マネー、著作権、愛

創作、学習、書評など

NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(2)

第1章:講談社

前回の記事では、

NHK講談社の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマ化しようとしたが、

内容について作者の辻村深月氏のOKがもらえず、ドラマ化に失敗したこと。

そして、怒ったNHK講談社を訴えたが、

裁判では負けてしまったという流れを見て来た。

 

前回述べた通り、これに対する私の問いは3つある。

1.今どき、なぜ辻村氏は手紙を書くという方法でNHKに不満を伝えたのか?

2.なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

3.長期的にみて、誰が損をしたのか?

 

この疑問に答えるため、講談社NHK、辻村氏、

それぞれの目線から事件を眺めてみよう。

 

まずは、講談社の目線からだ。

辻村氏の作品『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』にならうと、

この物語の❝第1章❞は、講談社を主人公にスタートする。

 

出版社の立ち位置

講談社の気持ちを理解するために、まずは

「出版社とは、著作権の世界でどんな立場にいるのか」を頭にいれる必要がある。

 

出版社の一般的なイメージとしては、以下のような感じだろう。

 

売れない新人作家や漫画家が、必死で書いた原稿を出版社にもちこむ。

出版社の編集マンが、その原稿をパラパラとめくる。

原稿を投げ出すように机に置き、ダメ出しをする。

一方で、売れっ子作家には態度を変え、おべんちゃらを言う。

 

極端にパターン化されたイメージだが、ドラマ等でよく見るシーンだ。

こんなシーンを見ると、出版社というのは、

大物作家ほどではないにしても、

それなりの立場・権利を持っているような気がしてしまう。

 

実際にはどうなのか?

 

私は、音楽について書いた以前の記事で、

「音楽業界の3人の登場人物」つまり、「3種類の権利者」を説明した。

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音楽業界の登場人物は、

「作詞・作曲家」(例:小室哲哉

「歌手」(例:安室奈美恵

「レコーディングする人」(例:エイベックス)

 

の3人(3種類)だ。

 

今回はもっと視野を広げて、

「クリエイティブ・エンタメ業界の登場人物」を一通り紹介しよう。

我々の文化・芸術を支えている、そうそうたるメンバーが登場することになる。

 

まず1人目の人物は、「クリエイター」。

手を動かして、何らかの作品を生み出す人のことだ。

小説家、画家、写真家、漫画家や、作詞・作曲家がこれにあたる。

また、映画会社やゲーム会社もここに含まれる。

映画やゲームという「作品」を生み出しているからだ。

彼らに著作権という権利が与えられる。

 

次の登場人物は、「俳優・歌手」。

俳優や歌手は、自分でストーリーや歌を作り出すわけではない。

しかし、彼らが熱演・熱唱するからこそ、観客に感動を伝えることができる。

そういう大切な役割をになっているから、権利が与えられている。

 

3番目の登場人物は、「レコーディングする人」だ。

以前の記事で書いたとおり、彼らがいるから、

歌手のコンサートに行けない人でも、

CDやインターネットで音楽を楽しむことができる。

だから「レコーディングする人」も権利者だ。

 

多くの人に素晴らしい作品を届けるという意味では、

4番目の登場人物の「放送局・ケーブルテレビ局」も同じだ。

電波を使って沢山の人に効率的に文化を伝えるという役割を果たしている。

だから彼らにも権利が与えられた。

 

以上である。

以上が、文化・芸術の世界で権利を与えられた登場人物である。

 

 

・・・・・あれ?

 

出版社は??

 

そう。 

あなたの見落としではない。

出版社には、権利が与えられていないのだ!!

 

これは、著作権の世界における極めて基本的な事実である。

 

「いやいや!おかしいでしょう!

 出版社には、レコード会社やテレビ局が現れる何百年も前から、

 文化を支えてき歴史があるんですよ!?

 レコード会社やテレビ局に権利を与えているのに、

 出版社には権利ゼロなんて、めちゃくちゃじゃないですか!?」

という批判が聞こえてきそうだ。

 

でも本当に、無いものは無いのだ。

 

たしかに著作権制度の歴史の中では、出版社に権利が与えられた時期もある。

しかしそれだと、権力者が出版社に「許可を出してあげる」という形になりやすい。

権力者は、自分の気に食わない本(政治批判など)を出している出版社には、

許可を出さない。

こうして「権力者による検閲」が始まる・・。

 

詳しくは別の記事に書くつもりだが、

こういう経緯があったこともあり、権利は出版社ではなく、

その作品を生み出した作家(クリエイター)に与えようということになったのだ。

 

出版社には権利がない。

だから、権利の切れている昔の作品(太宰治の小説やゴッホの絵など)を

使いたいときに、その作品を掲載している出版社に許可をとる必要は一切ない。

覚えておこう。

 

出版社の気持ち

権利がない。

この事実に出版社は気付いているのか?

 

もちろん気付いている。

だから、彼らは「出版社にも権利が欲しい!」という運動をしている。

「版面権(はんめんけん)」とか、

「出版原盤権(しゅっぱんげんばんけん)」とか、

新しい名前の権利を生み出してもらうために、法律の改正を求めている。

 

しかし、長年にわたる活動にもかかわらず、

今のところ法改正の気配はない。

 

これはもう、恐怖だ。

 

昔は、権利がなくても大丈夫だった。

資本力をもとに印刷工場を作り、本を大量に製造し、

取次会社と交渉し全国の書店に届け、予算をかけて宣伝する。

こんなことは、ある程度のお金と組織がないと出来ないことだった。

 

しかし今は違う。

ネットで探せば、個人の本でも出版してくれる業者は簡単に見つかる。

電子書籍なら、一瞬で全世界の読者に作品を届けることができる。

SNSを上手く使えば、それなりの宣伝もできる。

そもそも、個人が何かを発信したければ、ブログを書けば済んでしまう。

本にする必要すらないのだ。

出版社の「存在意義」がどんどん無くなっていく。

 

ふと気が付くと、

インターネットという「未知の戦場」に放り出されていた。

そこらじゅうから、見たこともない敵が襲いかかってくる。

それなのに、自分は権利という「武器」を持っていない。

素手」で戦わないといけないのだ!

これはもう、恐怖以外の何物でもない。

 

出版社の気持ちを考える上で、この「恐怖」が全ての出発点になる。

 

では、出版社としては、どうすれば良いのか?

 

まずは、インターネットの浸透を少しでも遅らせることだ。

当然の戦略だろう。

実際に彼らはそうしている。

 

音楽や映画は、ネットを通じて簡単に楽しめるようになって、もう何年もたつ。

しかし本は、なかなかネットで読めるようにはならない。

少しずつネットで読める本が増えつつあるが、

音楽や映画と比べると、変化のスピードがものすごく遅い。

テキストのデータの方が、映像や音声のデータよりも、はるかに軽いというのに。

技術的には簡単なことだが、出版社が抵抗しているのだ。

 

しかし、こんな戦略がいつまでも持つわけがない。

ネットの勢いを止めることは出来ない。

そんなことは、出版社もわかっている。

 

では、どうするのか?

武器を持たない彼らが生き残る道は・・・

 

そうだ。

武器を持つ人の近くにいることだ。

 

著作権を持つクリエイター(作家や漫画家)と、一体化してしまえば良い。

 

つまりこういうことだ。

 

作家に対しては

「全て私にお任せください!

 面倒なことは全部私がやってあげます!

 だから、あなたのそばにいさせてください!

 武器を私に預けてください!

 悪いようにはしませんから!」

と言って、著作権を使う権限を預けてもらう。

 

そして外部の人には、

「私と作家は一心同体です!

 私たちは、すごく強い武器を持っているんです!」

と主張する。

 

これが基本戦略になる。

 

(念のため言っておくと、筆者に出版社に対する悪意があるわけではない。

 この戦略が効率的に回れば、

 作家は創作活動に専念できるようになり、文化全体にとってもハッピーだ。)

 

もちろん、インターネットが誕生するよりも前から、

出版社が作家を囲い込もうとする傾向はあった。

しかしそれは、次の作品を機嫌よく書いてもらい、

その本を出版して儲けるため、というのが、

メインの目的だったはずだ。

権利のことは意識されていなかった。

インターネット時代に入り、作家を囲い込む目的が、

次回作のためではなく、今の作品の権利をしっかり確保し、

その権利を映画、ドラマ、ネットなど多方面に活用して儲ける、

という方向に変化しているように感じる。

 

出版社の現場で働く人々が、著作権の詳細を理解した上で、

日々の業務をやっているわけではないだろう。

しかし、出版社に勤める人間のほぼ全員が、

インターネットの時代に、紙媒体の将来がヤバいかも。と考えている。

本能的な恐怖を感じ、作家との一体化を目指す。

そして、自然とそのように振る舞い、行動するようになっていく。

 

まとめると、こうだ。

・多くのプレイヤーがいるクリエイティブ・エンタメ業界の中で、

 出版社は何の権利も持っていない。

・権利を持たずにインターネット時代を迎えるのは、恐ろしい。

・出版社は、生き延びるために、権利を持つ作家と一心同体になりたい。

・対外的にも、作家と一体であると示さないといけない。

 

ここまでの前提を押さえた上で、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の事件に戻ろう。

 

事件の流れ(講談社目線)

2011年9月11日

NHKから講談社に、

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにさせてください」

という企画書が送られてきた。

 

この時点では、講談社にとっても❝ウェルカム❞な話だっただろう。

ドラマ化すれば、ドラマ化権の権利料が入ってくるし、

原作本の宣伝にもなる。

無料どころか、お金をもらって宣伝までしてもらえるようなものだ。

この時点では、映像化の実績の少なかった辻村氏の作品に注目が集まり、

他の作品の映像化も進むかもしれない。

当然、「前向きに進めましょう」ということになる。

 

11月15日

講談社からNHKに対して、

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と連絡した。

 

もちろん、講談社の社内だけで決めたわけではない。

辻村氏の意向も確認しただろう。

しかし、NHKに対しては、辻村氏だけでなく「講談社の決定でもある」ことを

分かってもらう必要がある。

だから、わざわざ「社内の上層部の会議でOKが出ました」と伝えている。

(辻村氏との契約で、講談社は正式に権利を預かっているはずなので、

 こう伝えることは、嘘でも何でもない)

 

12月19日

NHKから、第1話の脚本が提出されてくる。

 

 

しかし、原作とは違い、物語の主人公がすぐに母親と会ってしまっている。

辻村氏に読ませたところ、「この部分は変えないでほしい」と言われた。

これに対し、

講談社は「先生、任せてください。ちゃんとNHKに修正してもらいます」

ぐらいのことは言ったのだろう。

 

この時点でも、講談社は進める気満々だ。

その証拠に、12月22日にNHKに脚本の修正を要望すると同時に、

「映像化契約書(案)」を渡している。

 

 

しかしこの後、講談社の態度が、少しずつ厳しくなっていくのだ。

 

NHKからは妥協案が示される中で、

12月28日に講談社は「一切譲歩できない」とメールし、

翌年の1月27日には「このままなら、ドラマ化の許可を取り消す」と伝えている。

そして撮影開始予定日だった2月6日には、とうとう

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と言い切った。

 

脚本が原作と変えられているという点なら、じっくり交渉すれば良い。

小説と映像作品の折り合いを付けるのに苦労するというのは、珍しい話ではない。

しかし、上記の講談社の厳しい姿勢には、脚本の問題を超えた「何か」に対する

強い意志を感じてしまう。

最初はあれだけ前向きだったのに、

いったい何があったというのだろうか・・・?

