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契約書はアートだ!(1) 心構え編

契約書クイズ

今回は、今までで一番実用的な話をしたい。

契約書との向き合い方についてだ。

 

あなたがフリーで活動しているクリエイターだとしよう。

どこかの企業から取引の話が舞い込んでくる。

「わが社のウェブをデザインしてほしい」という話かもしれないし、

「あなたのブログを出版させてほしい」という話かもしれない。

 

いい話だったので、あなたは依頼を引き受ける。

ある程度の仕事が進んだところで、先方から契約書が送られてくる。

担当者からは

「弊社の決まりなので、サインして送り返してください」

と言ってくる。

 

さあ、ここでクイズです。

あなたが最初に取るべき行動は、次のうちどれでしょう?

 

1.契約書を読まずにサインする。

2.契約書をしっかり読んで内容を確認する。

3.瞑想する。

 

さあ!

正解は・・・・!?

 

正解は「3.瞑想する。」だ。

冗談ではない。

本当だ。

 

契約書を読まなかった場合

「 1.契約書を読まずにサインする。」

これが不正解なのは誰にでも分かるだろう。

 

契約書にサインすると、あなたには法律的な義務が生まれる。

よほどおかしなことが書かれていない限り、

その内容には必ず従わないといけない。

つまり、あなたの貴重な人生が契約書によって拘束される。

読まずにサインするなんてあり得ない。

 

「そんなこと当たり前じゃないか!分かってるよ!」

と多くの人が思うだろう。

 

でも、あなたは生命保険に入るときに「約款」をちゃんと読んだだろうか?

会社の社員になるときに「就業規則」や「雇用契約書」を確認しただろうか?

ネットに文章や写真をアップロードするときに

SNSの「プライバシーポリシー」をチェックしているだろうか?

(ちなみにこの「はてなブログ」にも「利用規約」がある)

はてな利用規約

https://www.hatena.ne.jp/rule/rule

 

人は、けっこう気軽に契約書にサインしたり、

「同意する」のボタンを押したりしているものだ。

 

生活の色んなシーンで契約が関わってくる。

その全てをチェックするのは現実的ではないが、

せめて「あ、いま自分は契約している」と意識しながら生きていった方がいい。

 

契約書を読んだ場合

「2.契約書をしっかり読んで内容を確認する。」

契約書を読まないよりは、はるかにマシな態度だ。

 

しかし最初に契約書を読んでしまうと、

そこに書いてあることが思考の出発点になってしまう。

「なるほど。こういうものなんだ」と思わされてしまう。

内容に不満を感じたとしても

「この部分、少しだけ変えてもらえないか?」

という発想になる。

 

契約書に慣れ親しんだベテランの人でも、

まず最初に契約書を読んじゃっている人が多い。

そして「この印税の比率、5%じゃなくて6%で主張するべきじゃないか?」

とか「危険負担の範囲をかえるべきだ」などと言っている。

 

違う。

そこではない。

本当は契約の枠組み自体がおかしくて

著作権のライセンス」にすべきものが

著作権の譲渡」になっているというのに・・!

 

こういう事例はとても多い。

最初に契約書を読んでしまうから、根本的なことに気付けないのだ。

 

瞑想する場合

契約を結ぶときは、まず「瞑想」しよう。

これが正解だ。

 

目を閉じよう。

自分の心の奥底を見つめよう。

本当の自分と対話しよう。

 

自分とは何者なのか?

何のために生きているのか?

人にどう記憶されたいのか?

大切なものは何か?

譲れないものは何か?

 

こんな問いかけの中から、確かなものが見つかったら目を開けよう。

それを言葉にして書きとめよう。

相手の契約書に影響をうけていない、自分の生の声。

これが、あなたにとっての「契約条件のもと」になる。

 

あとはそれを具体的な条件に落とし込んでいくのだ。

 

あなたにとって大切なのは

「とにかく有名になること」かもしれない。

「一人でも多くの人に作品に触れてもらうこと」かもしれない。

その場合は、自分の名前の表示の仕方やリリース戦略にこだわろう。

 

「作品を大切にしてもらうこと」が譲れないポイントなら、

著作権を誰が管理するのか?や、

勝手に内容を変えられる条件になっていないか?に気を付けよう。

 

「一攫千金をねらいたい!」

これがあなたの心の叫びなら、対価の条件に心を砕こう。

最初の金額は低く設定してあっても、

もし大ヒットした場合には上乗せできる契約にならないだろうか?

交渉してみる価値はある。

 

契約するときは、まず瞑想しよう。

自分の魂から一番熱いものを引き出し、それを具体的に表現していくのだ。

こう考えると、契約は単なる事務作業ではないことが分かるだろう。

契約は、あなたが作品を創作するのと同じぐらい

アーティスティックな活動なのだ。

 

契約書の本

世の中には「契約書をちゃんと結びましょう」と書いている本は多い。

 

ほぼ全ての本に、こんなことが書いてある。

「契約書をしっかり読まないと、恐ろしいことが起きますよ!」

「うっかりサインしたせいで、〇〇社は〇億円も損しました!」

「契約を結ぶときは専門家に相談しましょう!

 (その専門家である弁護士や行政書士が書いた本であることが多い)」

 

ここで言っていることは正しい。

油断して契約すると痛い目にあうこともあるし、

専門家に頼らないと手も足も出ないこともある。

でも、こんな本を読んでいるとますます契約書のことを

嫌いになってしまいそうだ。

読まずにサインしたり、誰かに丸投げしたくなってくる。

 

これらの本には一番大切なことが書いていない。

最初に理解すべきなのは「契約書はアートだ!」ということだ。

 

契約書は、

「面倒くさいけど嫌なことが起きないように仕方なくやること」ではない。

そんな後ろ向きな話ではない。

もっと前向きで創造的なプロセスだ。

 

契約書をきっかけにして、

自分を見つめ、自分の創作活動の意味を定義することができる。

クリエイターとしてのあなたの生き方そのものを発揮する場になる。

 

契約書には情熱的にこだわろう。

最初のうちは、堅苦しい文章を読みこなすのに苦労すると思う。

でも慣れててくると、どんどん楽しく取り組めるようになってくるはずだ。

 

反論いろいろ

「そうは言われても、契約書に注文をつけるのは難しいよ・・」

と感じるクリエイターも多いだろう。

そう感じる理由は、だいたい以下の3パターンに当てはまる。

 

1.まだ駆け出しのクリエイターだから何かを要求できる立場じゃない。

2.相手と気まずくなるのが心配。

3.どうせ変わらない。

 

 

実績がない

「まだ駆け出しのクリエイターだから何かを要求できる立場じゃない」

あなたが本当にそう感じているのなら、それはその通りなのだろう。

契約書にごちゃごちゃ文句を言えば、

「この話は無かったことにしましょう」

と言われてしまうかもしれない。

 

でも、その場合でも自分の魂と対話することを忘れてはいけない。

自分が一番大切にしたいことは?譲れないことは何なのか?

それを問いかけた上で、

それでも相手の条件を飲んでもいいと思えるのなら、OKだ。

 

少しずつ実力をつけて

「あなたじゃないとダメなんです」と言われるようになり、

条件交渉できる立場を目指そう。

 

遠慮

「相手と気まずくなるのが心配。」

これは、日本人らしい遠慮の気持ちだ。

 

先方の担当者はすごくいい人で、信頼関係もある。

それなのに、今さら契約条件のことで要求したりしたら、

気分を害してしまうんなじゃいか?

相手を信用してないと思われちゃうんじゃないか・・?

 

その「すごくいい人」である担当者は、

まさにあなたのその気持ちを突いてきている!

「信頼してください。悪いようにはしませんから」などと言って、

契約書にサインを求めてくる。

(その担当者自身が、本当にそう思い込んでいることも多いが・・)

 

「担当者の気持ち」と「自分の魂から生まれた要求」、

どちらが大事だろうか?

そう自分に問いかけた上で、判断しよう。

本心をかくさずに交渉し、相手と本当の信頼関係を築こう。

 

諦め

「どうせ変わらない。」

こう思って、最初から交渉を諦める人も多い。

特に相手が大きな名の知れた企業だったりすると、その傾向が強くなる。

 

あなたと向き合う担当者もそこを突いてくる。

「これが我が社のフォーマットですから、変えられないんです」

「うちの法務部は厳しくて」

「みなさん、これでサインしています」

 

私の経験上、

どんな大きな企業相手であっても交渉すれば変えられるケースは結構ある。

相手は「変えられない」と言うかもしれないが、

それは単にその人が社内のやり取りを面倒くさがっているだけだったりする。

架空の「法務部の厳しい人」をでっち上げているのかもしれない。

 

ビビらず、自信をもって交渉しよう。

 

アメリカの

誰もが名前を聞いたことがあるアメリカのコンテンツ系の企業と

契約のやり取りをしたことがある。

 

相手は上記3つのポイント全てを突いてきた。

人の好さそうな日本法人の担当者(日本人)が

ニコニコしながらこう言ってくるのだ。

アメリカ本国に確認しないと修正できないんですが、難しいですよ」

「おたくとの取引は初めてですから、無理だと思います」

「ここは私を信用していただけませんか?

