マネー、著作権、愛

創作、学習、書評など

犬将軍とSDGs

日本人は海外の人に評価されるのが大好きだ。

特に明治以降は欧米の白人に認められることが無上の喜びになった。

だから、いつも欧米をお手本だと考えてしまう。

コロナウイルス対策でも、

台湾やニュージーランドなど近所に素晴らしいお手本があるのに、

わざわざ欧米をマネて

中途半端でどっちつかずのやり方になってしまう・・・。

 

綱吉

今回は、歴史上の偉人の話をしよう。

徳川家康のあとをついだ江戸幕府の将軍たち。

14人いる中でトップの評価を受けているのは誰だろうか?

 

欧米で一番評価が高いのは、五代将軍・綱吉ではないだろうか。

 

あれ?

徳川綱吉って、「生類憐みの令」で有名なあの綱吉?

「人よりも犬を大切にした」と言われ

「犬将軍」というお馬鹿なニックネームをつけられている、

あの綱吉??

 

たしかに日本国内では新井白石などが悪口を書き残したせいもあり、

綱吉の評価は低い。

犬を大切にするというトンチンカンな政策を強引に推し進めた

残念な君主だったというイメージが定着してしまっている。

 

しかし海外からの評価は全然ちがう。

大きな改革を断行した理想的な君主だったと言われているのだ。

 

綱吉の業績

綱吉が将軍になったとき、幕府の権力は老中たちに握られていた。

しかし彼は身分は低いが実力のある人材を登用し、

彼らに実務を任せることで実権を取り戻した。

 

武士たちが「下々のことだ」と注意を払わなかった

町人、商人たちの慣習に口を出し、

商売や道路交通のルールを細かく取り決めた。

 

幕府の財政は危機的状況にあったが、

「貨幣改鋳」という一種の金融緩和をやりきることで乗り切った。

 

これらの政策のおかげで経済が大きく成長した。

庶民の文化が爆発的に発展し華やかな「元禄文化」が生まれた。

 

支配者層である武士たちの規律を重視し、

積極的に儒教の講座をひらき意識改革を促した。

「君たちは民衆の支配者ではない。

 民衆への奉仕者(公僕)になりなさい」

とメッセージを発し続けた。

 

福祉政策も手厚かった。

捨て子の保護や子供の養育支援が義務付けられた。

旅行中の病人が治療を受けられるようになった。

牢屋にいる罪人の健康管理も配慮されるようになった。

今まで見捨てられていた社会的弱者が守られるようになった。

 

もし当時の世界にSDGs(持続可能な開発目標)があったとすれば、

日本はダントツの1位になっていたに違いない。

 

そんな綱吉の「生類憐みの令」である。

くだらない政策であるはずがない。

 

当時はまだまだ戦国時代の気風が残っていた時代だ。

武士が気に入らないと思った相手をその場で斬り捨てるなんてことが、

当たり前だった時代だ。

弱いものが強いものにおびえながら暮らしていた。

 

そこへ将軍が

「生き物を大切に扱え!

 犬を大切にしろ!

 犬を虐待なんかしたら絶対ダメだぞ!

 従わない者は厳しく取り締まるぞ!」

と命令を発した。

 

何度も何度も、繰り返し繰り返し命令を出した。

悪質な違反者は厳しく処罰した。

世間の評判がわるいことも、

後世の歴史家にバカにされるかもしれないことも、

おそらく綱吉は分かっていたと思う。

それでも諦めず、自分の政策を貫いた。

 

その結果、数十年後には世の中の空気がすっかり変わっていた。

武士が乱暴に刀を振り回せなくなった。

当たり前だ。

犬をいじめるだけで処罰されるんだから、

人間を斬るなんて出来るわけがない。

 

平和で、庶民が文化を楽しめる世の中がやってきた。

綱吉が時代を変えた。

 

彼の治世の後半は、未曽有の災害に次々と襲われた。

江戸の大火事。

地震

富士山の噴火。

科学的知見のなかった当時、多くの人が

「政治が悪いせいで神様が怒った!もう世界の終わりだ!」

とパニックになった。

 

それでも綱吉は諦めず、迅速な災害対策を行った。

人口密集都市の江戸で飢饉や暴動が起きてもおかしくなかったが、

起きなかった。

庶民のあいだに綱吉の政治への信頼感があったからだろう。

法と秩序は守られた。

 

