マネー、著作権、愛

創作、学習、書評など

マンガ作ったよ! & 権利はいつ切れるのか?

マンガ完成

制作していたマンガが完成した。 

 

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マンガ「助手席には流れ星」

 

(※実際の色味はもっと綺麗。写真撮影は苦手)

 

物流会社からの依頼を受けて制作したものだ。

トラック運転手が謎の女性と出会い、

ドライバーとして、人間として成長していく物語になっている。

 

マンガ制作は、端的に言って楽しかった!

そして、著作権への理解も深まった気がする。

 

創作の喜び

私はストーリー制作、脚本、ネーム(コマ割り)までを担当し、

作画を円井在郎(つぶらいあろう)氏にお願いした。

(ネット上のスキルマーケット「ココナラ」を通じて依頼。

 ほとんどネット上だけで作業が完結する。

 良い時代になったものだ)

 

創作活動はとにかく楽しかった。

 

物流会社の大豊物流システムさんからは、

知らなかった業界の話をたくさん伺うことができ、

非常に勉強になった。

 

ストーリー作りでは、

必要な要素をいかに効果的に構成するかを考え、

脳みそに汗をかいた。

 

脚本を作る過程では、

❝自分が創作した登場人物が、意志をもって勝手に行動し始める❞

という感覚を味わうことができた。

 

ネーム作りのときは、

これまで見てきた映画のカット割りが自分の中で醸成され、

見せたいカットを自然に選ぶことができた。

 

作画の段階では、

円井さんが描き出す人物の生き生きとした表情を見るのが

毎回楽しみだった。

「あ、このキャラはこんな顔もするんだな」という発見も多かった。

 

そして何より、最終的に良い作品ができた。

 

コンテンツ制作に携わることはこれまで何度もあったが、

今回ほど実際に自分の手を動かしてモノづくりをしたのは、

学生のとき以来だ。

みずみずしい気持ちを思い出した。

 

貴重な機会を与えてくれた大豊物流システムさんと、

素晴らしい仕事をされた円井在郎先生に、

心からの感謝を申し上げます。

 

著作権の保護期間

マンガを制作したからといって、

いっぱしのクリエイターを気取る気はないが、

今回は創作者の立場から著作権についての感想を語りたい。

 

強く違和感をもったのが、

なんといっても「著作権の保護期間」についてだ。

 

私のマンガの著作権はいつ切れるのだろう?

誰もが自由に使えるようになるのは、いつだろう?

 

なんと、私が死んだ70年後だ!

私が長生きしてあと50年生きるとしたら、今から120年後になる!

あまりに遠い先の話すぎて、自分では何一つ想像できない・・・

 

保護期間?存続期間?

保護期間の話をする前に、

少しだけこまかい言葉の整理をしておこう。

 

一般的には「著作権の保護期間」と言われている。

でも、これは本当は間違いなのだ。

 

作品が勝手にパクられないように発明された権利が「著作権」だ。

著作権は「手段」であって「目的」ではない。

本当の目的は「作品を(パクリから)保護すること」。

つまり保護すべきなのは、「著作権」ではなく「著作物(作品)」だ。

 

だから、正しい言葉づかいは「著作物の保護期間」だ。

どうしても「著作権」という言葉を使いたいなら、

著作権の存続期間」と言えば良い。

著作権法でも、丁寧に言葉の使いわけがされている。

 

ひじょーに細かい話なのだが、人間は言葉の影響を受けやすい。

何も気にせずに「著作権の保護期間」と言い続けると、

ただの手段に過ぎない「著作権」が保護すべき大切なものに見えてくる。

著作権こそが大事だ!」という思想に染まりやすい。

 

もちろん著作権は「人権」の一種なので、守るべきものなのだが、

どの程度大切にすべきかについては色んな見解がある。

そのあたりは以前の記事で「著作権・右派思想と左派思想」として

解説した通りだ。

 

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無頓着に「著作権の保護期間」と言うのはやめた方がいい。

このブログでも、今後はできるだけ

「著作物の保護期間」を使いたいと思う。

 

(分かりやすさ重視のときは「著作権の保護期間」と

 言ってしまうかもしれないけど)

 

創作意欲

著作権は「人権」であると同時に、「手段」でもある。

 

著作権がなぜあるかというと、

「作品をちゃんと保護すれば、

 作者がちゃんとお金を受け取れるようになる。

 そうなると、作者がやる気を出してもっと良い作品を生み出すだろう」

と考えられているからだ。

 

つまり、著作権は「作者からやる気を引き出すためのエサ」なのだ。

 

この考え方を延長していくと、こんな理屈になる。

「著作物を長いあいだ保護すれば、

 作者はもっとやる気を出して、もっと良い作品を生み出すだろう」

 

こうして著作物の保護期間はどんどん延びていった。

発行後14年から、作者の死後30年へ。

30年から50年へ。

50年から70年へ。

強い反対運動もあったにもかかわらず。

 

クリエイターはこう言われてきたことになる。

「あなた方は、保護期間が短いと、つまらない作品しか生み出せない。

 期間を20年延ばしてあげるから、もっとマシなもの作りなさい!」

 

それなのに、

ほとんどの作家や作曲家等は期間延長を喜んで受け入れてきた。

 

これっておかしくないか??

 

クリエイター代表

今回だけは勝手にクリエイターを代表して言わせてもらいたい。

 

ふざないでほしい!

俺たちはニンジンをぶら下げられた馬じゃない!

創作の喜びを知るひとりの人間だ! 

なぜ作品作りに打ち込むのかって?

そんなの決まってるじゃないか!

魂が「つくりたい!」って叫んでるからだよ!

それ以外の理由なんてない!

もちろん、大切な作品で好き勝手なことをされると困るし、

お金だって大切だ。

だから作品を守るための仕組みは必要だ。

それは認める。

でもそれは保護期間の延長ではない!

断じて違う!

自分が死んだ50年後に、あと20年プラスされる。

だから、もっとやる気を出して今より良い作品を作れるだろうって?

そんなわけないだろ!

俺たちはいつも目の前の作品に真摯に向き合っている。

いつだって真剣だ。

保護期間が短いからって、出し惜しみするわけないだろ!

もっとクリエイターの心、創作の喜びを理解してくれ!

 

心からそう思う。

 

企業の場合

個人としてのクリエイターの思いと、

企業としての意思決定は分けて考えるべきかもしれない。

 

個人なら多くの場合、やる気さえあれば作品をつくれるが、

企業の場合、「制作費をかけるべきか?」という意思決定が必要になる。

(大型予算の映画などを想像してほしい)

創作意欲だけではどうにもならない。

この作品が将来的にどれだけのキャッシュを生むか?を計算しないと、

制作に着手すらできない。

できるだけ長い期間のキャッシュフローがある方が、

前向きな意思決定がしやすい。

これは間違いない。

 

しかし、50年も先の話になると、

現実的にはあまり意味のない議論になってくる。

 

不動産なら「この物件は10年後も1億円の家賃収入がある」と

ある程度は確信をもって言うことが出来る。

でもコンテンツ産業の場合は全然違う。

「今年はこの映画の興収が10億円だった。

 だから10年後も興収10億円だろう」と言う人はだたのバカだ。

コンテンツの賞味期限は短い。

旬な期間はせいぜい最初の数年までだ。

10年後にそれなりのキャッシュを生んでいる作品は、

ごくごく一部の例外にすぎない。

ましてや50年後となると、いったいどれだけの作品が

「現役」として生き残っているというのか。

 

また、50年先のキャッシュは「現在価値」で考えると、

どれだけの価値があるのか?

(「現在価値」というのは、

 「10年後にもらえる10万円より、

  今日もらえる9万円の方がいい!」という考え方。

 つまり、遠い将来のお金は価値を割り引いて考えないといけない)

だれも本気で計算しようと思わないほどの額になってしまうだろう。

 

こう考えると、保護期間を50年から70年に延ばしたことで、

どれだけの企業が「よし!それなら制作費を出そう!」と思うのか?

きわめて疑問だ。

 

多くの論点

著作物の保護期間については、

「クリエイターのやる気」や「企業の意思決定」以外にも、

多くの論点がある。

 

たとえば、

「海外(特にヨーロッパやアメリカ)と同レベルにすべき」

「過去の名作が忘れ去られてしまう」

「効率的な権利処理システムがあれば大丈夫」

などだ。

 

以下のサイトでほぼ議論は尽くされているので、

興味がある人は読んでみてほしい。

どの論点でも保護期間を延ばすことに

説得力がないのが分かる。

 

著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム

 保護期間「延長派」「慎重派」それぞれのワケ

http://thinkcopyright.org/reason.html

 

保護期間の憂鬱

日本の著作権の保護期間は去年の年末に

「死後50年」から「死後70年」に延長された。

(映画以外の著作物についての話。

 映画は一足先に20年延長されていた)

 

10年前に同じような話があったときは、

大きな反対運動が起きて見送られたのだが、

今回は「TPPで決まってるから」ということで

反対運動をするヒマもないまま、シレッと延長されてしまった。

 

これは、色んな意味で憂鬱になる事態だ。

 

著作権が切れて「みんなのもの」になるはずだった作品が、

 この先20年は使えなくなってしまった。

 

・人は一度手に入れたものを奪われるのを極端に嫌う。

 (流行りの行動経済学が指摘するとおりだ)

 一度延長されてしまった期間が短縮される望みはない。

 

・国民の意見とは関係なく

 著作権法がシレッと改正されるなんてことが

 いまだに起きることが証明された。

 

我々の文化は、こんなんで本当に大丈夫なんだろうか?