 実際には契約書に書いてあるような強硬なことはしませんから」

 (この担当者、おそらく数年後には転職しているのだが!)

 

こんな場合でも、長期でタフな交渉をする覚悟があれば、

契約書の内容を修正するのは不可能ではない。

実際、少しずつだが変えてもらうことは出来た。

 

駆け出しであっても、担当者がいい人であっても、

大企業相手であっても、自信を持っていこう。

 

契約書の心構え・まとめ

契約書は、自分の魂を見つめるアートだ。

自分の中でブレないものを見つければ、

どういう契約にすればいいか自然とみえてくる。

 

もちろん、ときには専門家に頼ることも大切だ。

その場合であっても、まずは自分と対話しよう。

あなたのことは、あなたにしか分からない。

そのうえで、あなたのニーズや優先順位を専門家に伝えよう。

こうすれば、スムーズに打ち合わせが出来るようになる。

 

契約書に向き合う前にまず問いかけよう。

「心の声は何といってる?」と。

 

契約書には、明るく楽しく前向きに向き合おう!

 

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次回は、もっと実用的な内容になる予定だ。

契約書の具体的な中身の話をしたい。

 

 

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AIのことは、いったん忘れてしまおう。

問題意識

人工知能は人間のコンテンツ作りをどう変えるのか?」という

セミナーに行ってきた。

今回はこの報告をしよう。

 

●コンテンツ東京 基調講演

https://d.content-tokyo.jp/cont/

 

以前、人工知能とコンテンツ創作、そして著作権の関わりについて

書いたことがある。

 

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この記事の中では、以下のようにまとめていた。

 

・AIは意味を理解しないので、

 当てずっぽうで作品を生み出すことしかできない。

・今後もAIが意味のある長い作品を作ることは期待できない。

・短く意味のない作品を量産することならできるので、

 人間が創作するときの助けにはなるだろう。

 作品の「部品」を作らせて、それを人間が選んで構成するような。

 (特に作曲の分野で使いやすい)

 

私はこのように考えているが、私自身はAIの専門家ではない。

本当はAIってもっと凄いものなのかもしれない・・。

 

そう思っていたときに

人工知能は人間のコンテンツ作りをどう変えるのか?」という

魅力的なセミナーのお知らせが届いた。

 

AIについて、新しい知見が得られるかもしれない!

そう期待して、参加してみた。

 

結果から言うと・・・何も得るものはなかった。

私のAIへの評価は1ミリも変わらなかった。

 

セミナー報告

話題のAIについての最新の話が聞けるとあって、

有料のセミナーなのに、4~500人ぐらいは集まっていたと思う。

 

登壇したのは、公立はこだて未来大学松原仁氏。

大学の副理事長であり、「人工知能学会の元会長」という

SF小説に出てきそうな肩書の持ち主だ。

 

将棋や囲碁でAIがプロを破った!という話題や、

絵画、音楽、パズルなどをAIが作れるようになっているというネタを

次々と紹介してくれた。

 

特に詳しく解説していたのは「小説」と「俳句」のAI創作についてだ。

 

AI小説

松原氏は 以前の記事でも紹介した小説を書くAIのプロジェクト

「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」

の立ち上げメンバーの一人だ。

 

●きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ

https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/

 

AIに短編SF小説を書いてもらい、

それを実際の文学賞である「星新一賞」に応募し、受賞することを目指している。

 

このプロジェクト、松原氏によると以下のように進んだという。

 

・人間が大まかなストーリーを考える。

・そのストーリーの構造を人間が分析する。

 (冒頭に出てくる要素は「時間」「場所」「人物」・・など)

・日本語の文法に合うように、AIが言葉を当てはめていく。

 

実際にはもっと複雑な手順を踏んでいるのだが、

正確な説明は私の手に余る。

興味がある方は

プロジェクトの中心メンバーの佐藤理史氏が書いた本を読んでほしい。

そもそも意味を理解しないAIに、

意味のある文章を書かせる苦労がよく分かる本だ。

(私も以前の記事を書く前に読んでおくべきだった)

 

 

優秀な研修者が苦労をかさねてAIに短編小説を書かせようとしたが、

結局のところストーリーを考え、その構造を分析しているのは人間なのだ。

最後に文章として仕上げる部分だけをAIが担っている。

これって「AIが小説を書いた」と言えるのだろうか・・?

(上記の本にそのような問題意識が詳しく書かれている。

 著作権の発生に関わる非常に興味深いテーマだ)

 

けっきょく「星新一賞」に応募できるレベルの作品は完成したが、

受賞することはできなかった。

これが2015年の話だ。

その後の研究の話題はセミナーで出なかった。

つまり、いまだに3年以上前の古いネタでトークしていることになる。

語れるだけの成果が出ていないのだろう。

松原氏の「数年後には入賞したい」という前向きな言葉だけが浮いていた。

 

AI俳句

次に丁寧に説明してくれたのが、

AIで俳句を作るプロジェクト「AI一茶くん」だ。

大量の俳句をAIに学習させた上で、

画像データをマッチングさせつつ俳句を詠ませる研究が進められている。

 

最近ではAIと人間の俳句対決!のイベントも開催されているという。

おしくもAIが敗れたが、なかなか良い勝負だったらしい。

AI俳句で最も高く評価されたのは以下の句だ。

「かなしみの片手ひらいて渡り鳥」

うーーん、なかなか味わい深い。ような気がする。

一方で、よく意味の分からない句もあるらしい。

「山肌に梟のこげ透きとほる」

 

この対決、本当にAIと人間が対決しているのか?と問われると

よく分からない。

AIが大量に生成した俳句の中から対決用のものを選んでいるのは人間なのだ。

松原氏が自分で言っていたとおり、

AIが俳句対決に勝利することになったとしても、

それはAIが進歩したからではなく、

選ぶ人間が成長しただけのことかもしれない。

 

それにしても、AIが俳句を詠むって、そんなに凄いことだろうか?

5・7・5に合うように単語を選んで並べるなんて

コンピューターなら一瞬でできることだろう。

そのうえ、俳句には「季語を入れる」というルールまであるのだ。

制約が多いほうが作品を作りやすいことは素人にも分かる。

 

小説と俳句

AI小説は3年以上前のネタしかなかったが、

AI俳句は最近の話が多かった。

今もりあがっているのは俳句の方らしい。

 

でも普通に考えると、順番が逆なのでは?

AIにも取っつきやすい俳句の方でまず成果を上げ、

それから難しい小説に挑戦するのが順序というものでは?

 

それぞれのプロジェクトの研究メンバーが違うことは分かっているのだが、

「小説には手も足も出なかったから、

 成果を出しやすい俳句に方向転換した」

みたいに見えてくる。

まるで、

メジャーリーグに挑戦した野球選手が結果を出せずに日本に帰ってきて、

自信を取り戻すためにチビッコ相手の草野球に必死になっているかのようだ。

 

研究者たちは真面目にとりくんでいる。

彼らは小説や俳句を生み出すことだけを目的にしているわけではなく、

難しい課題に挑戦することで知識を深めることも目指している。

しかし研究の状況を引いた目線で見てみると、印象が変わる。

「最初は大きな期待とともに始まったけど、すぐに限界がみえてきた。

 でも世間の注目が集まっているから、

 それらしい成果だけは見せておかないと!」

こんな業界の空気が感じ取れるような気がするのだ。

 

セミナーのまとめ

セミナーの最後に松原氏はこのようにまとめていた。

 

・AIはランダムジェネレーション(※当てずっぽうに創作すること)は得意。

・できたものが良い作品かどうかを評価するのは人間が得意。

・AIが大量に作ったものから人間が選び取るのが効率的な創作スタイル。

 

というわけで、

当初から私が抱いていたAIへの評価と同じような内容のまとめとなっていた。

 

印象的だったのは

目新しいネタのない松原氏の話の内容ではなく、

松原氏のしゃべり方の方だった。

大人数を前に落ち着いていながらも聴衆を気持ち引き込むような話しぶり。

つまり、トーク技術が高かったのだ。

世の中のAIブームのおかげで講演依頼が多く、

人前で話す場数をこなしているのだろうと想像できた。

 

AIのことは、いったん忘れてしまおう。

AIのことを今は忘れてしまおう。

世間はいまだにAIの話題で持ち切りだが、

少なくともコンテンツ創作の分野では、大したことは起きそうにない。

 

真剣に研究している人たちを、そっとしておこう。

周りで大騒ぎするよりも、静かな環境で研究してもらった方がいい。

その方が、世間の期待やプレッシャーに惑わされずに、

自分の興味のあるテーマをトコトン追求してくれるだろう。

コンテンツ創作以外の分野で役立つ発見をしてくれるかもしれない。

(研究者の中には、ブームにうまく乗っかって

 予算を多く確保しようという人もいるかもしれないが・・)

 

マスコミが中途半端な知識で書く記事を鵜呑みするのもやめよう。

記者は面白い記事を書きたがる。

研究者に取材し、良いコメントを何とか引き出そうと努力する。

 

「AIが小説を書けるんですか?」

「書けません」

「でも作品はできてますよね?

