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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(3)

テレビ局が

「放送とインターネット(同時配信等)を同じ扱いにしてほしい!」

と主張している。

それに対して文化庁

「そんなことはできない」

と対抗している。

 

この話をちゃんと理解するには、

著作権の中でもかなり面倒くさい部分の理解が必要になる。

そうしないと、

「規制改革を訴えている改革派(推進会議やテレビ局)と、

 古い規制にしがみつく守旧派文化庁等)の戦い」

というような、底の浅いステレオタイプな物の見方にとらわれてしまう。

 

私の結論的なことを少しだけ先に言っておくと、

色んな人や団体が色んな主張をしているが、

それぞれの人が長期的な戦略を持って

主張しているわけではないと思う。

誰も明確な見通し持たないままに、

目先の問題に対処するために

当てずっぽうに主張しているだけの状況に思える。

 

これから、できるだけ解きほぐして説明したい。

 

権利者と利用者

まずは改めて、基本中の基本から説明しよう。

 

著作権の世界には2種類の登場人物しかいない。

・権利者

・利用者

この2つだ。

 

著作物等を利用したいときは、

利用者が権利者から許可をもらったりお金を払ったりして、

利用させてもらう。

 

著作権の世界は、このシンプルなルールで回っている。

 

「何を当たり前のことを!」と思われるかもしれないが、

分かっていない人が多い。

 

例えばテレビ局のスタッフが

ピカソの絵を番組で使いたい」

と思ったとき。

手元にある「西洋美術全集」に掲載されいてる絵を撮影したい。

スタッフはその本の出版社に電話する。

「もしもし。御社の本の一部を番組の中で使わせてください」

「わかりました。許可しますので申請書に記入して送ってください。

 使用料は1ページあたり1万円です。

 あと、絵の権利がある場合は、そちらの責任で処理してください」

「わかりました!ありがとうございます!」

 

こんなやりとりは多い。

 

テレビ局のスタッフも出版社の窓口の人も、勘違いしている。

「利用者が権利者から許可をもらう」という基本ルールを理解していない。

 

上記の例の場合、「権利者」は誰か?

当然、ピカソだ。

(本人は亡くなっているので、その権利を預かっている財団等)

 

では、「利用者」は誰か?

出版社とテレビ局だ。

出版社は「西洋美術全集」を出版するにあたり

ピカソの許可を取っているし、

テレビ局は番組を作って放送するにあたり

ピカソの許可を取らないといけない。

 

つまり、出版社とテレビ局は「利用者」という全く同じ立場なのだ。

利用者から許可をもらう必要は全くない。

 

利用者にすぎない出版社に許可をもとめるテレビ局。

自分が権利者のように振るまう出版社。

どちらもトンチンカンだ。

 

テレビ局のスタッフは、出版社に連絡を取る必要はない。

ピカソの財団に連絡して許可をもらった上で、

出版社には黙って本を撮影すればよい。

(もしピカソではなくゴッホの絵なら、誰にも連絡しなくて良い。

 ゴッホの絵の著作権は切れているからだ)

 

まずは「権利者」と「利用者」。

この2種類の登場人物の関係をしっかり頭に定着させよう。

これが出発点になる。

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(2)

前回は、テレビ局が

「放送とインターネット(同時配信等)を同じ扱いにしてほしい!」

と主張している様子を紹介した。

 

今回は著作権的に「放送」と「インターネット」がどう違うのか?

について基本的なところを解説したい。

 

法律の条文を使って説明すると難しくなってしまうので、

条文は使わず、たとえ話で解説したい。

 

水道水と宅配水

あなたが自宅にいて「水がほしい」と思うなら、

代表的な方法は2つある。

 

1つ目は、蛇口をひねって水道水を出す方法。

 

2つ目は、業者に注文して水を宅配してもらう方法。

アクアクララのような業者が有名)

 

水道水は非常に便利だ。

常に自宅まで水が来ている。

あなたは蛇口をひねるだけでいい。

その代わり、水の種類を自由に選ぶことはできない。

どの家にも同じ水が来ている。

 

一方で、宅配水はあなたが何もしない限りは水は来ない。

まず注文する必要がある。

ひと手間かかるが、その代わりに自分の好みの水を選ぶことができる。

 

水道水を提供するのは、水道局。

宅配水を提供するのは、水の宅配業者。

どちらの責任が重いだろう?