そんな気持ちになってくる。

 

でも憂鬱になってばかりもいられない。

豊かな文化のために、何かできることはあるはずだ。

 

クリエイターのはしくれ(!)として良い作品を生み出しつつ、

崩れた著作権のバランスを回復させるべく、

できることを考えていきたいと思う。

 

保護期間については、

いずれ改めて1から分かりやすく説明する予定だ。

 


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日本は英語を愛しすぎている。憎みすぎている。(2)

日本人は英語に複雑な感情を抱えてることを、

前回の記事では解説した。

 

健全な「憧れ」と「劣等感」。

そして、不健全な「罪悪感」。(「後悔」と言ってもいい)

 

教育界から(意図的に)コンプレックスを植え付けらえれた我々は、

どうしたら良いのだろう?

 

理解する

一番の正攻法は、コンプレックスの原因をちゃんと理解することだ。

「私が英語をしゃべれないのは、私のせいじゃない!

 悪いのは自分じゃない!」

堂々と言えるようになろう。

 

そのためには、前回の私のブログを熟読しよう(笑)。

 

この本を読んでみるのもいいだろう。

『日本人の9割に英語はいらない 英語業界のカモになるな!』

 

 

癖のある本なので受け付けない人もいるだろうが、

書いてあることは❝まっとう❞だ。

英語なんてものに囚われる必要がないことを繰り返し主張している。

 

これで「あ、英語のこと気にしなくていいかも」と思えたら、

しめたものだ。

 

自信を持つ

次にお勧めするのは、日本語をもっともっと使うことだ。

 

日本語は非常にユニークな言語だ。

複数の文字、間延びした発音、文字と思考の一体化・・・

など、前回書いたような個性にあふれている。

その上で、高度な内容を扱うこともできる。

 

日本語で多くのことを表現すれば、

それだけ日本語と仲良くなれる。

 

たくさん本を読んで、たくさん文章を書こう。

作詞なんてしてみるのも良いと思う。

日本語の面白さが分かる。

 

そのうち

「日本語を軽々と使いこなす我々こそがユニークだ!」

と気づく。

それが自信になる。

 

私もこうして毎週文章を書いているが、

「よくもまあ、こんな珍妙な道具を使い続けているものだなあ。

 でも、このコトバじゃないと自分自身を表せないなあ。

 これこそ自分の個性だなあ」

と感じ続けている。

 

楽しくなって、最近では「脚本」まで書き始めてしまった。

 

自信を持っていこう。

 

あきらめる 

それでもコンプレックスが消えなければ・・・・

 

あきらめよう!

 

我々は若い時から洗脳を受けながら育った。

「世界を舞台に活躍しなさい」

「外国人とは英語でしゃべりなさい」

「日本語だと世の中から取り残されます」

 

全部ウソッぱちだと頭では理解していても、

数十年がかりでかけられた❝呪い❞は、そう簡単には解けない。

 

「自信を持とう」と言っている私自身、

英語で会話中に「ウっ」と言葉に詰まってしまうと、

コンプレックスが一気に噴き出してくる時がある。

心がズキッと痛む。

 

これはもう仕方がない。

あきらめよう。

 

そのうち他のもっと重大な悩み事が湧いてくる。

英語の悩みなんてどうでも良くなるだろう。

 

それでも英語を勉強したいなら

私は英語が好きだ。

他の言語を学ぶのは楽しい。

中国語も少しだけ勉強している。

 

 趣味としての語学なら、好きなだけやればいいと思う。

 

好きでないのなら無理して英語を学ぶ必要はない。

 

それでも・・・どうしても英語を勉強したいなら。

世間体のために、モテるために、コンプレックス解消のために、

勉強したいのなら。

 

とりあえず私から言えるのは3つだ。

 

・お金を無駄にしない。

・日本語の特徴から解放される。

・できるだけ先延ばしにする。

 

お金を無駄にしない

外国語の習得には、地道な努力が必要だ。

地道な努力。

それ以外の方法はない。

本当にない。

 

でも世の中は、努力が要らないかのような教材やコースであふれている。

 

「CDを聞き流すだけ!口から自然と英語が飛び出す!」

「200フレーズ暗記するだけ!これで英会話は全てOK!」

「ペラペラになるにはコツがある!

 優秀な教師があなたを最短コースへお連れします!」

 

冷静に考えると

「そんなわけねぇだろ!」の一言で済んでしまうものばかりだ。

そして、そういうものに限って値段が高い。

 

それでも「英語があなたを救う!」という宗教にに囚われ

熱くなってしまった人間には、魅力的に見えてしまう。 

あなたのコンプレックスにつけこむ悪質な業者は多い。

 

勉強するのはあなた自身だ。

高級な教材も教師も、あなたの代わりに勉強してくれない。

お金を無駄にしないよう気を付けよう。

 

日本人には英語が大人気なので、英語教材のマーケットは巨大だ。

そこでは熾烈な競争が行われている。

だから、安い教材でも十分にクオリティが高い。

自分のレベルに合わせてリーズナブルなものを選べば良いのだ。

 

日本語の特徴から解放される

以前の記事に書いた通り、言語の本質は「音」だ。

「文字」はそんなに大事じゃない。

 

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しかし、日本語はユニークだ。

中国から輸入した「漢字」と悪戦苦闘しながら成長したせいで、

「音」だけではなく「文字」の方も重要になった。

 

だから教育現場でも、ついつい「文字重視」になっていた。

難しい漢字や漢文の読み書きができて、その奥深い意味を説明できる。

つまり「漢字を知っている」ということが「教養」だった。

 

英語教育でも、ついその癖が出てしまう。

英単語や英文の読み書きができることや、

文法を正確に理解していることが必要以上に重視されるように

なってしまった。

 

でも英語は日本語とは違う。

英語の本質は「音」だ。

文法を習うのは、英語の音に十分に慣れた後でいい。

 

日本語とその学習法からは解放されよう。

音をひたすら勉強しよう。

 

私の場合は、この教材は非常に役に立った。

『英語耳』 

 

 

 他の教材でも良いと思うが、

とにかく飽きるほどに「s」「sh」「th」などの音を聞き発音することで、

❝英語の本質❞に迫っている実感が湧くと思う。

 

できるだけ先延ばしにする

そして一番大事なのはこれだ。

英語の勉強を始めるのは、できるだけ後回しにしよう。

 

人生には他にもっと大切なことがある。

 

山に登って素晴らしい景色を見ること。

美味しいごはんを食べること。

大好きな人と過ごすこと。

 

使うあてのない英語のために、

あなたの貴重な時間を費やしてる場合じゃない。

 

本当に英語が必要になったら、その時に必死になればいい。

真剣さが違うので、短時間で習得できるだろう。

何とかなる。

私も何とかなった。

 

そして、先延ばしにするメリットはもう1つある。

 

それは、技術の進歩を当てにできることだ。

 

今や自動翻訳のおかげで、簡単なやりとりには困らなくなってしまった。

「ポケトーク」の精度は日々向上しているので、

日本語しか使えなくても

海外旅行でマゴつくようなことは無くなってしまうだろう。

 

 

 ただし、自動翻訳に多くを期待しない方が良い。

AIは文章の「意味」を理解できない。

長い文章や、深い意味を込めた言葉を翻訳することは、

いつまでたっても出来るようにならないと思う。

 

期待したい技術の進歩は、

「自動翻訳」よりも、むしろ「教育手法」の方だ。

 

これまでは「効果的な英語の学習方法」について、

色んな専門家や実務家が好き勝手なことを言えていた。

 

「俺はこのやり方で英語を習得した!

 これこそが正しい学習法だ!」

「私はわが子をペラペラに育てました。

 秘訣を公開します!」

「私は脳の専門家です!

 これが科学的に正しい唯一の方法です!」

 

どれも結局は、その人にとってだけ正しい自己流の手法に過ぎない。

(上記で私が書いた「音に慣れる」も、その一種だ)

信じて実践してみても、あなたには合わないかもしれない。

(だいたいの場合、あなたには合わない)

 

しかし最近では統計学が大きく進歩している。

以前の記事で少しだけ紹介したRCT(ランダム化比較試験)が、

世の中の様々なことについて

「何が効果があるのか」を明らかにしようとしている。

 

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RCTを使えば、自己流とは格段にレベルの違う、

強い証拠能力に裏打ちされた「効果的な英語の学習方法」が

開発されるだろう。

 

私の知る限りでは、今のところそんな研究は行われていないようだ。

「学生を実験材料にできない」とか、

何か倫理的な問題があるのかもしれないが、

いずれは実施されると思う。

 

「いつかは英語をやらなきゃ・・」と思っている人は、

それまで待てば良いのだ!