 

講談社NHKの担当者の間で、

具体的にどんなやりとりがあったのかは分からない。

 

撮影スケジュールを直前まで教えてもらってなかったので、

NHKへの不信感が生れたのかもしれない。

あるいは、もっと些細なことで、気持ちの行き違いがあり、

「あのプロデューサー、けしからん!」となったのかもしれない。

手に入る資料では、それが何なのか特定することは出来なかった。

 

しかし、上で説明した「出版社の立場・気持ち」を踏まえると、

大まかな推理をすることはできる。

 

手紙の意味

人は、痛いところを突かれると、怒る。

 

いや、人に限らない。

小さな子グマを育てている母親グマに会ったことはあるだろうか?

めちゃくちゃ恐い。

ちょっと近づくと鬼の形相で威嚇してくる。

子供という弱点を隠すために、本能的に母親は攻撃的になる。

 

NHKは、講談社の❝子グマ❞を刺激してしまったのではないか。

 

出版社の弱点といえば、決まっている。

自らは権利を持たない出版社が、作家と本当に一心同体なのか?という点だ。

 

脚本をダメ出しする講談社に対して、

「でも・・辻村先生が本当にそう言っているんですか?」

と、NHKが言ってしまったのかもしれない。

 

そんな直接的な言い方ではなかった可能性もある。

もっとマイルドで、言った本人も意識していない程度の言い方だったかもしれない。

でも、講談社

「ひょっとして、

 自分が辻村先生との間に立っていることが邪魔だと思われている??」

と感じる瞬間があったのではないか。

 

こちらの記事によると、脚本のOKが出ずに困ったNHKが、

「先生と直接お話させてほしい!」

とお願いした事実はあったようだ。

http://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2016/04/03/142947

 

出版社は、作家と放送局が直接会うことを好まない傾向がある。

辻村氏とNHKが直接連絡を取り合ってしまうと、

辻村氏が講談社に伝えていたこととは違うことを言い出すかもしれない。

そうなると、講談社と辻村氏が、必ずしも一心同体ではないことが、

バレてしまう。

これでは、講談社に存在価値がないことになってしまう。

「出版社の恐怖」がよみがえる・・。

 

講談社は、辻村氏とNHKの面談を断っている。

上記の記事によると、辻村さんが出産直後だったという事情もあったようだ。

 

講談社にとっては、困った事態だ。

NHKからは「辻村氏が本当にそう言っているのか?」と疑われている。

かといって、本人と会わせるわけにはいかない。

メール等で直接やりとりさせるのも嫌だ。

連絡先が分かってしまうと、この後は自分抜きで話が進んでしまうかもしれない。

どうするべきか・・

 

そこで登場したのが「手紙」だ。

辻村氏にNHK宛の手紙を書いてもらえばいい。

「辻村氏が本当にそう言っている」とNHKに証明することができる。

手紙だから、辻村氏のメールアドレスがバレることもない。

これで解決だ。

 

講談社から辻村氏に対して

NHKの人にガツンと書いてやってくださいよ。

 先生の気持ちが伝われば、彼らも考え直すに違いありません!」

ぐらいのことは、言ったかもしれない。

 

これが、「今どき、なぜ手紙だったのか?」の理由ではないだろうか。

 

こうして、辻村氏に直接会わせることもなく、

講談社と作家が一心同体だと証明することができたのだ。

 

勝利

 

講談社には、この後NHKとじっくり向き合い、

粘り強く脚本の修正を求めていくという選択肢もあった。

撮影スケジュールが遅れて困るのは、講談社ではなくNHKだ。

NHKも撮影を後ろ倒しにすると講談社に伝えている。

脚本の問題点もほとんど修正されてきている。

 

しかし、NHKは、出版社と作家が一体であることを疑うという❝罪❞を犯した。

今後のためにも、「出版社も権利者である」ということを、

しっかりと分からせておかないといけない。

 

だから講談社

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」と決断したのだ。

 

 

そして、その後の裁判にも勝利をおさめる。

 

講談社は、

「出版社と作家は一体であると示す」という基本戦略に従って行動し、

NHKとの交渉、裁判を通じて、対外的にそのことをアピールすることができた。

大成功だ。

 

めでたし。めでたし。

 

こうして、「第1章:講談社」は幕を閉じる。

 

しかし、「第2章:NHK」では、かなり違った景色が見えてくるだろう。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(1)

NHK講談社の裁判

NHKが、講談社を訴えた。

 

NHKといえば、日本で最大の放送局だ。

一方で講談社も、日本最大手の出版社の1つ。

この大手2社が、真正面から裁判で戦った。

 

事件の大まかな流れはこうだ。

講談社が出版していた本に、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』という小説があった。

この小説をNHKのプロデューサーが気に入り、「ドラマ化したい」と思ったのだ。

講談社から許可をもらったNHKは、脚本を作り、撮影準備を進め、

俳優へのキャスティングも進めていた。

長澤まさみ黒木華佐藤江梨子風吹ジュンなど、

豪華な役者たちが出演することになっていた。

 

ところが、である。

撮影開始(クランクイン)の予定日に、

講談社が「ドラマ化の許可を取り消します!」とNHKに通告したのだ。

理由は、「小説の作者が、どうしてもドラマの内容が嫌だと言っているから」

というものだった。

 

ドラマの制作は中止され、

NHKには、制作準備にかかった約6000万円の損害が出てしまった。

 

これに怒ったNHKは、講談社を訴えた。

「6000万円を払え!」と。

 

裁判の結果を先に言ってしまうと、

NHKが負けた。

裁判においても、小説の作者の「気持ち」が何よりも大切にされたからだ。

 

しかし、この事件で「本当の意味で負けた」のは、NHKではない。

では、「本当の敗者」は誰だったのか?

今回の連載を通じて、真相を明らかにしていくことにしよう。

 

今回の連載を読めば、

ドラマ化、映画化など、原作を映像化するときの仕組みを理解し、

これからの出版社とクリエイターのあり方を考えることができるだろう。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』

ドラマの原作になるはずだった小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を書いたのは、

人気作家の辻村深月(つじむら みづき)さん。

『鍵のない夢を見る』で直木賞を受賞した実力のある作家だ。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の主人公は、

東京でライターをしている山梨県出身の女性だ。

(辻村氏の故郷も山梨県なので、

 主人公と自分自身を重ねながら書いている部分もあるだろう)

 

山梨県で悲しい事件が起きる。

主人公の幼い頃からの親友の母親が、お腹を刺され死体となって発見されたのだ。

そして、その親友は逃亡中だという。

親友が母親を殺したのか?

一体なぜ殺したのか?

親友はどこへ向かったのか?

この謎を追うために、主人公が山梨へ帰る。

 

謎を解き明かしていくストーリーと並行して、

主人公自身の物語も語られていく。

主人公も、母親との複雑な関係を抱えていた。

せっかく故郷に帰ってきたのに、実家には寄ろうともしない。

母親と会いたくないからだ。

 

主人公と母親との関係、親友と母親との関係、それぞれを対比させて描きながら、

物語は少しずつ核心に近づいていく・・・。

というストーリーだ。

 

この小説は、2部構成になっている。

第1部は、謎を追う主人公の目線で描かれているが、

第2部になると目線が転換し、逃亡中の親友の目線で話が進む。

だから、同じ出来事に対しても

主人公と親友の受け取り方、感じ方が全然違っていたことが、後になって分かるのだ。

面白い。


気取った言い回しを使わない、非常に読みやすい文章なので、

読んでみてほしい。

 

 事件の流れ

NHK講談社の戦い。

誰が「本当の敗者」だったのか?

これを解き明かすため、まずは事件の流れを一通り眺めておこう。

 

流れをまとめるにあたっては、以下の資料を参考にさせていただいた。

感謝申し上げます。

 

TBSテレビの日向央氏の「意外と知らない著作権AtoZ」

(「調査情報」2012年9・10月号)。

国士館大学の三浦正広教授の

「原作小説のテレビドラマ化に関する著作権契約の成否と同一性保持権の行使

 -『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』映像化契約解除事件ー」

(「The Invention」2016 No.3)

 

以下、事実関係を順に追っていくが、けっこう長い。

全てをしっかり覚える必要なないので、

「へ~、こんなやりとりがあったんだ~」ぐらいの感覚で、

読み進めてほしい。

期間を「友好関係の時期」「険悪になっていく時期」「大ごとになっちゃった時期」

の3つに分けてみた。

 

友好関係の時期

最初のうちは、NHK講談社も特にモメることもなく、スムーズに話が進んでいた。

 

2011年9月11日

NHKから講談社に対して、

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにさせてください。

 来年の5月から全4話で放送するつもりです」

という企画書が送られる。

 

11月15日

講談社からNHKに対して、

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と連絡。

 

NHKはこの決定を受けて、脚本家の大森寿美男氏に「脚本を書いてください」と

正式に依頼する。

そして、大森氏が第1話の脚本(準備稿)を書き上げる。

この脚本の中で主人公は、原作とは違う行動をとっていた。

主人公は、山梨に帰ったときに

最初から実家に行って母親に会うという内容に変わっていたのだ。

 

12月19日

第1話の脚本を、NHKから講談社に提出。

 

講談社は原作者の辻村氏にこれを読んでもらい、

辻村氏からの感想・要望を受け取る。

 

12月22日

講談社NHKに対して、

「主人公がいきなり実家に行くのはおかしい。

 原作の中の母と娘の関係を変えないようにしてください」

と要望した。

そのときに一緒に、NHK講談社の間でむすぶ「映像化契約書(案)」を渡した。

 

12月26日

NHKから講談社に対して

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールする。

 

険悪になっていく時期

このあたりから、両者のあいだに険悪で嫌な空気が流れ始める。

 

12月28日

講談社からNHKに以下のようメなールが送られる。

「お願いした修正の要望が解決しない限り本ドラマ化の許諾はできない。

 一切譲歩できない部分です」

 