 

もちろん、水道局だ。

より多くの人の健康に責任をおっている。

だから、水の安全性をたもつために様々な規制がある。

水の宅配業者も守らないといけないルールはあるが、

水道局の比ではない。

規制のおかげで我々は安心して水道水を飲むことができる。

 

放送とインターネット

放送とインターネットの違いは、

水道水と宅配水の違いとだいたい同じだと考えて良い。

 

あなたが情報がほしいとき、

放送(テレビやラジオ)とインターネットの

2つの選択肢があるとしよう。

 

テレビ局は電波塔からずっと電波を流しているので、

あなたの自宅には常に情報が届いている。

あなたはテレビのスイッチを入れるだけでいい。

その代わり、見れる番組のチャンネル数は限られている。

お隣さんと同じものを同時に見ることになる。

 

一方、インターネットではあなたが何もしない限り情報は来ない。

まず検索などを行い、情報をリクエストする必要がある。

その代わりにネット上にちらばる無数の情報から、

自分の好みのものを選んで見ることができる。

 

放送を提供するのは、放送局。

ネット情報を提供するのは、

ネット上にいる無数の情報提供者(と回線業者)。

 

放送局の方が「正しく有益な情報」を伝えることについて

重い責任をおっている。

 だから、放送局には様々な規制がかけられている。

 

違い

著作権的にみた「放送」と「インターネット」の違いは、

法律の条文では「公衆に」「同時に」「無線」「自動的に」などの言葉で

細かく定義されているが、

とりあえずは、こんな感じで理解すれば良いと思う。

 

放送

・常に手元まで情報が届いている。

・みんなに同じものが同時に届く。

・見る人が積極的に情報を選べない。

・規制が多く限られた人しかできない。

 

インターネット

・自分から情報を取りにいく。

・見る人が自由に情報を選べる。

・規制が少なく誰でもできる。

 

まずは、上記を覚えておこう。

 

生真面目さ

数十年前。

インターネットという新しいものが生まれたとき

(「キャプテンシステム」などが流行っていた!)に、

「これを著作権的にどう扱えばいいのか?」

「放送とどう違うのか?」

という議論が巻き起こった。

 

優秀な日本の役人たちは

放送とインターネットの技術的な違いについて研究した。

その結果、

「常に手元に情報が来ているか、

 自分から情報を取りに行くかの違いこそが根本的な違いだ!」

という結論になった。

その理解をもとに「放送」と「インターネット」が整理された。

 

日本は世界的にみても技術的な観点からの理解を

特に生真面目に法律に落とし込んでいるようだ。

 

そのことがプラスに働いたこともあった。

送信可能化権」というアップロードに関する権利を

生真面目に作ったおかげで、

ネット上の著作権侵害に対して世界でも最先端の対応をとることができた。

(「ナップスター事件」「ファイルローグ事件」などを検索してみてほしい)

 

逆にマイナスに働くこともある。

今回、規制改革推進会議で話題になっているように

「技術的には違っても、

 ユーザーにとっては放送もネットも今や同じだ!

 なぜ扱いが違うんだ!」

ということになってしまう。

 

現在起きている議論は、生真面目さが生んだという面もあるのだ。

 

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放送とインターネットの違いを理解した上で、

次回は放送する側(つまりテレビ局)の目線から、

放送やインターネットについて見ていこう。

 

 

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テレビ局 VS 文化庁 VS 規制改革推進会議 大混戦のゆくえは・・?(1)

政府の「規制改革推進会議」という場で、

テレビ局(東京キー局とNHK)と文化庁

著作権法の改正をめぐって激しくぶつかっている。

そこへ推進会議側や政治家も参戦し、大混戦になってきた。

 

もしテレビ局の主張が通れば、著作権の大変革となる。

 

今回はその議論の様子を紹介しよう。

 

議論の大まかな前提

日本は成長性が低い!

新しい産業が生まれていない!

ムダな規制が多すぎるせいだ!

 

何十年も前から言われていることだが、

規制緩和はなかなか進まない。

 

行政、金融、医療、教育・・・・など様々な分野の規制を

取り払うために政府が作ったのが

「規制改革推進会議」(以下「推進会議」)だ。

 

推進会議が全国農業協同組合連合会(全農)の改革を訴え、

小泉進次郎氏が対応したことでも話題になった。

 

経済成長のための組織なので

推進会議のメンバーは経済界の重鎮が多い。

 

そんな経済重視の目線から見ると、

「古臭い規制」にしか見えないのが「著作権」だ。

 

「なぜネットで流されるテレビ番組が少ないんだ?

