知的財産のメジャーどころを、ざっくり理解
前回の記事では、
東京オリンピックのエンブレムマークの❝パクリ疑惑❞が浮上したときに、
大会の組織委員会(以下、組織委)は正しい初期対応をしたことを説明した。
今回の記事を読めば、
知的財産と呼ばれるものの中でもメジャーな権利である
「著作権」と「商標権」をざっくり理解できる。
そして、人にエラそう語るには十分なレベルになるだろう。
それでは、その後の展開を見ていきたい。
ドビ氏の反応
組織委がコメントを発表した直後の8月1日、ドビ氏側からの書簡が到着する。
エンブレムの使用停止を求めたもので
「停止しない場合は、著作権侵害になる」と主張した内容だという。
ここで分かることが2つある。
1つは、組織委の主張とドビ氏の主張が全然噛み合っていない!ということ。
前回の記事にもある通り、
組織委は「国内外における商標調査を経た上で決定したものであり、
問題ないと考えています」と「商標権」について主張している。
しかし、一方のドビ氏は「商標権」ではなく「著作権」について主張しているのだ。
分かることのもう1つは、この時点ですでに、
ドビ氏の方が❝敗色濃厚❞で、コーナーに追い詰められているということである。
その理由を説明したい。
著作権と商標権
ここで簡単に、著作権と商標権について説明する。
まずは「著作権」について。
あなたが芸術家だったとしよう。
あなたは渾身の芸術的感性を込めて美しい風景画を描く。
そしてその作品を発表する。
素晴らしい絵画だったので、美術界で評判になる。
すると、その絵を真似て同じような絵を描いて売りさばく人や、
その絵を勝手に広告に使ってお金儲けする人が現れ始める。
それなのに、その絵画を生み出したあなたには1円も入ってこない・・。
こんなことが起きないよう、あなたの許可なく勝手に作品を使ってはダメです!
と言える権利が、「著作権」だ。
芸術家が自身の魂・個性を表現して創作した作品には「文化的な価値」があり、
それは保護するべきだという考え方がベースになっている。
一方で「商標権」とは何か。
あなたが飲料メーカーを経営しているとしよう。
あなたは試行錯誤を繰り返して、とても美味しいコーラを開発した。
このコーラを発売するにあたり、
他のコーラ(「コカ・コーラ」や「ペプシ・コーラ」)とは違うということをはっきりさせるため、
「ドリーム・コーラ」というネーミングにして売り出した。
ドリーム・コーラは消費者の間で「美味しい!」と評判になる。
ドリーム・コーラのファンが増えて、売上が伸びる。
すると、他の飲料メーカーまでもが自社の商品に「ドリーム・コーラ」という商品名を付けて発売するようになる。
そうなると、ドリーム・コーラのファンは間違えて他社の商品を買ってしまう。
あなたの会社の売上は下がり、
「ドリーム・コーラは美味しい」と信じたファンは「期待した商品と違う!」と
裏切られることになってしまう・・。
こんなことが起きないよう、あなたの許可なく勝手に商品名を使ってはダメです!
と言える権利が「商標権」である。
著作権と大きく違うのは、芸術家が魂をこめて創作した作品とは違い、
「ドリーム・コーラ」という言葉は、単なる「言葉」でしかないこと。
芸術作品のように、文化的な価値があるものではないということだ。
しかし、この単なる「言葉」が、消費者が商品を選ぶときの「目印」になっており、
メーカーと消費者の間の「信頼」をつなぐ「接続点」になっているのである。
この「信頼」こそ、社会における経済活動の基本なので価値があり、
保護すべきだという考え方がベースになっている。
しかし、「信頼」とは人々の心の中にあるもので、形のあるものではないので、
法律的に保護しづらい。
だから「信頼」の代わりに、「目印」になるものを保護しようという、
少し❝回りくどい❞制度が、商標権の制度なのである。
著作権と商標権の違い
このような根本的な考え方の差が、
著作権と商標権の様々な面で違いとして現れることになる。
著作権は、創作的で文化的なもの(絵画、小説、音楽、映画など)でないと保護しないが、
商標権は、単なる言葉やマーク(「プリウス」という言葉、リンゴの形のマークなど)でも保護する。
著作権が発生するは、その作品が生まれた、その瞬間だ。
作者が何もしなくても、権利は勝手に生まれてくる。
作品それ自体に価値があるからだ。
また、作品は作者の個性の表れたもので❝世界で一つだけのもの❞なので、
他人の権利と調整する必要がないからだ。
一方で商標権が発生するのは、
特許庁に出願され、審査を通過し、登録されたときである。
国に対して手続きをし、それが通過して初めて権利が認められるのである。
これは、単なる言葉やマークなのでそれ自体に価値は無いからだ。
そして、「ドリーム・コーラ」なんて言葉は誰でも思いつくものだ。
他人の商標とかぶってしまう可能性がある。
だから、調整のために国に届け出る必要があるのだ。
ちなみに、調整のルールはシンプルで、先に出願した人のもの。
つまり❝早いもの勝ち❞である。
もし著作権で守られている芸術作品と同じ物を、
その作品を全く見たことが無い人が偶然に作ってしまったら?
