がいる。

改変禁止権というバリアで守られた原作者だ。

原作者だけは契約違反になることもなく

「やーめたっ!」と爆弾を爆発させることができる。

 

不公平のような気もするが、

このこと自体は、法律で保証されていることなので、

悪いことでも良いことでもない。

 

ただ、その極めて❝特殊な乗り組み員❞である原作者とは、

船長でさえ会うことはできない状況だった。

講談社を通してしか、やりとりが出来ない。

せめて、乗り組み員の1人である講談社には、

船長の立場を理解した上でドラマ制作に協力してほしい。

 

しかし、この乗り組み員からは、船長に協力している気配が感じられない。

原作者と一体化してしまい、原作者の気持ちばかりを押し付けてくる。

船長の気持ちを原作者に理解してもらおうと努力している様子がない。

 

乗り組み員全員が1つの目標に向かって頑張っているのに、

1人だけ違う方向を向いている。

しかも、どんどん態度を固くさせ

「言うことをきかないと爆弾のスイッチを押す(許可を取り消す)」

などと言ってくる。

 

なんとも、もどかしい。

こうして、NHK講談社に対するフラストレーションがさらに溜まっていく。

 

裁判

それでもNHKは譲歩した。

 

講談社からの要望を聞き入れ、脚本を修正することにした。

予定していた撮影開始(クランクイン)のスケジュールは諦めた。

 

大森氏に大幅な脚本の修正をお願いしないといけない。

スケジュールを押さえていた俳優や撮影スタッフを、

一旦キャンセルしないといけない。

船長の面目は丸つぶれだ。

 

しかしこの状況でも、まだ船を進めることは可能だった。

今は船が止まっただけだ。

まだ爆弾は爆発していない。

 

ドラマ制作の現場でスケジュールが遅れてしまうことは、たまにあることだ。

天気が悪いせいで、撮影が延期になることもある。

ドラマの設定に似た事件が現実に起きたせいで、

大幅に内容を変えないといけなくなることもある。

そんな場合でも、上手くやりくりしてドラマを完成させるのが、

プロデューサーの腕の見せ所だ。

 

クランクインを1週間程度遅らせても、何とかなるという計算は立っていただろう。

「まだ何とかなる。

 乗り組み員みんなで力を合わせれば、もう一度船出できるよ!」

船長は、必死で様々な関係者と調整しながら、船の再出発の準備を進めていた。

 

しかし、よりにもよって、

このタイミングで講談社が爆弾のスイッチを押したのだ。

「信頼関係が壊れたので、もう協力できません」

と言って。

 

この時の、船長の気持ちを想像してほしい。

 

なぜこのタイミングに?

まだやれたはずなのに!

これじゃ、がんばっていた他の乗り組み員に顔向けできないじゃないか!

もともと講談社は協力的じゃなかった。

最初はOKと言ってたのに態度を変えた。

原作者に会いたいと言っても邪魔してきた。

それでも俺は我慢した。

スケジュールを変更し、脚本も言う通りに変えた。

それなのに、一方的にみんなの船を爆破させた。

なぜ?なぜそんなことを?なぜなんだ?

くやしい!

講談社が憎い!

 

NHK講談社を訴えた直接の原因は、この時のNHKの「怒り」だと思う。

NHKは、ドラマ制作の妨げになっていた改変禁止権を持っていた辻村氏ではなく、

あくまでも講談社を訴えている。

どうにも講談社のことが許せなかったということだ。

NHKは「脚本に口出しするのは検閲だ!」とまで言って、講談社を責めている。

 さすがにこれは言い過ぎだが、よほど腹に据えかねたのだろう。)

 

しかし訴えた狙いは、それだけでは無かったはずだ。

講談社を訴えるにあたって、NHKは弁護士に相談しただろう。

改変禁止権という明確な権利がある以上、

「改変されないために許可を取り消しました」と言われてしまえば、

勝ち目はほとんどない。

訴える前にNHKは、そのことも分かっていたと思う。

 

でも、NHKは「船長」なのだ。

今後も別の船で、多くの俳優やスタッフを連れて、新たな船出をしないといけない。

乗り組み員に船を爆破されたのに、怒りもしない船長は、ナメられる。

他の乗り組み員に対しては

「悪いのは船長ではない。講談社だ!

 これから不届きな船員をこらしめてやるぞ!」

という姿勢を示す必要があった。

 

裁判という「戦うポーズ」を示すことで、今後も船長でいることができる。

数年後に裁判に負けたとしても、

その頃には、この事件に対するみんなの興味は薄れているだろう。

 

こうして、

講談社に対して溜まりに溜まった怒り。

・俳優やスタッフへの威厳を保つ必要性。

という理由で、NHK講談社を訴えたのだ。

 

その後、裁判ではNHKの必死の訴えにも関わらず、以下のような結論が出された。

・原作者のもつ改変禁止権は尊重されないといけない。

講談社が許可を取り消したことが、間違った行為だとは言えない。

講談社にはNHKへの配慮に欠ける面があったことは否定できないが、

 義務違反だとまでは言えない。

(裁判所に、講談社の配慮が不十分だったと認めさせることには成功)

・損害賠償する必要はない。

 

負けたNHKは、それでも高等裁判所に訴えた。

そして、2015年12月に和解している。

その頃には、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を話題にする業界関係者は、

ほとんどいなかったと、私は記憶している。

 

そして、その後もNHKは多くの俳優、スタッフと共に、

面白いドラマを作り続けている。

 

溜まった怒りを吐き出し、俳優やスタッフへの威厳を保つ、

という意味では、NHKの裁判は成功したと言えるかもしれない。

 

以上が「第2章:NHK」だ。

 

次回は、物語の視点は講談社NHKのような大企業ではなく、個人に移る。

「第3章:辻村深月」だ。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(2)

第1章:講談社

前回の記事では、

NHK講談社の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマ化しようとしたが、

内容について作者の辻村深月氏のOKがもらえず、ドラマ化に失敗したこと。

そして、怒ったNHK講談社を訴えたが、

裁判では負けてしまったという流れを見て来た。

 

前回述べた通り、これに対する私の問いは3つある。

1.今どき、なぜ辻村氏は手紙を書くという方法でNHKに不満を伝えたのか?

2.なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

3.長期的にみて、誰が損をしたのか?

 

この疑問に答えるため、講談社NHK、辻村氏、

それぞれの目線から事件を眺めてみよう。

 

まずは、講談社の目線からだ。

辻村氏の作品『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』にならうと、

この物語の❝第1章❞は、講談社を主人公にスタートする。

 

出版社の立ち位置

講談社の気持ちを理解するために、まずは

「出版社とは、著作権の世界でどんな立場にいるのか」を頭にいれる必要がある。

 

出版社の一般的なイメージとしては、以下のような感じだろう。

 

売れない新人作家や漫画家が、必死で書いた原稿を出版社にもちこむ。

出版社の編集マンが、その原稿をパラパラとめくる。

原稿を投げ出すように机に置き、ダメ出しをする。

一方で、売れっ子作家には態度を変え、おべんちゃらを言う。

 

極端にパターン化されたイメージだが、ドラマ等でよく見るシーンだ。

こんなシーンを見ると、出版社というのは、

大物作家ほどではないにしても、

それなりの立場・権利を持っているような気がしてしまう。

 

実際にはどうなのか?

 

私は、音楽について書いた以前の記事で、

「音楽業界の3人の登場人物」つまり、「3種類の権利者」を説明した。

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音楽業界の登場人物は、

「作詞・作曲家」(例:小室哲哉

「歌手」(例:安室奈美恵

「レコーディングする人」(例:エイベックス)

 

の3人(3種類)だ。

 

今回はもっと視野を広げて、

「クリエイティブ・エンタメ業界の登場人物」を一通り紹介しよう。

我々の文化・芸術を支えている、そうそうたるメンバーが登場することになる。

 

まず1人目の人物は、「クリエイター」。

手を動かして、何らかの作品を生み出す人のことだ。

小説家、画家、写真家、漫画家や、作詞・作曲家がこれにあたる。

また、映画会社やゲーム会社もここに含まれる。

映画やゲームという「作品」を生み出しているからだ。

彼らに著作権という権利が与えられる。

 

次の登場人物は、「俳優・歌手」。

俳優や歌手は、自分でストーリーや歌を作り出すわけではない。

しかし、彼らが熱演・熱唱するからこそ、観客に感動を伝えることができる。

そういう大切な役割をになっているから、権利が与えられている。

 

3番目の登場人物は、「レコーディングする人」だ。

以前の記事で書いたとおり、彼らがいるから、

歌手のコンサートに行けない人でも、

CDやインターネットで音楽を楽しむことができる。

だから「レコーディングする人」も権利者だ。

 

多くの人に素晴らしい作品を届けるという意味では、

4番目の登場人物の「放送局・ケーブルテレビ局」も同じだ。

電波を使って沢山の人に効率的に文化を伝えるという役割を果たしている。

だから彼らにも権利が与えられた。

 

以上である。

以上が、文化・芸術の世界で権利を与えられた登場人物である。

 

 

・・・・・あれ?