 ネット上のテレビ番組は、なぜ“フタかぶせ”が多いんだ?

 (「フタかぶせ」とは権利の問題等で番組内の素材が使えないから

  画面上は真っ青の画面になってしまうような状況のこと)

 なぜ音楽の差し替えが多いんだ?

 なぜなんだ!?」

「それは、著作権のせいです!

 著作権法では放送とネットが別物扱いになってるからです!」

「なに!?それはけしからん!

 今やインターネットの時代だぞ!

 視聴者にとっては放送もネットも同じなのに。

 そんな時代遅れの規制は改革してしまえ!!」

 

かなり乱暴にまとめたが、

こんな議論の流れで、著作権が推進会議の標的になった。

 

議論の応酬

議論が激しくなったのは、「第18回投資等ワーキング・グループ」だ。

 

●第18回 投資等ワーキング・グループ 議事次第

https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/meeting/wg/toushi/20200609/agenda.html

 

少しだけ私の“意訳”も加えつつ大まかにまとめると、

以下のような言葉の応酬が繰り広げられたという。

 

文化庁はこう言った。

「これまで関係者間で議論を重ねてきました。

 そこで問題点として浮上したのが

 「レコード実演・レコードのアウトサイダー」の問題です。

 これを解決するために「補償金付き権利制限」で対応します」

 

これに対してテレビ局が反発。

「いやいや文化庁さん!

 「関係者で議論を重ねた」って言うけど、

 我々はその案に賛成した覚えはないですよ。

 問題はそんな小さな話じゃないです!

 我々が求めているのは、

 「同時配信等」を「放送」と同じ扱いにすることです!」

 

そこへ推進会議側から応援が入る。

文化庁はなぜテレビ局から賛成してもらえないような提案を

 出してくるんだ?

 世の中のニーズをちゃんと理解すべきじゃないのか?」

 

これに文化庁が反発。

「ニーズも大事だが、権利者も大事。

 こういう話は丁寧に進めるべきです」

 

そこへ推進会議側が

「我々は丁寧にやっていないと言いたいのか!」

とかみつく。

 

テレビ局は重ねて

「海外でも同時配信は放送と同じ扱いです。

 なぜダメなんですか?」

と訴える。

 

しかし文化庁

「改正する理由がない」

と突っぱねる。

 

議論は平行線となり、推進会議側が

「テレビ局がこういう場であからさまに異議をとなえる状況については、

 重く受け止めるべきではないか」

文化庁を諭す場面もあったらしい。

 

 

著作権法制度の中身を理解していなくても、

言葉の応酬をみているだけで“熱さ”が伝わってくる。

 

放送とネットを巡る議論について、

ちゃんと理解できていれば、かなりの著作権上級者だ。

複雑な話なのだが、次回はできるだけ分かりやすく解説したい。

 

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ウィズコロナ? アゲインストコロナでしょ!

多くの人がコロナとの戦いを諦めはじめた。

当初は強い警戒感を見せていた東京都知事も、

経済界からの要請に抵抗しきれなかったようだ。

「東京アラート」を解除し「ウィズコロナ」とか言い出した。

 

ウィズコロナ?

いつからコロナは我々の友達になったのだ?

 

たしかにコロナの恩恵は沢山あった。

テレワークが解禁されサラリーマンはストレスから解放された。

自殺者数が激減した。

交通量が減り大気汚染が改善された。

10万円だってもらえた。

コロナと末永く付き合っていきたい気持ちも分かる。

 

歴史をみても人類は多くの細菌やウイルスと共存してきた。

コロナもその一つにすぎないのさ。

ウィズコロナ!!

経済再開!!

 

でも。。。。本当にそれで良いのか?

 

もう一度思い出そう。

呼吸ができずに苦しんで、死んでいった患者さん。

不眠不休で働く医療関係者。

つい先月まで、

「彼らは真の英雄だ!感謝しよう!ステイホーム!」

と言ってたんじゃなかったっけ?

 

歴史からも学ぼう。

多くの人類が必死で疫病と戦ってきた。

「ペスト(黒死病)と共存しよう!」と白旗をあげたりしなかった。

歴史の本で読んだことはあるか?