綱吉は現代の視点からみても先進的な政治理念をもち、

周囲の無理解な批判に耐えながら、

圧倒的な実行力と継続力で改革をやり遂げた。

 

綱吉の海外での評価が高いのは、当然のことなのだ。

 

おすすめ本

綱吉に興味がある人は、以下の本が面白い。

 

『黄門さまと犬公方』

山室恭子

 

資料を読み解きながら、

推理小説のように少しずつ綱吉の真実の姿に近づいていくプロセスに

わくわくする。

 

 

 

『逆説の日本史14 近世爛熟編 - 文治政治忠臣蔵の謎』

『逆説の日本史15 近世改革編 - 官僚政治と吉宗の謎』

井沢元彦

 

綱吉の凄さを非常に簡潔に分かりやすく説明してくれる。

 

 

 

 

 『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』

(ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー)

 

ドイツ人の客観的な目線から

ありのままの姿で綱吉時代の日本を教えてくれる。

 

 

 

 『犬将軍 綱吉は名君か暴君か』

(ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー)

 

長い本だが、綱吉の思想の背景まで踏み込んで考察されている。

 

 

歴史上の偉人に思いをはせながら、じっくり読んでみてほしい。

 

もし綱吉なら、コロナの脅威に対してどんな対策をしただろうか・・?

コロナは社会的弱者を次々と餌食にしていくウイルスだ。

弱者への目線を忘れなかった綱吉なら、

きっと徹底的なコロナ撲滅策をとったのではないか・・。

 

コロナ対策に関しては、欧米に目を向けすぎるのは良くない。

日本の歴史については、欧米の評価をもっと気にする方が良い。

 

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夏は涼しい自宅に閉じこもって、本を読もう!

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(7)

ここまでのまとめ

ここまでの話をまとめる。

 

著作権の世界では、放送とインターネットは別物。

 

・テレビ番組を作るとき

 権利者に「放送させてください」と言って許可とっても

 ネットに流すなら「ネットでも流させてください」と

 別に許可をとらないといけない。

 テレビ局にとっては大変な作業。

 

・規制改革推進会議の人たちは、

 インターネットでテレビ番組が流れないことは問題であり、

 原因は著作権という古い規制のせいだと考えている。

 「制度を変えなさい!」と圧力をかけている。

 

・推進会議側の考えを追い風だと考えたテレビ局は、

 このチャンスを利用して

 「放送とネット(同時配信等)を同じ扱いにしてほしい」

 と要望を出した。

 

・しかし、もしテレビ局の要望が通ったとしても、

 世の中の人の意識やビジネスのやり方が急に変わることはない。

 相変わらず放送とネットの両方の許可をとる実務は残る。

 テレビ局の大変な作業が急にラクになったりはしない。

 

・テレビ局もそのことを分かっているが、

 はっきりした戦略もないままに

 「とりあえず要望を出しておけば、少しは何かが良くなるかも」

 という大まかな考えで要望を出しているのだろう。

 

・放送に関する制度は大きく3つの階層に分かれていて、

 それぞれが複雑にからみあっている。

 放送とネットを同じにすると言っても、

 そんなに簡単な話ではない。

 制度改正するための調整はすごく大変。

 

・その調整はうまくいかないだろう。

 文化庁はそのことが分かっているから、

 誰も求めていない小さな改正でお茶を濁そうとしている。

 

以上のような状況だ。

 

この話は制度が複雑なことに加え、

登場人物たちもそれぞれの思惑でバラバラな動きをしているので、

シンプルなストーリーとしてまとめることは出来ない。

 

今後

こんなぐちゃぐちゃな状態に対して、

自民党(知的財産戦略調査会)がイラついている。

「とにかく期限を区切って議論を進めていきなさい!」

文化庁だけじゃ大変だから、総務省も一緒にがんばりなさい!」

とプレッシャーをかけ始めた。

とはいえ、議論の中身についてはそれほど踏み込んではいない。

 

自民党知的財産戦略調査会 放送のインターネット同時配信等に関する提言

https://www.jimin.jp/news/policy/200323.html

 

どんどんカオスに向かっているようだ。

 

今後この議論はどうなっていくのだろう?