2012年1月6日

NHKは脚本家と対応を話し合う。

「主人公が最初から実家に行くという部分は変えないでいこう。

 その代わり、自分から進んで行ったわけではなく、

 仕方なく行ったということにして、そのことが分かる話を追加しよう」

ということになった。

 

1月10日

第1話の脚本を修正したものと第2話の脚本が出来たので、

これをNHKから講談社に送る。

 

講談社は辻村氏に読んでもらい、

辻村氏からのコメントを受け取る。

 

1月18日

講談社からNHKに辻村氏のコメントを伝える。

コメントの中には

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

という記載もあった。

 

1月24日

NHK講談社に以下の話をする。

「クランクインを2月6日に予定している。

 もう時間がない。

 本当に必要ならスケジュールを後ろにズラすが、出来ればこのまま行きたい」

 

1月25日

第3話と第4話の脚本が出来たので、

これをNHKから講談社に送る。

(ドラマは全4話なので、これで全ての脚本を見せたことになる)

 

大ごとになっちゃった時期

撮影スケジュールが間近にせまり、関係者の焦りも大きくなる。

これまでは現場の担当者同士で交渉していたが、

どうにも話が進まないので、それぞれの上司が出てくるようになる。

 

1月27日

講談社(担当者の上司が登場)からNHKに対して

「原作者が、主人公と母親の関係を理解してもらえていないと感じている。

 このまま原作者が納得しないなら、ドラマ化の許可を取り消す」

と伝える。

 

1月30日

NHK(こちらも上司が登場)から講談社に対して

「2月6日にクランクイン予定だったが、それは諦めるし、

 現実的に対応していきたい」

と伝える。

(つまり、せっかく押さえていた長澤まさみ氏たちのスケジュールを、

 一旦キャンセルしてしまうことになる。

 なかなか大変な事態だ)

 

これに対し講談社は、「辻村先生から預かってきました」と言って、

辻村氏が書いた手紙をNHKに見せる。

そこには

講談社を通じて再三お願いしているとおり、

 この状態のまま進めるというということであれば、

 今回のお話はお断りせざるを得ません」

などと書かれていた。

 

この場でNHK講談社

「具体的に、どこが問題があるのか?指摘してほしい」

と要望する。

それに対し講談社は、第1話から第4話までの脚本の問題点を複数指摘する。

そして、あらためて

「原作者が納得しない限り、ドラマ化の許可を取り消す」

と伝えた。

 

1月31日

NHKから講談社

「主人公が最初から実家に行くエピソードは、やめます。

 原作どおり、実家には帰らずビジネスホテルで過ごす話にします。

 ただ、主人公と母親が顔を合わすシーンが最初にないと、

 2人の仲が悪いということが視聴者に伝わりにくくなってしまいます。

 その部分をどうするか、考えます」

といった内容のメールを送る。

 

2月2日

講談社からNHKに「質問状」。

「質問状に回答してほしい」

と要望。

NHKは「すぐに回答します」と答え、

さらに「主人公と母の関係シーンの再考案」という文書を講談社に渡す。

(この文書の中で、講談社から指摘された問題点は、ほぼ解消されていたようだ)

 

2月3日

NHKは「質問状」に対する回答を講談社に送る。

 

2月6日(もともとのクランクイン予定日)

講談社からNHKに対し、

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」

と伝える。

 

その後、NHK講談社のあいだで何らかの❝やりとり❞があったようだ。

 

6月21日

NHKが「損した6000万円を払え!」と講談社を訴える。

 

2015年4月28日

東京地裁

講談社は支払わなくて良い」という結論を出し、

NHKが敗北した。

(その後、NHKはあきらめずに高等裁判所に訴えたが、逆転することはできず、

 最終的には和解が成立している)

 

3つの疑問

以上が事件の流れだ。

現場でどんなことが起きていたか、大まかに分かってもらえたと思う。

この事件を眺めていて、私には疑問に思ったことが3つある。

 

1つ目の疑問は、2012年1月30日の出来事だ。

講談社が、辻村氏が預かってきた手紙をNHKに見せた。という部分。

まず思ったのが

「え??

 今どき、手紙ですか?

 なんで?」

ということだ。

 

往年の大作家なら、そいういう古風なコミュニケーション手段を使うのも理解できる。

でも、辻村氏は1980年生まれの若い作家だ。

当然、スマホでも何でも使いこなす世代だろう。

 

それなのに、なんで手紙??

という素朴な疑問だ。

 

2点目の疑問は、

「なぜNHKは、勝てそうにない裁判をしたのか?」

ということ。

 

次回以降の記事で説明するが、

小説家が「私の大切な作品を、勝手に作り変えないで!」といえる権利は、

非常に強力な権利だ。

そう簡単にひっくり返せるものではない。

原作者の辻村氏が納得していない以上、ドラマ化できないのは当たり前に思える。

それなのに、なぜNHKは裁判に訴えようと考えたのか?

これが2つ目の疑問だ。

 

3つ目の疑問は、

「結局のところ、一番損したのは誰なのか?」

ということだ。

 

NHKが裁判で負けたのは事実だが、

それだけでビジネスの世界の勝ち負けが決まるわけではない。

長い目で見ると、誰にとって損だったのか?を考える必要がある。

 

3つの目線

この疑問に、次回以降の連載で答えを出していくつもりだ。

 

考えていくにあたっては、辻村さんの小説と同じ手法をとりたい。

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』は、

同じ出来事を主人公と親友の2つの目線で描くことで、

真実を明らかにしていく物語だった。

 

これにならい、今回のNHK講談社の事件も、

複数の目線で見ていくことにしよう。

 

まずは、講談社の目線。

次に、NHKの目線。

最後に、辻村氏の目線だ。

 

それぞれの目線で、同じ出来事に対する感じ方が全然違うことが分かるだろう。

 

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全ては本が教えてくれる

本を読もう!

今回は、結論から言う。

 

本を読もう!

できれば、タブレットスマホではなく、紙の本で読もう。

 

メリットは沢山ある。

 

メリット1:モテる

あなたはデートの待ち合わせをしている。

あなたの方が、先に待ち合わせ場所につく。

すると、相手から連絡が入る。

「ごめん!20分遅れる!」とのことだ。

仕方がないから、あなたは20分ヒマを潰さないといけない。

 

一方、あなたのデート相手は、本当は15分ぐらいで着きそうなのだが、

少し余裕をみて「20分遅れる」とあなたに伝えている。

そして、予想通り15分後には待ち合わせ場所についた。

デート相手は、あなたを見つける。

 

あなたは、まだ相手が来るとは思っていない。

でも、相手はあなたを見つけている。

 

このとき、あなたは何をしているだろうか?

いや、「何をしているべき」だろうか?

 

そうだ。

紙の本を読んでいるべきだ。

スマホタブレットをいじくりまわしていてはいけない。

 

本を読んでいるあなたの姿を相手にしっかり見てもらおう。

相手が十分に近づいて来た気配を感じてから、ゆっくりと本から目線をあげ、

相手と目を合わせよう。

まるで、物語の中で運命的な出会いを果たした2人のように・・。

 

どうやら、人間の脳はかなり保守的にできているようで、

昔ながらのイメージに引っ張られやすい。

タブレットスマホで読書をしても、紙の本で読書をしても、

やっていることは変わらないのだが、

紙の本の方が、圧倒的に「知的」で「想像力ゆたか」に見える。

 

現在、紙の本を読む人は少数派になりつつある。

だからこそ、目立つ。

極端な話、本の中身を読んでいなくても構わない。

紙の本を読んでいる姿は、個性的で素敵なのだ。

 

もちろん、これだけでモテるようになるわけではないが、

小さなスマホを、シカメっつらでチマチマと操作しているライバルに

差をつけることは出来るだろう。

これだけで、本1冊分の元はとれる。

 

モテるようになるのは、デートの時だけではない。

あなたが就職活動、転職活動をしていたり、

芸能系のオーディションに申し込んだりしているのなら、

履歴書や自己紹介文を書くこともあるだろう。

そこに必ず「趣味:読書」と書いておこう。

これだけで、確実にあなたの「知的っぽい印象」がアップする。

 

あなたが、「体育会系・元気なタイプ」だったり、

「感性で生きるアーティストタイプ」だったり、

要するに「本を読まなさそうなタイプ」なら、

なおさら効果はバツグンだ。

ギャップがある人物は魅力的になる。

 

「今は〇〇系の本にハマっています」などと書ければ、なお良い。

それをきっかけにして、話が盛り上がるかもしれない。

最近の面接官は、「どんな本を読んでいるんですか?」と質問することを、

禁止されていることもある。

相手の「思想」を探るようなことは、やっちゃいけないからだ。

でも「〇〇系の本」と具体的に書いておけば、面接官も安心して質問できる。

 

メリット2:儲かる

本を読むと、知識が増える。

色んな考え方を頭にインストールすることで、

バランス良く物事を考えられるようになる。

逆に、❝バランスが悪い❞考え方を意識的にできるようにもなる。

「世の中全体としては、平均的にこういう考え方だが、

 自分は、敢えてこういう見方をしよう」

といった思考ができるようになる。

 

これは、「投資」するときに重要になる考え方だ。

 

世間と少しズレたことをする。

でも、そのズレは本人もしっかり分かっている。

こういう時こそ、儲かるのだ。

お金を投資するときでも、自分の時間や労力を投資するときでも、

必ず役に立つ。

 

私はこのブログを、

クリエイティブ業界、エンタメ業界に関心がある人に向けて書いている。

あなたには、できるだけ自由でいてほしい。

自由に面白いものを生み出してほしい。

そのための基礎になるのが、経済面での自由だ。

 

だから、儲けてほしい。

だから、本を読んでほしい。

 

この点については、いずれ別の記事で説明したい。

 

メリット3:楽しめる

3つ目のメリットは、単純だ。

 

読書は、楽しい。

 

本は、世界中にいる作者が、考えに考え抜いて、

あなたに届けるために書いたメッセージだ。

読んで楽しくないわけがない。

 

しかも、人類の数千年の歴史をかけて、無数の作者が書いてくれているのだ。

中には、書かれた時代では世界で一番頭の良い人が書いた、

あなた宛てのメッセージもある。

当時、世界で一番強い国を支配していた人が書いた、

あなた宛てのメッセージもある。

一番悲しい思いをしていた人からのメッセージもあるかもしれない。

あなたが生まれたその日に書き上げられた、

あなた宛てのメッセージもある。

 

何でもいい。

気になるものから読んでみよう。

 

必ず、素晴らしい本との出会いがやってくる。

 

秋のオススメ2冊

最近、私が「読書の楽しさ」を感じた本を2冊紹介したい。

 

まずは『ハーモニー』。

 

これは、SF小説だ。

 

著者は伊藤計劃(いとうけいかく)氏。

2007年に『虐殺器官』でデビューし、

国内のSF小説コンテストで、いきなり第1位を獲得してしまった作家だ。

2008年には、『ハーモニー』を発表。

その翌年、癌で亡くなった。

34歳だった。

 

つまり、この本は、著者が人生の最後に完成させた小説だ。

 

『ハーモニー』の舞台は、未来だ。

そこでは、医療技術が極限まで進歩している。

 

その社会では、人間の体の中に、沢山の小さなセンサーが入れられている。

だから、どんな小さな体の異変があっても、一瞬で発見され、

すぐに治療されてしまうのだ。

だから、誰も病気にならない。

 

誰も病気に苦しまずに済む、❝究極にやさしい世界❞が実現したのだ。

 

しかしそれは、自分の健康や体を、他人に管理される世界でもあった。

 

主人公の少女は、そんな世界が嫌になり、

絶食し、自殺しようとする。

 「自分の体が自分自身のものである」と証明するために・・・。

 

長年病気と闘っていた著者は、どんな思いでこの物語を書いたのだろう。

 

この小説、

設定の面白さやリアルさも素晴らしいが、

何より、文章がめちゃくちゃカッコいい!