「ウィズペスト!」

「ウィズ天然痘!」

「ウィズスペイン風邪!」

「ウィズAIDS!」

「ウィズSARS!」

こんな能天気な掛け声を。

過去の彼らが諦めずに戦ったから今の我々がある。

諦めてはいけない。

 

コロナと共生する中途半端な状態が続けば、

いつまでも舞台やライブイベントが開けない。

文化の芽がつまれてしまう。

短期で集中的に戦った方がいい。

 

私は「ウィズコロナ!」と言ってコロナと友達になるつもりはない。

あくまでも「アゲインストコロナ」だ。

 

家にいよう。

 

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精神と時の部屋で何を修行する?

コロナウイルスによって自宅にいる時間が増えた。

部屋に閉じこもって読書やゲームをしていても、

リア充の人から後ろ指さされることもなくなった。

自分と向き合う機会が増えた。

 

今は自粛緩和の流れにあるようだが、

いずれ第2波、第3波は来ると言われている。

 

外の世界と隔絶された空間と時間を何に使うか。

 

ドラゴンボールの「精神と時の部屋」のように、

「修行」をしている人も多いようだ。

 

●コロナは精神と時の部屋魔人ブウを倒してみたくはないか?

https://note.com/kojimaryouken/n/nc6a6c38abf9c

 

この機会に英会話やプログラミングの勉強を始めた人も多いだろう。

 

私は、数学の勉強を一から始めた。

 

因数分解

2次関数のグラフ。

サイン、コサイン、タンジェント

標準偏差

などなど・・

 

大昔に勉強したことを改めて学びなおすと新鮮に感じる。

思考力を高めることで、仕事にも役立ちそうだ。

特に「集合と命題」の分野は、そのまま契約書の仕事に使える気がする。

(ド・モルガンの法則とか、背理法とか・・・懐かしい人もいるのでは?)

 

世間は緩和ムードだが、私はまだまだ油断できないと思っている。

 

医療機関や生活を支える産業で働く人の力になるためにも、

家にいよう。

そのあいだ「精神と時の部屋」で修行を開始するのも良いと思う。

 

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コロナ下の世界で文化芸術を守る意味はあるのか?

以前の記事に書いたとおり、

コロナウイルスとの戦いは長期戦になりそうだ。

 

台湾やニュージーランドなどのように

「短期集中決戦」でコロナをやっつけて、

後はのびのびと生活する選択肢もあったはずだが、

日本人は違う意思決定をした。

生活を緩めたり締めたりを繰り返しながら、

ダラダラと戦いを長引かせる道を選んだようだ。

 

よほどの幸運がない限り、この状態があと数年は続く。

そのぐらいのつもりでいた方がよい。

 

文化芸術の危機

この状況で多くの人が経済的に苦しんでいる。

あらゆる業界の人が叫んでいる。

「援助が必要です!」

補助金をください!」

 

舞台芸術やライブイベントを生業にしている人たちも同様だ。

「3密」の状況を意図的に作り上げ、

場を盛り上げることが仕事だった彼らは、困り果ててしまっている。

 

●新型コロナで西田敏行が政府に“俳優の危機”を訴える、過去にも“仕事仲間”を激励

https://news.yahoo.co.jp/articles/6d462c9c459cebb4efde27ce25b6ba5dac327873

 

少しずつ援助の仕組みができつつあるようだが、

まだまだ全然足りない状態だ。

 

●緊急事態舞台芸術ネットワーク

http://www.jpasn.net/

 

少しでも早いコロナの終息と、

安心して文化芸術を楽しめる毎日が戻ってくることを心から願っている。

私も何か良い方法がないか知恵を絞りたい。

 

文化芸術は守られるべきか?

ただし、現状の問題点も指摘しておきたいと思う。

 

援助を求める彼らの多くが口にするのが、以下のような言葉だ。

 

「日々の食糧、水、物資と同じように、

 文化芸術だって人間の豊かな生活のためには欠かせないものです。

 今失われてしまえば、もう取り戻せなくなります。

 だから文化の担い手である我々は守られるべきなのです」

 

この主張、多くの人に賛同してもらえるものだろうか?

文化芸術を仕事にしていない人や、

多くの業界から悲鳴を聞かされ続けている政治家や役人を納得させ、

「その通りだ!あなた方を優先的に援助します!」

と言わせられるだけの理屈になっているだろうか?

 

私にはそうは思えない。

 

主張の内容が正しいかどうかはともかく、

人の心を動かすだけの強い説得力を持っていないように感じる。

 

理由は以下の3つだ。

 

1.本当に失われたら取り戻せないのか?

