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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(3)

第2章:NHK

前回の記事では、講談社の目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返った。

 

出版社は自分では権利という武器を持っていない。

だから、権利を持っている作家と一体化するしか、生き残る道がない。

作家の権利を預かりつつ、対外的には自分も権利者であるかのように振る舞う。

このような基本戦略に従って、講談社NHKと向き合った。

NHKが作家と直接会いたいと希望し、

出版社と作家が一心同体であることを疑う姿勢を見せたので、

講談社は、ドラマ化の許可を取り消した。

このような流れだった。

 

この事件について、残る謎は2つだ。

 

・なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

・そして、最終的には誰が損をしたのか?

 

今回は、NHKの目線に立って、事件を振り返ってみよう。

 

ドラマ化の権利の仕組み

テレビ局のプロデューサーが、小説や漫画を原作にしたドラマを作りたいなら、

その小説や漫画を映像化するための「許可」を得ないといけない。

ここまでは、常識だろう。

 

しかし著作権的に言うと、この「許可」は、2種類の許可に分解される。

プロデューサーは2段階に分けて許可をもらわないといけないのだ。

 

原作者は、映像化について2つの権利を持っている。

「映像化禁止権」と「改変禁止権」だ。

 

映像化禁止権は、

原作をもとに映像化する作業をスタートすることを禁止できる権利だ。

つまり、この権利の許可がないと、脚本を書き始めることもできない。

ドラマ化をスタートするときに「瞬間的に」働く権利と言える。

(違う説明の仕方をする専門家もいるが、実務上はこの理解で良い)

 

この権利は、もともとは作家が持っている権利だが、

出版社との契約によって出版社に預けられていることも多い。

 

一方の改変禁止権は、

原作の内容を変えることを禁止できる権利だ。

この権利の許可がないと、ストーリーの流れを変えたり、

登場人物を増やしたり減らしたりすることも、セリフを変えることもできない。

 

許可をとる側の人間からすると、この権利の扱いはやっかいだ。

改変することで、ストーリーがさらに面白くなっても、

登場人物がもっと魅力的になっても、それでOKとは限らない。

改変することで作品が良くなるかどうかは、直接は関係ない。

この権利の許可が出るのは、原作者の気に入ったときだけだ。

 

脚本を作り、俳優に演技をしてもらい、それを撮影し、編集するという

一連のドラマ化の作業の流れの中で、

「原作者が気に入るかどうか?」を常に気にしておかないといけない。

 映像化をスタートする瞬間に働く権利ではなく、

ドラマが完成するまで「連続的に」少しずつ積み重ねるように働く権利と言える。

(実務上は、脚本のチェックだけで済ませることも多い) 

 

この権利は、出版社に預けられることはなく、原作者が持ったままになる。

 

理屈上は、映像化禁止権の許可だけあれば、映像化することはできる。

しかし実際には、そんなことは有りえない。

映像化するときに原作を一切変えないということは、不可能だからだ。

文章と映像は違う。

何らかの改変をする必要が出てくる。

 映像化禁止権と改変禁止権は、必ずセットで働く。

 

まとめると、こうだ。

 

・原作をもとにドラマ化をする場合、

 「映像化禁止権」と「改変禁止権」の2段階の許可が必要。

 

・映像化禁止権の許可を出版社から得て、ドラマ化の作業をスタートできる。

 

・脚本→撮影→編集という流れの中で、

 原作者本人がもつ改変禁止権はずっと働きつづける。

 

「ドラマ化する上で原作のOKが必要」ということは、常識として知られているが、

原作の許可は2段階に分かれているということを、理解しておくことが重要だ。

 

ちなみに、

専門家は映像化禁止権のことを「翻案権(ほんあんけん)」と言ったり、

改変禁止権のことを「同一性保持権(どういつせいほじけん)」と言ったりする。

覚えておこう。

 

切り分けが大事

ドラマ化するプロデューサーは、

頭の中でこの2つの許可をはっきりと分けて考えておかないといけない。

そうしないと、無用なストレスが生まれてしまう。

「最初はOKって言ってたのに、なんで途中でNGなんて言うんだよ・・・」

という考えに、おちいりやすくなってしまうのだ。

 

男子中学生が憧れの女の子に

「付き合ってください!」

と告白し「OK」をもらったとする。

しかし、デートに行ってもなかなか手を握らせてもらえない。

キスも断られる。

男子中学生は怒り出す。

「なんだよ!付き合うって言ったじゃんか!

