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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(2)

第1章:講談社

前回の記事では、

NHK講談社の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマ化しようとしたが、

内容について作者の辻村深月氏のOKがもらえず、ドラマ化に失敗したこと。

そして、怒ったNHK講談社を訴えたが、

裁判では負けてしまったという流れを見て来た。

 

前回述べた通り、これに対する私の問いは3つある。

1.今どき、なぜ辻村氏は手紙を書くという方法でNHKに不満を伝えたのか?

2.なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

3.長期的にみて、誰が損をしたのか?

 

この疑問に答えるため、講談社NHK、辻村氏、

それぞれの目線から事件を眺めてみよう。

 

まずは、講談社の目線からだ。

辻村氏の作品『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』にならうと、

この物語の❝第1章❞は、講談社を主人公にスタートする。

 

出版社の立ち位置

講談社の気持ちを理解するために、まずは

「出版社とは、著作権の世界でどんな立場にいるのか」を頭にいれる必要がある。

 

出版社の一般的なイメージとしては、以下のような感じだろう。

 

売れない新人作家や漫画家が、必死で書いた原稿を出版社にもちこむ。

出版社の編集マンが、その原稿をパラパラとめくる。

原稿を投げ出すように机に置き、ダメ出しをする。

一方で、売れっ子作家には態度を変え、おべんちゃらを言う。

 

極端にパターン化されたイメージだが、ドラマ等でよく見るシーンだ。

こんなシーンを見ると、出版社というのは、

大物作家ほどではないにしても、

それなりの立場・権利を持っているような気がしてしまう。

 

実際にはどうなのか?

 

私は、音楽について書いた以前の記事で、

「音楽業界の3人の登場人物」つまり、「3種類の権利者」を説明した。

www.money-copyright-love.com

 

音楽業界の登場人物は、

「作詞・作曲家」(例:小室哲哉

「歌手」(例:安室奈美恵

「レコーディングする人」(例:エイベックス)

 

の3人(3種類)だ。

 

今回はもっと視野を広げて、

「クリエイティブ・エンタメ業界の登場人物」を一通り紹介しよう。

我々の文化・芸術を支えている、そうそうたるメンバーが登場することになる。

 

まず1人目の人物は、「クリエイター」。

手を動かして、何らかの作品を生み出す人のことだ。

小説家、画家、写真家、漫画家や、作詞・作曲家がこれにあたる。

また、映画会社やゲーム会社もここに含まれる。

映画やゲームという「作品」を生み出しているからだ。

彼らに著作権という権利が与えられる。

 

次の登場人物は、「俳優・歌手」。

俳優や歌手は、自分でストーリーや歌を作り出すわけではない。

しかし、彼らが熱演・熱唱するからこそ、観客に感動を伝えることができる。

そういう大切な役割をになっているから、権利が与えられている。

 

3番目の登場人物は、「レコーディングする人」だ。

以前の記事で書いたとおり、彼らがいるから、

歌手のコンサートに行けない人でも、

CDやインターネットで音楽を楽しむことができる。

だから「レコーディングする人」も権利者だ。

 

多くの人に素晴らしい作品を届けるという意味では、

4番目の登場人物の「放送局・ケーブルテレビ局」も同じだ。

電波を使って沢山の人に効率的に文化を伝えるという役割を果たしている。

だから彼らにも権利が与えられた。

 

以上である。

以上が、文化・芸術の世界で権利を与えられた登場人物である。

 

 

・・・・・あれ?

 

出版社は??

 

そう。 

あなたの見落としではない。

出版社には、権利が与えられていないのだ!!

 

これは、著作権の世界における極めて基本的な事実である。

 

「いやいや!おかしいでしょう!

 出版社には、レコード会社やテレビ局が現れる何百年も前から、

 文化を支えてき歴史があるんですよ!?