文化芸術の活動は楽しい。

とてつもなく楽しい。

自分を表現し、多くの人に賞賛してもらえればなおさらだ。

だからこそ、多くの若者が夢をもってこの業界に飛び込んでくる。

嫌な想像だが、数年後にコロナが終息したときに

多くの俳優や歌手が廃業しているかもしれない。

それでも俳優や歌手になりたい!という人が途切れることはないだろう。

製造業の世界で多くの中小企業の社長が

「今廃業してしまえば、世界で唯一無二の我が社の加工技術が

 失われてしまう。人材難だが何とかして後継者を見つけないと!

 若者には見向きもされないが、何とかしないと・・」

と焦っているが、

エンタメの世界はそんな悩みとは無縁なのだ。

 

2.どちらにせよ取り戻せない

文化芸術は、人間の個性に頼っている部分が大きい。

俳優の高倉健さんが亡くなった後、

彼と同じ存在感を放って演技できる役者は出てきていない。

彼の役は彼にしかできない。当然だ。

今失われようが、将来失われようが、

どちらにせよ取り戻せないものなのだ。

もちろん、他の役者に受け継がれる役者魂やテクニックのようなものは

あるだろう。

しかし、製造業の技術と比べると再現度が段違いに低いことは間違いない。

どうせ失われるものを、なぜ今守らないといけないのか?

 

3.文化の担い手はあなただけなのか?

文化は様々な形で存在する。

高尚な舞台の上だけにあるものじゃない。

母親が子供に聞かせる子守唄や、町の落書きだって、文化だ。

街中のカラオケ店には、プロと名乗る人より圧倒的に人の心を動かす

歌唱を披露する素人だっている。

みんなが文化の担い手なのだ。

なぜ、あなた方だけが保護される必然性があるのか?

 

上記3つの理由をみれば、文化芸術の担い手の主張が、

一般の人にはイマイチ説得力がないのが少しは理解してもらえると思う。

 

それでも、文化芸術は守られるべきなのか・・・?

 

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ここまで読んだあなたの頭の中には、

色んな反論が浮かんでいると思う。

 

その反論を練り上げてほしい。

そして、新しい強固な理屈をもつ主張として発信してほしい。

 

それが

文化芸術への援助が今よりもっと手厚くなることにつながるはずだ。

 

コロナとの長期戦にそなえ、

「それでも文化芸術を守るべきだ!」

と堂々と言える理論をじっくり作り上げる時期に来ていると思う。

 

 

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そろそろ認めよう。あれはヤラセ番組だと。

恋愛リアリティーショー『テラスハウス』に出演していた

木村花さんが亡くなった。

ご冥福をお祈りします。

 

番組内で「意地の悪い女」として描かれたせいで、

SNS上で誹謗中傷が飛び交い、

そのために自殺することになったのだと言われている。

 

本当の原因はまだ分からないが、彼女の死をきっかけにして

普段からネットでの悪口に悩んでいた有名人やインフルエンサー

ここぞとばかりに声を上げている。

「誹謗中傷は卑怯だ!取り締まりを強化しろ!」と。

こうした世論に押される形で、投稿者の身元を特定しやすくする

制度改正も検討されているようだ。

 

●ネット中傷「制度改正で対応」 高市総務相、「テラハ」木村さん死亡で

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020052600293&g=soc

 

「名誉棄損」や「侮辱」は良くない。

「自由な批評活動」を委縮させない範囲で、

まっとうな規制ができれば良いと思う。

 

しかし、この事件のもう一つの問題点はあまり話題になっていない。

そもそも番組の構造が異常だったんじゃないか?という点だ。

 

恋愛リアリティーショー

視聴者やタレント志望の若者が参加する恋愛ショーの歴史は古い。

 

ラブアタック!』(1975年~)では、

大学生たちがテレビ局に集められ、

かぐや姫」と呼ばれる女性に愛の告白をする権利を獲得するために

様々なゲームに挑戦した。

テレビカメラの前で舞い上がった彼らが、

ひょうきんな行動をとってアピールする様子も番組の面白さの一つだった。

スタジオでの収録という、

時間も空間も設定も特殊な状況での非日常的なショーなのだから、

視聴者もほとんどの場合は

「彼らはおバカなことやってるけど普段は真面目な子なんだろうな」

と分かっていた。

そんな時代だ。

 

