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日本語、その愛しさと切なさと心細さと(2) われわれは日本語を捨て英語に乗りかえるべきなのか?

令和!

元号が発表された。

「令和」!

 

やはり漢字2文字はしっくりくる。

私も日本人の感覚を持っているようだ。

 

ところが、海外の一部のメディアでは

誤解や批判とともに報道されているようだ。

 

「「令」は「命令・指令」という意味だ」

「「和」がレイということは、平和ゼロということか?」

 

これに対し外務省が

「令和とは「Beautiful Harmony=美しい調和」という趣旨だ」

と伝えるように在外公館に指示したという報道もある。

 

●令和は「Beautiful Harmony」外務省が英語の趣旨説明

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190403-00000046-mai-pol

 

いやいや!

国が自ら「Beautiful Harmony」なんて言っちゃうと、

わざわざ偉い学者さんや有識者を集めて

歴史ある古典から深い含蓄のある漢字をひっぱってきた意味が無くなるじゃん!

「Beautiful Harmony」なんて、そんな軽い言葉に言い換えちゃっていいの!?

英語に翻訳しきれない意味が込められてるから有難みがあるんじゃないの!?

自分で自分の元号をおとしめるようなことしちゃダメじゃん!

とツッコミを入れたくなるような顛末になってしまった。

 

残念だったのは、海外の一部の人に誤解されたことではない。

違う文化圏の人に誤解されるのは、よくあることだ。

本当に残念なのは、これらの誤解や批判に対して、

英語や中国語など相手の言葉を使って正しく反論できていた言論人が

私の見渡した限りでは見当たらなかったことだ。

 

日本と相手国の歴史・文化を深く理解した上で、

ユーモアを交えて巧みに認識の間違いを指摘し、

格調高くしっかりと読ませる文章を相手の国の言葉で発表して反論する。

そんな高度な能力をもった文化的・言語的エリートが全然足りていない。

 

そんなことを実感した。

 

いずれにせよ、新しい時代が始まる。

過去に感謝しつつ、清々しい気分で令和の朝を迎えたい。

 

日本語の未来

前回の記事では、

漢字との深い関わりの中で日本語がたどってきた道のりを見てきた。

 

今回は「全世界共通語」になりつつある英語と、

日本語の未来について考えてみたい。

 

いくつかの映画や本を紹介しながら話が進むので、

回り道に感じる読者もいるかもしれないが、脇道にそれずに行きたいと思う。

 

『ブレイブハート』

映画『ブレイブハート』を観たことはあるだろうか?

1995年のアメリカ映画でメル・ギブソンの主演・監督。

スコットランドの独立のためにイングランド相手に戦った

実在の英雄ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた歴史大作だ。

 

 

迫力の戦闘シーン、胸にせまる感動のラストなど見どころは多いが、

一番見逃せないのは映画中盤の、とある場面だ。

フランスからイングランド王家に嫁いできた美しいお姫様のソフィー・マルソー

戦争に明け暮れるメル・ギブソンに出会う。

当時、フランスから見ればイングランドは田舎だ。

スコットランドともなれば辺境のド田舎という感覚だったろう。

そのド田舎の武将であるメル・ギブソンが、

交渉の席で急にラテン語とフランス語を流ちょうにしゃべりだすのだ。

お姫様はびっくりしてしまう。

ラテン語といえば当時のヨーロッパの知識人にとっては一番格式の高い言葉だし、

フランス語も高級な言語として地位を上昇させていた言葉だ。

見た目はワイルドな男がそんな上等な言葉をペラペラとしゃべるもんだから、

ソフィー・マルソーは「ギャップの魅力」にコロリとやられてしまう。

最終的にはメル・ギブソンの子供を身ごもるところまで行ってしまうのだ。

 

映画のこの部分は実はフィクションなのだが、

現代に生きる我々からみてもヒロインの心の動きに不自然さは感じない。

 

これを現代に例えるなら、

東京で何不自由なく育ち、留学も経験し、

港区の外資系の企業に勤めていたステキな女子が、

実家の都合で田舎の村に嫁がされフテ腐れていたところ、

そこで出会った田舎弁丸出しの泥臭い男が実は英語ペラペラだったのを知り、

「まぁステキ♡」となるようなものだ。

すぐ恋には落ちなくても「あら、やるじゃない」ぐらいにはなるだろう。

英語力によって男の評価は確実にあがる。

 

もし男がしゃべる言葉が英語ではなく

ベトナム語タガログ語だったりしたらどうだろう?