 

正確な予想はできないが、これだけは言える。

パッとしない結果に終わる。ということだ。

 

「放送とネットを同じにする」という大きな変革を

省庁の調整だけでできるわけはない。

専門的な知識のある政治家が

積極的に議論の中身に分け入って大ナタをふるうことが必要になるが、

コロナで各方面が疲弊している中、

そんなことをやれる余裕のある人はいない。

要望を出しているテレビ局も、

はっきりした見通しをもっているわけではなく、

単に要望を出している。それだけの状態だ。

 

カオスの中で、誰にも明確な道筋がみえていない。

 

色々と議論された挙句に、

日本人お得意の「ほどよい落としどころ」が探られ、

とりあえず形だけのちょっとした制度改正がされる。

 

これが一番可能性の高いシナリオだろう。

 

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放送とインターネットの融合。

これ自体は大きなテーマだが、

その大きさに見合った深い議論は行われていない。

 

当面は議論の行方を見守りたいと思う。

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(6)

今回はテレビ局の立場から考えよう。

 

テレビ局(NHKと在京キー5局)は今回の議論では

「放送と同時に行うネット配信等を放送と同じ扱いにしてほしい」

と要望している。

これには、どんな狙いがあるのだろうか?

 

テレビ局の危機感

言うまでもないが「放送局の経営が今後もずっと安泰だ」

と考えているテレビ局の人はいない。

インターネットが浸透したこの世界で、

どうやって生き残るか?

誰もが頭を悩ませている。

でも、各局の取り組み方はまちまちだ。

ネット企業と手を組む局もあれば、

自前の配信プラットフォームに力を入れる局もある。

NHKは(放送との)同時配信を積極的に進めたいが、

民放はあまり興味がない。

「見逃し配信」に希望を見ている局もあれば、

一時的なものだとしか考えていない局もある。

とりあえず共通するのは、

キラーコンテンツである放送番組をネットで流したい。

そこを突破口にして、ネットの世界で色々やっていきたい。

という部分ぐらいだろう。

 

ネットで放送番組を流すときの障害

しかし多くの場合、

彼らがもってる番組をそのままネットに流すことはできない。

 

以前解説したとおり、著作権の世界では

「放送」と「インターネット」は全くの別物として扱われている。

 

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「放送」の許可は得られていても、

ネットで流すこともまでの許可は得ていない。

勝手に流すと著作権著作隣接権)侵害になってしまう。

 

だからテレビ局が

「放送と同時に行うネット配信等を放送と同じ扱いにしてほしい」

と言っているのは理解できる気がする。

 

ただ、もう少し丁寧に考えてみよう。

 

彼らが番組をネットに流したいときに障害になるのは、

具体的には何なのだろう?

 

出演者?

やっぱり、タレントや俳優などの出演者だろうか?

 

違う。そうではない。

これは素人の発想だ。

 

ほとんどの出演者はプロなので、

ネット配信についてちゃんと理解がある。

交渉が成立する。

出演者を束ねる団体もあるので、

一本化した窓口で交渉できることも多い。

タフな交渉にはなるだろうが、ほとんどの場合、

ネットで流すうえでの致命的な障害にはならない。

 

では、誰の権利が障害になるのか?

 

音楽?

音楽に関する権利者が障害なのではないか?

 

これは、ある程度は業界を知っている人の回答だ。

いい線いっている。

 

以前解説したが、放送に関してはテレビ局が

かなり自由に音楽を使える制度・契約が整っている。

だからテレビ番組にはたくさんんのBGMが付けられている。

 

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しかし、放送とネットでは権利の働き方が変わる。

放送がOKだった音楽がネットもOKとは限らない。

 

だからテレビ局は人手をかけて

音楽の権利を調べなおさないといけなくなる。

もしネットがNGだったり権利関係が不明だったりしたら、

あらためてBGMを付け直さないといけない。

これはかなりの手間(人件費)だ・・・・・

 

というわけで、音楽に関する権利はある程度の障害にはなる。

 

しかし決定的なものではない。

結局のところ、それなりの手間をかければ乗り越えられるのだ。

 

その他の権利者

では番組をネットで流すうえで、何が障害なのか?