 これはAIが書いたと言えるんじゃないですか?」

「人間の設計に従い最終的に出力したのはAIです。

 AIが書いたと言えるかどうかは、人間の解釈の問題です」

「(まずい。これでは記事にならない・・・)

 で、で、でも、

 将来的にAIが小説を書けるようになる可能性は否定できませんよね?」

「それはそうですね」

研究者は誠実に答えているだけなのだが、

こうして取材にもとづいた記事ができあがる。

 

「人口知能の研究で有名な〇〇氏も『AIが小説を書けるようになる可能性は否定できない』と語る。AI作家が書いた本が書店に並ぶ日は案外遠くないかもしれない。」

 

こんな記事は多い。

AIをさしおいて、

記者の方が想像力豊かなSF作家になってどうするんだよ。

 

こんな「でっちあげ」に踊らされるのはやめよう。

 

意味と意識

AI創作の分野でブレークスルーが起き、

面白いコンテンツが次々と自動的に生み出されるのなら、

こんなに素敵なことはない。

私の好みに合った私だけのコンテンツを

無限に楽しめるようになったら・・・。

 

しかし、コンテンツには「意味」が必要だ。

そして「意味」を生み出し理解するのは人間の「意識」だ。

以前に触れたとおり、意識の仕組みについてはほとんど何も分かっていない。

 

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「意識」のことが分からないのに

「意味」のあるものを人工的に作れるわけがない。

というのが、今のところ私の結論だ。

 

AIのことは、いったん忘れてしまおう。

 

 

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日本語、その愛しさと切なさと心細さと(2) われわれは日本語を捨て英語に乗りかえるべきなのか?

令和!

元号が発表された。

「令和」!

 

やはり漢字2文字はしっくりくる。

私も日本人の感覚を持っているようだ。

 

ところが、海外の一部のメディアでは

誤解や批判とともに報道されているようだ。

 

「「令」は「命令・指令」という意味だ」

「「和」がレイということは、平和ゼロということか?」

 

これに対し外務省が

「令和とは「Beautiful Harmony=美しい調和」という趣旨だ」

と伝えるように在外公館に指示したという報道もある。

 

●令和は「Beautiful Harmony」外務省が英語の趣旨説明

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190403-00000046-mai-pol

 

いやいや!

国が自ら「Beautiful Harmony」なんて言っちゃうと、

わざわざ偉い学者さんや有識者を集めて

歴史ある古典から深い含蓄のある漢字をひっぱってきた意味が無くなるじゃん!

「Beautiful Harmony」なんて、そんな軽い言葉に言い換えちゃっていいの!?

英語に翻訳しきれない意味が込められてるから有難みがあるんじゃないの!?

自分で自分の元号をおとしめるようなことしちゃダメじゃん!

とツッコミを入れたくなるような顛末になってしまった。

 

残念だったのは、海外の一部の人に誤解されたことではない。

違う文化圏の人に誤解されるのは、よくあることだ。

本当に残念なのは、これらの誤解や批判に対して、

英語や中国語など相手の言葉を使って正しく反論できていた言論人が

私の見渡した限りでは見当たらなかったことだ。

 

日本と相手国の歴史・文化を深く理解した上で、

ユーモアを交えて巧みに認識の間違いを指摘し、

格調高くしっかりと読ませる文章を相手の国の言葉で発表して反論する。

そんな高度な能力をもった文化的・言語的エリートが全然足りていない。

 

そんなことを実感した。

 

いずれにせよ、新しい時代が始まる。

過去に感謝しつつ、清々しい気分で令和の朝を迎えたい。

 

日本語の未来

前回の記事では、

漢字との深い関わりの中で日本語がたどってきた道のりを見てきた。

 

今回は「全世界共通語」になりつつある英語と、

日本語の未来について考えてみたい。

 

いくつかの映画や本を紹介しながら話が進むので、

回り道に感じる読者もいるかもしれないが、脇道にそれずに行きたいと思う。

 

『ブレイブハート』

映画『ブレイブハート』を観たことはあるだろうか?

1995年のアメリカ映画でメル・ギブソンの主演・監督。

スコットランドの独立のためにイングランド相手に戦った

実在の英雄ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた歴史大作だ。

 

 

迫力の戦闘シーン、胸にせまる感動のラストなど見どころは多いが、

一番見逃せないのは映画中盤の、とある場面だ。

フランスからイングランド王家に嫁いできた美しいお姫様のソフィー・マルソー

戦争に明け暮れるメル・ギブソンに出会う。

当時、フランスから見ればイングランドは田舎だ。

スコットランドともなれば辺境のド田舎という感覚だったろう。

そのド田舎の武将であるメル・ギブソンが、

交渉の席で急にラテン語とフランス語を流ちょうにしゃべりだすのだ。

お姫様はびっくりしてしまう。

ラテン語といえば当時のヨーロッパの知識人にとっては一番格式の高い言葉だし、

フランス語も高級な言語として地位を上昇させていた言葉だ。

見た目はワイルドな男がそんな上等な言葉をペラペラとしゃべるもんだから、

ソフィー・マルソーは「ギャップの魅力」にコロリとやられてしまう。

最終的にはメル・ギブソンの子供を身ごもるところまで行ってしまうのだ。

 

映画のこの部分は実はフィクションなのだが、

現代に生きる我々からみてもヒロインの心の動きに不自然さは感じない。

 

これを現代に例えるなら、

東京で何不自由なく育ち、留学も経験し、

港区の外資系の企業に勤めていたステキな女子が、

実家の都合で田舎の村に嫁がされフテ腐れていたところ、

そこで出会った田舎弁丸出しの泥臭い男が実は英語ペラペラだったのを知り、

「まぁステキ♡」となるようなものだ。

すぐ恋には落ちなくても「あら、やるじゃない」ぐらいにはなるだろう。

英語力によって男の評価は確実にあがる。

 

もし男がしゃべる言葉が英語ではなく

ベトナム語タガログ語だったりしたらどうだろう?

ベトナムやフィリピンの人には申し訳ないが、

「まぁステキ♡」となる可能性はかなり低くなるのではないだろうか・・?

 

『ブレイブハート』から我々が学べる教訓はこうだ。

英語をしゃべれるとモテる。・・・・ではなく、

言語には序列がある。上下関係がある。ということだ。


言葉そのものの優劣の差はあまり関係なく、

その言葉を使っているグループ、民族、国が強いかどうかで、

言語の序列は決まる。

 

「全ての言語は尊いものです!その価値は同じです!」

と必死で言いたがる人も多いが、本気でそれを信じている人は少ない。

ソフィー・マルソーにとってはイングランドスコットランドの言葉より

ラテン語やフランス語の地位の方が上だし、

港区女子にとっては日本語やタガログ語より英語の方が上なのだ。

 

バイリンガル教育の方法』

言語の上下関係については、先入観のない子供の方が敏感かもしれない。

 

バイリンガル教育の方法―12歳までに親と教師ができること』という本は、

自身も子供をバイリンガルに育て上げた語学教育の専門家の著書だ。

「留学させる場合」「親がバイリンガルの場合」

母語がマイナーな言語の場合」など、

さまざまな場合ごとの最適な語学教育を解説している。

子どもをバイリンガルに育てたい親にとっては参考になる本だ。

 

 

この中で印象的なのは、親に注意を促す部分だ。

 自分の母語(つまり日本人にとっての日本語、ベトナム人にとってのベトナム語)が

その地域でマイナーな言語として扱われおり、

メジャーな言語(たとえば英語)が幅をきかせている場合、

放っておくと子供はすぐに母語を話さなくなり

親とのコミュニケーションが取りにくくなるという。

 子供をバイリンガルに育てたいのなら、

「学校では英語。家ではベトナム語」のように、

はっきりと使う言葉を切り分けないといけない。

この注意点は何度も繰り返し説かれている。

 

子供たちは大人が無意識に理解している言語の上下関係を

敏感に感じとっている。

彼らは「序列の低い」言葉には見向きもしなくなり、

より「序列の高い」言葉を積極的にしゃべるようになっていくのだ。

 

私小説 from left to right』

より上のレベルの言葉を求める子供がいる一方で、

その言葉にはどうしても馴染めない子供もいる。

 

それが分かる本が『私小説 from left to right』だ。

 著者は小説家、評論家の水村美苗氏。

 彼女が自分の半生を振り返った内容になっている。

 

 