 なんでキスがダメなんだよ!」

 

しかし、交際をスタートすることが「OK」でも、

キスが「OK」ということには、ならないのだ。

 

 ここまでを押さえた上で、

NHKの目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返ってみよう。

 

事件の流れ(NHK目線)

「小説をドラマ化したい」と申し込んだNHKに対し、

2011年の11月15日、講談社

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と返答した。

 

「2段階の許可」のうち、「映像化禁止権」のOKが取れたことになる。

(厳密に言うと「この時点では正式な許可ではなかった」と後の裁判で

 言われているが、細かい説明が必要になるので省略)

 

これで、晴れて映像化の仕事をスタートすることができる。

 

NHKは、脚本家の大森寿美男氏に「脚本を書いてください」と依頼する。

そして、大森氏が第1話の脚本を書き上げる。

 

この脚本の中で主人公は、原作とは違う行動をとっていた。

原作では、主人公は母親と仲が悪いので、母親に会うのを避ける。

しかし、脚本では主人公はすぐに実家に行って、母親に会う。

なぜこんな改変をしたのか?

 

脚本家の大森氏は、

大河ドラマ風林火山」や「精霊の守り人」などの脚本を担当したこともある、

実力も実績もある脚本家だ。

何らかの狙いがあって主人公を実家に帰らせたのだろう。

 

ドラマは、全てを映像とセリフで表現しないといけない。

小説なら

「主人公は実家に帰ることも考えたが、

 母親に会うことを考えると気持ちが乗らなかった」

と文章で書くこともできる。

しかしドラマではそれができない。

主人公の気持ちを表現するためには、

主人公と母親を直接会わせて、表情やセリフで表した方が伝わりやすい。

 

また、連続ドラマの場合、第1話は❝顔みせ❞の意味合いもある。

視聴者に

「このドラマには、こんな役者が出てるんですよ。

 だから、第2話以降も見てくださいね」

というメッセージを送る必要がある。

重要な登場人物は、早めに出しておきたい。

 

それ以外にも、映像作品としての演出上のさまざまな狙いがあって、

大森氏とNHKは、主人公と母親を第1話で会わせることにしたのだろう。

 

しかし、原作者の辻村氏は、この改変ポイントが気になった。

辻村氏は、主人公と母親がずっと会わないということ、

そして、最後の大事なときに初めて母親と出会うという物語の流れに、

強いこだわりを持っていた。

最初から母親と会ってしまうと、

最後のシーンのインパクトが弱くなってしまう。

 

辻村氏と大森氏、どちらのストーリーの方が良いのだろうか・・?

私は、どちらのパターンも見てみたい気がする。

しかし「どちらの方が面白いか?」は、著作権の世界では重要ではない。

先に述べたように、原作者は「改変禁止権」という絶対的な権利をもっている。

「辻村氏が気に入るかどうか?」だけが問題になるのだ。

 

権利の強さにおいて、原作者と脚本家のあいだには、明確な差がある。

同じクリエイター同士、あまり良い印象を持っていないことも多い。

原作者の方は「自分の大切な作品を変にされる」と感じ、

脚本家の方は「映像化のセオリーを理解せずに、文句ばかり言う」と感じがちだ。

そのことを知っているプロデューサーも、

ドラマ制作の打ち合わせに原作者を呼びたいとは、ほとんどの場合考えない。

最初の「顔合わせ」や、撮影現場に「お客さん」として来てもらう。

という程度になることが多い。

 

この時点で、

2段階の許可のうち、後半の許可はまだ得られていない。

 

12月22日、NHK講談社から

上記のポイントを修正するように要請される。

 

しかしNHKも、ちゃんとした理由があって、

あえて主人公を母親と会わせている。

できればこのまま行きたい。

 

12月26日、NHK講談社

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールしている。

 

その後、講談社から「一切譲歩できない」と言われたNHKは、

やむをえず脚本を修正することにする。

主人公が最初から実家に行くことは変えないが、

仕方ない事情があって行くという話に変えることにしたのだ。

 

しかし、それでも講談社は首を縦に振らない。

 