 

出版社は??

 

そう。 

あなたの見落としではない。

出版社には、権利が与えられていないのだ!!

 

これは、著作権の世界における極めて基本的な事実である。

 

「いやいや!おかしいでしょう!

 出版社には、レコード会社やテレビ局が現れる何百年も前から、

 文化を支えてき歴史があるんですよ!?

 レコード会社やテレビ局に権利を与えているのに、

 出版社には権利ゼロなんて、めちゃくちゃじゃないですか!?」

という批判が聞こえてきそうだ。

 

でも本当に、無いものは無いのだ。

 

たしかに著作権制度の歴史の中では、出版社に権利が与えられた時期もある。

しかしそれだと、権力者が出版社に「許可を出してあげる」という形になりやすい。

権力者は、自分の気に食わない本(政治批判など)を出している出版社には、

許可を出さない。

こうして「権力者による検閲」が始まる・・。

 

詳しくは別の記事に書くつもりだが、

こういう経緯があったこともあり、権利は出版社ではなく、

その作品を生み出した作家(クリエイター)に与えようということになったのだ。

 

出版社には権利がない。

だから、権利の切れている昔の作品(太宰治の小説やゴッホの絵など)を

使いたいときに、その作品を掲載している出版社に許可をとる必要は一切ない。

覚えておこう。

 

出版社の気持ち

権利がない。

この事実に出版社は気付いているのか?

 

もちろん気付いている。

だから、彼らは「出版社にも権利が欲しい!」という運動をしている。

「版面権(はんめんけん)」とか、

「出版原盤権(しゅっぱんげんばんけん)」とか、

新しい名前の権利を生み出してもらうために、法律の改正を求めている。

 

しかし、長年にわたる活動にもかかわらず、

今のところ法改正の気配はない。

 

これはもう、恐怖だ。

 

昔は、権利がなくても大丈夫だった。

資本力をもとに印刷工場を作り、本を大量に製造し、

取次会社と交渉し全国の書店に届け、予算をかけて宣伝する。

こんなことは、ある程度のお金と組織がないと出来ないことだった。

 

しかし今は違う。

ネットで探せば、個人の本でも出版してくれる業者は簡単に見つかる。

電子書籍なら、一瞬で全世界の読者に作品を届けることができる。

SNSを上手く使えば、それなりの宣伝もできる。

そもそも、個人が何かを発信したければ、ブログを書けば済んでしまう。

本にする必要すらないのだ。

出版社の「存在意義」がどんどん無くなっていく。

 

ふと気が付くと、

インターネットという「未知の戦場」に放り出されていた。

そこらじゅうから、見たこともない敵が襲いかかってくる。

それなのに、自分は権利という「武器」を持っていない。

素手」で戦わないといけないのだ!

これはもう、恐怖以外の何物でもない。

 

出版社の気持ちを考える上で、この「恐怖」が全ての出発点になる。

 

では、出版社としては、どうすれば良いのか?

 

まずは、インターネットの浸透を少しでも遅らせることだ。

当然の戦略だろう。

実際に彼らはそうしている。

 

音楽や映画は、ネットを通じて簡単に楽しめるようになって、もう何年もたつ。

しかし本は、なかなかネットで読めるようにはならない。

少しずつネットで読める本が増えつつあるが、

音楽や映画と比べると、変化のスピードがものすごく遅い。

テキストのデータの方が、映像や音声のデータよりも、はるかに軽いというのに。

技術的には簡単なことだが、出版社が抵抗しているのだ。

 

しかし、こんな戦略がいつまでも持つわけがない。

ネットの勢いを止めることは出来ない。

そんなことは、出版社もわかっている。

 

では、どうするのか?

武器を持たない彼らが生き残る道は・・・

 

そうだ。

武器を持つ人の近くにいることだ。

 

著作権を持つクリエイター(作家や漫画家)と、一体化してしまえば良い。

 

つまりこういうことだ。

 

作家に対しては

「全て私にお任せください!

 面倒なことは全部私がやってあげます!

 だから、あなたのそばにいさせてください!

 武器を私に預けてください!

 悪いようにはしませんから!」

と言って、著作権を使う権限を預けてもらう。

 

そして外部の人には、

「私と作家は一心同体です!

 私たちは、すごく強い武器を持っているんです!」

と主張する。

 

これが基本戦略になる。

 

(念のため言っておくと、筆者に出版社に対する悪意があるわけではない。

 この戦略が効率的に回れば、

 作家は創作活動に専念できるようになり、文化全体にとってもハッピーだ。)

 

もちろん、インターネットが誕生するよりも前から、

出版社が作家を囲い込もうとする傾向はあった。

しかしそれは、次の作品を機嫌よく書いてもらい、

その本を出版して儲けるため、というのが、

メインの目的だったはずだ。

権利のことは意識されていなかった。

インターネット時代に入り、作家を囲い込む目的が、

次回作のためではなく、今の作品の権利をしっかり確保し、

その権利を映画、ドラマ、ネットなど多方面に活用して儲ける、

という方向に変化しているように感じる。

 

出版社の現場で働く人々が、著作権の詳細を理解した上で、

日々の業務をやっているわけではないだろう。

しかし、出版社に勤める人間のほぼ全員が、

インターネットの時代に、紙媒体の将来がヤバいかも。と考えている。

本能的な恐怖を感じ、作家との一体化を目指す。

そして、自然とそのように振る舞い、行動するようになっていく。

 

まとめると、こうだ。

・多くのプレイヤーがいるクリエイティブ・エンタメ業界の中で、

 出版社は何の権利も持っていない。

・権利を持たずにインターネット時代を迎えるのは、恐ろしい。

・出版社は、生き延びるために、権利を持つ作家と一心同体になりたい。

・対外的にも、作家と一体であると示さないといけない。

 

ここまでの前提を押さえた上で、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の事件に戻ろう。

 

事件の流れ(講談社目線)

2011年9月11日

NHKから講談社に、

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにさせてください」

という企画書が送られてきた。

 

この時点では、講談社にとっても❝ウェルカム❞な話だっただろう。

ドラマ化すれば、ドラマ化権の権利料が入ってくるし、

原作本の宣伝にもなる。

無料どころか、お金をもらって宣伝までしてもらえるようなものだ。

この時点では、映像化の実績の少なかった辻村氏の作品に注目が集まり、

他の作品の映像化も進むかもしれない。

当然、「前向きに進めましょう」ということになる。

 

11月15日

講談社からNHKに対して、

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と連絡した。

 

もちろん、講談社の社内だけで決めたわけではない。

辻村氏の意向も確認しただろう。

しかし、NHKに対しては、辻村氏だけでなく「講談社の決定でもある」ことを

分かってもらう必要がある。

だから、わざわざ「社内の上層部の会議でOKが出ました」と伝えている。

(辻村氏との契約で、講談社は正式に権利を預かっているはずなので、

 こう伝えることは、嘘でも何でもない)

 

12月19日

NHKから、第1話の脚本が提出されてくる。

 

 

しかし、原作とは違い、物語の主人公がすぐに母親と会ってしまっている。

辻村氏に読ませたところ、「この部分は変えないでほしい」と言われた。

これに対し、

講談社は「先生、任せてください。ちゃんとNHKに修正してもらいます」

ぐらいのことは言ったのだろう。

 

この時点でも、講談社は進める気満々だ。

その証拠に、12月22日にNHKに脚本の修正を要望すると同時に、

「映像化契約書(案)」を渡している。

 

 

しかしこの後、講談社の態度が、少しずつ厳しくなっていくのだ。

 

NHKからは妥協案が示される中で、

12月28日に講談社は「一切譲歩できない」とメールし、

翌年の1月27日には「このままなら、ドラマ化の許可を取り消す」と伝えている。

そして撮影開始予定日だった2月6日には、とうとう

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と言い切った。

 

脚本が原作と変えられているという点なら、じっくり交渉すれば良い。

小説と映像作品の折り合いを付けるのに苦労するというのは、珍しい話ではない。

しかし、上記の講談社の厳しい姿勢には、脚本の問題を超えた「何か」に対する

強い意志を感じてしまう。

最初はあれだけ前向きだったのに、

いったい何があったというのだろうか・・・?

 

講談社NHKの担当者の間で、

具体的にどんなやりとりがあったのかは分からない。

 

撮影スケジュールを直前まで教えてもらってなかったので、

NHKへの不信感が生れたのかもしれない。

あるいは、もっと些細なことで、気持ちの行き違いがあり、

「あのプロデューサー、けしからん!」となったのかもしれない。

手に入る資料では、それが何なのか特定することは出来なかった。

 

しかし、上で説明した「出版社の立場・気持ち」を踏まえると、

大まかな推理をすることはできる。

 

手紙の意味

人は、痛いところを突かれると、怒る。

 

いや、人に限らない。

小さな子グマを育てている母親グマに会ったことはあるだろうか?