 戦後間もない日本。

アメリカに対する憧れが充満していた時代に、

彼女は12才で親に連れられて渡米する。

そしてアメリカの学校で教育を受ける。

もちろん英語で。

当時のほとんどの日本人にとっては

「なんとうらやましい!」と言いたくなるような環境だ。

 

しかし彼女はどうしても英語が好きになれなかった。

能力が足りなかったわけではない。

それは彼女がのちにアメリカの大学で文学を教えるようになったことからも

明らかだ。

ただどうにも英語が受け付けなかったのだ。

周囲を英語に取りかこまれ苦しんだ彼女は、日本の小説に救いを見出す。

学校から帰り、自宅にたまたまあった日本近代文学全集をひたすら読むことで、

心の安らぎを得ていた。

アメリカ人よりも樋口一葉二葉亭四迷夏目漱石たちと深く対話しながら

自分をはぐくんでいった。

「日本語を読むことを命の糧としていた私にとって、日本語という言葉に喚起される物や心の形を共に味わえぬ人間は、魂の奥底深くまでは互いに入りこみえない、自分とは縁のない人間だとしか思えなかった。」

とまで書いている。

 

そんな彼女の半生を描くこの小説は、

日本語と英語が入り混じった文章で書かれている。

何とも不思議なstyleの文章なのだが、

だからこそ彼女の置かれていた「いびつな」環境がdirectlyに伝わってくる。

全てを日本語で書かれていたら、または全てEnglishで書かれていたとしたら、

こんな読書体験をすることは出来ないだろう。

 

英語を素直に受け入れず、おかしな育ち方をしたからこそ、

こんなにユニークな小説が生まれたのだ。

 

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』

 そんな水村氏が日本語について真正面から書いた本が

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』だ。

 

アメリカで育った彼女にしか持てない目線から、

言葉についての深い洞察を与えてくれる。

 

特に彼女が命の糧を得ていたという近代文学について書かれた第五章は、

夏目漱石への愛がほとばしり出ていて、

ひたすらに深く、熱く、そして悲しい。

必読だ。

 

 

 ぜひ読んでほしい本だが、ここでは私なりに要点を紹介しよう。

 

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大昔に人類が「言葉」を生み出して以来、

言語は「普遍語」と「現地語」に分けられていた。

 

「普遍語」とは、その文明圏で多くの人が使う共通語。

高度な思考をあやつれるレベルの高い言葉で、

知的エリートが物を書くとしたら当然に使われるべき言語のことだ。

東アジアでの普遍語は歴史上ずっと中国の言葉つまり「漢語」だった。

ヨーロッパでの普遍語は長いあいだ「ラテン語」だった。

 

「現地語」は、それぞれのエリアで日常的に使われる言葉。

文字を読めない人でも普通に会話で使う言葉で、

文明圏全体から見るとローカルでしか使われていない言語のことだ。

昔の日本列島や沖縄に住んでいた人が使っていた言葉つまり、

今でいう「日本語」や「アイヌ語」や「琉球語」は現地語になる。

 

現地語(例えば日本語)をネイティブな言葉として生まれ育った人は、

普通なら現地語だけを使って一生を終える。

ただし、一部の知的エリートだけは普遍語(例えば漢語)を学び、

普遍語で書かれた書物から過去のすぐれた知識を得ていた。

そしてそのエリートが、学問上の重要な考えを書き残そうと思えば、

当然のように普遍語で書いた。

こうして普遍語の「図書館」には、多くの素晴らしい知識が積み重なってゆく。

学問とは本来、世界中の人と知識を共有するためのものだ。

重要なことは普遍語で書く。これは当たり前のことだった。

 

普遍語と現地語。

つまり言語には序列・上下関係がある。

人類はその歴史においてほとんどの期間を、

そのことを当然のこととして受け入れてきたし、

言語と学問の関係上それは自然なことでもあった。

 

しかし数百年前のヨーロッパで状況が変わってきた。

それまでは民族、宗教、領主同士の関係、地理的条件などで、

人々はそれぞれのコミュニティを形作って暮らしていたのだが、

少しずつ「国」という単位を一まとまりにして考えるのが、

政治的にも経済的にも軍事的にも都合がよくなっていった。

この流れで「フランス」「スペイン」のような強い国家が出来上がる。

 

「国家」「国民」「国語」という新しいものの見方が生まれた。

1つの国にはそれぞれの「国民」がいて、それぞれの「国語」を話している。

という今では当然のように思える考え方は、この時に生まれたものだ。

 

ヨーロッパの外にもこの考え方は広まった。

日本という「国家」では日本人という「国民」がいて、

日本語という「国語」を話している。ということになった。

(同時に、アイヌ語琉球語は国語ではないということになった)

 

ロシアではドストエフスキートルストイのような

ロシア語の国民文学が花開いたように、

日本では森鴎外夏目漱石のような

日本語の国民文学が花開いた。

各国の文豪が各国の国語のレベルを引き上げていた時代だ。

(現代の我々が使っているような日本語が完成したのには、

 夏目漱石の功績が大きい。

 さすがは千円札になるだけのことはある!)

国民は普遍語ではなく国語を使って学問をできるようになった。

 

それぞれの国に、それぞれの国語があり、それぞれの文学がある。

こんな状況は、人類の言語の長い歴史を見れば、

ここ数百年で起きた特殊な状況にすぎない。

本来の言語の姿は「普遍語」と「現地語」なのだ。

 

そして近年、急激な「揺り戻し」が来ている。

「普遍語」としての「英語」の登場だ。

 

当初はイギリスやアメリカの「国語」にすぎなかった英語が、

経済のグローバル化とインターネットの勢いを借り、

もの凄い勢いで「全世界共通語」になろうとしている。

というか、すでにそうなっている。

かつては普遍語だった漢語を使う中国人も、

ヨーロッパで一時は普遍語の地位にあったフランス語を使うフランス人も、

他国の人とコミュニケーションをとるときは英語を使う。

映画の中ではナチスドイツの将校も

「われらアーリア人は偉大だ!」と英語で叫んでいる。

 

世界の言語のバランスは、英語に大きくかたよった。

一度かたよってしまうと、もう元には戻らない。

英語を学ぶ人が増え、そうなるとますます英語が便利になり、

そうなるとますます英語を学ぶ人が増える。

 

英語は地球上で唯一の「普遍語」となってしまった。

「英語 or その他おおぜい」という状況だ。

 

こんな世界では、世の中に何かを発表したい才能豊かな人間は、

英語の文章でそれを発表するようになる。

そうしないと世界から無視されてしまうからだ。

英語の「図書館」にはどんどん素晴らしい知識が積み上げられる一方で、

それ以外の言葉の「図書館」は空疎なものになっていく。

もちろん日本語も例外ではない。

日本語は知的エリートには相手にされないレベルの低い言語になっていくだろう・・

 

日本語を守るためにはどうするべきか?

国の教育方針を変えるべきだ。

英語の授業に力を入れる前に、まずは国語の教育が大事だ。

日本の素晴らしい近代文学をしっかり読ませ、

みんなが国民文学を共有できるようにすべきだ。

国民全員が英語を使えるようになることを目指しても仕方ない。

無意味な「平等主義」は捨て、

才能ある人に重点的に外国語教育をしてエリートを育てればよい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

こんな内容の本だ。

私なりの解釈を加えているので、

もし間違ったことを言っていれば、本の著者ではなく私の間違いだ。

ご指摘いただければ有難い。

 

評価・感想

日本語が亡びるとき』で書かれていることに、

私は全て賛成する。

 

教育界のお金と人材を、やる気と能力のある生徒に重点的に配分し、

語学エリート層を育てることに成功していれば、

「令和」にまつまる誤解や批判にうまく反論し、

この機会に日本が世界から尊敬を集めることだって出来ていただろう。と思う。

 

ここでは、著者の水村氏が触れていないことや、

触れていたとしても少ししか扱われていないポイントについて、

いくつかコメントしたいと思う。

 

個人として

国としての教育方針については、分かった。

では、我々は個人としてどう英語に向き合うべきなんだろう?

やっぱりグローバル化に合わせて英会話教室に通うべきなんだろうか?

 

結局のところ「人による」としか言いようがないのだが、

使うアテもなく興味もないのに英語を勉強する必要はないだろう。

ほとんどの日本人が英語に対して苦手意識をもっていて、

「いつかはやらなきゃいけないと思ってるんだけど・・」

と照れ笑いをする。

しゃべれない自分に妙な罪悪感を持っている。

こんな状況は、どう考えても異常だ。

 

無駄な罪の意識からは解放されてしまおう。

高いお金と貴重な時間を使って少しだけ英語のスキルが上がっても、

しょせんは観光客に道を聞かれて英語で答えられるようになるのが関の山だ。

単純なやりとりなら自動翻訳機で十分にこと足りる。

夏目漱石たちが作り上げた日本語を自信をもって使っていればよい。

 

もし仕事などで本当に英語が必要になったら、

その時に必死で勉強するしかない。

私の場合で言えば、

著作権の国際会議の出席に向けて1年間付け焼き刃で勉強をしたことがあるが、

かろうじて何とかなった。

英語学習法については多くの人がたくさんの「秘訣」を公開しているので

私から言えることは特にない。

それでも一つだけ言うとしたら、

先週もあげた日本語の特徴である「音の種類の少なさ」を克服するところから

始めてみるのが良いと思う。

「英語にはあるけど日本語には無い発音」は多いので、

それに馴染んでいくことが苦手意識を消す第一歩になるだろう。

 

 

 

文学、音楽、映画、ゲーム、デザインなどに携わるクリエイターは、

英語を使えるようになるべきだろうか?