先が気になって、どんどん読み進んでしまう。

 

そして、物語の後半に重要なテーマになるのが「意識」だ。

 

登場人物として、「意識のない人」という存在が現れる。

「意識がない」といっても、

気を失って、ぶっ倒れているわけじゃない。

その人は、普通に食事し、人と会話し、生きていくことができる。

単に「意識がないだけ」なのだ。

 

私はこの本を読んだとき、「意識のない人」というものが、

どういうものなのか、いま1つピンと来なかった。

なぜ意識がないのに、食事や会話ができるんだろう?

意識があるからこそ、「食事をしよう」と考え、物を食べることができるのでは?

意識があるからこそ、相手の言っていることを理解し、返事をし、

会話することができるのでは?

(この疑問は、私がオススメする2冊目の本で解消することになる。)

 

こんな謎を残しながらも、

物語は疾走する。

そして、人類全体をまきこむ巨大な陰謀が明らかになる。

そのとき、主人公の下した決断は・・・?

 

私は最後まで一気に読んでしまった。

オススメだ。

 

 

 

2冊目の本は、

『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』。

 

脳科学の最先端を紹介する本だ。

 

著者の渡辺正峰氏は、脳科学者。

つまり、物書きのプロではない。

だからこそ、文章から伝わってくる脳についての研究の雰囲気が、

何とも言えず、「嘘がない感じ」なのだ。

理系の人が丁寧に伝えようとする文章には、圧倒的な説得力がある。

 

渡辺氏が追い求めている謎が、これだ。

「どこから意識が生れているのか?」

 

そりゃー、当然、脳みそでしょ。

私たちはみんな、脳で物を考えているんでしょ 。

と答えて終われたら良いのだが、著者はこの答えに満足しない。

もっと突き詰めて考えていくのだ。

 

「具体的には、脳のどこに意識があるの?」

「どういう仕組みで意識が発生しているの?」

「そもそも意識って何?」

 

実は、こんな基本的な質問に対して、

現代の科学は答えを用意できていない。

 

「意識」については、ほとんど何も分かっていないのだ。

 

もちろん、脳の仕組み自体は、ほぼ解明されている。

脳は、「神経細胞」が集まってできたものだ。

神経細胞の働きは、伝わってきた電気を次の神経細胞に伝えること。

基本的には、これだけだ。

 

電気を伝えるだけなら、

私たちが持っているパソコンやスマホの中の電気回路だって、同じことをしている。

 

じゃあ、なぜ、スマホには意識がなくて、脳には意識があるのか?

 

この質問に、今のところ、誰も答えることができないのだ!!

 

この本を読めば、最先端の科学者が悩んでいる巨大な問題について、

一緒になって、❝深く悩む❞ことができる。

 

意識はどこから生まれるのか?

「自分が自分だと思っている自分」とは、いったい「何者」なんだ!?

この謎を、実感を伴って理解できたとき、

大きな「驚き」、そして、これまで感じたことのない「恐怖」、

少し遅れて、ワクワクするような「好奇心」が湧き上がってくる。

 

私は、この本を読むことで、

先ほどの『ハーモニー』をしっかりと理解できた。

「意識がないって、こういう意味だったのか!」と。

こうやって、関係なさそうな本が深いところで繋がっていることを発見するのも、

読書の楽しみの1つだ。

 

『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』は、

「文系」の人には、少し読みにくいかもしれない。

正直にいうと、私も内容に付いていけない所があった。

 

それでも、読む価値がある。

なんとなく分かったつもりで読み進めれば良い。

私はそうした。

 

 最初に書いたとおり、

「難しそうな本を読んでいるフリ」が出来れば、それだけで本の元はとれるのだ。

 もし、デート相手や面接官に「どんな本を読んでるんですか?」と聞かれたら、

この本をカバンから取り出し、こう言えばいい。

 

「昔から、多くの哲学者が悩んでいた問題をテーマにした本なんです。

 そして今は、科学者たちが全力で研究している謎でもあるんです。

 でも、さすがに難しくて、私の頭では完全には理解できないですね」

 

頭が良さそうに見えることは、間違いない。 

 

ぜひ、読んでみてほしい。

 

人間って何者なんだろう?

この世界はこれからどうなっていくんだろう?

そんなことを考えながら、秋空を眺め、また本を読む。

こんな読書は、最高だ。

 

 

関連作 

『ハーモニー』が気に入ったなら、

同じ世界観で伊藤計劃氏が書いた『虐殺器官』も楽しめるだろう。

 

 

「機械の意識」をテーマにした、

SF小説の古典『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』も名作だ。

映画「ブレードランナー」の原作としても有名だが、

映画とはかなり違う内容になっている。

その違いを探してみるのも良いだろう。

 

 

こうやって、関連する作品を次々と読んで、

読書の幅を広げていこう!

 

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ターミネーターの暴走を食い止めろ!

最強の敵が襲ってきた!

ハリウッドの超大物が、ついに動いた。

 

ターミネーター」、「エイリアン2」、「タイタニック」、「アバター」・・

数々の名作を世に送り出した、ジェームズ・キャメロン監督だ。

 

彼は、「日本のコミックに、自分の映画をパクられた!」と、

怒りを爆発させ、ついに裁判に踏み切った。

 

そのコミックは、彼の代表作「ターミネーター」と「ターミネーター2」に、

そっくりだと言う。

共通点は以下のように多数ある。

 

・ある日突然、未来からタイムトラベルをして来た精巧なロボットが現れる。

・そのロボットは、主人公の子孫が未来の悲惨な状況を変えるために

 送りこんだものだった。

・ロボットの持つ能力は圧倒的。

 力自慢の人間でも歯が立たない。

・ロボットの持つ未来の技術を利用しようとする人間も現れる。

・主人公とロボットの間には、不思議な友情が生まれる。

・主人公はロボットの存在に励まされ、困難に立ち向かう。

・最後に、ロボットとの悲しい別れがやってくる・・。

 

あなたは、この漫画をどう思うだろう?

「明らかにターミネーターのパクリだ!」と思うだろうか?

 

この漫画のタイトルは、

ドラえもん」だ。

 

のび太くんの孫の孫のセワシが、

ネコ型ロボット・ドラえもんを現代に送り込むことで、物語が始まる。

のび太が作った借金で子孫が苦しんでいる状況を変えるために送り込まれたのだ。

ドラえもんは、四次元ポケットから次々と便利な道具を取り出す。

いじめっ子のジャイアンも未来の道具には敵わない。

でもスネ夫は、その道具を自分のために使う方法を考え出す。

ドラえもんとの友情に力を得て、少しずつ成長するのび太

そして遂に、涙の別れがやってくる・・・。

 

確かに❝そっくり❞だ。

 

一方で、「ドラえもん」の作者の藤子不二雄氏も反論する。

「「ドラえもん」の連載開始は、「ターミネーター」の公開日より早い!

 パクったのは「ターミネーター」の方だ!」

 

キャメロン氏も負けてはいない。

「脚本はずっと昔に書き上げていた!

 映画にするのが遅れただけだ!

 証拠だってある!」

 

両者一歩も譲らない。

ターミネーターVSドラえもん

未来からやってきたロボット同士の戦い。

その最終決戦の舞台は、現代だ。

そう、今夜に・・・。

ターミネーターのオープニング風)

 

理解の基礎づくり

あなたもお気付きの通り、上記の話はフィクションだ。

 

以前の連載の中で、私はパクリかどうかを判断する方法を説明した。

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この記事の中で書いた、3つの条件は以下の通りだ。


1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

この全てを満たさないと、著作権侵害にはならない。

 

この記事に対して筆者のもとに

「〇〇の作品と△△の作品も似ているのでは?」

「◇◇の事件も騒がれてたけど、どうなの?」

といった声がいくつか寄せられた。

 

どれも、3つの条件によって判断できる事例だったのだが、

もう少し丁寧に説明した方が良さそうだ。

 

今回は、ストーリーもの(漫画、映画、小説など)を扱いながら、

3つの条件のベースとなる「3つの視点」を説明しておこう。

このブログの全ての記事の理解に役立つだろう。

 

 ターミネーターの暴走

 先ほどの「ターミネーターVSドラえもん」の例について、

これがパクリだというのは、いくら何でもおかしい!と、あなたも感じるだろう。

こんなものは、❝ターミネーターの暴走❞だ。

「どっちが先に作ったのか?」の論点は脇においておくとして、

この程度似ているだけで著作権侵害になってしまっては、たまらない。

 

でも、なぜそのように判断するのだろう?

似ているポイントが、あんなに沢山あったのに。

 

ドラえもんんのファンなら、正しく反論することができる。

 

ドラえもんはネコ型だけど、ターミネーターは人間タイプだ!」

ドラえもんは22世紀から来たけど、ターミネーターは21世紀製だ!」

ドラえもんには、他にも魅力的なキャラクターが沢山でてくる!

 ターミネーターに、ジャイ子のような子はいないだろう!」

「日本とアメリカで舞台設定が違う!」

ドラえもんは沢山の短編が集まってできた複合的なストーリーだ!

 2時間で完結する映画とは違う!」

「そもそもテーマが全然違う!」

 

他にも、「違う」と言えるポイントは無数に挙がってくるだろう。

彼らファンの主張は正しい。

つまり、

「似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見よう」

ということ。

これが1つ目の視点だ。

 

「似ている!」「パクリだ!」と騒がれる事件の多くで、

この視点が欠けている。

 

似ている箇所だけに注目して熱くなるのではなく、

1歩後ろに引いてみて、作品の全体像を眺める。

「似ているの部分はどこで、似ていない部分はどこか?