めちゃくちゃ恐い。

ちょっと近づくと鬼の形相で威嚇してくる。

子供という弱点を隠すために、本能的に母親は攻撃的になる。

 

NHKは、講談社の❝子グマ❞を刺激してしまったのではないか。

 

出版社の弱点といえば、決まっている。

自らは権利を持たない出版社が、作家と本当に一心同体なのか?という点だ。

 

脚本をダメ出しする講談社に対して、

「でも・・辻村先生が本当にそう言っているんですか?」

と、NHKが言ってしまったのかもしれない。

 

そんな直接的な言い方ではなかった可能性もある。

もっとマイルドで、言った本人も意識していない程度の言い方だったかもしれない。

でも、講談社

「ひょっとして、

 自分が辻村先生との間に立っていることが邪魔だと思われている??」

と感じる瞬間があったのではないか。

 

こちらの記事によると、脚本のOKが出ずに困ったNHKが、

「先生と直接お話させてほしい!」

とお願いした事実はあったようだ。

http://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2016/04/03/142947

 

出版社は、作家と放送局が直接会うことを好まない傾向がある。

辻村氏とNHKが直接連絡を取り合ってしまうと、

辻村氏が講談社に伝えていたこととは違うことを言い出すかもしれない。

そうなると、講談社と辻村氏が、必ずしも一心同体ではないことが、

バレてしまう。

これでは、講談社に存在価値がないことになってしまう。

「出版社の恐怖」がよみがえる・・。

 

講談社は、辻村氏とNHKの面談を断っている。

上記の記事によると、辻村さんが出産直後だったという事情もあったようだ。

 

講談社にとっては、困った事態だ。

NHKからは「辻村氏が本当にそう言っているのか?」と疑われている。

かといって、本人と会わせるわけにはいかない。

メール等で直接やりとりさせるのも嫌だ。

連絡先が分かってしまうと、この後は自分抜きで話が進んでしまうかもしれない。

どうするべきか・・

 

そこで登場したのが「手紙」だ。

辻村氏にNHK宛の手紙を書いてもらえばいい。

「辻村氏が本当にそう言っている」とNHKに証明することができる。

手紙だから、辻村氏のメールアドレスがバレることもない。

これで解決だ。

 

講談社から辻村氏に対して

NHKの人にガツンと書いてやってくださいよ。

 先生の気持ちが伝われば、彼らも考え直すに違いありません!」

ぐらいのことは、言ったかもしれない。

 

これが、「今どき、なぜ手紙だったのか?」の理由ではないだろうか。

 

こうして、辻村氏に直接会わせることもなく、

講談社と作家が一心同体だと証明することができたのだ。

 

勝利

 

講談社には、この後NHKとじっくり向き合い、

粘り強く脚本の修正を求めていくという選択肢もあった。

撮影スケジュールが遅れて困るのは、講談社ではなくNHKだ。

NHKも撮影を後ろ倒しにすると講談社に伝えている。

脚本の問題点もほとんど修正されてきている。

 

しかし、NHKは、出版社と作家が一体であることを疑うという❝罪❞を犯した。

今後のためにも、「出版社も権利者である」ということを、

しっかりと分からせておかないといけない。

 

だから講談社

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と決断したのだ。

 

 

そして、その後の裁判にも勝利をおさめる。

 

講談社は、

「出版社と作家は一体であると示す」という基本戦略に従って行動し、

NHKとの交渉、裁判を通じて、対外的にそのことをアピールすることができた。

大成功だ。

 

めでたし。めでたし。

 

こうして、「第1章:講談社」は幕を閉じる。

 

しかし、「第2章:NHK」では、かなり違った景色が見えてくるだろう。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(1)

NHK講談社の裁判

NHKが、講談社を訴えた。

 

NHKといえば、日本で最大の放送局だ。

一方で講談社も、日本最大手の出版社の1つ。

この大手2社が、真正面から裁判で戦った。

 

事件の大まかな流れはこうだ。

講談社が出版していた本に、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』という小説があった。

この小説をNHKのプロデューサーが気に入り、「ドラマ化したい」と思ったのだ。

講談社から許可をもらったNHKは、脚本を作り、撮影準備を進め、

俳優へのキャスティングも進めていた。

長澤まさみ黒木華佐藤江梨子風吹ジュンなど、

豪華な役者たちが出演することになっていた。

 

ところが、である。

撮影開始(クランクイン)の予定日に、

講談社が「ドラマ化の許可を取り消します!」とNHKに通告したのだ。

理由は、「小説の作者が、どうしてもドラマの内容が嫌だと言っているから」

というものだった。

 

ドラマの制作は中止され、

NHKには、制作準備にかかった約6000万円の損害が出てしまった。

 

これに怒ったNHKは、講談社を訴えた。

「6000万円を払え!」と。

 

裁判の結果を先に言ってしまうと、

NHKが負けた。

裁判においても、小説の作者の「気持ち」が何よりも大切にされたからだ。

 

しかし、この事件で「本当の意味で負けた」のは、NHKではない。

では、「本当の敗者」は誰だったのか?

今回の連載を通じて、真相を明らかにしていくことにしよう。

 

今回の連載を読めば、

ドラマ化、映画化など、原作を映像化するときの仕組みを理解し、

これからの出版社とクリエイターのあり方を考えることができるだろう。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』

ドラマの原作になるはずだった小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を書いたのは、

人気作家の辻村深月(つじむら みづき)さん。

『鍵のない夢を見る』で直木賞を受賞した実力のある作家だ。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の主人公は、

東京でライターをしている山梨県出身の女性だ。

(辻村氏の故郷も山梨県なので、

 主人公と自分自身を重ねながら書いている部分もあるだろう)

 

山梨県で悲しい事件が起きる。

主人公の幼い頃からの親友の母親が、お腹を刺され死体となって発見されたのだ。

そして、その親友は逃亡中だという。

親友が母親を殺したのか?

一体なぜ殺したのか?

親友はどこへ向かったのか?

この謎を追うために、主人公が山梨へ帰る。

 

謎を解き明かしていくストーリーと並行して、

主人公自身の物語も語られていく。

主人公も、母親との複雑な関係を抱えていた。

せっかく故郷に帰ってきたのに、実家には寄ろうともしない。

母親と会いたくないからだ。

 

主人公と母親との関係、親友と母親との関係、それぞれを対比させて描きながら、

物語は少しずつ核心に近づいていく・・・。

というストーリーだ。

 

この小説は、2部構成になっている。

第1部は、謎を追う主人公の目線で描かれているが、

第2部になると目線が転換し、逃亡中の親友の目線で話が進む。

だから、同じ出来事に対しても

主人公と親友の受け取り方、感じ方が全然違っていたことが、後になって分かるのだ。

面白い。


気取った言い回しを使わない、非常に読みやすい文章なので、

読んでみてほしい。

 

 事件の流れ

NHK講談社の戦い。

誰が「本当の敗者」だったのか?

これを解き明かすため、まずは事件の流れを一通り眺めておこう。

 

流れをまとめるにあたっては、以下の資料を参考にさせていただいた。

感謝申し上げます。

 

TBSテレビの日向央氏の「意外と知らない著作権AtoZ」

(「調査情報」2012年9・10月号)。

国士館大学の三浦正広教授の

「原作小説のテレビドラマ化に関する著作権契約の成否と同一性保持権の行使

 -『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』映像化契約解除事件ー」

(「The Invention」2016 No.3)

 

以下、事実関係を順に追っていくが、けっこう長い。

全てをしっかり覚える必要なないので、

「へ~、こんなやりとりがあったんだ~」ぐらいの感覚で、

読み進めてほしい。

期間を「友好関係の時期」「険悪になっていく時期」「大ごとになっちゃった時期」

の3つに分けてみた。

 

友好関係の時期

最初のうちは、NHK講談社も特にモメることもなく、スムーズに話が進んでいた。

 

2011年9月11日

NHKから講談社に対して、

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにさせてください。

 来年の5月から全4話で放送するつもりです」

という企画書が送られる。

 

11月15日

講談社からNHKに対して、

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と連絡。

 

NHKはこの決定を受けて、脚本家の大森寿美男氏に「脚本を書いてください」と

正式に依頼する。

そして、大森氏が第1話の脚本(準備稿)を書き上げる。

この脚本の中で主人公は、原作とは違う行動をとっていた。

主人公は、山梨に帰ったときに

最初から実家に行って母親に会うという内容に変わっていたのだ。

 

12月19日

第1話の脚本を、NHKから講談社に提出。

 

講談社は原作者の辻村氏にこれを読んでもらい、

辻村氏からの感想・要望を受け取る。

 

12月22日

講談社NHKに対して、

「主人公がいきなり実家に行くのはおかしい。

 原作の中の母と娘の関係を変えないようにしてください」

と要望した。

そのときに一緒に、NHK講談社の間でむすぶ「映像化契約書(案)」を渡した。

 