たしかに英語を駆使して世界のマーケットに向けて創作した方が、

儲かりそうな気がする。

逆に英語が世界中をおおった今だからこそ、日本語にこだわって創作した方が、

世界的にみても個性のある、とがった作品になりそうな気もする。

英語に背を向けて日本語の世界に閉じこもった水村氏が、

きわめてユニークな作品をつくったように。

 

この論点については宿題として、いずれゆっくりと考えてみたい。

 

日本語は守るべき言葉なのか?

そもそも、日本語は守っていくべきものなのだろうか?

日本語がなくなっても、世界の人は困らないのでは?

水村氏の本の中に、この視点は無い。

日本語に少女時代を救われた水村氏にとって、

その価値は当たり前すぎる大前提だったのだろう。

「日本語をどう守るか?」については詳しく書いているが、

「日本語を守るべきか?」については驚くほど何も書かれていない。

(文庫版で付け加えられた部分には少しだけ触れられているが)

 

このまま英語の勢力が伸び続けるとどうなるだろう?

「現地語」としての日本語はしばらくは日常会話の中で生き延びるだろう。

しかし我々より数世代あとの時代には、どうなっているか?

子供たちは言語の序列に敏感だ。

日本語のような「レベルの低い」言葉を学ぶことを嫌がるようになるかもしれない。

そして、それぞれの国の国語や現地語が消滅していくかもしれない。

 

全人類が英語だけを使うようになった世界を想像してみよう。

 

非常に効率的で便利な世界だ。

人々は語学学習に費やすムダな時間から解放される。

言葉の違いから生まれる誤解もなくなる。

わざわざ外務省が「令和はBeautiful Harmonyです」と説明する必要もない。

最初から元号は「Beautiful Harmony」なんだから。

小説家も学者もブロガーもみんながEnglishで書くし、

世界中の誰もがそれを読むことができる。

世界中の人々が理解しあえるようになる。

なんてすばらしい新世界!Brave New World!

 

その代わり、失われるものもある。

過去の文学の名作をそのままでは味わえなくなる。

専門家でない限りは、夏目漱石を英語翻訳でしか読めなくなる。

日本語にしか表現できない感覚は永遠に失われる。

「桜がはらはらと舞い散るのを見ると、物悲しい気持ちになる。」

という日本人にとって普通のことを言いたいときでも

「When I see cherry blossoms falling, I feel sad.」

としか言えなくなる。

英語にしてしまうと、なんと味気ないことか!

日本語特有の言葉遊びもできなくなる。

Hey! Say! JUMP」は「Peaceful JUMP」になってしまう。

 

念のため言っておくと、私は英語もけっこう好きだ。

主語と述語で言いたいことを言い切った後で、

whoやwhichを使って説明を付け加えられるのは便利だし、

comparison(比較)のような理屈っぽいゴツゴツした単語があるかと思えば、

meadow(草地)のような匂い立つような単語もある。

throne(王座)のような耳慣れない発音の単語からは、歴史の息吹さえ感じる。

英語も悪くない。

(だから、楽しめる人なら趣味で英語を学ぶのは全然アリ!)

 

それでも、やはり日本語には日本語にしか表現できないものがある。

 

私は、世界が英語に完全に覆われてしまうと

文化の発展がストップしてしまうと思う。

文化は異質なものの組み合わせによって成長する。

夏目漱石は英文学に学んで日本文学を進化させたし、

ゴッホは浮世絵に刺激されて自分の画風を完成させた。

世界に英語しかなくなってしまうと、こういうことが起きづらくなってしまう。

できるだけ、バラエティ豊かな文化をバラエティ豊かなままで

受け継ぎたいと思うのだ。

世界をつまらない場所にしないためにも、日本語のレベルを保つことが重要だ。

 

 本音

 正直に申し上げると・・・・上で書いたことは「タテマエ」だ。

「文化の多様性は大切です」というお題目を言い方を変えて言っているだけだ。

嘘をついているわけではないし、正しいことを言っている自信はあるが、

本音とタテマエは違う。

 

本音を言えば、

日本語がなくなっちゃうのが単純に寂しいのだ。

 

いくら多様性を声高にさけんでも、

長い目でみれば便利さや効率性に対抗するのは難しい。

実際、多くのマイナーな言葉を滅亡させてきたのが人類の歴史だ。

 

日本語を残したいという思いは、

ただの感傷趣味にすぎないのかもしれない。

 

ただせめて、

個性あふれる言葉がそれぞれの国ごとに栄えているというこの特殊な時代に、

きわめて独特な姿に育った日本語というユニークな存在に出会い、

その変化の時代に立ち会えている。

ことのことをしっかり意識し、感謝したいと思うのだ。

 

日本語がここまで歩んできた道のりとその行くすえを思うと、

心細くなったり、切なくなったり、愛しい気持ちになったりするが、

日本語からは目をそらさず、そのユニークさを面白がり、

最後まで付き合っていきたい。

 

 

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日本語、その愛しさと切なさと心細さと(1) 新元号はなぜいまだに漢字2文字なのか?

元号

まもなく新元号が発表になる。

「どんな元号になるんだろう?」とワクワクしている人も多いと思う。

 

私には、確実に予想できることが1つだけある。

それは「新元号は漢字2文字になるだろう。」ということだ。

 

「何を当たり前のことを・・」と言われるかもしれないが、

なぜそれが「当たり前」なのだろう?

 

日本の元号なんだから、

「桜元年」とか「しあはせ元年」とかでも良いのでは?

グローバルな時代なんだし、

「Peace元年」とか「ダイバーシティ元年」でもOKなんじゃないか・・?

 

漢字2文字のパワー

昔の日本人は、おとなりの超先進国・中国をお手本にしていた。

中語から文化や法律をたくさん取り入れた。

その中国の元号は漢字2文字だった。

だから日本もそれをマネして元号を漢字2文字にした。

ここまでは良い。 

 

しかしその後の日本は、

遣唐使の廃止」「鎖国」等をして海外文化が入ってくるのにブレーキをかけ、

独自の文化を発展させた。

明治維新では西洋文明を急速に取り入れ、

中国を追い抜いて近代化してしまった。

 

そんな時代にも

元号を日本オリジナルの平仮名にしよう」とか、

「西洋の先進国の言葉を元号に取り入れよう」などの声が

あがることはなかった。

 

いまだに我々は無意識のうちに

元号は漢字2文字」ということを前提にしている。

なぜだろう?

 

答えを簡単に言ってしまえば、

日本人にとって漢字2文字が一番

深い意味が込められていて、格式高そうに感じる。

つまり、「もっともらしく見える」からだ。

 

逆に「桜元年」、「しあはせ元年」、「Peace元年」からは、

なんとなく締まらない感じがしたり、軽薄な印象を受けたりしてしまう。

「コレジャナイ感」がある。

 

これだけ英語がもてはやされている時代でも、

日本人にとって漢字2文字には不思議なパワーがあるのだ。

 

『漢字と日本人』 

おもしろい本を紹介したい。

『漢字と日本人』だ。

元号について直接的に書かれたものではないいが、

日本人の思考回路と漢字の関わりについて深い理解を与えてくれる。

 

著者は中国文学の専門家・高島俊男氏。

漢字についての幅広い知識をもとに、

中国語の特徴、日本語の成り立ち、使うべき言葉などについて語っている。

 

この本、たびたび話が本筋からはずれる。

1ページ目からいきなり「ちょっと横道にそれますね」と言って、

「仮名」と「假名」の使い方について数ページ使って解説する。

やっと元の話に戻ったかと思うと、またすぐに

「こうせん」と「コーセン」の書き方の違いについての説明が始まる。

何度も寄り道を繰り返す。

そして、それぞれの寄り道が面白い。

 

言葉に興味のある人なら、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

 

 

寄り道のせいで、なかなか話が進まないのだが、

著者のメインのメッセージは明確だ。

「日本人は漢字無しではモノを考えれられないようになった」

ということだ。

 

本の内容を大幅に変えさせていただき、私なりの理解で説明しようと思う。

 

日本語の歴史

「ことば」は変化する。

社会環境の変化、外国語の影響などによって、

少しずつ進化(または退化)していく。

 

日本語も同じだ。

日本の歴史を通じて、ことばは劇的に変わってきた。

 