 そして、その部分は作品全体でどんな位置を占めるのか?」

冷静に考えよう。

その上で、じっくり判断すべきなのだ。

 

戦いは大乱戦に

ターミネーターVSドラえもん」の❝悪ふざけ気味❞の設定の続きを、

もう少しだけ見てみよう。

 

アメリカと日本、それぞれの国を代表する偉大なクリエイター同士が、

お互いを「パクリだ!」と言い合い、火花を散らす中、

今度はイギリスから大作家が参戦する。

言わずと知れた「SF小説の父」H・G・ウェルズ氏だ。

既に亡くなっているウェルズ氏だが、

タイムマシーンに乗って現代にやってきたという。

彼はこう主張する。

「そもそもタイムトラベルは、私の小説「タイム・マシン」が元祖だ!

 「ターミネーター」も「ドラえもん」も、私の作品のパクリだ!」

こうして、時空を超えた三つどもえの大乱戦が勃発する・・・

 

あり得ない想定だが、

ウェルズ氏の主張については、どう考えるべきだろう?

 

もちろん先に挙げたように、

「似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見る」

という視点から、それぞれの作品がお互いに侵害ではないと説明することはできる。

 

しかし、少し違う視点で考えてみよう。

それが、

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

という考え方だ。

 

ある作家が、「過去や未来に行く物語を作ったら面白くなりそうだ!」と思いつく。

このアイディアをもとに、ストーリーの展開、登場人物の性格などを考える。

そして、読者を引き込む文章や、カッコいいセリフ回しで物語を表現していく。

こうして完成した小説が発売され、大ヒットする。

 

そうなると、今度は別の作家がタイムトラベルをテーマにして、

全く違う新しい物語を書く。

この新しい小説では、最初の作家には思い付かなかったような、

斬新な着想でタイムトラベルが描かれており、これもまた大ヒットになる。

さらに別の作家がこの小説に刺激され、新たなタイムトラベルの物語を書く。

こうして、「タイムトラベルもの」というジャンルが確立され、

次々と素晴らしい作品が生み出されていく・・・。

 

こうして我々の文化は豊かになってきた。

 

実際、H・G・ウェルズ氏はタイムトラベルの元祖ではない。

(もちろん、ご本人もそんなことは主張しないだろう)

彼が「タイム・マシン」を書くずっと前から、時間を移動する物語はあった。

(「浦島太郎」だって、そんなタイムトラベラーの1人だ)

 

アイディアはみんなで共有しよう。

そうすることで、みんなが豊かになれる。

  

「名探偵ホームズ」だけが推理をしているより、

名探偵ポワロ」も「名探偵コナン」も「金田一少年」も活躍する文化の方が、

はるかに豊かだ。

 

でも、何でも共有してOKってわけじゃない。

越えてはいけない一線は、ある。

作家ががんばって生み出した「具体的な表現」まで共有するのは、やりすぎだ。

ストーリー展開、登場人物、文章表現、セリフ回しなど、

そのほとんどが同じ作品を作ってしまうのは、さすがにアウトだ。

「具体的な表現」だけは、作家が独り占めできるようにして、

作家をパクリから守ろう。

 

このような考え方が、著作権制度の基礎になっている。

 

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

ということ。

 これが2つ目の視点だ。

 

ライオンVSライオン

3つ目の視点を考えるために、今度は実際に騒動になった事例を見てみよう。

 

「パクリだ!」と指摘されたのは、

ディズニーアニメの「ライオン・キング」だ。

 

 この映画は世界中で大ヒットし、

ディズニーアニメ歴代1位(当時)の興行収入をあげた。

 その後ミュージカル舞台化され、その分野でも大ヒットを続けている。

ディズニーの代表作の1つだ。

 

しかし、この「ライオン・キング」に対して、

日本の漫画家やアニメファンの多くから「パクリだ!」という指摘の声があがった。

ジャングル大帝」にそっくりだ!というのだ。

 

ジャングル大帝」は、「マンガの神様」手塚治虫氏の代表作の1つだ。

漫画を原作としたアニメ化もされている。

 

この2つの作品、どのくらい似ていたのだろうか。

ストーリーの類似点は以下の通りだ。

 

・主人公は子どものライオン。

・主人公の父親は、動物たちの王様。

・この父親が悲劇的な死を迎える。

・主人公は、さすらいの旅に出る。そして成長する。

・おさななじみのメスライオンがやって来て、王国に戻るよう主人公を説得する。

・王国に帰還する。

・悪役のライオンを倒し、王位につく。

・おさななじみのメスライオンが妻となる。

 

登場キャラクターの類似点も多い。

 

・主人公の名前が似ている。

 (「ジャングル大帝」のアメリカのテレビ版の名前は、キンバ。

  「ライオン・キング」では、シンバ。)

・長老役のヒヒ(またはマンドリル)。

・おしゃべりな鳥。

・悪役のライオンは黒髪で左目が不自由(または傷がある)。

・悪役の子分はハイエナ。

 

似たようなシーンもある。

 

・冒頭で、様々な動物が一斉にサバンナを進む(集まる)シーン。

・たくさんのフラミンゴが飛ぶシーン。

・王になった主人公が岩の上に立つシーン。

・死んだ父が雲となって現れるシーン。

 

たしかに、❝似ている❞。

共通点が、てんこ盛りだ。

 

しかし、「パクリだ!」と判断するには早い。

似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントもしっかり見よう。

以下の通りだ。

 

・「ジャングル大帝」の主人公は白ライオンだが、

 「ライオン・キング」の主人公は白くない。

・「ジャングル大帝」のアニメシリーズは、全78話の壮大なストーリー。

 「ライオン・キング」と似ているのは、その中のほんの一部に過ぎない。

 全然違うエピソードも沢山ある。

 (先ほどの「ドラえもん」ファンの反論と同じ)

・「ライオン・キング」には、人間が登場しない。

 「ジャングル大帝」では、人間が重要な要素として登場し、

 人間の文明と自然との対立が、テーマとして深く描かれる。

 つまり、テーマが全然違う。

 (先ほどの「ドラえもん」ファンの反論と同じ)

 

他にも沢山の「似てないポイント」が見つかるだろう。

 

また別の視点からも検討しよう。

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

という視点だ。

 

先ほど挙げた共通点のほとんどは、

「具体的な表現」ではなく、「アイディア」に過ぎないことではないだろうか?

 

父を殺された王子が旅に出て、やがて王国に戻り、

父の仇に復讐し、王になる。

こんなストーリーは、昔から多数あった。

ライオン・キング」の基本的な物語の流れは、

シェイクスピアの「ハムレット」にそっくりだ。

(息子の前に父親の幻が現れるシーンだってある)

当のディズニーの「バンビ」も同じ流れで作られている。

 

キャラクターが似ているという指摘に対しても同じことが言える。

動物たちの王様をどんな動物にするか?

ほとんどの人がライオンを選ぶだろう。

悪役の子分役にピッタリなのは、多分ハイエナだ。

こんなものは、アイディアに過ぎない。

 

「どこまでがアイディアで、どこからが表現か?」については、

専門家も頭を悩ます難しいテーマだが、

ライオン・キング」と「ジャングル大帝」の共通点は、

全て、ただのアイディアだ。という主張には説得力がある。

 

ここまで読んで、あなたはどう感じるだろうか?

ライオン・キング」は、

ジャングル大帝」のパクリだろうか?パクリじゃないだろうか?

 

非常に悩ましい問題だ。

専門家でも、すぐには答えられない。

こんなとき、私は「3つ目の視点」で考えるようにしている。

 

「結局のところ、自分はどんな世界で生きていきたいんだろう?」

 

著作権に限らずどんな問題を考えるときでも重要な視点だ。

 

これだけ似ている作品を、自由に作れる世界が良いのか。

それとも、ちゃんと作者に許可をとる世界が良いのか。

 

私は「ライオン・キング」については、

ディズニーのクリエイターが「ジャングル大帝」を見たことがあったかどうか?

に、かかっていると思う。

 

見たことがないのに、たまたま似てしまっただけで逮捕されてしまうような世界で、

私は暮らしたくない。

 

しかし、もしも見たことがあるのなら、手塚氏に許可を取るべきだったと思うのだ。

 

「似てないポイントも多い」「アイディアに過ぎない」という反論もあるが、

全体としては、いくら何でも似すぎている。

先輩クリエイターに何の断りもなく似た作品を作って❝知らんぷり❞できる世界より、

若いクリエイターが、国籍に関係なく偉大な先輩の功績をリスペクトする世界の方が、

素晴らしいと私は思う。

 

ライオン同士の戦いの結末

ディズニー側が、「ジャングル大帝」のことを知っていたのかどうか?

 

ディズニーは「知らなかった」と発表した。

 

しかし、「ジャングル大帝」は1960年代に全米で放送されていた。

その後、ヴェネチア国際映画祭で受賞もしている。

アニメを大好きなディズニーのスタッフが、知らなかったとは考えにくい。

(スタッフのうち数名が「知っていた」と認めた報道もあるようだ)

 

果たして真相は・・・・?

 

しかし、真相は分からずじまいになった。

裁判にならなかったからだ。

 

パクリ騒動の最中に、手塚プロダクションはこう発表した。

 

「ディズニーファンだった故人(手塚治虫)が

 もしもこの一件を知ったならば、怒るどころか

 『仮にディズニーに盗作されたとしても、むしろそれは光栄なことだ』

 と喜んでいたはずだ」

 

こうして騒ぎは治まった。

 

手塚氏は、ディズニーアニメから多くを学んでいる。

手塚氏自身が、偉大な先人ウォルト・ディズニー氏をリスペクトする人だった。

ディズニーが存在しなければ、

手塚アニメの多くも、生れていなかったかもしれない。

そして、手塚氏に学んだ日本のクリエイターたちが、

次々とアニメを作るようになった。

こうして、「ジャパニメーション」と呼ばれる

世界中の人が楽しめる豊かな文化が生み出されたのだ。

 

日米のライオン同士の戦いに決着は付かなかったが、

これはこれで、ハッピーな終わり方だったと言えるだろう。

 

まとめ

今回は、著作権的にパクリかどうか?を判断する上で、

基礎となる「3つの視点」を紹介した。

 

・似ているポイントだけじゃなく、似てないポイントも見よう。

・アイディアはみんなのもの。具体的な表現は作者のもの。

・最後は、どんな世界で生きていきたいか?で判断。

 

以前の記事で挙げた「3つの条件」は以下だ。

 

1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

「3つの視点」と「3つの条件」が、綺麗な対応関係になっているわけではない。

厳密にいうと、食い違う理屈もあるかもしれない。

 しかし経験上、どちらで判断しても、結論は一致する。

 