こんなやりとりが続くうちに、NHKにフラストレーションが溜まっていく。

上記の男子中学生のように。

「なんだよ!OKっていってたじゃないかよ!」

 

NHKは辻村氏と直接会って話せば、分かってもらえると信じ、

「先生と会わせてください」とお願いする。

しかし、前回の記事で説明した通り、講談社は作家を外の人に会わせたくない。

いくらお願いしても、講談社は断る。

NHKにとっては、講談社が邪魔しているように見えてくる・・。

 

ドラマ作りの現場

NHKのプロデューサーが、

「2段階の許可」を明確に切り分けて理解できていたかは分からない。

作家と一心同体であることを強調したい講談社から、

わざわざ「映像化禁止権は講談社、改変禁止権は辻村先生。別物です」と、

丁寧に説明されることは無かっただろう。

NHKの認識が甘かった可能性は高い。

 

しかしそれでも、私はNHKに同情してしまう。

 

ドラマは、沢山のスタッフの共同作業で制作される。

脚本家、監督、出演者、撮影監督、美術監督、編集マン、音楽監督・・・

などなど、みんな、こだわりの強い❝曲者❞ぞろいだ。

全員が「この作品をこう作りたい」という考えを持っている。

プロデューサーは、そんな彼ら全員をまとめ上げながら、

予算内で期限までにドラマを完成させるという、重い責任を負っている。

 

プロデューサーからして見れば、原作者や出版社は、

沢山いる関係者の1つにすぎない。

もちろん一番重要な関係者だが、原作者と出版社から許可がもらえたとしても、

それだけでは、ドラマは完成しない。

関係者全員の協力が必要だ。

 

ドラマの撮影中に長澤まさみ氏が

「わたし、このドラマに出るのやーめたっ!」

と言えば、それだけでドラマ化の企画は失敗におわる。

脚本を書いた大森氏が

「この脚本を使っちゃダメ!」

と言い出せば、全ては1からやり直しだ。

 

しかし彼らは、そんなことはしない。

「みんなで1つの船に乗っている」ということが分かっているからだ。

 

ドラマの制作プロセスは、

乗組員の全員が爆弾をもって1つの船に乗り込むようなものだ。

何か気に食わないことがあれば、

誰もが「やーめたっ!」と言って、爆弾のスイッチを押すことが出来る。

船は大破し、ドラマ作りは失敗する。

しかし、そのスイッチを押した本人も大ケガを負う。

「ドラマの制作に協力する」と契約した上で、船に乗り込んだ以上、

爆弾を押せば「契約違反」になってしまうからだ。

 

だから、よほどのことが無い限り、誰も爆弾のスイッチは押さない。

最終的には、船の船長であるプロデューサーの指示に従う。

 

しかし、そんな乗組員の中で、だた1人スイッチを押しても無傷で済む人がいる。

改変禁止権というバリアで守られた原作者だ。

原作者だけは契約違反になることもなく

「やーめたっ!」と爆弾を爆発させることができる。

 

不公平のような気もするが、

このこと自体は、法律で保証されていることなので、

悪いことでも良いことでもない。

 

ただ、その極めて❝特殊な乗り組み員❞である原作者とは、

船長でさえ会うことはできない状況だった。

講談社を通してしか、やりとりが出来ない。

せめて、乗り組み員の1人である講談社には、

船長の立場を理解した上でドラマ制作に協力してほしい。

 

しかし、この乗り組み員からは、船長に協力している気配が感じられない。

原作者と一体化してしまい、原作者の気持ちばかりを押し付けてくる。

船長の気持ちを原作者に理解してもらおうと努力している様子がない。

 

乗り組み員全員が1つの目標に向かって頑張っているのに、

1人だけ違う方向を向いている。

しかも、どんどん態度を固くさせ

「言うことをきかないと爆弾のスイッチを押す(許可を取り消す)」

などと言ってくる。

 

なんとも、もどかしい。

こうして、NHK講談社に対するフラストレーションがさらに溜まっていく。

 

裁判

それでもNHKは譲歩した。

 

講談社からの要望を聞き入れ、脚本を修正することにした。

予定していた撮影開始(クランクイン)のスケジュールは諦めた。

 

大森氏に大幅な脚本の修正をお願いしないといけない。

スケジュールを押さえていた俳優や撮影スタッフを、

一旦キャンセルしないといけない。

船長の面目は丸つぶれだ。

 