 レコード会社やテレビ局に権利を与えているのに、

 出版社には権利ゼロなんて、めちゃくちゃじゃないですか!?」

という批判が聞こえてきそうだ。

 

でも本当に、無いものは無いのだ。

 

たしかに著作権制度の歴史の中では、出版社に権利が与えられた時期もある。

しかしそれだと、権力者が出版社に「許可を出してあげる」という形になりやすい。

権力者は、自分の気に食わない本(政治批判など)を出している出版社には、

許可を出さない。

こうして「権力者による検閲」が始まる・・。

 

詳しくは別の記事に書くつもりだが、

こういう経緯があったこともあり、権利は出版社ではなく、

その作品を生み出した作家(クリエイター)に与えようということになったのだ。

 

出版社には権利がない。

だから、権利の切れている昔の作品(太宰治の小説やゴッホの絵など)を

使いたいときに、その作品を掲載している出版社に許可をとる必要は一切ない。

覚えておこう。

 

出版社の気持ち

権利がない。

この事実に出版社は気付いているのか?

 

もちろん気付いている。

だから、彼らは「出版社にも権利が欲しい!」という運動をしている。

「版面権(はんめんけん)」とか、

「出版原盤権(しゅっぱんげんばんけん)」とか、

新しい名前の権利を生み出してもらうために、法律の改正を求めている。

 

しかし、長年にわたる活動にもかかわらず、

今のところ法改正の気配はない。

 

これはもう、恐怖だ。

 

昔は、権利がなくても大丈夫だった。

資本力をもとに印刷工場を作り、本を大量に製造し、

取次会社と交渉し全国の書店に届け、予算をかけて宣伝する。

こんなことは、ある程度のお金と組織がないと出来ないことだった。

 

しかし今は違う。

ネットで探せば、個人の本でも出版してくれる業者は簡単に見つかる。

電子書籍なら、一瞬で全世界の読者に作品を届けることができる。

SNSを上手く使えば、それなりの宣伝もできる。

そもそも、個人が何かを発信したければ、ブログを書けば済んでしまう。

本にする必要すらないのだ。

出版社の「存在意義」がどんどん無くなっていく。

 

ふと気が付くと、

インターネットという「未知の戦場」に放り出されていた。

そこらじゅうから、見たこともない敵が襲いかかってくる。

それなのに、自分は権利という「武器」を持っていない。

素手」で戦わないといけないのだ!

これはもう、恐怖以外の何物でもない。

 

出版社の気持ちを考える上で、この「恐怖」が全ての出発点になる。

 

では、出版社としては、どうすれば良いのか?

 

まずは、インターネットの浸透を少しでも遅らせることだ。

当然の戦略だろう。

実際に彼らはそうしている。

 

音楽や映画は、ネットを通じて簡単に楽しめるようになって、もう何年もたつ。

しかし本は、なかなかネットで読めるようにはならない。

少しずつネットで読める本が増えつつあるが、

音楽や映画と比べると、変化のスピードがものすごく遅い。

テキストのデータの方が、映像や音声のデータよりも、はるかに軽いというのに。

技術的には簡単なことだが、出版社が抵抗しているのだ。

 

しかし、こんな戦略がいつまでも持つわけがない。

ネットの勢いを止めることは出来ない。

そんなことは、出版社もわかっている。

 

では、どうするのか?

武器を持たない彼らが生き残る道は・・・

 

そうだ。

武器を持つ人の近くにいることだ。

 

著作権を持つクリエイター(作家や漫画家)と、一体化してしまえば良い。

 

つまりこういうことだ。

 

作家に対しては

「全て私にお任せください!

 面倒なことは全部私がやってあげます!

 だから、あなたのそばにいさせてください!

 武器を私に預けてください!

 悪いようにはしませんから!」

と言って、著作権を使う権限を預けてもらう。

 

そして外部の人には、

「私と作家は一心同体です!