「美味しい料理を作るコツは?」と聞かれて、

「そりゃ~、食材の良さを引き出すことさ!」と答えても、

「やっぱり、食べてくれる人の顔を思い浮かべて作ることだよ!」と答えても、

どちらも正解なのと同じだ。

 

今後、「3つの条件」の判断で悩むことがあれば、

「3つの視点」で考えてみよう。

 

最後に

ライオン・キング」と「ジャングル大帝」の騒動の事実関係と分析については、

福井健策弁護士の著書「著作権とは何か」(集英社新書)に頼って書いた。

深く感謝します。

ここで述べた私の意見は私自身のものであり、

間違いがあったとしても福井氏に責任は一切ない。

 

この本は、著作権の基礎を学べる上に、制度の根幹に関わる深い洞察が得られる。

お勧めだ。

 

 

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GLAYは「かっこいいアニキ」なのか問題を解決する(2)

前回のまとめ

前回の記事を少し丁寧に振り返っておこう。

 

音楽の世界には3人の権利者がいる。

1.作詞・作曲家

2.歌手

3.レコーディングする人

 

作詞・作曲家は優遇されている。

音楽著作権という権利を持っており、

「コピー禁止権」や「プレイ(演奏)禁止権」などを持つ。

そして、彼らのために働く巨大集金組織(JASRAC)がある。

 

一方で、歌手やレコーディングする人は一段低く扱われている。

著作隣接権という権利を持っており、

「コピー禁止権」はあるが、「プレイ(演奏)禁止権」は無い。

そして、JASRACのような巨大集金組織も無い。 

 

GLAYは、

「結婚式のためなら、著作隣接権を無償にします。

 ただし、音楽著作権についてはJASRACを通じて支払ってください」

と発表した。

 

しかし、著作隣接権には「プレイ(演奏)禁止権」が無いので、

実質的には、彼らは何も無償にしたことにはならない。

理屈上は、会場で流すBGM集を事前に作るときや、

上映する映像のBGMで使うときは、

著作隣接権の「コピー禁止権」が働くことになるが、

そのためにJASRACが集金することはない。

それを無償にしたからといって、GLAYのお財布にほとんどダメージはない。

 

GLAYは自分を❝太っ腹❞に見せかけて、上手くプロモーションをやった。

 

前回の記事は、こんな内容だった。

 

しかし、私はもう少しだけGLAYと彼らのスタッフが何を考えたのか?

を推理してみた。

その結果、GLAYに対する認識が、もう一度変わることになる。

今回の記事では、私の推測に過ぎないことが多いことを、先にお断りしておく。

 

気付き

前回の記事で引用したGLAYの発表文のうち、

ふと気になったのが、この部分だ。

 

GLAYの楽曲を結婚式で使用したいという多くのお客様からのお問い合わせを受け」

 

・・・「多くのお客様」って、いったい何人だったのだろう?

 

コンプライアンス意識の高まっている世の中とはいえ、

会場で流す音楽の権利について、どれだけの人が気にするだろう?

 

有名なJASRACについては、気にする人もそれなりにいるだろう。

しかし、それ以外の権利、つまり著作隣接権についても意識し、

GLAYの事務所にわざわざ問い合わせるような人が、何人いたのだろう?

 

これは、日本人全体で何人いるか?ではなく、

今から結婚式を挙げようと考えているカップルの中で、何人いるか?

という話なのだ。

 

全くの当て推量だが、「年に数人」いるかどうか?

といったところではないだろうか。

 

「年に数人」なのに「多くのお客様」と言っているのだろう!!

などと、つまらない非難をしたいわけではない。

めったに無いような問合せが数件入るだけでも、十分に「多い」と言えるし、

何も嘘をついていることにはならない。

 

「多くのお客様」と言っている以上は、ゼロではない。

発表文から分かることは、

どんなに少なくとも、必ず1人は問合せた人がいたということだ。

 

現場で何が起きたか

それでは、その「お問合せ」の現場では、どのような会話が交わされたのだろう?

 

GLAYの歌の権利について気になった人から電話が入る。

その電話を、GLAYのもとで働くスタッフが受ける。

電話をした人は、おそらくGLAYのファンなのだろう。

JASRACや権利のことについて、曖昧な知識しか持っていないかもしれない。

 

「もしもし。

 このたび結婚することになりまして、GLAYさんの歌を使う許可が欲しくて、

 お電話しました。」

 

「そうですか、おめでとうございます。

 どのように使うのですか?

 ・・・ちなみに、会場でCDを流すだけなら、

 JASRACに手続きしてもらうだけで済みますよ。

 会場の方ですでにJASRACと契約しているかもしれませんね。

 私たちの許可は不要ですから、ご安心ください」

 

「そうなんですか!知りませんでした。

 安心しました。

 実は僕たち、GLAYさんのコンサートで出会ったんですよ!!

 GLAYさんのおかげで結婚できたようなものなんです!

 だから、私たちが出会ったエピソードを紹介するオリジナルの映像を

 作ろうと思っているんです。

 その映像の中でも曲を使おうと思っているんですけど、

 それもOKってことですよね?」

 

「そうですか・・・(それは聞きたくなかった)。

 すみません、それについては、JASRACの手続きだけではダメなんですよ。

 私たちの著作隣接権の許可が必要になってしまうんです」

 

「え!それって、いくらかかるんですか?」

 

「結婚式のための料金設定というものは無いんです。

 私たちの設定している、商業利用のためのコピー料の料金表に当てはめると、

 〇万円になってしまいますね・・・」

 

「そうなんですね・・・。

 残念ですが・・・諦めます」

 

筆者にも似たような経験があるので分かるが、

問合せに答える担当者としては、非常に心苦しいものがある。

わざわざ真面目に問い合わせたために、彼らは諦めるしかなくなってしまうのだ。

そんなこと気にせずに使っちゃっている人は、いくらでもいるのに。

まさに❝正直者が馬鹿をみる❞という状態だ。

 

しかし、どんなに心苦しかったとしても、 

「聞かなかったことにするので、使っちゃってください」とは言えない。

著作隣接権は、GLAYが苦労して手に入れた財産だ。

担当者の気持ちひとつで、簡単にタダにして良いものではない。

 

GLAYの選択

年に数件あるかないかの一般の人からの問合せが、

わざわざGLAYのメンバーに報告されるようなことは、

通常なら無かったかもしれない。

 

しかし、何かのきっかけでメンバーの耳に入ったのだろう。

先ほど電話に出た担当者が、

「ブライダル向けの格安料金表」を正式にメンバーに提案したのかもしれないし、

「いっそ無償にしましょう」と提案したのかもしれない。

 

そのとき、前回の記事で想像したような会話があった可能性もある。

 

「提案の主旨はわかった。

 今までは、それでいくら儲かってたの?」

「実は・・・今まではゼロ円なんです」

 

このとき、GLAYは何を考えたのか。

 

実質ゼロ円のものを「無償で提供する」と発表することのリスクも、

分かっていたのではないか。

誰かから発表内容にツッコミを入れられ、評判を落とす可能性もあった。

(前回の私の記事のように)

 

しかし、彼らは

「OK。無償にしよう。

 そしてそれを発表しよう」

と答えたのだ。

 

問合せをしたせいで、彼らの歌を使うことを諦めたファンがいた。

そう聞いたアーティストが、最初に考えることは何か?

そのファンの気持ちだろう。

 

自分たちの歌を、人生の大切なシーンで使いたいと言っているファン。

自分たちが苦労して手に入れた権利、

しかも、著作隣接権という少しマイナーな権利のことまで気にして、

律儀に許可を求めてきてくれたファン。

このファンを、誰よりも大切にしたい!

そう考えたのではないか。

 

この発表でイメージが上がるかどうかなんて、関係ない。

むしろ、「イメージアップしたくて嘘をついている」と非難されるかもしれない。

でも、そんなこと気にしない。

もちろん、JASRACのことも、JASRACを嫌いな人のことも、眼中にない。

そんなことは関係ない。

全国に数万から数十万人はいるであろうファンのことも、意識していなかった。

彼らは、問合せをしてくれた、律儀で、真面目で、一直線な、

数組のカップルだけのために、日本中に向けてメッセージを発したのだ。

「いつもありがとう。

 俺たちの歌、好きに使ってくれ!」と。

 

このメッセージは、先ほどの問合せをしたファンに、確実に届いたはずだ。

GLAYが、僕たちだけのために返事をしてくれた!

 嬉しい!ありがとうございます!!」

 

こうして、彼らだけに分かる❝会話❞が成立した。

 

そして、問合せをしたファンが数人だったとしたら、

その背後には、「問合せもせずに諦めたファン」も結構いただろう。

そんなファンにも、GLAYの発表は最高のニュースなったに違いない。

 

いくつかの論点

読者には、いくつか気になる点があるかもしれないので、

想定される疑問に答えておこう。

 

まずは、

著作隣接権だけじゃなく、音楽著作権の方も無償にしたら良かったんじゃないの?」

という点だ。

 

GLAYは、著作隣接権の方は無償にしたが、

JASRACには今まで通り料金を支払ってくださいと発表しているので、

この疑問は、ごもっともな疑問だ。

 

しかし、GLAYサイドとJASRACの契約の期間は、数年単位になっているはずだ。

思いついてすぐに、「音楽著作権の方も無償にします!」と言えるような話ではない。

しかも、「ブライダル利用だけに限って使用料をとらない」というような、

細かいニーズに対応できる契約形態を(筆者の知る限り)JASRACは持っていない。

だから、音楽著作権の方は無償に出来なかったのだ。

 

次の疑問は、

GLAYの発表文は、❝かなりの金額をファンのために諦めた❞かのように読める。

 ミスリーディングを意図的に誘っているのでは?」

という疑問だ。

 

彼らの発表した文章は、たしかにすごく誤解を呼びやすい。

発表文をつくった担当者の頭の中に、

「あわよくば、これでイメージアップしよう」という気持ちが、

全くなかったとは断言できないのも確かだ。

 

しかし、発表文の中に嘘は1つも無い。

著作隣接権」などと小難しい言葉を使っているので分かりにくいが、

説明自体は正確だ。

これを一般の人にも分かりやすく説明しようとしたら、

相当に読むのが面倒くさい文章になっていたことだろう。

 

それに、この発表文を届けたかった相手は、

「一般の人」ではなく、「問合せをしてくれた大切なファン」なのだ。

彼らには、十分伝わる文章になっていると思う。

 

GLAYの印象

今回の記事の内容は、ほとんどが私の推測に過ぎない。

 

しかし、GLAYは、もともとは印刷物だったファンクラブの会報を、

いち早くデジタル化したアーティストだ。

ファンとの向き合い方を常に模索している。

それに、とっくの昔に、名声も財産も手にしているのだ。

 

評判やお金ではなく、ごく限られたファンのことを考えた決断だったという推理は、

かなり真実に迫っているのではないだろうか。

 

GLAYは、権利関係やリスクを冷静に把握したうえで、巧みな広報を行い、

たった数人のファンに感謝のメッセージを届けた。

 

今、私はGLAYのことを、こう考えている。

 

「さすがアニキ!かっこいいぜ!!」

 

最後に

もしあなたが結婚式を予定してるのなら、

会場で使いたい曲は決まっているだろうか?