統計的に効果のある学習法が開発された後で英語の世界に入っても

遅くはない。

 

英語の勉強はできるだけ先延ばしにしよう。

 

まとめ

今回のまとめは以下だ。

 

・あなたが英語をしゃべれないのは、おかしな教育のせいだ。

 あなたのせいじゃない。

・日本語はすごい。

 英語なんて気にしなければいい。

・どうしても英語を学びたければ、

 ラクな方法は無いことを理解してお金は節約しよう。

・発音の練習に力を入れると良いかも。

・英語の勉強は後回しにするのが利口。

 

英語に限らず、

コトバの問題は人が人と関わって生きる上で避けては通れないものだ。

より良い解決法ないか、今後も考えていきたい。

 


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日本は英語を愛しすぎている。憎みすぎている。(1)

大学入試に民間の英語試験を活用する件について、

延期が決定され、大騒ぎになっている。

 

●安どと不満の声 英語民間試験延期 教育現場から

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191101/k10012160221000.html

 

「若者たちには世界で活躍してほしい!」

「英語はこう教えるべきだ!」

 

日本人は英語教育の話題が大好きだ。

 

今回は、英語について私の感じていることを

多少の独断と邪推もまじえながら書いておきたい。

 

日本語のユニークさ

日本語は非常にユニークな言語だ。

 

・発音の種類が少なく、全体的に間延びした音になる。

 (英語だと「strike!」と一息に言ってしまえるが、

  日本語だと「ス・ト・ラ・イ・ク」となってしまう!)

 

・漢字を巧みに使うことで、高度に抽象的な概念を扱える。

 (「抽象」「概念」って、すごく難しいことばを普通に使えてる!)

 

・文字が多彩で、ひらがな、カタカナ、漢字を使いこなす。

 (コトバ遊びにチョー便利!)

 

同音異義語が異常なほど多い。

 (「キシャのキシャがキシャでキシャした」

  →「貴社の記者が汽車で帰社した」

  ことば遊びに最適!)

 

・「音」だけではなく「字(漢字)」を思い浮かべながらでないと、

 人と会話ができない。

 (「希望するコーコーに一発で合格してくれました。

   ほんとに親コーコーな息子です」

  →「高校」と「孝行」を一瞬で思い浮かべている!)

 

こんなに変わった言語は、(おそらく)他にはない。

以前の記事に書いた通りだ。

 

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日本と英語の関わりの歴史

日本人は、西洋の文化・文明をどう受け入れてきたのか。

 

基本的には、他の「欧米以外の国」と同じだ。

 

欧米から先生を呼んで学問を教えてもらう。

国内のエリートが欧米に留学し、知識を仕入れ、

帰国し、学んできたことを伝える。

国内の知的レベルを上げていく。

こうして明治維新が推進されていった。

 

そして、その中心的役割を果たしたのが大学だ。

大学は、西洋の文化・文明を輸入するための施設だった。

 

大学では、英語を使えることは必須の能力だった。

(明治ではドイツ語とか他のヨーロッパ言語も大事だったが、

 ここでは英語で代表させておこう)

教材は全て英語で書かれている。

英語が分からないと授業にならない。

当時の学生の苦労は、夏目漱石の『三四郎』を読めばよく分かる。

 

 

英語ができないと学問ができない。

そして、出世もできない。

 

一部の家柄、血筋、地位の人でない限り、

出世してエリートの仲間入りをするためには、英語が必要だった。

英語が使えないと、❝お国のため❞に役立つ人材にはなれなかった。

 

こうして日本人の心の中には「英語への憧れ」が育っていく。

それと同時に、

英語が使えない人は「劣等感」を感じるようになっていく・・。

 

こう書くと悪いことのように感じるかもしれないが、

これはただの「自然現象」にすぎない。

それぞれの文化・文明を背負った言語同士の関係の中で、

どうしても「序列」「上下関係」が出来てしまうのだ。

これは避けようがない。

「出世したいけど英語がしゃべれない・・」と劣等感を持つ若者が、

「よし!英語を勉強しよう!」と考えるのは、

極めて自然で健全な向上心だと思う。

そうやって明治の偉人たちは道を切り拓いた。

 

ここまでは、他の「欧米以外の国」と同じ流れだ。

西洋文化・文明を取り込むときには、普通に起きることだ。

現在の途上国でも同じ状況がみられる。

 

しかし、日本ではその後ちょっと違う方向へ進んでいく。

 

日本語の進化

明治の知的エリートはすごく頑張った。

漢字を駆使して英語を次々と日本語に変換していった。

「science」「phylosophy」「life」「insurance」を

「科学」「哲学」「生活」「保険」と翻訳した。

識字率の高かった日本の庶民たちも、

新しい言葉を次々と理解していった。

日本語は劇的に進化した。

非常にユニークな言語になった。

 

しばらくすると、日本語だけで高度な学問をできるようになっていた。

英語がしゃべれなくても出世できるようになった。

 

今の学生たちは英語ができなくても東京大学を卒業できる。

英語が苦手でも、医者にも弁護士にもなれるし、

大学教授にだってなれる。

高級官僚にもなれるし、世界的大企業の社長にもなれる。

 

こんな国は、(おそらく)他には無い。

 

(ヨーロッパなら、自国の言葉だけで上に行ける仕組みはあるだろうし、

 アジアにもそういう傾向の国はあるだろうが、

 やはり日本の特殊性は際立っていると思う。

 「新しい大臣は英語が得意!」なんてことが

 話題になってしまう国なのだ!)

 

英語への姿勢

こうなると、日本人の英語に対する姿勢がおかしくなってくる。

 

明治の世の中と違い、英語の必要性は下がった。

英語なんか使えなくても出世できるのだ。

 

それでも、 言語の序列意識はそう簡単には変わらない。

日本人は相変わらず「英語への憧れ」と「劣等感」をもち続けた。

 

英語は、

「現実世界の役には立たないけれど、

 意識の中の序列付けにだけ使える言語」

になった。

つまり、日本人は「世間体」のためだけに英語を勉強するのだ。

 

ハイソサエティー❞の有閑マダムは、

歌舞伎を観に行ったり生け花を習ったりするのと同じ感覚で

英会話教室に通い、

イケメンの白人から使うアテのない言い回しを教わっている。

自分の序列を上げるために。


教育者の多くは、

自分の教え子が英語ペラペラになることを本気で望んではいない。

そんな生徒がいたら、自分の英語力の低さがバレてしまう。

大学教授の「権威」を守り、学内の「序列」を崩さないためにも、

生徒たちには英語が苦手でいてくれないと困る。

それでも教え子は出世していくので、自分の評価が下がることもない。

 

こうして英語教育は、実用性が低く、形だけのものになっていく。

重箱の隅をつつくような文法問題ばかりの大学入試テストが開発された。

現実の役には立たないけど、序列付けには最適のテストだ。

大学入試に合わせて、中学と高校の学習内容も細かい文法ばかりになった。

 

 こんな教育が行われているうちに、

「長年英語を勉強しているのに、全然しゃべれるようにならない!」

「テストの成績は良いのに、外国人をみるだけで緊張してしまう!」

「自分に問題があるのでは??」

と悩む生徒が増えていく。

 

こうして日本人の心の中では

健全な「憧れと劣等感」に、不健全な「罪悪感」がプラスされた。

(本人に罪はないのに!)

 

親は「子供たちにはこんな思いをしてほしくない!」とばかりに

英語教育にさらに熱心になる。

子供たちの心の中に「憧れ・劣等感・罪悪感」が再生産される。


多くの日本人が英語の話題になると

「いや~、いつかはやらなきゃと思ってるんだけどね・・」

と恥ずかしそうに笑ってごまかすようになった。

 

私の場合

こんなことを書いている私自身も、

「憧れ・劣等感・罪悪感」を抱えている1人だ。

 

私は日本人全体の中で言うと「英語ができる部類」に入ると思う。

 

学校での英語の成績は良かった。

(中高の英語の先生は、非常に熱心に文法を教えてくれた。

 個人個人の先生は生徒のためを思っている)

 

TOEICでは、上位1%ぐらいに入る点数を取ったこともある。

(4択の中で正解を見つけるのは得意。

 ギリギリで1%からは漏れたけど)

 

英語の本もたまには読む。

(日本語の本より時間がかかるけど)

 

ある程度の会話や議論もできなくはない。

(相手が配慮して会話のペースを落としてくれるなら)

 

それでも英語の話になると、

「いや~、もっと頑張らなきゃと思ってるんだけどね・・」

と恥ずかしそうに言ってしまう。

 

染み付いた「憧れ・劣等感・罪悪感」からは、

なかなか解放されない。

困ったものだ。

 

特に日本人特有の「罪悪感」はタチが悪い。

「憧れ・劣等感」だけなら、

英語力さえレベルアップすれば、いつかは克服できるだろう。

でも「罪悪感」だけは消えない。

これまでに費やした学習時間を無かったことにはできないからだ。

「こんなに勉強したのに・・悪いのは自分では?」

という思いだけは、消せない。

 

どうすれば?