日本語の歴史は大きく3つの時代に分けられる。

1.やまとことばの時代

2.漢字がジワジワ浸透した時代

3.西洋文明が一気に流れ込んだ時代

 

それぞれの時代をみていこう。

 

やまとことばの時代

ユーラシア大陸の東の果てに浮かぶ島に、日本人のご先祖様が住んでいた。

彼らが話していた言葉が「やまとことば」だ。

「やま」「あめ」「かぜ」「あつい」「さむい」というような、

今でも日本語に残っているような言葉を使って会話していた。

(発音は今とはかなり違っていたようだが。)

 

この言語には、

おとなり中国の人がしゃべっていた漢語の影響が見られない。

ご先祖様は他のどの言語とも関係を持たないオリジナルの言葉を使っていた。

 

やまとことばは、おおらかでのんびりしている。

当時の会話を聞いたら、なんとものどかな空気を感じ取れただろう。

 

そして重要なのが、この時代に「文字」はなかったということだ。

やまとことばの全ては、話し言葉(とたぶん、歌)だけだった。

言葉を文字にして記録しようという発想そのものがなく、

言葉とは、音で聞いて理解するものだった。

 

(ちなみに、文字が無い言語は珍しいものではなく世界中にある。)

 

漢字がジワジワ浸透した時代

ゆったりした日本文化の世界に「漢字」がやってきた。

今から千数百年前のことだ。

 

話し言葉しか持たなかった日本人が、

ついに「書ける言葉、読める言葉」があることを知ったのだ。

 

「これは便利だ!」「言葉を書き残せるってステキ!」

たちまち大好評に・・・とは、ならなかった。

逆に、多くの人々が苦労するようになった。

漢字と、やまとことばの相性が非常に悪かったのだ。

やまとことばは漢語の影響を受けずに発達したので、

発音や文法が全然違っていた。

 

漢字は中国大陸に住む人がしゃべる漢語に合うように発明されたものだ。

漢字を設計した人が、東の島国のことまで考慮していたわけがない。

だから、漢語になら完璧にフィットする一方で、

やまとことばには全然合わなかった。

他人のためにオーダーメイドされた服を、

体形の全く違う人間が着るようなものだ。

とにかく合わない。

 

(日本の隣の国がアルファベットを使っていたなら、まだマシだったろう。)

 

でも残念ながら、当時の日本人にとって「文字」といえば漢字しかなかった。

「文字イコール漢字」だった。

他の選択肢はない。

しかも、中国といえば物凄く進んだ国なのだ。

その国が使っている文字なら素晴らしいものに違いない!

自分たちでゼロから文字を作るなんて発想は生まれるはずもない。

 

こうして、やまとことばを漢字で書くための涙ぐましい努力が始まった。

 

訓読み・かな

まず「訓読み」という荒業を使った。

「shan」と発音すべき「山」という字の音を無視して

「やま」と読むことにしてしまったのだ。

訓読みに慣れた今の日本人にはフツーのことに思えるかもしれないが、

これはかなり強引なことだ。

「これからは「mountain」と書いて「やま」と読むことにします!

 意味が同じなんだから、それでいいでしょう?」

と政府が発表したら、全国民から大反対が起きるだろう。

それぐらい無茶なことをやったのだ。

 

かといって全てを訓読みにしたわけではなく、

「山」を「shan」と読む読み方も残した。

これが「音読み」となり、

我々は「山」を「やま」と読んだり「サン」と読んだりするようになった。

 

訓読みは漢字の「意味」に注目したやり方だが、

漢字の「音」の方を利用する方法もあった。

「阿」「伊」「宇」の意味は無視してしまい、

「ア」「イ」「ウ」という音を表す文字にしてしまったのだ。

 

つまり、当て字だ。 

この当て字が少しずつ簡略化されていき、

ひらがなとカタカナが出来上がった。

 

こうして相性のわるい漢字に四苦八苦しながら

数百年かけて適応しているうちに、

日本の書き言葉はゴチャゴチャしてきた。

漢字は読み方が何種類もあるし、

ひらがな、カタカナ、漢字の3種類を使い分けないといけない。

こんな言葉は世界的にも珍しい。

今でも日本語を学ぼうとする外国人が最初につまづくポイントだ。

 

高等な概念

漢字は書き言葉だけでなく、日本人の考え方そのものにも影響を与えた。

 日本人の思考を一段上に押し上げたのだ。

 

やまとことばには

「あめ」「かぜ」「ゆき」「あつい」「さむい」などの

目に見えるものや体で感じ取れるものを表す言葉はあった。

しかし、それら全体を表す「天候」「気象」という抽象的な言葉はなかった。

日本人は「天候」「気象」という漢字を通じて、

「あめ」「かぜ」「ゆき」・・という共通性のあるものを

「上位概念」として一発でまとめてしまう考え方を学んだ。

 

同じように「理」「義」「恩」「徳」といった、

日本人がまだ知らなかった価値観・概念が漢字の形をとって入ってきた。

 

我々は言葉なしでモノを考えることはできない。

「概念」という言葉の意味・概念を「概念」以外の言葉をつかって

とらえることが出来るだろうか?

漢字で新しい概念をインプットされた人間は、

それを漢字で考えることしかできないのだ。

日本人の根本的な思考回路に漢字がジワジワと浸透しくいく。

 

まだよちよち歩きだった段階のやまとことばに、

成熟した大人の言葉・漢字が 入ってきた。

まだ試作段階のOSである昔のWindowsに、

最先端のAndroidを無理やりつなげたようなものだ。

かなり危なっかしい。

我々のご先祖様は、原始的なプログラムを必死で作動させながら、

超高度なプログラムを制御しようとしたのだ。

本当に大変だったろうと思う。

 

漢字2文字

中国の人が使う言葉は、漢字2文字がセットになったものが多い。

「学校」「家庭」「風景」「音楽」「同胞」・・・など無数にある。

その方が言葉として安定するからだ。

1文字だけで意味は十分に伝わるのに、

2文字にするためにわざわざ同じような意味の漢字を重ねたものだってある。

「幸福」「闘争」「尊敬」「負担」「安定」・・・など。

 

なぜ2文字だと安定するかのか・・?については、感覚的な話なので、

理屈ではちょっと説明しづらい。

(私も中国語を少し勉強しているだけなので、何となく分かる程度だ。)

不正確な説明なのを承知で言うと、

話しはじめの赤ちゃんが親のことを「ママ」「パパ」と呼ぶような感覚だ。

「マ」「パ」だけでも十分に伝わるのに、何となく頼りない感じがする。

だから語を重ねて「ママ」「パパ」となる。

祖父、祖母だって「じぃじ」「ばぁば」になる。

 

2文字で安定するという特徴を背負った言葉が日本に入ってきたときに、

日本人はその感覚をそのまま受け入れた。

「漢字というものは2文字が良いのである」と思い込んだ。

このせいで「皮膚」の「膚」のような、

わざわざ付けなくても意味は変わらないうえに、

他には使いようのない漢字が残ったりしている。

 

日本語の方向性

何百年もかけて「他人のために作られた文字」と格闘しているうちに、

日本語と日本人の思考の方向性が定まってきた。

 

・日常的で具体的なことは、やまとことばで。

・高級で抽象的なことは、漢字で。

 できれば漢字2文字で。

 

というのが基本になった。

 

今でも私たちが

元号は漢字2文字がいい」

元号は格式高いもので深い意味が込められたものだ」

と思うのは、こういうわけだ。

我々の感覚の中には、日本人と漢字の長いお付き合いの歴史の跡が

残っているのだ。

 

西洋文明が一気に流れ込んだ時代

日本語は、時間と労力をかけて漢字を取り込むことに

どうにかこうにか成功した。

 

一安心と思ったのも束の間、今度は黒船がやってきた。

明治維新だ。

西洋文明がものすごい勢いで流れ込んできた。

 

当然、新しい概念と言葉が入ってくる。

「science」「phylosophy」「life」「insurance」・・・

これらをどう取り込めばいいんだ!?

 

千数百年前に漢字を取り込もうとしたときの日本語は、

まだよちよち歩きの状態だった。

でも明治では違う。

もう十分に成長し、大人の言語になっている。

それに「高級な文字」である漢字という心強い武器をもっている!

西洋の言葉だって怖くない!

 

西周福沢諭吉など当時のトップレベルの知識人たちは、

とんでもない質と量の西洋の言葉・概念に対し、ひるむことは無かった。

積極的に貪欲に日本語の中に取り込んでいった。

(ちなみに福沢諭吉著作権を日本に紹介した人でもある。

 さすがは一万円札になるだけのことはある!)