12月26日

NHKから講談社に対して

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールする。

 

険悪になっていく時期

このあたりから、両者のあいだに険悪で嫌な空気が流れ始める。

 

12月28日

講談社からNHKに以下のようメなールが送られる。

「お願いした修正の要望が解決しない限り本ドラマ化の許諾はできない。

 一切譲歩できない部分です」

 

2012年1月6日

NHKは脚本家と対応を話し合う。

「主人公が最初から実家に行くという部分は変えないでいこう。

 その代わり、自分から進んで行ったわけではなく、

 仕方なく行ったということにして、そのことが分かる話を追加しよう」

ということになった。

 

1月10日

第1話の脚本を修正したものと第2話の脚本が出来たので、

これをNHKから講談社に送る。

 

講談社は辻村氏に読んでもらい、

辻村氏からのコメントを受け取る。

 

1月18日

講談社からNHKに辻村氏のコメントを伝える。

コメントの中には

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

という記載もあった。

 

1月24日

NHK講談社に以下の話をする。

「クランクインを2月6日に予定している。

 もう時間がない。

 本当に必要ならスケジュールを後ろにズラすが、出来ればこのまま行きたい」

 

1月25日

第3話と第4話の脚本が出来たので、

これをNHKから講談社に送る。

(ドラマは全4話なので、これで全ての脚本を見せたことになる)

 

大ごとになっちゃった時期

撮影スケジュールが間近にせまり、関係者の焦りも大きくなる。

これまでは現場の担当者同士で交渉していたが、

どうにも話が進まないので、それぞれの上司が出てくるようになる。

 

1月27日

講談社(担当者の上司が登場)からNHKに対して

「原作者が、主人公と母親の関係を理解してもらえていないと感じている。

 このまま原作者が納得しないなら、ドラマ化の許可を取り消す」

と伝える。

 

1月30日

NHK(こちらも上司が登場)から講談社に対して

「2月6日にクランクイン予定だったが、それは諦めるし、

 現実的に対応していきたい」

と伝える。

(つまり、せっかく押さえていた長澤まさみ氏たちのスケジュールを、

 一旦キャンセルしてしまうことになる。

 なかなか大変な事態だ)

 

これに対し講談社は、「辻村先生から預かってきました」と言って、

辻村氏が書いた手紙をNHKに見せる。

そこには

講談社を通じて再三お願いしているとおり、

 この状態のまま進めるというということであれば、

 今回のお話はお断りせざるを得ません」

などと書かれていた。

 

この場でNHK講談社

「具体的に、どこが問題があるのか?指摘してほしい」

と要望する。

それに対し講談社は、第1話から第4話までの脚本の問題点を複数指摘する。

そして、あらためて

「原作者が納得しない限り、ドラマ化の許可を取り消す」

と伝えた。

 

1月31日

NHKから講談社

「主人公が最初から実家に行くエピソードは、やめます。

 原作どおり、実家には帰らずビジネスホテルで過ごす話にします。

 ただ、主人公と母親が顔を合わすシーンが最初にないと、

 2人の仲が悪いということが視聴者に伝わりにくくなってしまいます。

 その部分をどうするか、考えます」

といった内容のメールを送る。

 

2月2日

講談社からNHKに「質問状」。

「質問状に回答してほしい」

と要望。

NHKは「すぐに回答します」と答え、

さらに「主人公と母の関係シーンの再考案」という文書を講談社に渡す。

(この文書の中で、講談社から指摘された問題点は、ほぼ解消されていたようだ)

 

2月3日

NHKは「質問状」に対する回答を講談社に送る。

 

2月6日(もともとのクランクイン予定日)

講談社からNHKに対し、

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」

と伝える。

 

その後、NHK講談社のあいだで何らかの❝やりとり❞があったようだ。

 

6月21日

NHKが「損した6000万円を払え!」と講談社を訴える。

 

2015年4月28日

東京地裁

講談社は支払わなくて良い」という結論を出し、

NHKが敗北した。

(その後、NHKはあきらめずに高等裁判所に訴えたが、逆転することはできず、

 最終的には和解が成立している)

 

3つの疑問

以上が事件の流れだ。

現場でどんなことが起きていたか、大まかに分かってもらえたと思う。

この事件を眺めていて、私には疑問に思ったことが3つある。

 

1つ目の疑問は、2012年1月30日の出来事だ。

講談社が、辻村氏が預かってきた手紙をNHKに見せた。という部分。

まず思ったのが

「え??

 今どき、手紙ですか?

 なんで?」

ということだ。

 

往年の大作家なら、そいういう古風なコミュニケーション手段を使うのも理解できる。

でも、辻村氏は1980年生まれの若い作家だ。

当然、スマホでも何でも使いこなす世代だろう。

 

それなのに、なんで手紙??

という素朴な疑問だ。

 

2点目の疑問は、

「なぜNHKは、勝てそうにない裁判をしたのか?」

ということ。

 

次回以降の記事で説明するが、

小説家が「私の大切な作品を、勝手に作り変えないで!」といえる権利は、

非常に強力な権利だ。

そう簡単にひっくり返せるものではない。

原作者の辻村氏が納得していない以上、ドラマ化できないのは当たり前に思える。

それなのに、なぜNHKは裁判に訴えようと考えたのか?

これが2つ目の疑問だ。

 

3つ目の疑問は、

「結局のところ、一番損したのは誰なのか?」

ということだ。

 

NHKが裁判で負けたのは事実だが、

それだけでビジネスの世界の勝ち負けが決まるわけではない。

長い目で見ると、誰にとって損だったのか?を考える必要がある。

 

3つの目線

この疑問に、次回以降の連載で答えを出していくつもりだ。

 

考えていくにあたっては、辻村さんの小説と同じ手法をとりたい。

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』は、

同じ出来事を主人公と親友の2つの目線で描くことで、

真実を明らかにしていく物語だった。

 

これにならい、今回のNHK講談社の事件も、

複数の目線で見ていくことにしよう。

 

まずは、講談社の目線。

次に、NHKの目線。

最後に、辻村氏の目線だ。

 

それぞれの目線で、同じ出来事に対する感じ方が全然違うことが分かるだろう。

 

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全ては本が教えてくれる

本を読もう!

今回は、結論から言う。

 

本を読もう!

できれば、タブレットスマホではなく、紙の本で読もう。

 

メリットは沢山ある。

 

メリット1:モテる

あなたはデートの待ち合わせをしている。

あなたの方が、先に待ち合わせ場所につく。

すると、相手から連絡が入る。

「ごめん!20分遅れる!」とのことだ。

仕方がないから、あなたは20分ヒマを潰さないといけない。

 

一方、あなたのデート相手は、本当は15分ぐらいで着きそうなのだが、

少し余裕をみて「20分遅れる」とあなたに伝えている。

そして、予想通り15分後には待ち合わせ場所についた。

デート相手は、あなたを見つける。

 

あなたは、まだ相手が来るとは思っていない。

でも、相手はあなたを見つけている。

 

このとき、あなたは何をしているだろうか?

いや、「何をしているべき」だろうか?

 

そうだ。

紙の本を読んでいるべきだ。

スマホタブレットをいじくりまわしていてはいけない。

 

本を読んでいるあなたの姿を相手にしっかり見てもらおう。

相手が十分に近づいて来た気配を感じてから、ゆっくりと本から目線をあげ、

相手と目を合わせよう。

まるで、物語の中で運命的な出会いを果たした2人のように・・。

 

どうやら、人間の脳はかなり保守的にできているようで、

昔ながらのイメージに引っ張られやすい。

タブレットスマホで読書をしても、紙の本で読書をしても、

やっていることは変わらないのだが、

紙の本の方が、圧倒的に「知的」で「想像力ゆたか」に見える。

 

現在、紙の本を読む人は少数派になりつつある。

だからこそ、目立つ。

極端な話、本の中身を読んでいなくても構わない。

紙の本を読んでいる姿は、個性的で素敵なのだ。

 

もちろん、これだけでモテるようになるわけではないが、

小さなスマホを、シカメっつらでチマチマと操作しているライバルに

差をつけることは出来るだろう。

これだけで、本1冊分の元はとれる。

 

モテるようになるのは、デートの時だけではない。

あなたが就職活動、転職活動をしていたり、

芸能系のオーディションに申し込んだりしているのなら、

履歴書や自己紹介文を書くこともあるだろう。

そこに必ず「趣味:読書」と書いておこう。

これだけで、確実にあなたの「知的っぽい印象」がアップする。

 

あなたが、「体育会系・元気なタイプ」だったり、

「感性で生きるアーティストタイプ」だったり、

要するに「本を読まなさそうなタイプ」なら、

なおさら効果はバツグンだ。

ギャップがある人物は魅力的になる。

 