 

正解は、「その他もろもろの関係者」だ。

 

テレビ番組は、ひじょうに多くの要素を「材料」にして

出来上がっている。

 

歴史番組を作るときに研究者から借りた貴重な資料。

交通事故の決定的な瞬間が撮影された映像。

旅番組のロケ中に出会って出演してくれた現地の親切な人。

取材NGなのに無理をきいてOKしてくれた定食屋さん。

地方の新聞社から借りた昔の街並みの写真。

マイナーなスポーツの選手のインタビュー。

まもなく発売になる注目の新商品。

謎の真相を知る人物の証言。

などなど・・・・。

 

「出演者」「音楽」「原作者」などと、

分かりやすいカテゴリーに入らない雑多なもろもろの要素だ。

 

著作権的に考えると、「権利」とは言えないものもあるが、

テレビ局の立場からは無視はできない。

放送のOKが取れたからといって、ネットがOKとは限らない。

ほとんどのものについて、

「ネットでも流してOKですか?」と追加で確認をとることになる。

「OKです!」と即答してくれる人もいるが、

そうでないことも多い。

「ネットって、いつまでも流されるんですか?」

「世界中で見られちゃうんですか?困るな~」

「それならあの部分だけはカットしてください」

「それなら使用料を追加で支払ってください。」

「その使用料は1年分です。

 来年もネットで流すなら改めて申請してください」

など、色んなパターンで対応が求められることになる。

それでも相手と話ができるだけ良い方だ。

連絡先が分からなくなってしまった人も多い。

そうなるともうお手上げだ。

 

問題にはならないと考えてそのまま流すか?

再編集してその部分をカットするのか?

カットしても番組のストーリーは成立するのか?

再編集にかかるコストは?

そのたびに判断が必要になる。

色んな相手がいるので、一律のルールでは対応できない。

コストはどんどんかさんでいく・・。

 

番組をネットで流すうえでの最大の障害は、

「その他もろもろ」なのだ。

 

学識者と現場

政府の検討会に出席する学識者や官僚たちは著作権に詳しいので、

「ネットで番組が流せない?

 それなら検討しよう。

 問題は原作者の権利なのかね?実演家の権利なのかね?

 音楽の著作隣接権の問題なのかね?

 それとも、裁定制度の問題なのかね?」

と、法律にのっとって整理・理解しようとする。

 

しかしテレビ番組の制作現場では、

法律的に「名前のついた問題」で悩んでいるわけではない。

もっと細々とした泥臭い

「その他もろもろ」のことで悩んでいるのだ。

 

学識者たちの議論と現場の悩みは、なかなか噛み合わない。

 

テレビ局の要望

テレビ局としては、このモヤモヤした状況を何とかしたい。

「放送でOKがとれたら、ネットでもOKってことになったら、

 ラクでいいのにな~」

とぼんやりと考えてはいただろう。

かといって、決定的な解決策や妙案があるわけでもない。

 

もし法律上は「放送とネットが同じ」になったとしても、

世間の常識や、人々が日常的に使う言葉の意味が

その日から変わるなんてことはない。

「知らないうちにネットで流された!

 放送はOKしたけどネットはOKした覚えはないぞ!」と

苦情を受けたときに

「昨日から著作権法上は放送とネットは同じものになりました。

 だから問題ございません」

と対応できる勇気のあるテレビ局は存在しない。

「放送だけじゃなくネットでも流しますけど、良いですか?」

と確認する実務がすぐに変わることはないだろう。

 

テレビ局もそのことは分かっていたと思う。

 

そんな中、

規制改革推進会議で著作権を改革するための追い風が吹きはじめた!

テレビ局として、どんなことを要望しよう?

 

おそらく各局が集まって何らかの会議が開かれたのだろうが、

最初に書いたとおり、各テレビ局が向いている方向は一致していない。

NHKは同時配信が大事だが、民放は同時ではない配信の方が大事だ。

とりあえず「同時配信等」という少し曖昧な言葉を使うことにした。

これなら「見逃し配信」ぐらいまでは含められるかもしれない。

でも、それ以上に具体的な部分で意見はまとまらなかった。

仕方なく、とりあえず、最大公約数的に

「放送と同時配信等を同じにしてほしい」という、

彼らがぼんやりと願っていたことを、

ぼんやりとしたままで要望することになった。

 