日本人は英語に対して

非常に複雑な感情をもつようになってしまった。

 

だから誰もが英語教育の話になると、

ついつい感情的に熱くなる。

自分の経験に基づいて何かしら語りたくなってしまう。

日本人は英語教育の話題が大好きだ。

 

(余談だが、数十年後には「プログラミング教育」でも

 同じことが起きそうな気がしてしょうがない)

 

我々は今後、どうするべきなのだろう?

 

大学入試に民間英語試験を導入すれば解決するような話ではない。

これは、制度や技術の問題というよりは、

感情的・心理的な問題なのだ。

 

次回はこの大問題について、考えてみたい。

 


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ゲームの歴史と著作権の未来を考える

 

ゲームとは、映画である。

 

いやいや、別に比喩表現で深いことを語りたいわけじゃない。

 

著作権の世界では、

ゲームは間違いなく映画だということになっている。

そういう話だ。

 

著作物のジャンル

小説、音楽、絵画・・・など、

著作物と言われるものには色んなものがあるが、

とりあえずのジャンル分けがされている。

 

著作権法には、以下のように書いてある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(著作物の例示)
第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。

一 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
二 音楽の著作物
三 舞踊又は無言劇の著作物
四 絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物
五 建築の著作物
六 地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
七 映画の著作物
八 写真の著作物
九 プログラムの著作物

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

自分のつくった作品が、上記1~9のどのジャンルに分類されるのか?

または、どれにも当てはまらないのか?

(あくまでも「例示」なので、当てはまらない著作物もあり得る)

それによって、法律的な扱いが変わることがある。

 

例えば「美術の著作物」。

美術品が著作権法の中で特別な扱いがされていることは、

以前に説明したとおりだ。

 

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ジャンルはけっこう大切なポイントだ。

 

ジャンル分けを見ていて気付くのは、

「あれ?マンガ、アニメ、ゲームは??

 書いてないの?

 日本が世界に誇る文化のはずなのに??」

ということだ。

 

まあ、これは仕方がない。

この法律は、1970年に出来たものだから。

マンガ、アニメ、ゲームが全く存在しなかったわけではないが、

今ほどメジャーではなかった。

わざわざ法律に書きこむようなものではないと

考えれらたのだろう。

 

(「プログラムの著作物」という異質なものが

 紛れ込んでいることに気付いた人もいるだろうが、 

 今回は無視してほしい。

 これは、アメリカの要求で後付けで入ってきたものだ)

 

マンガ

手塚治虫氏が『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』などを

描いていたのは、1950年代。

有名なトキワ荘藤子不二雄氏、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏らが

活躍を始めたのも50年代からだ。

だから法律が出来たときには、

マンガはみんなが読むものになっていた。

 

それでも、著作権法の中には入れてもらえなかった。

「マンガはレベルの低い読み物にすぎない。

 高尚な文化を守る法律に入れるなんてケシカラン!」

みたいなことを言う人がいたのかもしれない。

 

マンガファンにとっては見過ごせない話かもしれないが、

実質的な面では、特に問題はなかった。

マンガのストーリーやセリフは、

「小説」や「脚本」と同じように「言語の著作物」として扱えば良いし、

マンガの絵柄は、

「絵画」なので「美術の著作物」と考えれば良いからだ。

 

マンガは「言語の著作物」と「美術の著作物」を組み合わせたものだ。

この説明で、十分いけた。

 

著作権法の世界では無視(?)されていたマンガだが、

 今では逆にマンガを守るために「ダウンロード違法化」を

 無理やり成立させようとしている。時代は変わるものだ)

 

アニメ

東映動画(現:東映アニメーション)が

白蛇伝』や『太陽の王子 ホルスの大冒険』などの傑作を

作ったのは50年代から60年代にかけて。

手塚治虫氏が『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの

テレビアニメを手掛けたのは60年代だ。

 

マンガと同様、商業的にも十分な存在感を見せていたが、

著作権法に「アニメ」と書かれることはなかった。

そして、それで問題なかった。

 

 黒澤明監督や小津安二郎監督の作った作品と同じ

「映画の著作物」のジャンルに入れてしまえば、

それで十分だったからだ。

 

ゲームはどうなる?

それでは、ゲームはどうだろう?

上記のジャンルの中の、どれに当てはまるだろう?

 

ゲームは、マンガやアニメより歴史が浅い。

 

著作権法が出来た1970年。

ゲームはまだまだ黎明期だった。

一部のコンピューター愛好家や先進的な企業が

原始的で簡単なゲームを作っていた時代だ。

「ゲームは著作物なのか?

 どのジャンルなのか?」

などとは、誰も考えていなかった。

 

1977年、アタリ社が家庭用ゲーム機「Atari2600」を

アメリカでヒットさせる。

翌年、日本では『スペースインベーダー』が喫茶店で大流行。

1980年代に入ると、

任天堂ゲームウォッチファミコンを大ヒットさせる。

一気にゲームがメジャーになった。

 

コンピューターの処理能力の向上とともに

数々の名作タイトルが生まれた。

パックマン』『ゼビウス

スーパーマリオブラザーズ』『ソニック・ザ・ヘッジホッグ

ドラゴンクエスト』・・

子どもも大学生も、みんなが夢中になった。

 

中でも鮮烈な光を放ったのが1997年発売の

ファイナルファンタジーⅦ』だ。

全編3Dの美しい表現。

繊細なCGで描かれた登場人物たちが繰り広げる

熱いアクションと悲しいドラマ。

これを機に表現の幅が一気に広がった。

ゲームは芸術だ!と堂々と言えるようになった。

 

しかし、この時点でも

「ゲームは著作物のどのジャンルに入るのか?」

は明らかになっていなかった。 

長年はっきりしないままだった。

 

中古ゲームソフト事件

この疑問に答えを出したのが、「中古ゲームソフト事件」だ。

エニックスカプコンナムコセガ、SCE・・・など、

名だたるゲームメーカーが、中古ソフトの販売業者を訴えた事件だ。

 

ゲームメーカーにとっては、

遊び終わったソフトがすぐに中古品として売られてしまうと、

新品が売れなくなってしまう。

中古品の販売を禁止したい!

 

メーカーが勝つためには、2つのハードルを越える必要があった。

 

1つ目は、「ゲームは映画だ」と認めさせること。

ゲームは映像で表現されるものだ。

そういう意味では映画と同じだ。

他のジャンルと違って、

「映画の著作物」には「頒布権(はんぷけん)」という、

映画の流通を支配できる強力な権利がある。

全国の映画館のうち、

次はどこに映画のフィルムを渡すのか決めることができる権利だ。

「ゲームも映画だ」となれば、この特別な権利が手に入る。

 

2つ目は、

「頒布権は特別なんだから、中古品の流通もコントロールできる」

と認めさせること。

例えば本屋で小説を買ったあなたが、

読み終えた後にブックオフなどの古本屋に売ることは自由だし、

ブックオフが他の人に売ることも自由だ。

小説に著作権(譲渡権=販売権)があっても、

いったん本が売れた後に再販売することには口出しできない。

中古ゲームも同じではないのか・・?

「いやいや!そうじゃない!

 頒布権というのは、すごーく特別なんだから、

 一緒にしないでください!

 映画の場合は、中古品の販売にも権利が働きます!」

というのが、メーカー側の主張だった。

 

この2つのハードルを越えることが出来たのか・・?

 

疑問への回答

結果としては、

1つ目のハードルは越えたが、2つ目は無理だった。

 

2002年の最高裁判所で結論が出た。

 

「ゲームは映画の著作物だ。だから頒布権がある」

そこまでは認められた。

 

でも、

「いくら頒布権があるといっても、

 一般の消費者向けに販売しているゲームソフトは、

 本と同じように中古品の販売は自由にすべきでしょう」

ということになった。

 

中古品の業者は今まで通りの商売を続けられるようになった。

ゲームメーカーは敗北した。

「ゲームは映画だ」という長年の疑問への回答だけを残して。

 

(ちなみに、映画会社はトバッチリを受けた。

 自分たちが戦う前に「頒布権では中古品販売を止められない」と

 結論が出されてしまったからだ。

 映画の中古DVDを売ることは自由になった)

 

私見だが、映画であることを裁判所が認めたことに、

ファイナルファンタジーⅦ(FFⅦ)』の功績は大きかったように思う。

平面的な画面を単純なキャラクターがピコピコと動き回るだけの

ゲームでは「映画だ」と断言しづらい。

でも『FFⅦ』レベルまで昇華された表現なら、

「映画だ」と言うことに何の抵抗も感じない。

裁判官がゲーマーだったのかどうかは知らないが、

『FFⅦ』以降の進化したゲームを見せられて確信したのだろう。

「ゲームを映画のジャンルに入れよう」と。

 

最初は著作権の世界から見向きもされなかったゲームだが、

少しずつ進化を積み重ね、

ついには「映画の著作物だ」と認めさせるに至ったのだ!