 私たちは、すごく強い武器を持っているんです!」

と主張する。

 

これが基本戦略になる。

 

(念のため言っておくと、筆者に出版社に対する悪意があるわけではない。

 この戦略が効率的に回れば、

 作家は創作活動に専念できるようになり、文化全体にとってもハッピーだ。)

 

もちろん、インターネットが誕生するよりも前から、

出版社が作家を囲い込もうとする傾向はあった。

しかしそれは、次の作品を機嫌よく書いてもらい、

その本を出版して儲けるため、というのが、

メインの目的だったはずだ。

権利のことは意識されていなかった。

インターネット時代に入り、作家を囲い込む目的が、

次回作のためではなく、今の作品の権利をしっかり確保し、

その権利を映画、ドラマ、ネットなど多方面に活用して儲ける、

という方向に変化しているように感じる。

 

出版社の現場で働く人々が、著作権の詳細を理解した上で、

日々の業務をやっているわけではないだろう。

しかし、出版社に勤める人間のほぼ全員が、

インターネットの時代に、紙媒体の将来がヤバいかも。と考えている。

本能的な恐怖を感じ、作家との一体化を目指す。

そして、自然とそのように振る舞い、行動するようになっていく。

 

まとめると、こうだ。

・多くのプレイヤーがいるクリエイティブ・エンタメ業界の中で、

 出版社は何の権利も持っていない。

・権利を持たずにインターネット時代を迎えるのは、恐ろしい。

・出版社は、生き延びるために、権利を持つ作家と一心同体になりたい。

・対外的にも、作家と一体であると示さないといけない。

 

ここまでの前提を押さえた上で、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の事件に戻ろう。

 

事件の流れ(講談社目線)

2011年9月11日

NHKから講談社に、

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにさせてください」

という企画書が送られてきた。

 

この時点では、講談社にとっても❝ウェルカム❞な話だっただろう。

ドラマ化すれば、ドラマ化権の権利料が入ってくるし、

原作本の宣伝にもなる。

無料どころか、お金をもらって宣伝までしてもらえるようなものだ。

この時点では、映像化の実績の少なかった辻村氏の作品に注目が集まり、

他の作品の映像化も進むかもしれない。

当然、「前向きに進めましょう」ということになる。

 

11月15日

講談社からNHKに対して、

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と連絡した。

 

もちろん、講談社の社内だけで決めたわけではない。

辻村氏の意向も確認しただろう。

しかし、NHKに対しては、辻村氏だけでなく「講談社の決定でもある」ことを

分かってもらう必要がある。

だから、わざわざ「社内の上層部の会議でOKが出ました」と伝えている。

(辻村氏との契約で、講談社は正式に権利を預かっているはずなので、

 こう伝えることは、嘘でも何でもない)

 

12月19日

NHKから、第1話の脚本が提出されてくる。

 

 

しかし、原作とは違い、物語の主人公がすぐに母親と会ってしまっている。

辻村氏に読ませたところ、「この部分は変えないでほしい」と言われた。

これに対し、

講談社は「先生、任せてください。ちゃんとNHKに修正してもらいます」

ぐらいのことは言ったのだろう。

 

この時点でも、講談社は進める気満々だ。

その証拠に、12月22日にNHKに脚本の修正を要望すると同時に、

「映像化契約書(案)」を渡している。

 

 

しかしこの後、講談社の態度が、少しずつ厳しくなっていくのだ。

 

NHKからは妥協案が示される中で、

12月28日に講談社は「一切譲歩できない」とメールし、

翌年の1月27日には「このままなら、ドラマ化の許可を取り消す」と伝えている。

そして撮影開始予定日だった2月6日には、とうとう

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と言い切った。

 

脚本が原作と変えられているという点なら、じっくり交渉すれば良い。

小説と映像作品の折り合いを付けるのに苦労するというのは、珍しい話ではない。

しかし、上記の講談社の厳しい姿勢には、脚本の問題を超えた「何か」に対する

強い意志を感じてしまう。

最初はあれだけ前向きだったのに、

いったい何があったというのだろうか・・・?