おそらく彼らに緻密な戦略はない。

もし奇跡的に要望が通って放送とネットが法律上は同じになったとしても、

実務の現場に大きな変化はない。

それでも何か要望は出したい。

「放送と同時配信等を同じにしてほしい」

この方向で少しでも何かが動けば、悪い方向にはいかないだろう・・。

 

テレビ局の思惑としては、こういうことではないだろうか。

 

かなり大雑把な作戦だが、議論はどう進むのだろうか・・・

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(5)

今回は、文化庁の立場で考えよう。

 

テレビをめぐる著作権の問題について、議論がつづいている。

全体的には文化庁が「わるもの扱い」されているような雰囲気で進んでいる。

 

「インターネットの世界に進出しようとするテレビ局の要望を

 ぜんぜん聞き入れようとしない!」

文化庁の提案している改善案は、的外れだ!」

「古臭い規制にしがみついている!」

 

そんな論調で批判されている。

 

批判自体はそれなりに正当なものだが、

私は文化庁に同情的だ。

文化庁だけが悪いわけじゃない。

 

日本版フェアユースのなれのはて

日本の著作権法は古臭い!という議論は昔からある。

周期的に盛り上がりを見せるのだが、

10年くらい前にもかなり熱くなった。

「どうして日本にはGoogleFacebookのような企業が生まれないんだ!

 日本の著作権が厳しすぎるからじゃないのか!?」

と言われていた時代だ。

 

そのときの議論の内容はこんな感じだった。

 

・「権利者の許可を取らないと使っちゃダメ」というのが、

 著作権の世界の原則になっている。

・「ただし、こういう場合に限っては勝手に使ってOK」という

 例外ルールもある。

・「こういう場合」というのが、細かくひとつひとつ決められている。

 (非営利無料で上映する場合とか、屋外にある美術品を使う場合・・とか)

 

・このやり方では限界があるんじゃないか?

 ひとつずつ細かく決めるんじゃなくて、

 「実質的に権利者の利益を損なっていなければOK」とかいう風に

 ザックリと決めてしまえばいいんじゃないか?

 それで色んな場合をカバーできるんじゃないか?

・じっさい、アメリカにはそういうルールがある。

 「フェアユース」(フェアな利用ならOK)というものだ。

 それで上手く回っている。

・日本版フェアユースを作ろう!!

 

こんな話が大いに盛り上がり、文化庁を中心に法案を作ることになった。

 

しかし実際に調整を進めていくと、大量の異論が噴出した。

 

・そんな曖昧なルールじゃ、誰もOKかNGか判断できない!

 まじめな人は安全策をとって結局は許可をとる。

 これではフェアユースの意味がない。

・悪意のある利用者がフェアユースを隠れ蓑にして

 好き勝手するようになってしまう!

 損するのは権利者だ。

・裁判で白黒つけるのが好きなアメリカ人にはそれで良いだろうけど、

 日本人には馴染まない!

 

最初は「著作権法を大改革するぞ!」と

意気込んでいた文化庁は、身動きがとれなくなってしまった。

 

色んな方面の意見を聞いて調整した結果、

ほどよい“落としどころ”として

「写りこみを例外規定に入れればいいんじゃない?

 それなら誰からも文句でないし」

ということになった。

 

(「写りこみ」というのは、人物写真を撮ったときに

 背景に小さく入ってしまう街中のポスターのようなもの。

 これはOKにしようということ。

 特に誰からも本気で要望されていなかった末端の議論だった)

 

多方面で調整を重ねて落としどころを探る。

これが日本のスタイルなので、どうしてもそうなってしまう。

(Go Toキャンペーンの迷走ぶりを思い出してほしい)

 

このときの法改正は「フェアユースのなれのはて」と言われ、

多くの人の批判をあびることになった。

 

最初は大きなビジョンとともに、やる気まんまんで取り組むが、

最終的にはショボい結果におわる。

そして世間からは批判される。

 

文化庁著作権法改正について、

これと似たような経験を何度もくりかえしている。

もうトラウマになってしまっているのだ(多分)。

 

そして今回また

「放送とインターネットの枠組みを変えよう!」

という大きな話が始まった。

文化庁は最初からストーリーの結末は見えていた。

大きなことを言っているけど、どうせまたショボい結果におわると。

そして先手をうった。

ショボい結論を先取りした。

(レコード実演・レコードのアウトサイダー問題)