 

最近は、そして未来は

その後もゲームの進化は止まらなかった。

 

コンピューターはさらに高速になり、

オンラインで世界中とつながれるようになった。

ゲームは単に楽しむものではなく、

その世界に没入して体験するものになった。

 

一昨年のことになるが

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

には、本当にハマった。

私は主人公のリンクになりきった。

 

ハイラル王国の美しい景色の中で自由に駆け回る解放感。

竜骨モリブリンバットでガーディアンを打ちのめす興奮。

ライネルに見つかり逃げ惑う絶望感。

ゼルダ姫を救いたいという一途な思い。

 

仕事をサボって1週間家に閉じこもった。夢中になった。

私の人生の中で最も充実した時間の1つになった。

 

ゲームはまだまだ進化する。

 

eスポーツが浸透し、プロゲーマーは憧れの職業になった。

VR、AR、MR技術の登場で、

ゲームと現実世界の境目が消えつつある。

超人スポーツが注目をあび、

人間の肉体とデバイスも結びつこうとしている。

 

ゲームの中で人と出会い、友だちになり、

作詞や作曲をし、アイドルに歌ってもらい、

新しい街を建設し、買い物する。

ゲーム世界が「生活空間」となり「経済圏」になっていく。

マトリックス』や『レディ・プレイヤー1』でおなじみの世界観だ。

 

そのとき、ゲームは「映画の著作物」と言えるのか?

 

「映像で表現されているから・・」なんて理屈が

説得力を持たなくなっていくだろう。

 

17年前には、やっとのことで「映画の著作物」の仲間入りを

させてもらえたゲームだが、今では立場が全然ちがう。

もはや「著作物」という枠組みさえも飛び越えそうな勢いだ。

 

ゲームという巨大な存在をどう扱ったらいいのか??

近いうちに著作権法が向き合う大テーマになるだろう・・。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

秋は、読書の季節でもあり、ゲームの季節でもある。

ゲームもたっぷり楽しもう!!

 

 


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読書は数珠つなぎ

読書の楽しみ

秋は本を読もう!

たくさん読もう!

 

「あ!ここで書かれていることは、

 あの本の内容とつながってる!」

 

そんな発見があれば、

読書は途方もない楽しみを与えてくれる。

 

今回は良い本を紹介しつつ、

頭の中で本の記憶がつながっていく様子も説明したい。

 

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』

最近読んだ本はこれだ。

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』

 

 

死とは何か?

死は悪いことか?

死を恐れるべきか?

自殺は許されるか?

どう生きるべきか?

 

全ての人間が悩む大問題について、

丁寧に理屈立てしながら追求していく本だ。

 

古典的な哲学や倫理学上のテーマを

非常にわかりやすく解説した上で、

著者の考えも聞かせてくれる。

 

人生の価値

例えばこんなテーマがある。

「人生に価値があるかどうか、どう測れば良いのか?」

 

1つの考え方はこういうものだ。

人生における良いこと、悪いこと、

すべてのプラスとマイナスを合計した結果がプラスなら、

その人生には価値がある。

マイナスなら価値がない。(というかマイナス)

 

2つめの考え方は、1番目の考え方を調整したものだ。

人生の中身の問題とは別に、「生きることそのもの」に価値がある。

だから上記の計算に加えて、「生」の価値をプラスすべきだ。

結果として合計がプラスなら、人生には価値がある。

 

3つめの考え方は、「生」の価値を絶対視する。

人生で何があったとしても、「生」は無条件にすばらしい!

だから、辛いことしか起きない人生にも価値がある。

全ての人生に価値がある。

 

本の筆者は、1番目と2番目の見方のあいだで揺れている。

もちろん、簡単に答えなど見つかるわけはない。

4つめ、5つめの考え方だってあるだろう。

 

仮に2つめの考え方に立つとして、

「生」の価値、つまり「命の価値」って、どう測ったら良いのだろう・・?

 

ルクレーティウスの難問

他にも面白い論点が紹介されている。

古代ローマのルクレーティウスが提起した難問だ。

 

私たちは自分がいずれ死んでしまうこと残念がる。

自分という存在がなくなってしまうからだ。

でも「自分が存在しない」という意味では、

生まれる前も同じ状態だ。

なぜ人は、死ぬことは残念がるのに、生まれる前を残念がらないのだ??

 

たしかにそう言われれば、不思議な気がする。

多くの人は「あと10年の人生が欲しい」というときに、

死ぬタイミングを「後ろ」にずらして考える。

生まれるタイミングを「前」に発想する人はめったにいない。

どちらも同じ10年なのに。 

なんとも不合理だ。

 

人間は「未来志向」だから、過去よりも未来の方が大事なんだ!

とりあえずそう説明することはできる。

でも、なぜ未来志向なのか?それは正当な考え方なのか?

納得のいく回答は無い・・。

 

ん?

なんか、こんな議論を別の本で読んだ気がするぞ・・。

そうだ!

経済学の本だ!

 

行動経済学の逆襲』

思い出したのは、この本だ。

行動経済学の逆襲』 

 

 

内容をきわめて大雑把にまとめると、こんな内容だった。

 

・ これまでの経済学は、

 人間は合理的に判断して行動することを前提に理論を作っていた。

・しかし実際の人間はそんなんじゃない。

 不合理な行動をとることが多い。

・人間の脳には「不合理な判断をするクセ」がある。

 それを理解した上で、良い方向へ人を動かす経済政策をとろう。

 

人間の脳のクセに焦点をあてて経済を考えるのが、行動経済学

この20年ぐらいで何度もノーベル賞をとっている成長分野だ。 

 

クセの中でも代表的なものが以下の例だ。

 

質問1:あなたはどちらを選びますか?

A:100万円が無条件で手に入る。

B:コインを投げて、表なら200万円が手に入るが、

  裏なら何ももらえない。

 

質問2:あなたには200万円の借金がある。どちらを選びますか?

A:無条件で借金が100万円免除になる。残りの借金は100万円。

B:コインを投げて、表なら借金が全てチャラになる。

  裏なら借金200万円のまま。

 

多くの人が質問1ではAを選び、質問2ではBを選ぶ。

リスクを嫌い確実な利益を好む我々は、

借金を背負うとなぜか急にリスクを好みだす。

なんとも不合理だが、これが脳のクセなのだ。

 

なんだかこの議論、

さっきの「ルクレーティウスの難問」に似ていないか?

 

人生を前に延ばすより、後ろに延ばしたがる傾向・・・

これって、ただの「脳のクセ」に過ぎないのでは??

 

「過去より未来に価値を感じるのはなぜか?」という疑問に

真正面から答えてはいないが、

「ただのクセです」と言わてれしまえば、それはそれで納得感がある。

人類が数千年も悩んできた哲学的難問に、

行動経済学が「正解」を与えてしまったのかもしれない。

 

すごい。

さすがは、ノーベル経済学賞

 

そういえば・・・今年の経済学賞はRCTの人だった。

ランダム化比較試験(RCT)の手法を使って

世界の貧困問題に取り組んだ人が受賞していた。

RCTを解説した本も読んだことがあるぞ・・。

 

『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』

これは、統計学の本だ。

『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』

難しい本が多い中で、これは読みやすかった。

 

  

大量のデータが計測される現代社会では、

データを正しく分析する力が重要だ。

 

しかし、統計を駆使してどんなに正しく分析しても、

「因果関係」が分からない。

 

「広告を打ったときにアイスクリームの売上が伸びた」と分かっても、

広告を打ったからなのか?

その夏が暑かったからなのか?

景気が良かったからなのか?

全然違う原因があるのか?

因果関係がわからない。

 

こうなると正しい行動がとりづらい。

売上アップのために、広告を打つことに意味があるのか、

証拠に基づいた判断ができない。

 

統計は因果関係が苦手だった。

 

しかし、学問は進歩する。

ランダム化比較試験(RCT: Randomized Controlled Trial)

という方法が開発され、因果関係が分かるようになってきた。

 

RCTは、現実の世界で実際に実験をしてしまう手法だ。

ランダムにグループ分けした上で、

結果の差を比べることで因果関係を調べることができる。

 

例えば、消費者をAグループとBグループにランダムに分け、

片方には広告を見せ、片方には見せない。

各グループの売上の差を分析することで広告の効果を明らかにするのだ。

(こう書くと簡単なようだが、いつもRCTが使えるわけではなく、

 特定の条件に当てはまったときに初めて有効になる)

 

こうして、様々な問題の解決策がわかるようになってきた。

実際にアメリカでは、

政府がRCTを活用して政策を決めるようになってきている。

アイスクリームの広告と同じように

「この政策は効果がある」という科学的な証拠に基づいて、

国の予算が組まれているのだ。

 

そういえば、

科学的な政策決定についての本も読んだことがあるな。

何だっけ・・・

 

ナッジ

行動経済学は、人間のクセを分析する。

この新しい経済学から得られる知見を活かし、

うまく相手を良い方向へ誘導する手法が「ナッジ」と呼ばれている。

(「ナッジ」=「ひじで軽くつつく」)

 

例えば、年金制度に多くの人に加入させるため、

「初期設定」を「加入」にしておく。

嫌なら加入しないことも選べるが、自分でそれを選択しないといけない。

そのようにデザインしておく。

たったそれだけのことで、加入率が跳ね上がるのだ。

 

大切なのは、「強制」ではないこと。

最終的に選択する権利は、ナッジを受ける人々に残すという点だ。

 

そういえば、何かと話題の小泉進次郎氏も、ナッジが好きだったな・・。

 

小泉進次郎オフィシャルブログ 「ナッジ」とは。

https://ameblo.jp/koizumi-shinjiro/entry-12422659472.html

 

よく考えてみれば、ナッジに近いことは昔から行われてたんじゃないか?