 

著作隣接権も含めて、❝正しく❞使いたいのなら、

ISUM(音楽特定利用促進機構。アイサム)という組織がある。

https://isum.or.jp/

 

この組織と提携している式場や映像制作業者なら、

正式な許可のもとで音楽を利用することが可能だ。

 

全ての音楽を取り扱っているわけではないが、

つい先日引退した安室奈美恵氏の「CAN YOU CELEBRATE?」をはじめ、

結婚式の定番ソングも数多くあるので、チェックしてみよう。

 

www.money-copyright-love.com

GLAYは「かっこいいアニキ」なのか問題を解決する(1)

GLAYの印象が変わった

人気ロックバンドのGLAYが、

「自分達の曲を結婚式に使用する場合は、料金をとらない」

と発表した。

 

これを受け、ネット上では

GLAYかっこいい!」

「アーティストの鑑(かがみ)!」

といった賞賛の声が多数あがった。

 

しかし、このニュースを見たときの筆者の第一印象は、

GLAYの皆さん、セコイことやってるな~~」

だった。

 

今回の記事では、なぜ筆者がそう考えたのか説明しよう。

この連載を読めば、「複雑で分かりにくい」と言われている音楽業界の権利関係を、

ざっくり理解することが出来る。

そして、あなたのGLAYに対する印象が、2度、変わることになるだろう。

 

GLAYの発表

そのころ、世間ではJASRAC日本音楽著作権協会ジャスラック)に対する反感が高まっていた。

JASRACが、ヤマハ音楽教室などの音楽教室に対して著作権の使用料を要求しているというニュースが継続的に流れていたからだ。

多くの人がJASRACに対して

「子どもたちが音楽に触れる場所からも、お金をむしり取る欲深い団体」

という、悪いイメージを持っていた。

ネット上ではJASRACのことを

さげすんで呼ぶ「カスラック」という言葉も踊っていた。

 

そんな雰囲気の中、国民的な人気アーティストのGLAY

「料金をとらない」と宣言したのだ。

インパクトは大きかった。

 

大切な部分なので、2017年12月10日の彼らの発表内容を全文引用する。

 

GLAY及び有限会社ラバーソウルは、

 GLAY名義で発表しているGLAY楽曲をブライダルで使用する場合に限り、

 著作隣接権について使用者からの料金を徴収しないことを報告させて頂きます。

 GLAYの楽曲を結婚式で使用したいという多くのお客様からのお問い合わせを受け、

 メンバー自身も

 「結婚式という人生の素晴らしい舞台で自分達の曲を使用してもらえる事は

  大変喜ばしいことであり、それであれば自分達は無償提供したい」

 という思いから、今回、ブライダルで使用する場合に限り、

 著作隣接権についての無償提供をさせて頂く運びとなりました。

 つきましては、使用法により演奏権と複製権の使用料を各管理団体

 (「JASRAC」or「NexTone」)にお支払いいただくこととなります。

 ブライダルでGLAY楽曲を使用する場合は、

 有限会社ラバーソウルへ申請していただく必要はありません。

 使用希望の楽曲につきまして、SONG LISTより著作権管理団体の区分をご確認の上、

 下記をご参照いただき、お手続きくださいますようお願いいたします。

 (注記は筆者の方で省略)」

http://www.glay.co.jp/news/detail.php?id=2633

 

この発表を知った人々は、ネット上に以下のような書き込みをした。

GLAY素晴らしいですね!!」

「良い人たち!」

GLAYは大人の対応!JASRACは何のために存在するの?」

「余計にカスラックのクソさが際立つ」

 

俺たちのアニキたちが、JASRACに反抗して、声をあげてくれた!

さすがはGLAY、かっこいいぜ!

・・・と言いたげな反応だ。

 

しかし、彼らは勘違いしている。

音楽業界の権利関係を理解すれば、何が勘違いなのか分かる。

 

音楽業界の3人の登場人物

 まずは、音楽業界の権利関係を、大まかに説明する。

 

あなたが音楽を好きなら、ストリーミング等で配信されてくる歌や、CDに収録されている歌などを聴いているだろう。

この歌は、3人の(3種類の)人たちが協力して作っている。

 

まず1人目は、歌を書いた人。

つまり、「作詞・作曲家」だ。

安室奈美恵氏に楽曲提供していた小室哲哉氏をイメージすれば良い。

まずは彼が曲を書かないと、何も生れない。

 

2人目は、もちろん、歌手だ。

安室奈美恵氏がこれにあたる。

ここでは、安室氏のバックで演奏するバンドマンも合わせて「歌手」と言っておこう。

歌手の熱唱・熱演があるから、感動が生まれる。

 

もしあなたが幸運にもチケットを手にしてライブ会場にいるのなら、

上記の2人さえいれば、歌を楽しむことができる。

 

しかし、ライブ会場ではなく、自宅で日常的に配信やCDで歌を聴きたいのなら、

もう1人必要だ。

それが3人目の登場人物、「レコーディングする人」だ。

安室奈美恵氏の歌の例でいえば、❝エイベックスの人❞のようなイメージで良い。

レコーディングスタジオや技術スタッフを手配し、費用を支払う人がいないと、

世界中の沢山の人に歌を届けることは難しくなる。

 

これで、3人の登場人物が出そろった。

1.作詞・作曲家

2.歌手

3.レコーディングする人

 

権利の世界で、彼ら3人が平等に扱われているだろうか?

「そりゃ~、アーティストなんだし、Love & Peaceなんだから、

 みんな平等に決まってるじゃん!」

と思うかもしれないが、そうではない。

 

 そこには、明確な「差別」というか、「区別」が存在する。

「作詞・作曲家」だけが偉くて、

「歌手」と「レコーディングする人」は、一段低く扱われている。

 

古代社会で、元からいた市民は「一級市民」とされ、

後から参加した市民は「二級市民」として扱われたのに似ている。

著作権の歴史では、最初に作詞・作曲家の権利が認められた。

その後で、歌手、レコーディングする人の権利が認められたので、

与えられる権利に差が付けられたのだ。

(作詞・作曲家だけが「無」から「有」を生み出しているので偉いのだ!

 と説明する人もいる)

 

権利の差

では具体的に、どのような「区別」があるのか?

 

例えば、「プレイ(演奏)禁止権」という権利がある。

人がその音楽をプレイ(演奏)するのを禁止できるという強力な権利だ。

 

作詞・作曲家は、この権利を持ってる。

彼らの許可なく、コンサートで彼らの歌を演奏したり歌ったりすることはできない。

彼らの許可なく、お店でCDをプレイして歌を流すこともできない。

 

一方で、歌手、レコーディングする人は、

この「プレイ(演奏)禁止権」が与えられていない。

だから、彼らの許可がなくても、

彼らが熱唱し、彼らがレコーディングした歌のCDを、

お店で流すことができる。

 

これが、作詞・作曲家と、歌手、レコーディングする人の「区別」の一例だ。

 

ちなみに、「コピー禁止権」という権利もあり、

この権利は、3者全てに与えられている。

CDに収録されている歌をコピーするときは、

3人の全てに許可を得ないといけないのが原則だ。

 

巨大集金組織

法律上の扱いの他にも、大きな差がある。

 

作詞・作曲家には、彼らのために日々働いてくれる巨大組織がある。

それが、JASRACだ。

全国津々浦々にある小さな商業施設の1件1件と契約し、

使用料を徴収するという地道で手間のかかる作業を、

作詞・作曲家に代わって行っている。

 

歌手やレコーディングする人には、そういう団体は無い。

(業界団体はあるが、JASRACとは規模が違う)

上記の例でいうと、

JASRAC小室哲哉氏のために全国から集金することはあっても、

安室奈美恵氏やエイベックスのために働くことは一切ないということだ。

 

歌手やレコーディングする人が全国の小規模な業者から使用料を集めようと思うなら、

細かい事務作業を全て自分でこなさないといけない。

日本レコード協会という団体が、一部そのような業務を引き受けているが、

 JASRACのように積極的な集金作業をやっているわけではない)

 

音楽の権利関係のまとめ

まとめると、こういうことだ。

 

音楽の世界には3人の権利者がいる。

1.作詞・作曲家

2.歌手

3.レコーディングする人

 

作詞・作曲家は優遇されていて、

歌手やレコーディングする人が持っていない権利をもっている。

例えば、「プレイ(演奏)禁止権」。

 

作詞・作曲家には、彼らのために働く巨大集金組織(JASRAC)があるが、

歌手やレコーディングする人には無い。

 

ちなみに、作詞・作曲家の権利を「音楽著作権」と言い、

歌手とレコーディングする人の権利を

著作隣接権(ちょさくりんせつけん)」と言ったり、

「原盤権(げんばんけん)」と言ったりする。

覚えておこう。

 

GLAYは、上記3種類の登場人物のうち、誰にあたるか?

作詞・作曲はGLAYのメンバーが自分でやっているので、「作詞・作曲家」だ。

もちろん、自分で歌い演奏しているので、「歌手」でもある。

そして、「レコーディングする人」の権利を

メンバーの個人会社で買い取っているので、「レコーディングする人」でもあるのだ。

音楽の世界の3種類の登場人物の全てを兼ねていることになる。

 

彼らの発表の意味

ここでやっと、冒頭の話に戻る。

 

GLAYはこう発表した。

「結婚式で私たちの曲を使いたいという声が多い」

「結婚式という素晴らしい場で使ってもらえるのは、私たちも嬉しい」

著作隣接権を無償でOKにします」

「音楽著作権の方はJASRACに使用料を払ってね」

 

つまり、

「歌手」と「レコーディングする人」の権利はタダにします!

「作詞・作曲家」の権利は、これまで通り!

ということだ。

 

GLAYJASRACを否定していない。

「作詞・作曲家」の権利は、これまで通りJASRACを通じて集金しているので、

むしろ、JASRACを活用していると言える。

 

そして、ここまで読み進んできたあなたは、重要なことに気付いているかもしれない。

 

結婚式の会場で、GLAYのCDを流すときに働く権利は、「プレイ(演奏)禁止権」だ。

この権利を持っているのは誰だったか?