大きな反対が出なさそうな末端の論点の改正案だけを示した。

これで収まれば、延々と続く無駄な調整をしないで済む。

 

これが、今回の文化庁の動機だと思う。

決して素晴らしい対応だとは言えないが、

これまでの歴史をみてくると仕方ない気もする。

 

反対論があっても長期的なビジョンをもって必要な改革を断行する。

これが政治家や官僚に求められていることだろうが、

日本人にはそういうスタイルが向いていない。

権利者も利用者も、お上に陳情だけはするが、

自分で汗をかいて改革の先頭に立つことは避ける。

そして結論には不満を言う。

結局、何も進まない。

これが、著作権の世界で我々が置かれている現状だ。

 

なんだか絶望的な気分になってくるが、

それでもできることをやっていくしかない。

 

文化庁だけを悪者あつかいしても、何も変わらないと思う。

 

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次回はテレビ局の立場から考えよう。

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(4)

前回までの記事で基本的な部分を解説した。

 

・「放送」と「インターネット」は、

 著作権的には全く別物として扱われている。

 

著作権の世界には「権利者」と「利用者」しかいない。

 その違いを意識することが大切。

 

今回は、放送局の立場から「権利者」と「利用者」を考えてみよう。

 

権利者か?利用者か?の3層構造

テレビ局が番組をつくって放送するとき。

テレビ局は「権利者」だろうか?

それとも「利用者」だろうか?

 

答えは、「権利者でもあり利用者でもある」だ。

 

テレビ局の活動は3つの階層に分けて考えると理解しやすい。

 

第1階層:番組をつくる。

第2階層:番組が完成する。

第3階層:番組を放送する。

 

本当はもっと細かい場合わけや階層分けが必要なのだが、

シンプルにするためにまずは3階層で理解しよう。

 

番組を作る

先週の例にならってピカソの絵で考えよう。

あるテレビ局がピカソの絵や人生を紹介する番組を制作する。

たくさんのものが必要だ。

ピカソの絵。

資料写真。

ピカソを演じる役者。

役者が演じるための脚本。

背景音楽(BGM)。

などなど・・・。

 

テレビ番組を作るとき、テレビ局は「利用者」だ。

たくさんの権利者に

「番組制作につかわせてください。放送させてください」

と言って許可をもらわないといけない。

 

番組が完成する

 すべての権利者の許可がそろい、無事に番組が完成する。

できあがった番組は「著作物」になる。

テレビ局は、この番組の「権利者」だ。

テレビ局の許可がないと、

誰もこの番組を放送したりネットに流したりできない。 

 

番組を放送する

 テレビ局は自分でつくった番組を(普通は)自分で放送する。

 この「放送する」という行為について、

あらたな権利が発生する。

その権利の「権利者」はテレビ局だ。

これを「放送事業者の著作隣接権(ちょさくりんせつけん)」という。

 

この部分、ちょっと分かりにくいかもしれない。

考え方を少し丁寧に説明しよう。

 

小説、絵画、音楽などは素晴らしい。

我々は作品から多くの喜びと生きるための力を得ることができる。

芸術家の「作品を生み出す」という行為は、尊いものである。

だから、芸術家に権利を与えよう。

これが「著作権」だ。

 

同じように考えると、

芸術家が生んだ作品を「人々に伝える」という行為も尊い

伝える人がいないと我々に素晴らしい作品が届かない。

だから、伝える人にも権利を与えよう。

これが「著作隣接権」だ。

 

インターネットで誰もが世界に発信できるようになった現代、

「伝える行為が尊い」と言われてもピンと来ないかもしれないが、

昔はそうではなかった。

一部の限られた人にしかできないことだった。

だから権利を与えようということになった。

 

では、誰に与えるか?