「今は〇〇系の本にハマっています」などと書ければ、なお良い。

それをきっかけにして、話が盛り上がるかもしれない。

最近の面接官は、「どんな本を読んでいるんですか?」と質問することを、

禁止されていることもある。

相手の「思想」を探るようなことは、やっちゃいけないからだ。

でも「〇〇系の本」と具体的に書いておけば、面接官も安心して質問できる。

 

メリット2:儲かる

本を読むと、知識が増える。

色んな考え方を頭にインストールすることで、

バランス良く物事を考えられるようになる。

逆に、❝バランスが悪い❞考え方を意識的にできるようにもなる。

「世の中全体としては、平均的にこういう考え方だが、

 自分は、敢えてこういう見方をしよう」

といった思考ができるようになる。

 

これは、「投資」するときに重要になる考え方だ。

 

世間と少しズレたことをする。

でも、そのズレは本人もしっかり分かっている。

こういう時こそ、儲かるのだ。

お金を投資するときでも、自分の時間や労力を投資するときでも、

必ず役に立つ。

 

私はこのブログを、

クリエイティブ業界、エンタメ業界に関心がある人に向けて書いている。

あなたには、できるだけ自由でいてほしい。

自由に面白いものを生み出してほしい。

そのための基礎になるのが、経済面での自由だ。

 

だから、儲けてほしい。

だから、本を読んでほしい。

 

この点については、いずれ別の記事で説明したい。

 

メリット3:楽しめる

3つ目のメリットは、単純だ。

 

読書は、楽しい。

 

本は、世界中にいる作者が、考えに考え抜いて、

あなたに届けるために書いたメッセージだ。

読んで楽しくないわけがない。

 

しかも、人類の数千年の歴史をかけて、無数の作者が書いてくれているのだ。

中には、書かれた時代では世界で一番頭の良い人が書いた、

あなた宛てのメッセージもある。

当時、世界で一番強い国を支配していた人が書いた、

あなた宛てのメッセージもある。

一番悲しい思いをしていた人からのメッセージもあるかもしれない。

あなたが生まれたその日に書き上げられた、

あなた宛てのメッセージもある。

 

何でもいい。

気になるものから読んでみよう。

 

必ず、素晴らしい本との出会いがやってくる。

 

秋のオススメ2冊

最近、私が「読書の楽しさ」を感じた本を2冊紹介したい。

 

まずは『ハーモニー』。

 

これは、SF小説だ。

 

著者は伊藤計劃(いとうけいかく)氏。

2007年に『虐殺器官』でデビューし、

国内のSF小説コンテストで、いきなり第1位を獲得してしまった作家だ。

2008年には、『ハーモニー』を発表。

その翌年、癌で亡くなった。

34歳だった。

 

つまり、この本は、著者が人生の最後に完成させた小説だ。

 

『ハーモニー』の舞台は、未来だ。

そこでは、医療技術が極限まで進歩している。

 

その社会では、人間の体の中に、沢山の小さなセンサーが入れられている。

だから、どんな小さな体の異変があっても、一瞬で発見され、

すぐに治療されてしまうのだ。

だから、誰も病気にならない。

 

誰も病気に苦しまずに済む、❝究極にやさしい世界❞が実現したのだ。

 

しかしそれは、自分の健康や体を、他人に管理される世界でもあった。

 

主人公の少女は、そんな世界が嫌になり、

絶食し、自殺しようとする。

 「自分の体が自分自身のものである」と証明するために・・・。

 

長年病気と闘っていた著者は、どんな思いでこの物語を書いたのだろう。

 

この小説、

設定の面白さやリアルさも素晴らしいが、

何より、文章がめちゃくちゃカッコいい!

先が気になって、どんどん読み進んでしまう。

 

そして、物語の後半に重要なテーマになるのが「意識」だ。

 

登場人物として、「意識のない人」という存在が現れる。

「意識がない」といっても、

気を失って、ぶっ倒れているわけじゃない。

その人は、普通に食事し、人と会話し、生きていくことができる。

単に「意識がないだけ」なのだ。

 

私はこの本を読んだとき、「意識のない人」というものが、

どういうものなのか、いま1つピンと来なかった。

なぜ意識がないのに、食事や会話ができるんだろう?

意識があるからこそ、「食事をしよう」と考え、物を食べることができるのでは?

意識があるからこそ、相手の言っていることを理解し、返事をし、

会話することができるのでは?

(この疑問は、私がオススメする2冊目の本で解消することになる。)

 

こんな謎を残しながらも、

物語は疾走する。

そして、人類全体をまきこむ巨大な陰謀が明らかになる。

そのとき、主人公の下した決断は・・・?

 

私は最後まで一気に読んでしまった。

オススメだ。

 

 

 

2冊目の本は、

『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』。

 

脳科学の最先端を紹介する本だ。

 

著者の渡辺正峰氏は、脳科学者。

つまり、物書きのプロではない。

だからこそ、文章から伝わってくる脳についての研究の雰囲気が、

何とも言えず、「嘘がない感じ」なのだ。

理系の人が丁寧に伝えようとする文章には、圧倒的な説得力がある。

 

渡辺氏が追い求めている謎が、これだ。

「どこから意識が生れているのか?」

 

そりゃー、当然、脳みそでしょ。

私たちはみんな、脳で物を考えているんでしょ 。

と答えて終われたら良いのだが、著者はこの答えに満足しない。

もっと突き詰めて考えていくのだ。

 

「具体的には、脳のどこに意識があるの?」

「どういう仕組みで意識が発生しているの?」

「そもそも意識って何?」

 

実は、こんな基本的な質問に対して、

現代の科学は答えを用意できていない。

 

「意識」については、ほとんど何も分かっていないのだ。

 

もちろん、脳の仕組み自体は、ほぼ解明されている。

脳は、「神経細胞」が集まってできたものだ。

神経細胞の働きは、伝わってきた電気を次の神経細胞に伝えること。

基本的には、これだけだ。

 

電気を伝えるだけなら、

私たちが持っているパソコンやスマホの中の電気回路だって、同じことをしている。

 

じゃあ、なぜ、スマホには意識がなくて、脳には意識があるのか?

 

この質問に、今のところ、誰も答えることができないのだ!!

 

この本を読めば、最先端の科学者が悩んでいる巨大な問題について、

一緒になって、❝深く悩む❞ことができる。

 

意識はどこから生まれるのか?

「自分が自分だと思っている自分」とは、いったい「何者」なんだ!?

この謎を、実感を伴って理解できたとき、

大きな「驚き」、そして、これまで感じたことのない「恐怖」、

少し遅れて、ワクワクするような「好奇心」が湧き上がってくる。

 

私は、この本を読むことで、

先ほどの『ハーモニー』をしっかりと理解できた。

「意識がないって、こういう意味だったのか!」と。

こうやって、関係なさそうな本が深いところで繋がっていることを発見するのも、

読書の楽しみの1つだ。

 

『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』は、

「文系」の人には、少し読みにくいかもしれない。

正直にいうと、私も内容に付いていけない所があった。

 

それでも、読む価値がある。

なんとなく分かったつもりで読み進めれば良い。

私はそうした。

 

 最初に書いたとおり、

「難しそうな本を読んでいるフリ」が出来れば、それだけで本の元はとれるのだ。

 もし、デート相手や面接官に「どんな本を読んでるんですか?」と聞かれたら、

この本をカバンから取り出し、こう言えばいい。

 

「昔から、多くの哲学者が悩んでいた問題をテーマにした本なんです。

 そして今は、科学者たちが全力で研究している謎でもあるんです。

 でも、さすがに難しくて、私の頭では完全には理解できないですね」

 

頭が良さそうに見えることは、間違いない。 

 

ぜひ、読んでみてほしい。

 

人間って何者なんだろう?

この世界はこれからどうなっていくんだろう?

そんなことを考えながら、秋空を眺め、また本を読む。

こんな読書は、最高だ。

 

 

関連作 

『ハーモニー』が気に入ったなら、

同じ世界観で伊藤計劃氏が書いた『虐殺器官』も楽しめるだろう。

 

 

「機械の意識」をテーマにした、

SF小説の古典『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』も名作だ。

映画「ブレードランナー」の原作としても有名だが、

映画とはかなり違う内容になっている。

その違いを探してみるのも良いだろう。

 

 

こうやって、関連する作品を次々と読んで、

読書の幅を広げていこう!

 

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ターミネーターの暴走を食い止めろ!

最強の敵が襲ってきた!