 

講談社NHKの担当者の間で、

具体的にどんなやりとりがあったのかは分からない。

 

撮影スケジュールを直前まで教えてもらってなかったので、

NHKへの不信感が生れたのかもしれない。

あるいは、もっと些細なことで、気持ちの行き違いがあり、

「あのプロデューサー、けしからん!」となったのかもしれない。

手に入る資料では、それが何なのか特定することは出来なかった。

 

しかし、上で説明した「出版社の立場・気持ち」を踏まえると、

大まかな推理をすることはできる。

 

手紙の意味

人は、痛いところを突かれると、怒る。

 

いや、人に限らない。

小さな子グマを育てている母親グマに会ったことはあるだろうか?

めちゃくちゃ恐い。

ちょっと近づくと鬼の形相で威嚇してくる。

子供という弱点を隠すために、本能的に母親は攻撃的になる。

 

NHKは、講談社の❝子グマ❞を刺激してしまったのではないか。

 

出版社の弱点といえば、決まっている。

自らは権利を持たない出版社が、作家と本当に一心同体なのか?という点だ。

 

脚本をダメ出しする講談社に対して、

「でも・・辻村先生が本当にそう言っているんですか?」

と、NHKが言ってしまったのかもしれない。

 

そんな直接的な言い方ではなかった可能性もある。

もっとマイルドで、言った本人も意識していない程度の言い方だったかもしれない。

でも、講談社

「ひょっとして、

 自分が辻村先生との間に立っていることが邪魔だと思われている??」

と感じる瞬間があったのではないか。

 

こちらの記事によると、脚本のOKが出ずに困ったNHKが、

「先生と直接お話させてほしい!」

とお願いした事実はあったようだ。

http://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2016/04/03/142947

 

出版社は、作家と放送局が直接会うことを好まない傾向がある。

辻村氏とNHKが直接連絡を取り合ってしまうと、

辻村氏が講談社に伝えていたこととは違うことを言い出すかもしれない。

そうなると、講談社と辻村氏が、必ずしも一心同体ではないことが、

バレてしまう。

これでは、講談社に存在価値がないことになってしまう。

「出版社の恐怖」がよみがえる・・。

 

講談社は、辻村氏とNHKの面談を断っている。

上記の記事によると、辻村さんが出産直後だったという事情もあったようだ。

 

講談社にとっては、困った事態だ。

NHKからは「辻村氏が本当にそう言っているのか?」と疑われている。

かといって、本人と会わせるわけにはいかない。

メール等で直接やりとりさせるのも嫌だ。

連絡先が分かってしまうと、この後は自分抜きで話が進んでしまうかもしれない。

どうするべきか・・

 

そこで登場したのが「手紙」だ。

辻村氏にNHK宛の手紙を書いてもらえばいい。

「辻村氏が本当にそう言っている」とNHKに証明することができる。

手紙だから、辻村氏のメールアドレスがバレることもない。

これで解決だ。

 

講談社から辻村氏に対して

NHKの人にガツンと書いてやってくださいよ。

 先生の気持ちが伝われば、彼らも考え直すに違いありません!」

ぐらいのことは、言ったかもしれない。

 

これが、「今どき、なぜ手紙だったのか?」の理由ではないだろうか。

 

こうして、辻村氏に直接会わせることもなく、

講談社と作家が一心同体だと証明することができたのだ。

 

勝利

 

講談社には、この後NHKとじっくり向き合い、

粘り強く脚本の修正を求めていくという選択肢もあった。

撮影スケジュールが遅れて困るのは、講談社ではなくNHKだ。

NHKも撮影を後ろ倒しにすると講談社に伝えている。

脚本の問題点もほとんど修正されてきている。

 

しかし、NHKは、出版社と作家が一体であることを疑うという❝罪❞を犯した。

今後のためにも、「出版社も権利者である」ということを、

しっかりと分からせておかないといけない。

 

だから講談社

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と決断したのだ。

 

 

そして、その後の裁判にも勝利をおさめる。

 

講談社は、

「出版社と作家は一体であると示す」という基本戦略に従って行動し、

NHKとの交渉、裁判を通じて、対外的にそのことをアピールすることができた。

大成功だ。

 

めでたし。めでたし。

 

こうして、「第1章:講談社」は幕を閉じる。

 

しかし、「第2章:NHK」では、かなり違った景色が見えてくるだろう。

 

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