ベトナムやフィリピンの人には申し訳ないが、

「まぁステキ♡」となる可能性はかなり低くなるのではないだろうか・・?

 

『ブレイブハート』から我々が学べる教訓はこうだ。

英語をしゃべれるとモテる。・・・・ではなく、

言語には序列がある。上下関係がある。ということだ。


言葉そのものの優劣の差はあまり関係なく、

その言葉を使っているグループ、民族、国が強いかどうかで、

言語の序列は決まる。

 

「全ての言語は尊いものです!その価値は同じです!」

と必死で言いたがる人も多いが、本気でそれを信じている人は少ない。

ソフィー・マルソーにとってはイングランドスコットランドの言葉より

ラテン語やフランス語の地位の方が上だし、

港区女子にとっては日本語やタガログ語より英語の方が上なのだ。

 

バイリンガル教育の方法』

言語の上下関係については、先入観のない子供の方が敏感かもしれない。

 

バイリンガル教育の方法―12歳までに親と教師ができること』という本は、

自身も子供をバイリンガルに育て上げた語学教育の専門家の著書だ。

「留学させる場合」「親がバイリンガルの場合」

母語がマイナーな言語の場合」など、

さまざまな場合ごとの最適な語学教育を解説している。

子どもをバイリンガルに育てたい親にとっては参考になる本だ。

 

 

この中で印象的なのは、親に注意を促す部分だ。

 自分の母語(つまり日本人にとっての日本語、ベトナム人にとってのベトナム語)が

その地域でマイナーな言語として扱われおり、

メジャーな言語(たとえば英語)が幅をきかせている場合、

放っておくと子供はすぐに母語を話さなくなり

親とのコミュニケーションが取りにくくなるという。

 子供をバイリンガルに育てたいのなら、

「学校では英語。家ではベトナム語」のように、

はっきりと使う言葉を切り分けないといけない。

この注意点は何度も繰り返し説かれている。

 

子供たちは大人が無意識に理解している言語の上下関係を

敏感に感じとっている。

彼らは「序列の低い」言葉には見向きもしなくなり、

より「序列の高い」言葉を積極的にしゃべるようになっていくのだ。

 

私小説 from left to right』

より上のレベルの言葉を求める子供がいる一方で、

その言葉にはどうしても馴染めない子供もいる。

 

それが分かる本が『私小説 from left to right』だ。

 著者は小説家、評論家の水村美苗氏。

 彼女が自分の半生を振り返った内容になっている。

 

 

 戦後間もない日本。

アメリカに対する憧れが充満していた時代に、

彼女は12才で親に連れられて渡米する。

そしてアメリカの学校で教育を受ける。

もちろん英語で。

当時のほとんどの日本人にとっては

「なんとうらやましい!」と言いたくなるような環境だ。

 

しかし彼女はどうしても英語が好きになれなかった。

能力が足りなかったわけではない。

それは彼女がのちにアメリカの大学で文学を教えるようになったことからも

明らかだ。

ただどうにも英語が受け付けなかったのだ。

周囲を英語に取りかこまれ苦しんだ彼女は、日本の小説に救いを見出す。

学校から帰り、自宅にたまたまあった日本近代文学全集をひたすら読むことで、

心の安らぎを得ていた。

アメリカ人よりも樋口一葉二葉亭四迷夏目漱石たちと深く対話しながら

自分をはぐくんでいった。

「日本語を読むことを命の糧としていた私にとって、日本語という言葉に喚起される物や心の形を共に味わえぬ人間は、魂の奥底深くまでは互いに入りこみえない、自分とは縁のない人間だとしか思えなかった。」

とまで書いている。

 

そんな彼女の半生を描くこの小説は、

日本語と英語が入り混じった文章で書かれている。

何とも不思議なstyleの文章なのだが、

だからこそ彼女の置かれていた「いびつな」環境がdirectlyに伝わってくる。

全てを日本語で書かれていたら、または全てEnglishで書かれていたとしたら、

こんな読書体験をすることは出来ないだろう。

 

英語を素直に受け入れず、おかしな育ち方をしたからこそ、

こんなにユニークな小説が生まれたのだ。

 

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』

 そんな水村氏が日本語について真正面から書いた本が

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』だ。

 