ハリウッドの超大物が、ついに動いた。

 

ターミネーター」、「エイリアン2」、「タイタニック」、「アバター」・・

数々の名作を世に送り出した、ジェームズ・キャメロン監督だ。

 

彼は、「日本のコミックに、自分の映画をパクられた!」と、

怒りを爆発させ、ついに裁判に踏み切った。

 

そのコミックは、彼の代表作「ターミネーター」と「ターミネーター2」に、

そっくりだと言う。

共通点は以下のように多数ある。

 

・ある日突然、未来からタイムトラベルをして来た精巧なロボットが現れる。

・そのロボットは、主人公の子孫が未来の悲惨な状況を変えるために

 送りこんだものだった。

・ロボットの持つ能力は圧倒的。

 力自慢の人間でも歯が立たない。

・ロボットの持つ未来の技術を利用しようとする人間も現れる。

・主人公とロボットの間には、不思議な友情が生まれる。

・主人公はロボットの存在に励まされ、困難に立ち向かう。

・最後に、ロボットとの悲しい別れがやってくる・・。

 

あなたは、この漫画をどう思うだろう?

「明らかにターミネーターのパクリだ!」と思うだろうか?

 

この漫画のタイトルは、

ドラえもん」だ。

 

のび太くんの孫の孫のセワシが、

ネコ型ロボット・ドラえもんを現代に送り込むことで、物語が始まる。

のび太が作った借金で子孫が苦しんでいる状況を変えるために送り込まれたのだ。

ドラえもんは、四次元ポケットから次々と便利な道具を取り出す。

いじめっ子のジャイアンも未来の道具には敵わない。

でもスネ夫は、その道具を自分のために使う方法を考え出す。

ドラえもんとの友情に力を得て、少しずつ成長するのび太

そして遂に、涙の別れがやってくる・・・。

 

確かに❝そっくり❞だ。

 

一方で、「ドラえもん」の作者の藤子不二雄氏も反論する。

「「ドラえもん」の連載開始は、「ターミネーター」の公開日より早い!

 パクったのは「ターミネーター」の方だ!」

 

キャメロン氏も負けてはいない。

「脚本はずっと昔に書き上げていた!

 映画にするのが遅れただけだ!

 証拠だってある!」

 

両者一歩も譲らない。

ターミネーターVSドラえもん

未来からやってきたロボット同士の戦い。

その最終決戦の舞台は、現代だ。

そう、今夜に・・・。

ターミネーターのオープニング風)

 

理解の基礎づくり

あなたもお気付きの通り、上記の話はフィクションだ。

 

以前の連載の中で、私はパクリかどうかを判断する方法を説明した。

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この記事の中で書いた、3つの条件は以下の通りだ。


1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

この全てを満たさないと、著作権侵害にはならない。

 

この記事に対して筆者のもとに

「〇〇の作品と△△の作品も似ているのでは?」

「◇◇の事件も騒がれてたけど、どうなの?」

といった声がいくつか寄せられた。

 

どれも、3つの条件によって判断できる事例だったのだが、

もう少し丁寧に説明した方が良さそうだ。

 

今回は、ストーリーもの(漫画、映画、小説など)を扱いながら、

3つの条件のベースとなる「3つの視点」を説明しておこう。

このブログの全ての記事の理解に役立つだろう。

 

 ターミネーターの暴走

 先ほどの「ターミネーターVSドラえもん」の例について、

これがパクリだというのは、いくら何でもおかしい!と、あなたも感じるだろう。

こんなものは、❝ターミネーターの暴走❞だ。

「どっちが先に作ったのか?」の論点は脇においておくとして、

この程度似ているだけで著作権侵害になってしまっては、たまらない。

 

でも、なぜそのように判断するのだろう?

似ているポイントが、あんなに沢山あったのに。

 

ドラえもんんのファンなら、正しく反論することができる。

 

ドラえもんはネコ型だけど、ターミネーターは人間タイプだ!」

ドラえもんは22世紀から来たけど、ターミネーターは21世紀製だ!」

ドラえもんには、他にも魅力的なキャラクターが沢山でてくる!

 ターミネーターに、ジャイ子のような子はいないだろう!」

「日本とアメリカで舞台設定が違う!」

ドラえもんは沢山の短編が集まってできた複合的なストーリーだ!

 2時間で完結する映画とは違う!」

「そもそもテーマが全然違う!」

 

他にも、「違う」と言えるポイントは無数に挙がってくるだろう。

彼らファンの主張は正しい。

つまり、

「似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見よう」

ということ。

これが1つ目の視点だ。

 

「似ている!」「パクリだ!」と騒がれる事件の多くで、

この視点が欠けている。

 

似ている箇所だけに注目して熱くなるのではなく、

1歩後ろに引いてみて、作品の全体像を眺める。

「似ているの部分はどこで、似ていない部分はどこか?

 そして、その部分は作品全体でどんな位置を占めるのか?」

冷静に考えよう。

その上で、じっくり判断すべきなのだ。

 

戦いは大乱戦に

ターミネーターVSドラえもん」の❝悪ふざけ気味❞の設定の続きを、

もう少しだけ見てみよう。

 

アメリカと日本、それぞれの国を代表する偉大なクリエイター同士が、

お互いを「パクリだ!」と言い合い、火花を散らす中、

今度はイギリスから大作家が参戦する。

言わずと知れた「SF小説の父」H・G・ウェルズ氏だ。

既に亡くなっているウェルズ氏だが、

タイムマシーンに乗って現代にやってきたという。

彼はこう主張する。

「そもそもタイムトラベルは、私の小説「タイム・マシン」が元祖だ!

 「ターミネーター」も「ドラえもん」も、私の作品のパクリだ!」

こうして、時空を超えた三つどもえの大乱戦が勃発する・・・

 

あり得ない想定だが、

ウェルズ氏の主張については、どう考えるべきだろう?

 

もちろん先に挙げたように、

「似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見る」

という視点から、それぞれの作品がお互いに侵害ではないと説明することはできる。

 

しかし、少し違う視点で考えてみよう。

それが、

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

という考え方だ。

 

ある作家が、「過去や未来に行く物語を作ったら面白くなりそうだ!」と思いつく。

このアイディアをもとに、ストーリーの展開、登場人物の性格などを考える。

そして、読者を引き込む文章や、カッコいいセリフ回しで物語を表現していく。

こうして完成した小説が発売され、大ヒットする。

 

そうなると、今度は別の作家がタイムトラベルをテーマにして、

全く違う新しい物語を書く。

この新しい小説では、最初の作家には思い付かなかったような、

斬新な着想でタイムトラベルが描かれており、これもまた大ヒットになる。

さらに別の作家がこの小説に刺激され、新たなタイムトラベルの物語を書く。

こうして、「タイムトラベルもの」というジャンルが確立され、

次々と素晴らしい作品が生み出されていく・・・。

 

こうして我々の文化は豊かになってきた。

 

実際、H・G・ウェルズ氏はタイムトラベルの元祖ではない。

(もちろん、ご本人もそんなことは主張しないだろう)

彼が「タイム・マシン」を書くずっと前から、時間を移動する物語はあった。

(「浦島太郎」だって、そんなタイムトラベラーの1人だ)

 

アイディアはみんなで共有しよう。

そうすることで、みんなが豊かになれる。

  

「名探偵ホームズ」だけが推理をしているより、

名探偵ポワロ」も「名探偵コナン」も「金田一少年」も活躍する文化の方が、

はるかに豊かだ。

 

でも、何でも共有してOKってわけじゃない。

越えてはいけない一線は、ある。

作家ががんばって生み出した「具体的な表現」まで共有するのは、やりすぎだ。

ストーリー展開、登場人物、文章表現、セリフ回しなど、

そのほとんどが同じ作品を作ってしまうのは、さすがにアウトだ。

「具体的な表現」だけは、作家が独り占めできるようにして、

作家をパクリから守ろう。

 

このような考え方が、著作権制度の基礎になっている。

 

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

ということ。

 これが2つ目の視点だ。

 

ライオンVSライオン

3つ目の視点を考えるために、今度は実際に騒動になった事例を見てみよう。

 

「パクリだ!」と指摘されたのは、

ディズニーアニメの「ライオン・キング」だ。

 

 この映画は世界中で大ヒットし、

ディズニーアニメ歴代1位(当時)の興行収入をあげた。

 その後ミュージカル舞台化され、その分野でも大ヒットを続けている。

ディズニーの代表作の1つだ。

 

しかし、この「ライオン・キング」に対して、

日本の漫画家やアニメファンの多くから「パクリだ!」という指摘の声があがった。

ジャングル大帝」にそっくりだ!というのだ。

 

ジャングル大帝」は、「マンガの神様」手塚治虫氏の代表作の1つだ。

漫画を原作としたアニメ化もされている。

 

この2つの作品、どのくらい似ていたのだろうか。

ストーリーの類似点は以下の通りだ。

 

・主人公は子どものライオン。

・主人公の父親は、動物たちの王様。

・この父親が悲劇的な死を迎える。

・主人公は、さすらいの旅に出る。そして成長する。

・おさななじみのメスライオンがやって来て、王国に戻るよう主人公を説得する。

・王国に帰還する。

・悪役のライオンを倒し、王位につく。

・おさななじみのメスライオンが妻となる。

 

登場キャラクターの類似点も多い。

 

・主人公の名前が似ている。

 (「ジャングル大帝」のアメリカのテレビ版の名前は、キンバ。

  「ライオン・キング」では、シンバ。)