政府が国民を誘導するって、普通にやることなんじゃないか?

例えば、子育て世帯にたくさんの補助を与えることで

子作りを奨励するとか。

 

そういえば、このあいだ読んだ歴史の本にも似たようなものがあったな・・。

 

オスマン帝国500年の平和』

 この本も本当に面白かった。

オスマン帝国500年の平和』

歴史の本だが「戦争」よりは「統治」に重点がおかれた内容だ。

 

 

行動経済学統計学と同じように、

オスマン帝国の研究もここ数十年で大きな進歩を見せている。

 

オスマン帝国は、13~20世紀に繁栄した多民族帝国だ。

アナトリア、バルカン、アラブ地域などを支配していた。

 多種多様な文化、宗教、風習をもつ民族を治めるのは大変だ。

この本は、帝国のスルタン(皇帝)や官僚たちが、

苦労しつつも柔軟に統治を進めていった様子を詳しく教えてくれる。

 

オスマン帝国は「右手に剣、左手にコーラン」を持って、

 征服した民族を無理やりイスラム教に改宗させていた。❞

以前は、そんなイメージが一般的だったが、

研究の進んだ今は、全然ちがう。

間違ったイメージだったとわかっている。

 

それぞれの民族が、

それぞれの宗教を認められながら平和に共存していた。

 

それでも帝国の「公式な」宗教はイスラム教だったので、

できるだけ多くの人にイスラムの教えを信じてほしい。

 

そこで帝国は「イスペンチ」という税金を導入した。

これによって、イスラム教を信じない人は、

イスラム教徒より少しだけ多く税金がとられるように調整した。

でも、改宗することは強制ではない。

自分の宗教を信じ続けることは自由だ。

 

これって、「ナッジ」のようなもんだな。と思う。

 

民族の時代

おおむね平和に統治されていたオスマン帝国だったが、

18~19世紀に「民族の時代」がやってくる。

 

それまでの人々のアイデンティティは宗教だった。

「俺はイスラム教徒だ」「キリスト教徒だ」「ユダヤ教徒だ」

そうやって自分を理解していた。

イスラム教は他の宗教を認めていたので平和だった。

 

しかし「民族の時代」には、

「俺はギリシャ人だ」「セルビア人だ」「ブルガリア人だ」

と、民族で自分を定義するようになった。

「なぜ俺たちが、他の民族に支配されないといけないんだ!」

となっていく。

 

こうして中東やバルカンで民族紛争が際限なく起きるようになった。

多くの人が死んでいった。

 

以前に紹介した『オシムの言葉』と『ブラック・スワン』で、

ユーゴスラビアレバノンの内戦を話題にしたが、

オスマン帝国を学んだおかげで、そのルーツがよく分かるようになった。

また読み直してみたい。

 

 

 

 

 

『シンプルな政府 ❝規制❞をいかにデザインするか』

 オスマン帝国の政策はわかった。

そうだ!現代の❝帝国❞、アメリカの政策の本を思い出した。

『シンプルな政府 ❝規制❞をいかにデザインするか』 

 

 

行動経済学統計学を使い、

オバマ大統領の下で❝科学的証拠に基づいた❞政策を

実際に作っていた人が書いた本だ。

 

環境規制や福祉の分野で「ナッジ」を活用しまくって

政策を作っている様子がよく分かる。

アメリカって、やっぱり凄い。

 

日本の著作権も、うまく科学的証拠に基づいて再設計できないだろうか?

「作品を創作した人に、著作権という❝ご褒美❞を与える」

これもある意味「ナッジ」かもしれないが、

そんな大雑把な仕組みではなく、

もっと緻密に科学的に制度を作れないだろうか??

そんなことも考えてみたくなる。

 

命の価値

この本の中で印象的だったのが、

「命の価値」をお金で計算している部分だ。

 

例えば、ある政策を実施することで10億ドルのコストがかかるとする。

それによって大気汚染が減り結果的に1000人の人間が

肺がんにかからずに済み、命が助かるとする。

でも、10億ドルを別の政策に使った方が、

もっと人々の幸せを向上させるかもしれない。

この政策を実施すべきか?

 

こんなときは、「命の価値は何ドルか?」を算出しないと、

判断のしようがない。

「人の命は地球より重い!」と叫んで何もしないより、

命の値段を決めた上で前向きなアクションをとった方がいい。

 

では、命の値段って、いくらなの??

 

難しい問題と思われるかもしれないが、 

実は、命の価値はすでに決まっている。

我々が悩むとっくの前に「市場」が決めてしまっているのだ。

 

例えば、同じ会社に勤めるAさんとBさん。

2人とも普通のデスクワークをしているが、

Bさんにだけ特別な業務がある。

工事現場に行ってガス漏れがないか確認する業務だ。

Aさんよりも、ほんの少しだけ危険な仕事だ。

もちろんめったなことは起きないが、

この業務のせいで死んでしまう確率は10万分の1だけある。

だからBさんには危険手当として50ドルのボーナスが支払われている。

Bさんもそれを納得している。

 

この場合、Bさんの命は

「50ドル × 10万 = 500万ドル」

ということになる。

 

市場を調査して広く受け入れられている金額をもとに、

命の値段は算出できる。

というか、いつの間にか市場の中で決まっていたのだ。

命の価値は測れる。

 

ん?

こんな議論、どこかで見た気がするぞ・・。

 

そうだ!

『「死」とは何か』の本の中にあった論点だ!

「生」の価値をどう測るか?

こんな哲学的な難問に、市場が答えを見つけていたのだ!

 同じように人生の喜びや苦しみの価値も値付けしてしまえば、

人生に価値があるかどうか、分かるようになるかもしれない!

 

少しゾッとするような考え方だが、

こんなドライな結論が案外正しいのかも・・。

 

いやいや!そんなことはない!

人の命の価値を数字で測れるわけはない!

そう反論してみたい気もする。

この反抗心こそが「人間らしさ」なのかもしれない・・。

 

読書は数珠つなぎ

こんな感じで、良い本に巡りあうと

次々と本の記憶が呼び覚まされる。

思考が数珠つなぎになっていく。

知識が立体的になったのが分かる。

脳の中で、❝グオッ❞と巨大な建物がたちあがる感じ。

この快感は、他では代えられない。

 

私は読書が大好きだ。

これだけで、私の人生の価値はプラスだ。

間違いない。

 

気になる本を手あたり次第に読めば、

あなただけのつながりが見つかる。

自分だけの建物ができる。

それがあなたの個性になる。

 

秋は本を読もう!

たくさん読もう!

 


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ダウンロード違法化ウォーズⅡ ~文化庁の逆襲~(2)

前回、法改正に失敗した文化庁

今回は本気だ。

何が何でも「ダウンロード違法化」を成立させようとしている。

 

文化庁が実施中のパブコメについて見ていこう。

パブリックコメントパブコメ

 国民に広く意見を求めること)

 

まずは結論

この話をしていると、どうしても細かい理屈の話になってしまう。

だから、疲れてしまう前に結論だけ先に言っておこう。

 

文化庁パブコメは「自由記述」ではなく、

 「質問形式」になっている。

 

・「質問形式」の場合、質問する方が有利。

 議論をうまく誘導することができる。

 

パブコメは、文化庁の望む結論に導かれるように出来上がっている。

 

・「誘導尋問だ!」と非難の声をあげても良いが、

 鉄壁の布陣を打破するのは、かなり難しい。

 

・他の妨害要素がなければ、法改正は成立しそうな気がする。

 

・法改正されても、クリエイターやユーザーにとって

 実質的な面では何も変わらないので、気にしないで良い。

 

というわけで、前回に引き続き色々と理屈っぽい話は出てくるが、

「世間でダウンロード違法化が話題になっても、

 あんまり気にしないでいいよ!