アメリカで育った彼女にしか持てない目線から、

言葉についての深い洞察を与えてくれる。

 

特に彼女が命の糧を得ていたという近代文学について書かれた第五章は、

夏目漱石への愛がほとばしり出ていて、

ひたすらに深く、熱く、そして悲しい。

必読だ。

 

 

 ぜひ読んでほしい本だが、ここでは私なりに要点を紹介しよう。

 

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大昔に人類が「言葉」を生み出して以来、

言語は「普遍語」と「現地語」に分けられていた。

 

「普遍語」とは、その文明圏で多くの人が使う共通語。

高度な思考をあやつれるレベルの高い言葉で、

知的エリートが物を書くとしたら当然に使われるべき言語のことだ。

東アジアでの普遍語は歴史上ずっと中国の言葉つまり「漢語」だった。

ヨーロッパでの普遍語は長いあいだ「ラテン語」だった。

 

「現地語」は、それぞれのエリアで日常的に使われる言葉。

文字を読めない人でも普通に会話で使う言葉で、

文明圏全体から見るとローカルでしか使われていない言語のことだ。

昔の日本列島や沖縄に住んでいた人が使っていた言葉つまり、

今でいう「日本語」や「アイヌ語」や「琉球語」は現地語になる。

 

現地語(例えば日本語)をネイティブな言葉として生まれ育った人は、

普通なら現地語だけを使って一生を終える。

ただし、一部の知的エリートだけは普遍語(例えば漢語)を学び、

普遍語で書かれた書物から過去のすぐれた知識を得ていた。

そしてそのエリートが、学問上の重要な考えを書き残そうと思えば、

当然のように普遍語で書いた。

こうして普遍語の「図書館」には、多くの素晴らしい知識が積み重なってゆく。

学問とは本来、世界中の人と知識を共有するためのものだ。

重要なことは普遍語で書く。これは当たり前のことだった。

 

普遍語と現地語。

つまり言語には序列・上下関係がある。

人類はその歴史においてほとんどの期間を、

そのことを当然のこととして受け入れてきたし、

言語と学問の関係上それは自然なことでもあった。

 

しかし数百年前のヨーロッパで状況が変わってきた。

それまでは民族、宗教、領主同士の関係、地理的条件などで、

人々はそれぞれのコミュニティを形作って暮らしていたのだが、

少しずつ「国」という単位を一まとまりにして考えるのが、

政治的にも経済的にも軍事的にも都合がよくなっていった。

この流れで「フランス」「スペイン」のような強い国家が出来上がる。

 

「国家」「国民」「国語」という新しいものの見方が生まれた。

1つの国にはそれぞれの「国民」がいて、それぞれの「国語」を話している。

という今では当然のように思える考え方は、この時に生まれたものだ。

 

ヨーロッパの外にもこの考え方は広まった。

日本という「国家」では日本人という「国民」がいて、

日本語という「国語」を話している。ということになった。

(同時に、アイヌ語琉球語は国語ではないということになった)

 

ロシアではドストエフスキートルストイのような

ロシア語の国民文学が花開いたように、

日本では森鴎外夏目漱石のような

日本語の国民文学が花開いた。

各国の文豪が各国の国語のレベルを引き上げていた時代だ。

(現代の我々が使っているような日本語が完成したのには、

 夏目漱石の功績が大きい。

 さすがは千円札になるだけのことはある!)

国民は普遍語ではなく国語を使って学問をできるようになった。

 

それぞれの国に、それぞれの国語があり、それぞれの文学がある。

こんな状況は、人類の言語の長い歴史を見れば、

ここ数百年で起きた特殊な状況にすぎない。

本来の言語の姿は「普遍語」と「現地語」なのだ。

 

そして近年、急激な「揺り戻し」が来ている。

「普遍語」としての「英語」の登場だ。

 

当初はイギリスやアメリカの「国語」にすぎなかった英語が、

経済のグローバル化とインターネットの勢いを借り、

もの凄い勢いで「全世界共通語」になろうとしている。

というか、すでにそうなっている。

かつては普遍語だった漢語を使う中国人も、

ヨーロッパで一時は普遍語の地位にあったフランス語を使うフランス人も、

他国の人とコミュニケーションをとるときは英語を使う。

映画の中ではナチスドイツの将校も

「われらアーリア人は偉大だ!」と英語で叫んでいる。

 