そう。「作詞・作曲家」だけだ。

「歌手」と「レコーディングする人」は、この権利を持っていない。

 

GLAYは「著作隣接権を無償でOKにします」と言っている。

つまりGLAYは、

そもそも存在しない権利を「無料でOKですよ!」と言っていることになる。

 

先にも書いたとおり、「歌手」と「レコーディングする人」も、

「コピー禁止権」は持っている。

だから、会場で流すBGM集を自分で事前にコピーして作るときや、

新郎新婦を紹介する映像のBGMとして事前に映像にコピーするときは、

この権利が働くことになる。

 

しかしそれは理屈上の話だ。

「歌手」と「レコーディングする人」は、

JASRACのような巨大集金組織を持っていない。

GLAYの事務所の人は、

全国の結婚式会場の1件1件をまわり、契約し、集金するような手間のかかることは、

そもそもやっていなかったはずだ。

 

GLAYの発表を知ったときの筆者の第一印象が、

GLAYの皆さん、セコイことやってるな~~」

だったというのは、こういうことだ。

そもそも存在しない商品を「タダにします!」とアピールしておいて、

存在する商品(音楽著作権)の方で、しっかり稼ぐという姿勢が見えたのだ。

 

もしも「スマイル0円」で有名なマクドナルドが、こう発表したら、

あなたはどう思うだろう。

 

「お客様から大人気なので、

 当社の商品、「スマイル」を無料にすることを決定しました!

 ただし、ビッグマックやマックシェイクなどの商品には、

 これまで通りお金をお支払いください」

 

「いやいや!

 スマイルって、もともとダタですやん!」

と即座にツッコミを入れるのではないだろうか?

 

GLAYの場合、「著作隣接権」のような難しい用語を使っているので、

ほとんどの人にとって、この❝ツッコミどころ❞が分からない。

その分、タチが悪い。

 

ファンたちは、GLAYのアニキの❝太っ腹❞に感激し、

結婚式でGLAYの曲を使いまくる。

GLAYJASRACを通じて集金し、しっかり儲けることになる。

上手い❝プロモーション❞を考えたものだ。

 

ファンの反論

GLAYのファンはこう言うかもしれない。

「メンバーはアーティストなんだから、

 そんな著作権の難しいことを分かっていなかったはずだ!」

「マネージャーか誰かの悪だくみに騙されているだけだ!」

 

しかし、私はそうは思わない。

先にも書いた通り、彼らは「レコーディングする人」の権利を、

自らの会社で買い取っている。

これは、音楽業界でそれほど一般的なことではない。

どんな事情があったのかは知らないが、彼ら自身の意思で、

「自分の音楽の権利は、自分で管理したい!」という決断をしている。

権利の買い取りのために、相当な苦労もしただろう。

音楽の権利関係についても、かなり勉強したはずだ。

 

仮に、「プレイ(演奏)禁止権」を

歌手とレコーディングする人が持っていないことに気付いていなかったとしても、

マネージメント・サイドから、

著作隣接権を無料にしましょう」と提案されたときに、

「今までは、それでいくら儲かってたの?」

と質問することは出来たはずだ。

「実は・・・今まではゼロ円なんです」

と答えを聞かされたとしたら、

GLAYのメンバーは、どう考え、何を判断したのか・・?

 

というわけで、筆者のGLAYに対する印象は、かなり悪くなってしまった。

「カラオケで「HOWEVER」と「口唇」を

 喉が枯れるまで熱唱した若かりし日々を返してくれ!」

という気分だった。

 

しかし、である。

もう少しだけ、「現場で何が起こっていたのか?」を丁寧に推理してみたところ、

GLAYの印象が、もう一度変わることになった。

それも、一味違う方向に印象がガラリと覆ったのだ。

 

次回はこれについて説明しよう。

 

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迫る東京オリンピック!今こそ、あの「パクリ疑惑」のモヤモヤを解消する(7)

最初からこうしていれば・・・

前回までの記事で、

東京オリンピックエンブレムのパクリ疑惑、ネットを中心に広がった狂騒、

大会組織委員会(以下、組織委)のミスと敗北の顛末を見てきた。

 

今回は、

「組織委は最初からこうしていれば良かったのに・・」という方法を紹介する。

 

「問題が起きた後なら、結果が分かっているから何とでも言える」

「部外者なら、無責任にどんなことでも言える」

といった批判はあるだろう。

 

しかし、今後同じような事件が起きたときのために、

「もしもあの時こうしていれば」をシミュレーションすることは有効だろう。

同じ悲劇を二度と繰り返してはいけない。

 

ストレートな方法

以前の記事でしつこく説明したが、佐野氏が作ったエンブレムに、

法的な問題は何もなかった。

それでも炎上が拡大してしまったのは、商標権、著作権などの法律の仕組みが、

一般の人には伝わりにくかったからだ。

そのため、法的根拠のない「何となく似ている」という印象が拡散することを

止めることができなかった。

このポイントに的を絞った対策を打てていれば、

あの事件の結果は全く違ったものになっていただろう。

 

2つの方法を提案したい。

1つは、ストレートな方法。

もう1つは、少しズルい❝変化球❞の方法だ。

 

まずは、ストレートな方法から説明する。

この方法は簡単だ。

マークというものの本質を、赤裸々に説明してしまうのだ。

 

「マークというのは、文字や記号の組み合わせにすぎません」

「誰でも同じ物を作れます」

「似たものがあっても全く不思議はないんです」

「だから、このエンブレムに似たものがあるのも当前です」

 

このようなことを、記者会見で堂々と言い放ってしまえば良いのだ。

 

実際に、この「ストレートな方法」が採用された事例がある。

採用したのは、舛添要一氏だ。

当時は東京都知事だった。

 

エンブレムの騒動から間もない2015年10月、

1つの指摘がネット上を騒がせた。

東京都のキャンペーンで使用している「& TOKYO」のロゴが、

フランスの眼鏡ブランドのロゴと似ている!という指摘だ。

 

上が東京都のロゴ、下がフランスの眼鏡ブランドのロゴだ。

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この指摘に対して、舛添氏は10月13日の会見でこう述べた。

 

「一所懸命探されたかもしれないけど、ごまんとあります。こういうのは。

 記号ですから」

「ごまんとあるので、著作権の対象にならないのです。

 だから、もっと見つかってもいいのです」

「全く問題ない」

 

ここまで連載を読んできたあなたなら分かるだろう。

舛添氏の言っていることは、完全に正しい。

マークというものの本質を、ストレートに、赤裸々に説明している。

この会見のおかげか、騒ぎはすぐに治まった。

 

組織委も、会見で同じことを言えば良かった。

 

しかし、そうできなかった事情も分かる。

何しろ、国を挙げた一大イベントだ。

それを象徴するエンブレムに対して

「こんなもの、誰でも作れる」

なんてことは、口が裂けても言えなかったのだろう。

 

 

私は、真実を言ったからといって、

エンブレムを❝貶める❞ことにはならないと思う。

実際、佐野氏のデザインは素晴らしいものだった。

 

佐野氏がオマージュしたという1964年の東京オリンピックのエンブレムは、

もっともっとシンプルで、❝誰にでも作れる❞ものだった。

f:id:keiyoshizawa:20180812172751p:plain

コンパスさえあれば、誰にでも作れるデザインだ。

このエンブレムには、価値がないだろうか?

いや、間違いなく価値がある。

 

あの時代、あの場所、あの大会の象徴として、

このデザインを選んだデザイナー、審査員は凄い。

大会への思いが圧倒的に伝わってくる。

誰でも作れる可能性があるからといって、

「このデザインにしよう!」と決断することの価値は減らないのだ。

 

変化球の方法

組織委は、ストレートに説明する方法をとれなかった。

そんなときに提案したいのが、少しズルい❝変化球❞だ。

 

まずはこのマークを見てほしい。

f:id:keiyoshizawa:20180917141639p:plain

これは、オンラインマガジン「trendland」のロゴマークだ。

https://trendland.com/

 

こちらの記事によると、このロゴが公開されたのは、

リエージュ劇場のロゴが公開されるよりも数年早い時期だったそうだ。

https://column.tokyo/tokyo-olympic2020-logo/

 

「trendland」のロゴは、リエージュ劇場のロゴに非常に❝似ている❞。

f:id:keiyoshizawa:20180812174438p:plain

 

組織委は、こっそりと「trendland」に連絡をとり、

リエージュ劇場のロゴを「パクリだ!」と

SNS等で大騒ぎしてもらえば良かったのだ。

 

もちろん、こんなものパクリでも何でもない。

仮に裁判になったとしても勝てないだろう。

しかしマスコミやネット上の人々は、面白がってこのネタに飛びつく。

 

「trendland」以外にも、似たマークはいくらでも見つかる。

それらのデザイナーや企業から、「パクリだ!」と次々に声をあげてもらう。

ネット上は大騒ぎになるだろう。

 

組織委が裏で手を回していることがバレたら、

「卑怯な手をつかっている!」と、また炎上するかもしれない。

それでもくじけない。

全てはエンブレムと佐野氏を守るためだ。

 

そのうち、多くの国民が気付く。

「こんなことで似てる似てないを争うのは・・・馬鹿らしい」と。

 

これこそ、商標権、著作権の制度の本質が、一般の人に伝わった瞬間だ。

以後、こんな騒ぎは二度と起きなくなっていただろう。

 

1.ストレートな方法で、赤裸々に説明する。

2.変化球を使って、他の似たマークを次々と登場させる。

どちらの方法も、十分に有効だったはずだ。

 

最後に

以上で7回にわたった連載は終了だ。

最後にポイントをまとめよう。

 

・エンブレムには何の問題もなかった。

・組織委の対応に、法的な面での失敗はほとんどなかった。

・訴えられても、世間に嫌われても、正義があるならブレてはいけない。

・信じた相手を守るという覚悟が大事。

 

今回の事件からは、クリエイティブ業界に広く通用する教訓が得られた。

 

シンプルにまとめると、こういうことだ。

 

「自信をもっていこう!」

 

 

感謝と今後

エンブレム騒動の法的な分析と、組織委の会見の解釈については、

TBSテレビの日向央氏が「調査情報」で連載している

「意外と知らない著作権AtoZ」を、大いに参考にさせていただいた。

日向氏の著作権に対する飽くなき探求心からは、いつも刺激をいただいている。

 

訴訟に対する態度と、炎上したときに検討すべき選択肢については、

青山綜合法律事務所の照井勝弁護士の講演「権利侵害と❝パクリ❞の分水嶺」から、

全面的に学ばせていただいた。

知的財産に関するトラブルがあれば、照井氏に相談すれば間違いない。

 

両氏に深く感謝します。

 

ここで述べた私の意見は私自身のものであり、

間違いがあったとしても両氏に責任は一切ない。

 

今後も、クリエイティブ業界、エンタメ業界で働いている人や、

業界を目指す人の役に立つ記事をアップしていく予定だ。

 

 

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