法律をつくる過程で色んな綱引きがあったが、

最終的には以下の人たちになった。

・実演家(役者や歌手など)

・(音楽などを)録音する人

・放送局(日本ではケーブル放送局も)

 

出版社は仲間に入れてもらえなかった。

インターネットも入っていない。

 

放送局が権利を与えられるためには「伝えるという行為」、

つまり放送するだけで良い。

なぜなら、その行為は尊いから。

 

例えば、ディズニーがつくったアニメ映画を

フジテレビがそのまま放送した場合。

映画の著作権はもちろんディズニーのものだが、

放送されたその電波に関しては、

フジテレビの権利がプラスオンされることになる。

 

つまり、その放送を録画してインターネットで流すためには、

ディズニーだけでなくフジテレビの許可も必要になる。

フジテレビは単に放送しただけなのに。

 

これが「放送事業者の著作隣接権」という特殊な権利だ。

 

3層構造

まとめると、こうだ。

 

・テレビ局が番組をつくるときは、利用者。

・できあがった番組については、権利者。

・それを放送すると、追加の権利の権利者になる。

 

テレビ局が関係する著作権の話は、

この3つが整理されずにゴチャゴチャになってしまうことが多い。

政府の推進会議で話されているのは主に第1階層の部分の話だが、

会議の参加者の思惑の中で第2階層や第3階層の発想も

入り乱れる。

どんどん分かりにくい議論になる。

 

混乱しないように、まずは上記3つの階層を頭に入れておこう。

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(3)

テレビ局が

「放送とインターネット(同時配信等)を同じ扱いにしてほしい!」

と主張している。

それに対して文化庁

「そんなことはできない」

と対抗している。

 

この話をちゃんと理解するには、

著作権の中でもかなり面倒くさい部分の理解が必要になる。

そうしないと、

「規制改革を訴えている改革派(推進会議やテレビ局)と、

 古い規制にしがみつく守旧派文化庁等)の戦い」

というような、底の浅いステレオタイプな物の見方にとらわれてしまう。

 

私の結論的なことを少しだけ先に言っておくと、

色んな人や団体が色んな主張をしているが、

それぞれの人が長期的な戦略を持って

主張しているわけではないと思う。

誰も明確な見通し持たないままに、

目先の問題に対処するために

当てずっぽうに主張しているだけの状況に思える。

 

これから、できるだけ解きほぐして説明したい。

 

権利者と利用者

まずは改めて、基本中の基本から説明しよう。

 

著作権の世界には2種類の登場人物しかいない。

・権利者

・利用者

この2つだ。

 

著作物等を利用したいときは、

利用者が権利者から許可をもらったりお金を払ったりして、

利用させてもらう。

 

著作権の世界は、このシンプルなルールで回っている。

 

「何を当たり前のことを!」と思われるかもしれないが、

分かっていない人が多い。

 

例えばテレビ局のスタッフが

ピカソの絵を番組で使いたい」

と思ったとき。

手元にある「西洋美術全集」に掲載されいてる絵を撮影したい。

スタッフはその本の出版社に電話する。

「もしもし。御社の本の一部を番組の中で使わせてください」

「わかりました。許可しますので申請書に記入して送ってください。

 使用料は1ページあたり1万円です。

 あと、絵の権利がある場合は、そちらの責任で処理してください」

「わかりました!ありがとうございます!」

 

こんなやりとりは多い。

 

テレビ局のスタッフも出版社の窓口の人も、勘違いしている。

「利用者が権利者から許可をもらう」という基本ルールを理解していない。

 

上記の例の場合、「権利者」は誰か?

当然、ピカソだ。

(本人は亡くなっているので、その権利を預かっている財団等)

 

では、「利用者」は誰か?

出版社とテレビ局だ。

出版社は「西洋美術全集」を出版するにあたり

ピカソの許可を取っているし、

テレビ局は番組を作って放送するにあたり

ピカソの許可を取らないといけない。

 

つまり、出版社とテレビ局は「利用者」という全く同じ立場なのだ。

利用者から許可をもらう必要は全くない。

 

利用者にすぎない出版社に許可をもとめるテレビ局。

自分が権利者のように振るまう出版社。

どちらもトンチンカンだ。

 

テレビ局のスタッフは、出版社に連絡を取る必要はない。

ピカソの財団に連絡して許可をもらった上で、

出版社には黙って本を撮影すればよい。

(もしピカソではなくゴッホの絵なら、誰にも連絡しなくて良い。

 ゴッホの絵の著作権は切れているからだ)

 

まずは「権利者」と「利用者」。

この2種類の登場人物の関係をしっかり頭に定着させよう。

これが出発点になる。

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(2)

前回は、テレビ局が

「放送とインターネット(同時配信等)を同じ扱いにしてほしい!」

と主張している様子を紹介した。

 

今回は著作権的に「放送」と「インターネット」がどう違うのか?