・長老役のヒヒ(またはマンドリル)。

・おしゃべりな鳥。

・悪役のライオンは黒髪で左目が不自由(または傷がある)。

・悪役の子分はハイエナ。

 

似たようなシーンもある。

 

・冒頭で、様々な動物が一斉にサバンナを進む(集まる)シーン。

・たくさんのフラミンゴが飛ぶシーン。

・王になった主人公が岩の上に立つシーン。

・死んだ父が雲となって現れるシーン。

 

たしかに、❝似ている❞。

共通点が、てんこ盛りだ。

 

しかし、「パクリだ!」と判断するには早い。

似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントもしっかり見よう。

以下の通りだ。

 

・「ジャングル大帝」の主人公は白ライオンだが、

 「ライオン・キング」の主人公は白くない。

・「ジャングル大帝」のアニメシリーズは、全78話の壮大なストーリー。

 「ライオン・キング」と似ているのは、その中のほんの一部に過ぎない。

 全然違うエピソードも沢山ある。

 (先ほどの「ドラえもん」ファンの反論と同じ)

・「ライオン・キング」には、人間が登場しない。

 「ジャングル大帝」では、人間が重要な要素として登場し、

 人間の文明と自然との対立が、テーマとして深く描かれる。

 つまり、テーマが全然違う。

 (先ほどの「ドラえもん」ファンの反論と同じ)

 

他にも沢山の「似てないポイント」が見つかるだろう。

 

また別の視点からも検討しよう。

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

という視点だ。

 

先ほど挙げた共通点のほとんどは、

「具体的な表現」ではなく、「アイディア」に過ぎないことではないだろうか?

 

父を殺された王子が旅に出て、やがて王国に戻り、

父の仇に復讐し、王になる。

こんなストーリーは、昔から多数あった。

ライオン・キング」の基本的な物語の流れは、

シェイクスピアの「ハムレット」にそっくりだ。

(息子の前に父親の幻が現れるシーンだってある)

当のディズニーの「バンビ」も同じ流れで作られている。

 

キャラクターが似ているという指摘に対しても同じことが言える。

動物たちの王様をどんな動物にするか?

ほとんどの人がライオンを選ぶだろう。

悪役の子分役にピッタリなのは、多分ハイエナだ。

こんなものは、アイディアに過ぎない。

 

「どこまでがアイディアで、どこからが表現か?」については、

専門家も頭を悩ます難しいテーマだが、

ライオン・キング」と「ジャングル大帝」の共通点は、

全て、ただのアイディアだ。という主張には説得力がある。

 

ここまで読んで、あなたはどう感じるだろうか?

ライオン・キング」は、

ジャングル大帝」のパクリだろうか?パクリじゃないだろうか?

 

非常に悩ましい問題だ。

専門家でも、すぐには答えられない。

こんなとき、私は「3つ目の視点」で考えるようにしている。

 

「結局のところ、自分はどんな世界で生きていきたいんだろう?」

 

著作権に限らずどんな問題を考えるときでも重要な視点だ。

 

これだけ似ている作品を、自由に作れる世界が良いのか。

それとも、ちゃんと作者に許可をとる世界が良いのか。

 

私は「ライオン・キング」については、

ディズニーのクリエイターが「ジャングル大帝」を見たことがあったかどうか?

に、かかっていると思う。

 

見たことがないのに、たまたま似てしまっただけで逮捕されてしまうような世界で、

私は暮らしたくない。

 

しかし、もしも見たことがあるのなら、手塚氏に許可を取るべきだったと思うのだ。

 

「似てないポイントも多い」「アイディアに過ぎない」という反論もあるが、

全体としては、いくら何でも似すぎている。

先輩クリエイターに何の断りもなく似た作品を作って❝知らんぷり❞できる世界より、

若いクリエイターが、国籍に関係なく偉大な先輩の功績をリスペクトする世界の方が、

素晴らしいと私は思う。

 

ライオン同士の戦いの結末

ディズニー側が、「ジャングル大帝」のことを知っていたのかどうか?

 

ディズニーは「知らなかった」と発表した。

 

しかし、「ジャングル大帝」は1960年代に全米で放送されていた。

その後、ヴェネチア国際映画祭で受賞もしている。

アニメを大好きなディズニーのスタッフが、知らなかったとは考えにくい。

(スタッフのうち数名が「知っていた」と認めた報道もあるようだ)

 

果たして真相は・・・・?

 

しかし、真相は分からずじまいになった。

裁判にならなかったからだ。

 

パクリ騒動の最中に、手塚プロダクションはこう発表した。

 

「ディズニーファンだった故人(手塚治虫)が

 もしもこの一件を知ったならば、怒るどころか

 『仮にディズニーに盗作されたとしても、むしろそれは光栄なことだ』

 と喜んでいたはずだ」

 

こうして騒ぎは治まった。

 

手塚氏は、ディズニーアニメから多くを学んでいる。

手塚氏自身が、偉大な先人ウォルト・ディズニー氏をリスペクトする人だった。

ディズニーが存在しなければ、

手塚アニメの多くも、生れていなかったかもしれない。

そして、手塚氏に学んだ日本のクリエイターたちが、

次々とアニメを作るようになった。

こうして、「ジャパニメーション」と呼ばれる

世界中の人が楽しめる豊かな文化が生み出されたのだ。

 

日米のライオン同士の戦いに決着は付かなかったが、

これはこれで、ハッピーな終わり方だったと言えるだろう。

 

まとめ

今回は、著作権的にパクリかどうか?を判断する上で、

基礎となる「3つの視点」を紹介した。

 

・似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見よう。

・アイディアはみんなのもの。具体的な表現は作者のもの。

・最後は、どんな世界で生きていきたいか?で判断。

 

以前の記事で挙げた「3つの条件」は以下だ。

 

1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

「3つの視点」と「3つの条件」が、綺麗な対応関係になっているわけではない。

厳密にいうと、食い違う理屈もあるかもしれない。

 しかし経験上、どちらで判断しても、結論は一致する。

 

「美味しい料理を作るコツは?」と聞かれて、

「そりゃ~、食材の良さを引き出すことさ!」と答えても、

「やっぱり、食べてくれる人の顔を思い浮かべて作ることだよ!」と答えても、

どちらも正解なのと同じだ。

 

今後、「3つの条件」の判断で悩むことがあれば、

「3つの視点」で考えてみよう。

 

最後に

ライオン・キング」と「ジャングル大帝」の騒動の事実関係と分析については、

福井健策弁護士の著書「著作権とは何か」(集英社新書)に頼って書いた。

深く感謝します。

ここで述べた私の意見は私自身のものであり、

間違いがあったとしても福井氏に責任は一切ない。

 

この本は、著作権の基礎を学べる上に、制度の根幹に関わる深い洞察が得られる。

お勧めだ。

 

 

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GLAYは「かっこいいアニキ」なのか問題を解決する(2)

前回のまとめ

前回の記事を少し丁寧に振り返っておこう。

 

音楽の世界には3人の権利者がいる。

1.作詞・作曲家

2.歌手

3.レコーディングする人

 

作詞・作曲家は優遇されている。

音楽著作権という権利を持っており、

「コピー禁止権」や「プレイ(演奏)禁止権」などを持つ。

そして、彼らのために働く巨大集金組織(JASRAC)がある。

 

一方で、歌手やレコーディングする人は一段低く扱われている。

著作隣接権という権利を持っており、

「コピー禁止権」はあるが、「プレイ(演奏)禁止権」は無い。

そして、JASRACのような巨大集金組織も無い。 

 

GLAYは、

「結婚式のためなら、著作隣接権を無償にします。

 ただし、音楽著作権についてはJASRACを通じて支払ってください」

と発表した。

 

しかし、著作隣接権には「プレイ(演奏)禁止権」が無いので、

実質的には、彼らは何も無償にしたことにはならない。

理屈上は、会場で流すBGM集を事前に作るときや、

上映する映像のBGMで使うときは、

著作隣接権の「コピー禁止権」が働くことになるが、

そのためにJASRACが集金することはない。

それを無償にしたからといって、GLAYのお財布にほとんどダメージはない。

 

GLAYは自分を❝太っ腹❞に見せかけて、上手くプロモーションをやった。

 

前回の記事は、こんな内容だった。

 

しかし、私はもう少しだけGLAYと彼らのスタッフが何を考えたのか?

を推理してみた。

その結果、GLAYに対する認識が、もう一度変わることになる。

今回の記事では、私の推測に過ぎないことが多いことを、先にお断りしておく。

 

気付き

前回の記事で引用したGLAYの発表文のうち、

ふと気になったのが、この部分だ。

 

GLAYの楽曲を結婚式で使用したいという多くのお客様からのお問い合わせを受け」

 

・・・「多くのお客様」って、いったい何人だったのだろう?

 

コンプライアンス意識の高まっている世の中とはいえ、

会場で流す音楽の権利について、どれだけの人が気にするだろう?