 自信をもっていこう!」

ということだ。

 

レトリックと詭弁

 文化庁の作戦を知るうえで、良い本がある。

『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 』

議論で勝つための技術について解説した本だ。

読みやすくて面白いので、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

 本の中で強調されているのは、以下の点だ。

 

・議論の勝敗を分けるのは「問い」の力。

・問いかける方が有利。

 問いを作るときは、自由に言葉を選ぶことができる。

 問いによって論点を都合よくすり替えることができる。

・問いかけられて言葉に詰まると「負け」になる。

 相手の論点のすり替えを指摘できれば逆転勝利できる。

 

(例)

 盗みを犯した学生と先生の会話。

「先生!あなたは可愛い教え子を警察に突き出すのですか!?」

ここで先生が言葉に詰まれば、負け。

「それは違う。君は私の生徒である前に1人の人間だ。

 人は罪を償わないといけない」

と言い返せれば、先生の勝ち。

 

「問い」に対しては、かなり慎重になった方がいい。

 

パブコメの構成

通常のパブコメなら、特定のテーマについて

「意見を提出してください」とだけ書かれている。

つまり「自由記述」だ。

自分の好きな論点について、自由な角度から意見を言える。

 

パブリックコメント:意見募集中案件一覧

https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public

 

しかし今回の文化庁パブコメは違う。

3部構成になっていて、第1部と第2部は「質問形式」になっている。

つまり、自由な意見が言えない。

第3部になってやっと自由記述欄が出てくるが、

第1部と第2部ですでに議論の大きな流れが作られてしまっている。

第3部でどんなに良い意見が出されていても、

どうしても「その他扱い」の意見に見えるように設計されている。


●侵害コンテンツのダウンロード違法化等に関するパブリックコメントの実施について

https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185001067&Mode=0

 

すでに設計段階から、文化庁の執念が組み込まれているのだ。

 

パブコメ第1部

パブコメの第1部はシンプルだ。

質問が1つだけ。

それに対して、選択式で回答する形式になっている。

 

短いので、そのまま引用しよう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 1.基本的な考え方

(1)「深刻な海賊版被害への実効的な対策を講じること」と「国民の正当な情報収集等に萎縮を生じさせないこと」という2つの要請を両立させた形で、侵害コンテンツのダウンロード違法化(対象となる著作物を音楽・映像から著作物全般に拡大することをいう。以下同じ。)を行うことについて、どのように考えますか。①~⑤から一つを選択の上、回答欄に記入して下さい。

①賛成

②どちらかというと賛成

③どちらかというと反対

④反対

⑤分からない

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

これは、上記の議論の本で紹介されている典型的な

「多問の虚偽」というやつだ。

 

「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」

 

この質問に「はい」か「いいえ」で答えると、

昔は奥さんを殴っていたことを認めることになってしまう。

本当は「君は奥さんを殴っていたのか?」から

議論を始めるべきなのに!

 

痩せたいと思っている人に

「おいしくてお腹いっぱい食べられて栄養満点なのに、

 カロリーゼロで全然太らない食べ物を、

 良いと思いますか?悪いと思いますか?」

と聞くようなものだ。

こんな質問に「悪い」と答える人なんかいない。

本当は「そんな夢のような食べ物が存在するのか?」から

話を始めるべきなのに!

 

文化庁の質問も同じだ。

 そもそも「海賊対策に有効」と「国民を萎縮させない」が両立できない!

と多くの人が考えているのに、

「両立する方法について良いと思いますか?悪いと思いますか?」

と質問してしまっている。

 

対面で会話しているのなら

「いやいや、その質問はおかしいでしょう!」

と即座にツッコミを入れられるが、

文書で回答する形式だとそれが出来ない。

しかも選択式で回答しないといけないので、

ツッコミを入れることさえできない。

 

最初の質問から、文化庁の議論の流れに強制的に

のせられることになる。

答えた時点で、「負け」なのだ。

 

パブコメ第2部

第2部では質問が7つ並んでいる。

回答は、またもや選択式だ。

 

質問内容は、

「ダウンロード違法化をしたら、どんなことが心配ですか?」

というものだ。

7つの「心配事の候補」が挙げられている。

それぞれに対して

①とても懸念される

②どちらかというと懸念される

③あまり懸念されない

④全く懸念されない

⑤分からない

の5つの中から強制的に選択させられる。

 

「心配事の候補」は、こんな感じだ。

・ネット上のコンテンツは違法か適法か分からないので、

 こわくてダウンロードできなくなる。

・無料で提供されているコンテンツをダウンロードすることが

 違法になってしまう。

 

これは、テレビの通販番組でよくある

「でも、お高いんでしょう?」とか、

「電気代が高いんじゃないの?」とか、

そういう❝サクラ❞の質問と同じだ。

 

法改正という❝商品❞をアピールしたい文化庁は、

それぞれの心配事に対してしっかりと回答を準備している。

パブコメの「添付資料3」に全て書かれている。

こんな感じだ。

・違法だと確実に知っていない限りは、大丈夫です!

 ご安心ください!

・無料で提供されているなら、刑事罰にはなりません!

 ご安心ください!

 

こうして、想定される全ての反論をあらかじめ挙げておき、

対策をバッチリ打っているのだ。

 

これら7つの質問に答えさせられた後に、

やっと「自由記述欄」にたどり着く。

 

「その他、懸念事項があれば記入して下さい。」

 

「その他」って!!!

 

ここにどんなに鋭いコメントを書いたところで、

「その他扱い」されることは間違いない。

 

私ならこんな懸念事項を書きたい。

 

・国民がお茶の間でくつろぎならスマホを操作しているときに、

 きわめて複雑な法規制を理解し正しく判断しないと、

 安心してスクショすら出来ない世の中になる。

 国民の安らぎが減ってしまうことが心配。

著作権法は、もともと作家、出版社、放送局など

 コンテンツを扱うプロの人々だけを規制する法律だった。

 普通の国民には、あまり関係のない法律だった。

 でもダウンロードを違法化することによって、

 一般国民が直接的に規制されることになってしまう。

 コンテンツを楽しむ一般ユーザーを規制することは、

 法律の性格を根本的に変えることになるのではないか。

 そんな大きな変更を本当にやっちゃっていいのか心配。

 

これは文化庁の想定している「心配事の候補」には入っていない。

多少は有効な反論になるかもしれない。

 

しかし、どんなコメントをしても❝後の祭り❞かもしれない。

所詮は「その他」として扱われてしまうだろう・・・・

 

執念

パブコメにはその後もいくつか質問が並んでいるが、

どんな回答が来ても文化庁がコントロールできるように調整されている。

 

この形式で回答させられる限り、文化庁の優位はゆるがないだろう。

(この回答様式ではない様式の意見を出しても

 「これ以外の様式の場合、

  御意見が受け付けられない場合がございます。」

 ということになってしまう)

 

やはり、問いかける方が強い。

 何としてでも雪辱をはたしたい文化庁の職員が、

考えに考えて「問い」を構築したのだろう。

「誘導尋問だ!」と非難の声をあげても良いが、

鉄壁の布陣を打破するのは、かなり難しい。

 

彼らの執念を感じる。

 

法改正されたら

私は、今回の法改正が成立するだろうと予想している。

ダウンロード違法化とは違う方向から妨害が入ってしまわない限りは、

文化庁が逆転勝利をおさめることになると思う。

 

でも、心配することはない。

以前も書いたとおり、

この法律を使って個人のダウンロードを取り締まろう!

などとは誰も考えていない。

警察もそんなにヒマじゃない。

今まで通り、必要なものがあれば個人的にコピーをとって

保存しておけば良い。

あきらかに悪質なサイトの利用だけを避けていれば大丈夫だ。

何も気にせずコンテンツを楽しみ、

コンテンツを創作すれば良い。

萎縮せず、自信をもって行こう。

 

 

文化庁の逆襲」がどういう結末を迎えるのか?

今後も観察していきたい。

 

 

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ダウンロード違法化ウォーズⅡ ~文化庁の逆襲~(1)

ネット上に違法にアップされている文章やマンガをダウンロードすると、

著作権侵害になってしまう!

そんな法改正に向けて文化庁がまた動きだした。

すごい執念だ。

 

ダウンロード違法化の経緯

 ダウンロード違法化については、けっこうな話題になったので、

覚えている人も多いと思う。

このブログでも以前とりあげたことがある。

 

www.money-copyright-love.com

 

この記事では、

「誰も望んでない的外れな校則を作ろうとする生徒会」

の例え話をつかって、文化庁を批判していた。

また「法改正されても実質的な影響はないので萎縮しないで大丈夫」

とも書いていた。

 

その後、

ネット上の世論に押される形で自民党内部でストップがかけられ、

法改正は見送られた。

文化庁の面目は丸つぶれとなった。

 

しかし彼らは諦めていなかった。

また同じ法改正をしようと活動を開始している。

 

「法改正の中身は問題なかった。

 単に国民が内容を理解していなかっただけだ。

 丁寧に説明すれば、次こそは大丈夫!」

と考えているようだ。

 

法改正の内容

文化庁の動きを見ていく前に、

法律の内容について少し丁寧に説明しておきたい。

前回の記事では大雑把な説明しかしていなかったが、

文化庁の言うように「正しく理解」しておいた方が、

より公平に考えることができる。

そもそも分かりにくいルールなのだが、

できるだけかみ砕いて解説しようと思う。

 

なぜ分かりにくいのかと言うと、

「まず大前提があって、その例外があって、さらにその例外が・・・」

ということを繰り返しているからだ。

「あなたが大好き!の反対の反対の反対の反対~♡」みたいな感じで、

ゆっくり考えないと好きなのか嫌いなのか分からなくなる。

 

大前提

まずは大前提から。

 

大前提:情報は誰のものでもない。自由に扱える。

 

例えば、我々のご先祖様が素晴らしい発見をしたとする。

美味しい湧き水のある場所。

簡単な火の起こし方。

農作物をたくさん収穫する方法。

発見した人はそれを周りの人に伝る。

そうすることで、みんなが豊かになっていく。

中には「秘密にしておこう」と考える人がいたかもしれないが、

いったん誰かにもれてしまえば、

情報の伝達を止める方法もルールもない。

 

ご先祖様が伝承していた神話、祈りの歌、工芸品の文様。

となり村の人がマネしたとしても、それを禁止することはできない。

お互いにマネしあうことで、文化を高度に複雑に発展させてきた。

 

情報は誰のものでもない。自由に扱える。

これが人類全体の基本ルールだ。

 

大前提の例外

そこに例外ルールが付け加えられた。

 

大前提の例外:新しい著作物については、コピーしちゃダメ。

 

昔からある物語や歌については今まで通り「みんなのもの」だけど、

今生きている作者がつくった作品については、

一定期間に限ってだけはコピーしちゃダメ。ということにしよう!