「そんなことは無い」というのが、著作権制度の前提である。
だって、人はそれぞれ違う個性を持ち、その個性を表現したものが作品なのだから、
1つとして同じものは無いはずでしょ?ということだ。
しかし、実際には同じようなものが出来てしまうことがある。
でもそれは、限られた❝レアケース❞に過ぎない。
それはそれで仕方のないことだから、
それぞれの作品をそれぞれに著作権で守りましょう。ということになっている。
(後で同じ作品を作った人も自由に使える。)
一方で商標権では、
他人が「ドリームという言葉を使いたい!」「リンゴの形を使いたい!」と
同じ言葉やマークを選んでしまうことは、レアケースではない。
当然に起こることだ。
だから、そのことを前提にして、
「特許庁の登録が必要」、「先に出願した人のもの」といった制度が組み立てられてる。
以上をまとめると、こうなる。
著作権・・・・小説、美術、音楽、映画などを守る。
自動的に権利が発生する。
偶然似たものができちゃってもOK。
商標権・・・・言葉、マークなどを守る。
国の審査をクリアしたら権利発生。
似たものがあれば、先に届け出た人が優先。
ドビ氏の思考の軌跡
ここでもう一度、ドビ氏の主張に戻ろう。
ドビ氏側は「使用を停止しないと著作権侵害になる」と言っている。
あれ?
この主張に違和感はないだろうか?
東京オリンピックのエンブレムにしても、
ドビ氏が作ったリエージュ劇場のロゴデザインにしても、
いわゆる「マーク」なのである。
マークを守る権利は、著作権と商標権どちらだったか?
そうだ。商標権だ。
ドビ氏がマークの権利を主張したいなら、
まずは当然に「商標権」を主張すべきシーンなのだ。
商標権の方が裁判になったときも、制度になじむ主張なので勝利をつかみやすい。
しかしドビ氏側はそれをしなかった。
それはつまり、ドビ氏側が商標権を主張したくても出来なかったということだ。
組織委の反論コメントにあったように、
組織委は国内外(当然、ドビ氏のいるベルギーも含むだろう)の商標調査を済ませ、
問題なかったので今回のエンブレムに決定している。
おそらくドビ氏やリエージュ劇場は、
ロゴデザインについて商標をとる手続きはしていなかったのだろう。
ドビ氏の思考の流れを想像するとこうなる。
「あ!東京オリンピックのデザイン、俺が作ったのにそっくりだ!」
↓
「パクリだ!とっちめてやる!」
↓
弁護士に相談するが、手続きをしていなかったので商標権を主張できないと判明する。
↓
「うーん、くやしい。他に方法はないのか?」
↓
弁護士から、どうしても主張したいなら著作権だと教えてもらう。
↓
「よし!じゃあ著作権で訴えてやる!」
つまり、本来なら商標権を武器に戦うべきシーンで、
そもそも自分がその武器を持っていないことが判り、
仕方なく「代わりの武器」を手に取ったということだ。
しかも、その「代わりの武器」が何とも頼りないシロモノなのである。
例えていうなら、プログラミングの競技大会に出ておきながら、
コンピューターではなく間違えてソロバンを持ってきちゃった!というような。
ドビ氏は❝場違い❞な武器しか持っていなかったのだ。
この時点で、ドビ氏側は自分が起こした戦いにおいて、
すでにコーナーに追い詰められてたのである。
次回以降の記事では、なぜ著作権は、この戦いで頼りない武器にしかならいなのか?
そして、それなのになぜ❝大逆転❞が起き、組織委が❝負け❞ることになったのか?
について見ていきたい。