 

有名なJASRACについては、気にする人もそれなりにいるだろう。

しかし、それ以外の権利、つまり著作隣接権についても意識し、

GLAYの事務所にわざわざ問い合わせるような人が、何人いたのだろう?

 

これは、日本人全体で何人いるか?ではなく、

今から結婚式を挙げようと考えているカップルの中で、何人いるか?

という話なのだ。

 

全くの当て推量だが、「年に数人」いるかどうか?

といったところではないだろうか。

 

「年に数人」なのに「多くのお客様」と言っているのだろう!!

などと、つまらない非難をしたいわけではない。

めったに無いような問合せが数件入るだけでも、十分に「多い」と言えるし、

何も嘘をついていることにはならない。

 

「多くのお客様」と言っている以上は、ゼロではない。

発表文から分かることは、

どんなに少なくとも、必ず1人は問合せた人がいたということだ。

 

現場で何が起きたか

それでは、その「お問合せ」の現場では、どのような会話が交わされたのだろう?

 

GLAYの歌の権利について気になった人から電話が入る。

その電話を、GLAYのもとで働くスタッフが受ける。

電話をした人は、おそらくGLAYのファンなのだろう。

JASRACや権利のことについて、曖昧な知識しか持っていないかもしれない。

 

「もしもし。

 このたび結婚することになりまして、GLAYさんの歌を使う許可が欲しくて、

 お電話しました。」

 

「そうですか、おめでとうございます。

 どのように使うのですか?

 ・・・ちなみに、会場でCDを流すだけなら、

 JASRACに手続きしてもらうだけで済みますよ。

 会場の方ですでにJASRACと契約しているかもしれませんね。

 私たちの許可は不要ですから、ご安心ください」

 

「そうなんですか!知りませんでした。

 安心しました。

 実は僕たち、GLAYさんのコンサートで出会ったんですよ!!

 GLAYさんのおかげで結婚できたようなものなんです!

 だから、私たちが出会ったエピソードを紹介するオリジナルの映像を

 作ろうと思っているんです。

 その映像の中でも曲を使おうと思っているんですけど、

 それもOKってことですよね?」

 

「そうですか・・・(それは聞きたくなかった)。

 すみません、それについては、JASRACの手続きだけではダメなんですよ。

 私たちの著作隣接権の許可が必要になってしまうんです」

 

「え!それって、いくらかかるんですか?」

 

「結婚式のための料金設定というものは無いんです。

 私たちの設定している、商業利用のためのコピー料の料金表に当てはめると、

 〇万円になってしまいますね・・・」

 

「そうなんですね・・・。

 残念ですが・・・諦めます」

 

筆者にも似たような経験があるので分かるが、

問合せに答える担当者としては、非常に心苦しいものがある。

わざわざ真面目に問い合わせたために、彼らは諦めるしかなくなってしまうのだ。

そんなこと気にせずに使っちゃっている人は、いくらでもいるのに。

まさに❝正直者が馬鹿をみる❞という状態だ。

 

しかし、どんなに心苦しかったとしても、 

「聞かなかったことにするので、使っちゃってください」とは言えない。

著作隣接権は、GLAYが苦労して手に入れた財産だ。

担当者の気持ちひとつで、簡単にタダにして良いものではない。

 

GLAYの選択

年に数件あるかないかの一般の人からの問合せが、

わざわざGLAYのメンバーに報告されるようなことは、

通常なら無かったかもしれない。

 

しかし、何かのきっかけでメンバーの耳に入ったのだろう。

先ほど電話に出た担当者が、

「ブライダル向けの格安料金表」を正式にメンバーに提案したのかもしれないし、

「いっそ無償にしましょう」と提案したのかもしれない。

 

そのとき、前回の記事で想像したような会話があった可能性もある。

 

「提案の主旨はわかった。

 今までは、それでいくら儲かってたの?」

「実は・・・今まではゼロ円なんです」

 

このとき、GLAYは何を考えたのか。

 

実質ゼロ円のものを「無償で提供する」と発表することのリスクも、

分かっていたのではないか。

誰かから発表内容にツッコミを入れられ、評判を落とす可能性もあった。

(前回の私の記事のように)

 

しかし、彼らは

「OK。無償にしよう。

 そしてそれを発表しよう」

と答えたのだ。

 

問合せをしたせいで、彼らの歌を使うことを諦めたファンがいた。

そう聞いたアーティストが、最初に考えることは何か?

そのファンの気持ちだろう。

 

自分たちの歌を、人生の大切なシーンで使いたいと言っているファン。

自分たちが苦労して手に入れた権利、

しかも、著作隣接権という少しマイナーな権利のことまで気にして、

律儀に許可を求めてきてくれたファン。

このファンを、誰よりも大切にしたい!

そう考えたのではないか。

 

この発表でイメージが上がるかどうかなんて、関係ない。

むしろ、「イメージアップしたくて嘘をついている」と非難されるかもしれない。

でも、そんなこと気にしない。

もちろん、JASRACのことも、JASRACを嫌いな人のことも、眼中にない。

そんなことは関係ない。

全国に数万から数十万人はいるであろうファンのことも、意識していなかった。

彼らは、問合せをしてくれた、律儀で、真面目で、一直線な、

数組のカップルだけのために、日本中に向けてメッセージを発したのだ。

「いつもありがとう。

 俺たちの歌、好きに使ってくれ!」と。

 

このメッセージは、先ほどの問合せをしたファンに、確実に届いたはずだ。

GLAYが、僕たちだけのために返事をしてくれた!

 嬉しい!ありがとうございます!!」

 

こうして、彼らだけに分かる❝会話❞が成立した。

 

そして、問合せをしたファンが数人だったとしたら、

その背後には、「問合せもせずに諦めたファン」も結構いただろう。

そんなファンにも、GLAYの発表は最高のニュースなったに違いない。

 

いくつかの論点

読者には、いくつか気になる点があるかもしれないので、

想定される疑問に答えておこう。

 

まずは、

著作隣接権だけじゃなく、音楽著作権の方も無償にしたら良かったんじゃないの?」

という点だ。

 

GLAYは、著作隣接権の方は無償にしたが、

JASRACには今まで通り料金を支払ってくださいと発表しているので、

この疑問は、ごもっともな疑問だ。

 

しかし、GLAYサイドとJASRACの契約の期間は、数年単位になっているはずだ。

思いついてすぐに、「音楽著作権の方も無償にします!」と言えるような話ではない。

しかも、「ブライダル利用だけに限って使用料をとらない」というような、

細かいニーズに対応できる契約形態を(筆者の知る限り)JASRACは持っていない。

だから、音楽著作権の方は無償に出来なかったのだ。

 

次の疑問は、

GLAYの発表文は、❝かなりの金額をファンのために諦めた❞かのように読める。

 ミスリーディングを意図的に誘っているのでは?」

という疑問だ。

 

彼らの発表した文章は、たしかにすごく誤解を呼びやすい。

発表文をつくった担当者の頭の中に、

「あわよくば、これでイメージアップしよう」という気持ちが、

全くなかったとは断言できないのも確かだ。

 

しかし、発表文の中に嘘は1つも無い。

著作隣接権」などと小難しい言葉を使っているので分かりにくいが、

説明自体は正確だ。

これを一般の人にも分かりやすく説明しようとしたら、

相当に読むのが面倒くさい文章になっていたことだろう。

 

それに、この発表文を届けたかった相手は、

「一般の人」ではなく、「問合せをしてくれた大切なファン」なのだ。

彼らには、十分伝わる文章になっていると思う。

 

GLAYの印象

今回の記事の内容は、ほとんどが私の推測に過ぎない。

 

しかし、GLAYは、もともとは印刷物だったファンクラブの会報を、

いち早くデジタル化したアーティストだ。

ファンとの向き合い方を常に模索している。

それに、とっくの昔に、名声も財産も手にしているのだ。

 

評判やお金ではなく、ごく限られたファンのことを考えた決断だったという推理は、

かなり真実に迫っているのではないだろうか。

 

GLAYは、権利関係やリスクを冷静に把握したうえで、巧みな広報を行い、

たった数人のファンに感謝のメッセージを届けた。

 

今、私はGLAYのことを、こう考えている。

 

「さすがアニキ!かっこいいぜ!!」

 

最後に

もしあなたが結婚式を予定してるのなら、

会場で使いたい曲は決まっているだろうか?

 

著作隣接権も含めて、❝正しく❞使いたいのなら、

ISUM(音楽特定利用促進機構。アイサム)という組織がある。

https://isum.or.jp/

 

この組織と提携している式場や映像制作業者なら、

正式な許可のもとで音楽を利用することが可能だ。

 

全ての音楽を取り扱っているわけではないが、

つい先日引退した安室奈美恵氏の「CAN YOU CELEBRATE?」をはじめ、

結婚式の定番ソングも数多くあるので、チェックしてみよう。

 

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