世界の言語のバランスは、英語に大きくかたよった。

一度かたよってしまうと、もう元には戻らない。

英語を学ぶ人が増え、そうなるとますます英語が便利になり、

そうなるとますます英語を学ぶ人が増える。

 

英語は地球上で唯一の「普遍語」となってしまった。

「英語 or その他おおぜい」という状況だ。

 

こんな世界では、世の中に何かを発表したい才能豊かな人間は、

英語の文章でそれを発表するようになる。

そうしないと世界から無視されてしまうからだ。

英語の「図書館」にはどんどん素晴らしい知識が積み上げられる一方で、

それ以外の言葉の「図書館」は空疎なものになっていく。

もちろん日本語も例外ではない。

日本語は知的エリートには相手にされないレベルの低い言語になっていくだろう・・

 

日本語を守るためにはどうするべきか?

国の教育方針を変えるべきだ。

英語の授業に力を入れる前に、まずは国語の教育が大事だ。

日本の素晴らしい近代文学をしっかり読ませ、

みんなが国民文学を共有できるようにすべきだ。

国民全員が英語を使えるようになることを目指しても仕方ない。

無意味な「平等主義」は捨て、

才能ある人に重点的に外国語教育をしてエリートを育てればよい。

 

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こんな内容の本だ。

私なりの解釈を加えているので、

もし間違ったことを言っていれば、本の著者ではなく私の間違いだ。

ご指摘いただければ有難い。

 

評価・感想

日本語が亡びるとき』で書かれていることに、

私は全て賛成する。

 

教育界のお金と人材を、やる気と能力のある生徒に重点的に配分し、

語学エリート層を育てることに成功していれば、

「令和」にまつまる誤解や批判にうまく反論し、

この機会に日本が世界から尊敬を集めることだって出来ていただろう。と思う。

 

ここでは、著者の水村氏が触れていないことや、

触れていたとしても少ししか扱われていないポイントについて、

いくつかコメントしたいと思う。

 

個人として

国としての教育方針については、分かった。

では、我々は個人としてどう英語に向き合うべきなんだろう?

やっぱりグローバル化に合わせて英会話教室に通うべきなんだろうか?

 

結局のところ「人による」としか言いようがないのだが、

使うアテもなく興味もないのに英語を勉強する必要はないだろう。

ほとんどの日本人が英語に対して苦手意識をもっていて、

「いつかはやらなきゃいけないと思ってるんだけど・・」

と照れ笑いをする。

しゃべれない自分に妙な罪悪感を持っている。

こんな状況は、どう考えても異常だ。

 

無駄な罪の意識からは解放されてしまおう。

高いお金と貴重な時間を使って少しだけ英語のスキルが上がっても、

しょせんは観光客に道を聞かれて英語で答えられるようになるのが関の山だ。

単純なやりとりなら自動翻訳機で十分にこと足りる。

夏目漱石たちが作り上げた日本語を自信をもって使っていればよい。

 

もし仕事などで本当に英語が必要になったら、

その時に必死で勉強するしかない。

私の場合で言えば、

著作権の国際会議の出席に向けて1年間付け焼き刃で勉強をしたことがあるが、

かろうじて何とかなった。

英語学習法については多くの人がたくさんの「秘訣」を公開しているので

私から言えることは特にない。

それでも一つだけ言うとしたら、

先週もあげた日本語の特徴である「音の種類の少なさ」を克服するところから

始めてみるのが良いと思う。

「英語にはあるけど日本語には無い発音」は多いので、

それに馴染んでいくことが苦手意識を消す第一歩になるだろう。

 

 

 

文学、音楽、映画、ゲーム、デザインなどに携わるクリエイターは、

英語を使えるようになるべきだろうか?

たしかに英語を駆使して世界のマーケットに向けて創作した方が、

儲かりそうな気がする。

逆に英語が世界中をおおった今だからこそ、日本語にこだわって創作した方が、

世界的にみても個性のある、とがった作品になりそうな気もする。

英語に背を向けて日本語の世界に閉じこもった水村氏が、

きわめてユニークな作品をつくったように。

 

この論点については宿題として、いずれゆっくりと考えてみたい。

 

日本語は守るべき言葉なのか?

そもそも、日本語は守っていくべきものなのだろうか?

日本語がなくなっても、世界の人は困らないのでは?