彼らの必死の努力のおかげで、

日本の大学では政治経済、物理学、医学などの高度な学問であっても、

今でも日本語で授業ができている。

西洋以外の多くの国の大学では、英語等の授業が当たり前なのとは、

エライ違いだ。

 

明治の偉人たちが西洋の高等な概念を日本語に導入するために頼ったのが、

同じように高等な文字である漢字だ。

「science」「phylosophy」「life」「insurance」を

「科学」「哲学」「生活」「保険」と翻訳した。

やはり漢字2文字だ。

 

こうして現代の私たちが当たり前のように使っている言葉が、

漢字2文字を使って次々と生み出されていったのだ。

政府、議会、会社、物流、道路、郵便、電気、野球、選手・・・・

挙げだすとキリがない。

ためしに、あなたがさっき送ったメールの文章をみてみるといい。

明治維新で生まれた言葉を使わずに生きていくことが

出来なくなっていることが分かるだろう。

 

西洋文明に必死で食らいつこうとする努力の中で、

日本語はリニューアルされた。

そのおかげで紆余曲折はありながらも、先進国の一員になれたのだ。

 

 偉人たちの「手抜かり」

漢字を使って新語を次々と生み出した明治の人は、本当に凄かった。

彼らのおかげで日本語がまた一段上のレベルに上がった。

 

しかし偉い人といえども「手抜かり」はある。

 漢字に頼りすぎたせいで「同音異義語」が大量に発生してしまったのだ。

 

もしあなたが初対面の相手と話しているときに

「それは、カテーの問題なのでコメントできません」と言われたら、

「家庭」か?「仮定」か?

判別できるだろうか?

(ひょっとしたら「過程」かも?)

 

「カガクを勉強しています」と言われたら、

「科学」か「化学」か?

判別できるだろうか?

(できないからこそ「化学」を「バケガク」と読む裏ワザもある)

 

西洋の言葉を翻訳するときに、

漢字の意味だけに着目し、発音のことをあまり気にしなかったせいで

こんなことが起きるようになってしまった。

また、日本語の持っている発音の種類が少なかったことも災いした。

違う意味なのに同じ音の言葉が山のようにできてしまった。

 

工業、鉱業、興行、興業・・・

汽車、記者、貴社、帰社、喜捨・・・

製紙、製糸、生死、静止、精子、正史、制止、正視・・・

 

漢和辞典を開けば、無数の同音異義語が並んでいる。

 

もちろん、明治の偉人たちに責任があるわけではなく、

日本語がそもそもそういう言葉なんだから仕方がなかった。

漢字に頼っているわりに、

漢語のような豊かな発音のバリエーションを持っていないので、

どうしてもこうならざるを得なかったのだ。

 

日本人の思考回路

大量の同音異義語があるのは事実だが、

実際のところ日本人がそのことに苦労しているわけではない。

 

「希望するコーコーに一発で合格してくれました。

 ほんとに親コーコーな息子です」

と言われても「高校」「孝行」だと悩まずに分かる。

 

「キシャのキシャがキシャでキシャした」と言われたとしても

「貴社の記者が汽車で帰社した」と理解できる。

 

さきほど「カガクを勉強しています」の「カガク」が分からないという例をあげたが、

これはレアケースだ。

ほとんどの場合、文脈で分かるのだ。

 

なぜ文脈で分かるのだろう?

このとき、日本人の頭の中で何が起きているのだろうか?

 

以下のようなプロセスだ。

 

・まず耳から「コーコー」という音が入ってくる。

・次に、この音に当てはまる漢字の候補が脳の中で浮かび上がる。

 「高校」か?「孝行」か?「航行」か?「後攻」か?

・漢字の意味と文脈を照らし合わせて一番適切な漢字を選びとり、

 意味を理解する。

 

日本人は、こんな複雑なことを一瞬のうちに何度も繰り返している。

 「日本人は漢字無しではモノを考えれられないようになった」

という意味が分かってもらえただろうか?

 

日本に西洋の文明が流れ込んだ場合、

普通に考えると漢字との日本語の距離が開きそうな気がする。

しかし、事態は全く逆になった。

日本人は常に頭の中で漢字を思い浮かべながら会話するようになった。

日本語と日本人の脳は、ますます漢字と一体化したのだ。

 

明治以後たびたび

「漢字を廃止しよう。漢字は旧時代のものだ。

 日本語を新しい時代にふさわしいものにリニューアルしよう」

という運動が起こっている。

しかしこれは、絶対に不可能なことだと分かるだろう。

「高校」を「コーコー」とか「koko」などと表記するようになり、

漢字が忘れ去られてしまえば

日本人同士がコミュニケーションを取れなくなってしまう。

「漢字を廃止する」とは「日本人の脳を廃止する」のと

ほとんど同じ意味なってしまったのだ。

 

 言語学的には

西洋の言語学、つまり主流の言語学では、

こんなことは有り得ないはずの事態だった。

 

言語学の世界では、 言葉というものの実体は「音」だ。

音を書き表した記号である「文字」は言葉の影のようなものに過ぎない。

と考えられている。

実際、話し言葉だけしかなく文字を持たない言語はたくさんある。

文字は、あってもなくても構わない「オマケ」のようなものだ。

 

しかし日本語の場合、この法則が当てはまらない。

漢字無しでは日本語は成立しないのだ。

漢字は「オマケ」の立場から昇格し「言語の実体」となった。

 

こんなに珍妙な言葉は、日本語の他にはない。

漢字を生み出した当の中国人だって、こんなことはしない。

中国語は「音」だけで意味が通じるからだ。

会話をしながら脳の中で高速で漢字の候補を検索し最適なものを選択する。

こんな神業を平気な顔してやってのけているのは、

日本語ネイティブだけなのだ。

 

 日本語って・・

 以上『漢字と日本人』の内容を私なりの解釈を大幅に加えて紹介した。

もし間違ったことを言っていれば、本の著者ではなく私の間違いだ。

ご指摘いただければ有難い。

 

それにしても、日本語って何と数奇な運命を辿ったのだろう!

 

やまとことばが生まれ、まだよちよち歩きだった時期に、

漢字という非常に高度で洗練された文字がやってきた。

しかも、その文字との相性は抜群にわるかった。

生まれたばかりで右も左も分からないご先祖様の言語は、

自分よりはるかにレベルが高い上に、

自分とは合わない文字と必死になって格闘した。

それも数百年にわたって。

そうしてやっと一人前に成長した日本語の前に、

西洋文明という全く違うタイプの相手が現れる。

日本語はこのときもガムシャラに頑張った。

自分なりに使いこなせるようになった漢字を最大限に活用し、

自分自身を変化させていった。

努力に努力を重ね、やっとのことで世界の最先端に追いついたときには、

他の誰にも似ていない独特の姿になっていた。

 

これが今の日本語だ。

なんと危なっかしい、なんと逞しい、なんと愛おしい言語なんだろう!

 

『漢字と日本人』の著者の高島氏は、

「漢字が入ってきたことは日本語にとって不幸なことだった」と言う。

漢字に頼ったせいで、やまとことばの成長が止まってしまった上に、

相性が悪い文字だったせいで沢山の苦労をしないといけなかったからだ。

 

本当にその通りだと思うが、

「だからこそ良かったんだよ!」

「だからこそ、こんなに面白い言葉と出会えたんだよ!」

とも私は思うのだ。

 

高島氏はこうも言う。

「漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。」

「しかし日本語は、これなしにはやっていけないこともたしかである。

 腐れ縁である。」

 

漢字との腐れ縁に育てられ、

日本語は世界でもずば抜けてユニーク言葉になった。

 

人間は言語を使って考える生き物だ。

ユニークな言語を使うということは、

ユニークな考え方をするということでもある。

 

国境を越えた人と文化の移動が激しくなったこの時代、

ユニークさは、それだけで武器になると思うのだ。

 

日本語の個性を理解し、愛し、面白がってみよう!

機会があれば、海外の人にも伝えてみよう!

そうすれば、日本と世界のハッピーな関係が作れるだろう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

次回の記事をアップする頃には、新元号が発表になっている予定だ。

楽しみに待ちたい。

 

次回は日本語の未来にとって避けては通れない話題、

「英語」について取り上げようと思う。

 

 

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ゴッホは天国でお金持ちになれるのか? 美術の特殊な世界(3)

ピカソゴッホ

19世紀以降の芸術家として最も有名なのは、

ピカソゴッホの2人だろう。

 

前々回の記事で書いたように、

ピカソは持ち前のマーケティング能力をフルに発揮し、

大金持ちになると同時に、モテにモテた。

 

ゴッホは生前、たったの1枚しか絵が売れなかったと言われており、

ずっと貧乏に苦しみ、モテなかった。

 

あなたは、この2人の天才画家のうち、

どちらの絵が好きだろう?

どちらの人生に共感するだろう?