ねるとん紅鯨団』(1987年~)は、男女の集団お見合い番組だ。

「ご対面」「フリータイム」「告白タイム」などでがんばる男女の様子と、

カップルが成立するのか?というドキドキがウリになっていた。

撮影は半日から1日かけたオールロケになった。

場所は彼らが普段のデートで使いそうなお洒落な店や

海辺のエリア等になった。

集団お見合いという特殊な設定ではあるが、

視聴者からみても「普段の彼らの一面がわかる」ような気持ちで

見ることができるようになった。

 

『あいのり』(1999年~)は、

男女がラブワゴンという車に相乗りして、

世界中を貧乏旅行する中での恋愛模様を観察する番組だ。

ロケ番組であることは『ねるとん紅鯨団』と同じだが、

撮影期間が大幅にのびた。

参加者は数か月前後の期間ずっと撮影されるようになった。

海外旅行という特殊な設定ではあるが、

こうなるともう視聴者にもショーと現実の区別がつかなくなってくる。

参加者の「素」をのぞき見しているような気持ちで見ていた人が

多かった。

「実は台本があるんじゃないか?」という

疑惑が報じられるようになったのも、この番組からだ。

 

そして『テラスハウス』(2012年~)。

ロケの設定が「共同生活する場」になった。

こうして、撮影の場所、時間、設定の全てが、

「撮影のための特殊なもの」から「日常生活の一部」へと変換された。

視聴者は、出演者のありのままの人間性を見るような気持ちで

番組を見られるようになった。

相変わらず「台本があるのでは?」という疑惑も出たが、

番組の制作者もそれが話題になるなら「おいしい」と感じるように

感覚が変わってきていたように思う。

 

これが恋愛リアリティーショーの歴史だ。

 

ヤラセ

私は『テラスハウス』はヤラセ番組だと思う。

 

ヤラセとは、視聴者と番組制作者とのあいだで共有されている

「お約束」を、制作者が破ってしまうことだ。

 

その「お約束」は、明分化されていないことが多い。

 

例えば旅番組で、往年の名俳優が田舎の商店街を歩いている。

「おや?なんだか良い匂いがしてきますね。

 ちょっとこの店にはいってみましょう」

そうして❝ぶらり❞と立ち寄ったおせんべい屋さん、

実は江戸時代から続く名店だった。

 

こんな展開は多い。

スタッフが事前に下調べして、取材許可もとっているのだろう。

これはヤラセだろうか?

ヤラセではない。

この旅番組での視聴者との「お約束」は、

「アポなしで取材すること」ではなく

「旅行するうえでの有益な情報を正しく伝えること」だ。

この「お約束」が守られている限りは、ヤラセにはならない。

 

(逆に「タレントがガチのアポなしで美味しい店を探します!」

 という企画なら、上記の演出はヤラセになってしまう)

 

テラスハウス』の場合、「お約束」は何だったのだろうか?

「出演者の人間性の部分では嘘をつかない」とか

「出演者の恋愛感情の根っこでは嘘をつかない」とか、

そういうことだろうと思うが、

私にもはっきりとは分からない。

その「お約束」が意図的にボヤかされていたからだ。

恋愛番組の歴史が、時間・空間・設定すべての面で

「特殊」から「日常」へと向かう中で、

本来は明確だったはずの「虚構」と「本当」の区別が

曖昧になっていった。

「虚構」の中のものを「本当」のように見せるのが

当たり前の「演出」になった。

「ヤラセと演出の線引きは難しい」とか、

「視聴者もある程度はわかって楽しんでいるはず」とか、

いろんな言い訳をしているうちに、

制作者も何が視聴者との「お約束」だったのか、

分からなくなってしまったのではないか。

いくら曖昧になったとしても、「お約束」が消えることはない。

どこかにラインはあったはずだ。

誰も意識しないうちに、誰も意思決定しないうちに、

いつの間にか「お約束」のラインを踏み越えてしまっていたと思う。

 

そんな異常な状況の中で、

誰も解決しようとしない矛盾を一身に引き受けてしまったのが、

木村花さんだ。

番組内で演出された彼女を「本当の彼女」だと信じた視聴者から

罵詈雑言を浴びせられた。

 

彼女は亡くなった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

コンテンツの作り手と、コンテンツの受け手のあいだには、

信頼関係が必要だ。

そして信頼の基礎になるのが「お約束」だ。

曖昧なままに放置はできないと思う。

 

そろそろ認めよう。

あれはヤラセ番組だと。

 

 

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