これが著作権だ。

 

一定の「例外期間」が過ぎてしまえば、基本ルールに戻るので、

自由にコピーできるようになる。

著作権そのものが例外ルールなのだ。

 

(ここで言う「一定期間」がどんどん長くなっていき、最近では

 「作者の死後70年」というとんでもない期間になってしまったが、

 今日のテーマとは別問題)

 

大前提の例外の例外その1

「大前提の例外」に対して、

「大前提の例外の例外その1」と「大前提の例外の例外その2」ができた。

(他にもあるが、「その1」と「その2」に絞って説明)

 

大前提の例外の例外その1:「引用」ならコピーしてもOK。

 

例えばマンガ『ONE PIECE』について批評・研究する論文を書くときには、

そのマンガの一部を自分の論文にコピーして

「このカットのセリフと表情は・・」などと説明する必要がある。

これが「引用」だ。

この場合に作者の許可がないとコピーできないとしたら、

作者の気に食わないことが書きづらくなってしまう。

正当な批評・研究活動ができなくなってしまう。

だから、「引用」ならコピーしてもOKというルールにしたのだ。

 

大前提の例外の例外その2

「引用」とは別の例外ルールも作った。

 

大前提の例外の例外その2:プライベートな目的ならコピーしてもOK。

 

後で自分で読んで楽しみたいから、マンガをコピーする。

妹に聞かせたいから、音楽をコピーする。

こういうプライベートな目的ならコピーしてもOKだ。

 

ただし、ここでいう「プライベートな目的」の範囲は、結構せまい。

自分、家族、親しい友人。そのぐらいまでと言われている。

 

また、あくまでもプライベートな目的であることが必要だ。

仕事に使うためのコピーは許されていない。

 

 

大前提の例外の例外その2の例外

上記の「大前提の例外の例外その2」に対して、さらにその例外がある。

どんどん複雑になっていくが、付いてきてほしい。

 

大前提の例外の例外その2の例外:

違法にアップロードされた映像や音声(音楽も含む)なら、

プライベート目的であってもデジタル方式でコピーしちゃダメ。

ただし、違法であることを知っていた場合の話。

 

 コピー禁止になってしまうためには、色々と条件がついている。

 ・映像や音声であること。

 (文章やマンガなら問題ない)

・違法にアップロードされたものであること。

・そのアップロードが違法だと知っていること。

・デジタル方式のコピーであること。

 (紙にプリントアウトするなら問題ない)

・もともと無料で提供されているものなら刑事罰はない。

 

以上だ。

 

現在の法律

ここまでが、現在の法律で決まっていることだ。

いや~、長かった。

 

まとめると、こうだ。

 

基本はコピーOK。

でも新しい著作物ならコピー禁止。

でも「引用」や「プライベート目的」ならコピーOK。

でも映像や音声なら色んな条件に当てはまれば

プライベート目的のコピーでも禁止。

 

「例外の例外の・・・」と言っているうちに、

「コピーOK」と「コピー禁止」が何度も入れ替わる。

「今話しているのは、どのレベルの話か?」

丁寧に理屈を追いかけないと、すぐに迷子になってしまう。

 

念のため、もう一度ルールを書いておこう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

大前提:情報は誰のものでもない。自由に扱える。

 

大前提の例外:新しい著作物については、コピーしちゃダメ。

 

大前提の例外の例外その1:「引用」ならコピーしてもOK。

大前提の例外の例外その2:プライベートな目的ならコピーしてもOK。

 

大前提の例外の例外その2の例外:

違法にアップロードされた映像や音声(音楽も含む)なら、

プライベート目的であってもデジタル方式でコピーしちゃダメ。

ただし、違法であることを知っていた場合の話。

また、もともとタダで提供されていたら刑事罰は無し。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「今回の法改正で仕事でのちょっとしたコピーができなくなる」

と思っている人がいるが、それは間違いだ。

それは「大前提の例外」のレベルですでに禁止されている。

法改正とは関係なく禁止だ。

今焦点があたっているのは「大前提の例外の例外その2の例外」

のレベルの話なのだ。

 

文化庁の目指す法改正

今、文化庁が狙っているのが

上記「大前提の例外の例外その2の例外」の部分だ。

 

今までは「映像や音声」だけに限定していたのだが、

「全ての著作物」にまで範囲を大きく広げようとしているのだ。

(当然、文章もマンガも写真も絵も入る)

 

でもそれだけだと、厳しすぎる印象を与えるので、

色々と付いていた条件を変えようとしている。

 

具体的には以下のような感じだ。

 

・「違法アップロードだ」とちゃんと認識していない限りはOK。

 (今までもそうだったが、そのことを明確にした)

・有名な海賊版サイトからのダウンロードであっても、

 ネットの知識がなくて分かってなかったのならOK。

・マンガ等をそのままアップしたものではなく、

 ファンが二次創作(パロディ等)して自分でアップしたものなら、

 ダウンロードしても刑事罰は受けない。

・何度も繰り返し行う悪質な行為でなければ、

 ダウンロードしても刑事罰は受けない。

・もともとがタダのものなら刑事罰ないのは元のまま。

 

文化庁はこう言っているわけだ。

 

「コピー禁止になる範囲は広げます。

 でも安心してください!

 条件を山盛り付け加えたので、

 実際に法律違反になったり警察に捕まったりするようなケースは、

 すごく限られた場合でしかないんですよ!

 全然たいした話じゃないんです!

 心配ご無用です!」

 

パブコメ

つい先日、文化庁パブリックコメントを開始した。

パブリックコメントとは、国民に広く意見を求めること。

 略称「パブコメ」)

 

●侵害コンテンツのダウンロード違法化等に関するパブリックコメントの実施について

https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185001067&Mode=0

 

前回の「敗戦」 から学び、

「広く国民に開かれた議論」を「丁寧に」進めるつもりらしい。

 

次回はこのパブコメについて解説しよう。

読んでみると分かるが、これは単に上から「やれ」と言われた役人が、

仕方なく作った資料ではない。

「次こそは絶対に勝つ!!」という、

資料を作った役人自身の熱い執念がにじみ出てしまった内容になっている。

文化庁の逆襲が始まったのだ!!

興味がある人は、パブコメの資料を事前に読んでみてほしい。

 

所感

私自身の考えを簡単に言っておきたい。

 

資料に書かれている文化庁の考え方や、

法改正の規定の1つ1つについては、納得できるものも多い。

 

それでも、全体を引いた目でみると、こう感じてしまう。

いくら何でも、ルールがややこし過ぎないか?

 

例外の例外の例外・・・を重ねた上に、

その例外ルールが適用になるための条件も大量にある。

これを全部覚えないと、

安心してスクショ(スクリーンショット)も出来ないなんて!

 

頭のいい人が色んな意見に気をつかってルールを作ると、

複雑怪奇なものが出来上がってしまう。

ルールとは、そういうものだ。

(消費税の軽減税率を思い出してほしい!)

ある程度は仕方ない。

 

でも今回の法改正は、業界のプロが理解すれば済むようなものではない。

ごく普通の人が、ごく普通に毎日やっているスクショのような行為を

規制する法律なのだ。

分かりにくいものじゃダメだ。

 

何度も言ってきたように、

昔は一部の業界だけのための法律だった著作権法は、

今では国民みんなが関わる法律になった。

これ以上ややこしくするのは、本当に避けた方がいい。

 

私見だが、そもそもの著作権の設計に無理があるように思う。

 普通の人間の感覚なら「プライベート目的のコピー」は、

 自由にできるのが当たり前のものだ。

 お茶の間でやっていることにまで文句を言われたくない。

 でも著作権法では「全てのコピーは禁止」にした上で、

 あくまでも「例外」としてプライベート目的のコピーを許している。

 まるで、権利者のお情けで特別に「お目こぼし」してもらっている

 ような感じだ。

 制度を設計する上で便宜的にそうしているだけなのだが、

 人間はどうしても出来上がったものに引きずられる。

 ついつい「本来は禁止なんだから、禁止だ!」となって、

 さらなる例外ルールを積み重ねてしまう)

 

(ちなみに著作権の制度設計がこうなっているのは、

 文化庁のせいではない。

 これが国際標準の設計方式なのだ)

 

次回は、「執念のパブコメ」について見ていこう。

 

 

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