について基本的なところを解説したい。

 

法律の条文を使って説明すると難しくなってしまうので、

条文は使わず、たとえ話で解説したい。

 

水道水と宅配水

あなたが自宅にいて「水がほしい」と思うなら、

代表的な方法は2つある。

 

1つ目は、蛇口をひねって水道水を出す方法。

 

2つ目は、業者に注文して水を宅配してもらう方法。

アクアクララのような業者が有名)

 

水道水は非常に便利だ。

常に自宅まで水が来ている。

あなたは蛇口をひねるだけでいい。

その代わり、水の種類を自由に選ぶことはできない。

どの家にも同じ水が来ている。

 

一方で、宅配水はあなたが何もしない限りは水は来ない。

まず注文する必要がある。

ひと手間かかるが、その代わりに自分の好みの水を選ぶことができる。

 

水道水を提供するのは、水道局。

宅配水を提供するのは、水の宅配業者。

どちらの責任が重いだろう?

 

もちろん、水道局だ。

より多くの人の健康に責任をおっている。

だから、水の安全性をたもつために様々な規制がある。

水の宅配業者も守らないといけないルールはあるが、

水道局の比ではない。

規制のおかげで我々は安心して水道水を飲むことができる。

 

放送とインターネット

放送とインターネットの違いは、

水道水と宅配水の違いとだいたい同じだと考えて良い。

 

あなたが情報がほしいとき、

放送(テレビやラジオ)とインターネットの

2つの選択肢があるとしよう。

 

テレビ局は電波塔からずっと電波を流しているので、

あなたの自宅には常に情報が届いている。

あなたはテレビのスイッチを入れるだけでいい。

その代わり、見れる番組のチャンネル数は限られている。

お隣さんと同じものを同時に見ることになる。

 

一方、インターネットではあなたが何もしない限り情報は来ない。

まず検索などを行い、情報をリクエストする必要がある。

その代わりにネット上にちらばる無数の情報から、

自分の好みのものを選んで見ることができる。

 

放送を提供するのは、放送局。

ネット情報を提供するのは、

ネット上にいる無数の情報提供者(と回線業者)。

 

放送局の方が「正しく有益な情報」を伝えることについて

重い責任をおっている。

 だから、放送局には様々な規制がかけられている。

 

違い

著作権的にみた「放送」と「インターネット」の違いは、

法律の条文では「公衆に」「同時に」「無線」「自動的に」などの言葉で

細かく定義されているが、

とりあえずは、こんな感じで理解すれば良いと思う。

 

放送

・常に手元まで情報が届いている。

・みんなに同じものが同時に届く。

・見る人が積極的に情報を選べない。

・規制が多く限られた人しかできない。

 

インターネット

・自分から情報を取りにいく。

・見る人が自由に情報を選べる。

・規制が少なく誰でもできる。

 

まずは、上記を覚えておこう。

 

生真面目さ

数十年前。

インターネットという新しいものが生まれたとき

(「キャプテンシステム」などが流行っていた!)に、

「これを著作権的にどう扱えばいいのか?」

「放送とどう違うのか?」

という議論が巻き起こった。

 

優秀な日本の役人たちは

放送とインターネットの技術的な違いについて研究した。

その結果、

「常に手元に情報が来ているか、

 自分から情報を取りに行くかの違いこそが根本的な違いだ!」

という結論になった。

その理解をもとに「放送」と「インターネット」が整理された。

 

日本は世界的にみても技術的な観点からの理解を

特に生真面目に法律に落とし込んでいるようだ。

 

そのことがプラスに働いたこともあった。

送信可能化権」というアップロードに関する権利を

生真面目に作ったおかげで、

ネット上の著作権侵害に対して世界でも最先端の対応をとることができた。

(「ナップスター事件」「ファイルローグ事件」などを検索してみてほしい)

 

逆にマイナスに働くこともある。

今回、規制改革推進会議で話題になっているように

「技術的には違っても、

 ユーザーにとっては放送もネットも今や同じだ!

 なぜ扱いが違うんだ!」

ということになってしまう。

 

現在起きている議論は、生真面目さが生んだという面もあるのだ。

 

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放送とインターネットの違いを理解した上で、

次回は放送する側(つまりテレビ局)の目線から、

放送やインターネットについて見ていこう。

 

 

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