水村氏の本の中に、この視点は無い。

日本語に少女時代を救われた水村氏にとって、

その価値は当たり前すぎる大前提だったのだろう。

「日本語をどう守るか?」については詳しく書いているが、

「日本語を守るべきか?」については驚くほど何も書かれていない。

(文庫版で付け加えられた部分には少しだけ触れられているが)

 

このまま英語の勢力が伸び続けるとどうなるだろう?

「現地語」としての日本語はしばらくは日常会話の中で生き延びるだろう。

しかし我々より数世代あとの時代には、どうなっているか?

子供たちは言語の序列に敏感だ。

日本語のような「レベルの低い」言葉を学ぶことを嫌がるようになるかもしれない。

そして、それぞれの国の国語や現地語が消滅していくかもしれない。

 

全人類が英語だけを使うようになった世界を想像してみよう。

 

非常に効率的で便利な世界だ。

人々は語学学習に費やすムダな時間から解放される。

言葉の違いから生まれる誤解もなくなる。

わざわざ外務省が「令和はBeautiful Harmonyです」と説明する必要もない。

最初から元号は「Beautiful Harmony」なんだから。

小説家も学者もブロガーもみんながEnglishで書くし、

世界中の誰もがそれを読むことができる。

世界中の人々が理解しあえるようになる。

なんてすばらしい新世界!Brave New World!

 

その代わり、失われるものもある。

過去の文学の名作をそのままでは味わえなくなる。

専門家でない限りは、夏目漱石を英語翻訳でしか読めなくなる。

日本語にしか表現できない感覚は永遠に失われる。

「桜がはらはらと舞い散るのを見ると、物悲しい気持ちになる。」

という日本人にとって普通のことを言いたいときでも

「When I see the cherry blossoms falling, I feel sad.」

としか言えなくなる。

英語にしてしまうと、なんと味気ないことか!

日本語特有の言葉遊びもできなくなる。

Hey! Say! JUMP」は「Peaceful JUMP」になってしまう。

 

念のため言っておくと、私は英語もけっこう好きだ。

主語と述語で言いたいことを言い切った後で、

whoやwhichを使って説明を付け加えられるのは便利だし、

comparison(比較)のような理屈っぽいゴツゴツした単語があるかと思えば、

meadow(草地)のような匂い立つような単語もある。

throne(王座)のような聞き慣れない発音からは、歴史の息吹を感じる。

英語も悪くない。

(だから、楽しめる人なら趣味で英語を学ぶのは全然アリ!)

 

それでも、やはり日本語には日本語にしか表現できないものがある。

 

私は、世界が英語に完全に覆われてしまうと

文化の発展がストップしてしまうと思う。

文化は異質なものの組み合わせによって成長する。

夏目漱石は英文学に学んで日本文学を進化させたし、

ゴッホは浮世絵に刺激されて自分の画風を完成させた。

世界に英語しかなくなってしまうと、こういうことが起きづらくなってしまう。

できるだけ、バラエティ豊かな文化をバラエティ豊かなままで

受け継ぎたいと思うのだ。

世界をつまらない場所にしないためにも、日本語のレベルを保つことが重要だ。

 

 本音

 正直に申し上げると・・・・上で書いたことは「タテマエ」だ。

「文化の多様性は大切です」というお題目を言い方を変えて言っているだけだ。

嘘をついているわけではないし、正しいことを言っている自信はあるが、

本音とタテマエは違う。

 

本音を言えば、

日本語がなくなっちゃうのが単純に寂しいのだ。

 

いくら多様性を声高にさけんでも、

長い目でみれば便利さや効率性に対抗するのは難しい。

実際、多くのマイナーな言葉を滅亡させてきたのが人類の歴史だ。

 

日本語を残したいという思いは、

ただの感傷趣味にすぎないのかもしれない。

 

ただせめて、

個性あふれる言葉がそれぞれの国ごとに栄えているというこの特殊な時代に、

きわめて独特な姿に育った日本語というユニークな存在に出会い、

その変化の時代に立ち会えている。

ことのことをしっかり意識し、感謝したいと思うのだ。

 

日本語がここまで歩んできた道のりとその行くすえを思うと、

心細くなったり、切なくなったり、愛しい気持ちになったりするが、

日本語からは目をそらさず、そのユニークさを面白がり、

最後まで付き合っていきたい。

 

 

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