しかしこの状況でも、まだ船を進めることは可能だった。

今は船が止まっただけだ。

まだ爆弾は爆発していない。

 

ドラマ制作の現場でスケジュールが遅れてしまうことは、たまにあることだ。

天気が悪いせいで、撮影が延期になることもある。

ドラマの設定に似た事件が現実に起きたせいで、

大幅に内容を変えないといけなくなることもある。

そんな場合でも、上手くやりくりしてドラマを完成させるのが、

プロデューサーの腕の見せ所だ。

 

クランクインを1週間程度遅らせても、何とかなるという計算は立っていただろう。

「まだ何とかなる。

 乗り組み員みんなで力を合わせれば、もう一度船出できるよ!」

船長は、必死で様々な関係者と調整しながら、船の再出発の準備を進めていた。

 

しかし、よりにもよって、

このタイミングで講談社が爆弾のスイッチを押したのだ。

「信頼関係が壊れたので、もう協力できません」

と言って。

 

この時の、船長の気持ちを想像してほしい。

 

なぜこのタイミングに?

まだやれたはずなのに!

これじゃ、がんばっていた他の乗り組み員に顔向けできないじゃないか!

もともと講談社は協力的じゃなかった。

最初はOKと言ってたのに態度を変えた。

原作者に会いたいと言っても邪魔してきた。

それでも俺は我慢した。

スケジュールを変更し、脚本も言う通りに変えた。

それなのに、一方的にみんなの船を爆破させた。

なぜ?なぜそんなことを?なぜなんだ?

くやしい!

講談社が憎い!

 

NHK講談社を訴えた直接の原因は、この時のNHKの「怒り」だと思う。

NHKは、ドラマ制作の妨げになっていた改変禁止権を持っていた辻村氏ではなく、

あくまでも講談社を訴えている。

どうにも講談社のことが許せなかったということだ。

NHKは「脚本に口出しするのは検閲だ!」とまで言って、講談社を責めている。

 さすがにこれは言い過ぎだが、よほど腹に据えかねたのだろう。)

 

しかし訴えた狙いは、それだけでは無かったはずだ。

講談社を訴えるにあたって、NHKは弁護士に相談しただろう。

改変禁止権という明確な権利がある以上、

「改変されないために許可を取り消しました」と言われてしまえば、

勝ち目はほとんどない。

訴える前にNHKは、そのことも分かっていたと思う。

 

でも、NHKは「船長」なのだ。

今後も別の船で、多くの俳優やスタッフを連れて、新たな船出をしないといけない。

乗り組み員に船を爆破されたのに、怒りもしない船長は、ナメられる。

他の乗り組み員に対しては

「悪いのは船長ではない。講談社だ!

 これから不届きな船員をこらしめてやるぞ!」

という姿勢を示す必要があった。

 

裁判という「戦うポーズ」を示すことで、今後も船長でいることができる。

数年後に裁判に負けたとしても、

その頃には、この事件に対するみんなの興味は薄れているだろう。

 

こうして、

講談社に対して溜まりに溜まった怒り。

・俳優やスタッフへの威厳を保つ必要性。

という理由で、NHK講談社を訴えたのだ。

 

その後、裁判ではNHKの必死の訴えにも関わらず、以下のような結論が出された。

・原作者のもつ改変禁止権は尊重されないといけない。

講談社が許可を取り消したことが、間違った行為だとは言えない。

講談社にはNHKへの配慮に欠ける面があったことは否定できないが、

 義務違反だとまでは言えない。

(裁判所に、講談社の配慮が不十分だったと認めさせることには成功)

・損害賠償する必要はない。

 

負けたNHKは、それでも高等裁判所に訴えた。

そして、2015年12月に和解している。

その頃には、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を話題にする業界関係者は、

ほとんどいなかったと、私は記憶している。

 

そして、その後もNHKは多くの俳優、スタッフと共に、

面白いドラマを作り続けている。

 

溜まった怒りを吐き出し、俳優やスタッフへの威厳を保つ、

という意味では、NHKの裁判は成功したと言えるかもしれない。

 

以上が「第2章:NHK」だ。

 

次回は、物語の視点は講談社NHKのような大企業ではなく、個人に移る。

「第3章:辻村深月」だ。

 

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