 

ゴッホの生涯

ゴッホが生まれたのは、ピカソの生まれるおよそ30年前。

1853年のことだった。

 

不器用なタイプで、すぐにキレれてしまう性格だったこともあり、

家族の中でも浮いた存在だったという。

 

会社勤めをしても、上司とうまくやっていけずクビになってしまう。

キリスト教の伝道師を目指すが、勉強についていけずに挫折する。

最終的には、画家を目指すようになった。

 

尊敬していた画家・ミレーの絵から学んだり、

当時の流行だった印象派からの影響を受けたりしながら、

少しずつ自分のスタイルを作り上げていった。

 

南フランスで過ごした時期には、

『ひまわり』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』など

彼の代表作となるような傑作を次々と生み出していく。

 

本当に素晴らしい作品ばかりだったが、絵は全く売れなかった。

彼の絵を売る仕事は、弟のテオが担当していたが、

テオ自身が兄の絵をそんなに評価していなかったようだ。

当時の売れ筋に合わせて

「もっと流行りの色を使ったらいいのに」とか言っていた。

内心で「イマイチ」と思っている商品を売れるセールスマンはいない。

 

(この弟に、ピカソマーケティング・センスの1%だけでもあれば・・!!

 「私の兄は天才です」と言い切ってしまえる図々しさがあれば・・!!)

 

絵が売れることはなく、ゴッホはずっと極貧生活を送ることになった。

弟からのわずかな仕送りは画材とモデル代に消えていく。

ろくなものを食べていなかったので、歯がボロボロと抜けていく。

生活費をケチって画家仲間のゴーギャンと同居したりもするが、

すぐにケンカ別れしてしまう。

ゴッホの精神は少しずつ追い詰められていく。

 

ゴッホは、女にもモテなかったと思われる。

少なくとも彼の残した手紙からは「モテ男の匂い」が全然漂ってこない。

逆に、女にフラれたエピソードは多く残っている。

20才のときに好きだった女が別の男と結婚してしまったり、

28才のときに7才年上の未亡人にプロポーズしたが、

ダメ。ゼッタイ。

覚せい剤防止のような言われようで拒否されたりしている。

一方で弟のテオは結婚し、かわいい男の子を授かっていた。

 

孤独に苦しめられたゴッホは、たびたび発作に襲われるようになる。

 

治療と発作を繰り返した挙句、

37才のときに自分を銃で撃って亡くなった。

 

これが最も有名な天才画家・ゴッホの生涯だ。

 

作品の評価

 彼の死後、テオの妻が熱心にマーケティング活動をしたかいあって、

作品の評価がグングンと高くなっていく。

 

彼の壮絶な人生を物語るエピソードの数々が紹介され、

ゴッホという人物自身がブランドとなっていった。

 

20世紀に入っても作品の価格は高騰し続け、

今や100億円を超える作品だってある。

あの貧乏だったゴッホの絵が!

 

値段の話はともかく

彼の残した作品は、掛け値なしに素晴らしい。

「絵に魂を込めた」という安っぽいフレーズも、

ゴッホの作品に関してだけは紛れもなく真実だ。

彼の絵を見ているとそう確信できる。

 

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ひまわり

 

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夜のカフェテリア

 

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ローヌ川の星月夜

 

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アルルの跳ね橋

 

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星月夜

 

孤独と貧乏に苦しむ男の魂の奥底には、

こんなにも激しく美しい世界が広がっていた。

 

私はゴッホのような人生を送るのはまっぴらだし、

彼のような破天荒な人とは友人になれなかったと思う。

でも、こんな目で世界を見ることができるのなら、

一瞬だけでもいいからゴッホになりたい。

彼のように、この世界から降り注ぐ光を全身全霊で浴びてみたい。

そう思わせてくれる作品だ。

 

著作権のどうどう巡り

私の大好きなゴッホについて語ったところで、

先週の話の続きをしよう。

 

文学、音楽、映画・・など様々なジャンルの著作物がある中で、

美術品だけは特別で「モノ重視」「所有権重視」

という考え方になっていることを解説した。

 

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このことを念頭に置きながら、

著作権制度について、そもそもの話をしよう。

 

今から数百年前、著作権というものが無かった時代では

小説家は自分が書いた作品の原稿を出版社に渡し、

その原稿の対価としてギャラをもらっていた。

 

面白い小説なら大人気になり、本は飛ぶように売れる。

出版社は儲かった。

 

しかし、小説家にお金が回ってくることはなかった。

出版社のお情けで、ちょっとしたボーナスぐらいは貰えたかもしれないが、

たかが知れていた。

 

小説家は不満だ。

自分が生み出した作品で、出版社だけが儲かっている。

この状態はおかしいんじゃないか?

 

小説家の中でも頭のいい人が、こんなことを言い出す。

「俺たちは原稿を渡すときにお金をもらっている。

 つまり払いきりのギャラだ。

 これじゃ、いつまでたっても俺たちは貧乏なままだ」

「そうだ!ちょっと違う考え方をしないか?

 作品がヒットしたとしても、

 作者の許可がないと本を印刷できないってことにしてしまおう。

 そうすれば、増刷のたびにギャラが稼げるんじゃないか?」

 

こうして、著作権という新しい権利が生まれ、

作者は印税という後々までお金を貰える手段を手に入れた。

 

つまり、原稿という「モノ」を売って単発的に稼ぐというやり方から、

著作物という「データ」を使って長期的に収入を得る方法へと

マネタイズの仕組みを転換したのだ。

 

このシステムは上手く機能した。

 

作品を世間に発表したとしても、最初は売れ行きが悪いこともある。

でも、少しずつ口コミが広がって作品の評価が上がり、

数年後にブレイクすることだってある。

(『君たちはどう生きるか』は80年後に大ブレイクした!)

そんな場合でも、本の増刷が作家のギャラに直結する仕組みになっているので、

作家はしっかりお金を確保できた。

著作権は作品の価値評価の「タイムラグ」を

うまく調整する機能を持っていたのだ。

 

こうなると作家たちも

「すぐには世間にウケなくてもいい。

 いずれは分かってもらえるはずだ。

 流行に左右されない本当に良い作品をつくろう!」

と自分の才能を信じて、より自由に作品をつくるようになっていく。

 

これが著作権だ。

文学の世界で上手くいったので、

音楽や映画など他のジャンルにも同じ制度が当てはめられるようになっていった。

もちろん、美術作品にも著作権が与えられた。

 

しかし、美術のジャンルには著作権の仕組みが上手くマッチしなかった。

小説なら、ヒットすればみんなが本を読みたがり

どんどん増刷され印税がガッポガッポと入ってくる。

絵画の場合では、評価が高くなっても

その絵の画集やポスターが爆発的に売れるということは起きづらい。

人々はあいかわらず美術品という「物体」に価値を感じており、

モノの所有権に基づいた商売をしている。

 

法律の方でも実情に合わせて、

著作権より所有権の方に配慮した内容になった。

・美術品を買った人は、作者の許可なく展覧会を開いてお金を稼げる。

 (著作権法45条)

・展覧会では、作者の許可なくその絵を掲載したパンフレットを

 作ることができる。

 (著作権法47条)

・その絵を売りたいときには、

 作者の許可なく作品の画像をネットに上げることができる。

 (著作権法47条の2)

著作権法は、美術品を完全に「特別扱い」している。

 

しかしそうなると、画家の方は不満だ。

絵の持ち主が何かしようとしても、画家の方で口出しできないのだ。

自分が売却した作品の価値が10年後にはね上がったとしても、

マネタイズできない。

法律が美術品を特別扱いしたせいで

作品の価値評価の「タイムラグ」を調整する機能が働かなくなってしまった。

 

ゴッホの例を見ても分かるように、

美術作品の価値は長い年月をかけることで、

はじめて人々に理解されるケースが多い。

画家たちは「法律で何とかしてよ!」と思うようになる・・。

 

何だか、同じ論点のまわりをグルグル回っているような気がしてくる。

 

美術は特別だ。

 ↓

だから特別扱いをした。

 ↓

そのせいで更なる特別扱いが必要だ。

 

完全にどうどう巡りの議論だ。

 

美術は著作権制度の中でも扱いにくい

「鬼っ子」のような存在になってしまった。

 

どうすれば良いだろう?

この問題を解決するアイディアはないものだろうか?

 

追及権

実は、とりあえずの解決策はすでに存在している。

「追及権」という権利だ。

 

追及権の考え方は割とシンプルで、

美術品が売れたらその金額の数%(例えば3%とか)を、

作家に還元しましょう。というものだ。

 

データではなくモノを対象にした商売にも権利が働くということにして、

著作権と所有権のギャップ」を少しでも埋めようという仕組みになっている。

 

「特別扱い」の上に更なる「特別扱い」を重ねる制度に

なってしまっているし、根本的な解決策ではないかもしれないが、

作家のモチベーションを保つためには、良い仕組みかもしれない。

 

100億円で売れたゴッホの絵の代金のほんの一部だけでも

天国にいるゴッホに届けることが出来れば、

「やっと絵で稼げた!」と

弟と手を取り合って大喜びするのではないだろうか?

もう一度やる気を起こして

素晴らしい天国の景色を描いてくれるのではないか?

 

この追及権、

ヨーロッパやアフリカ、オーストラリアなどでは導入が進んでいるが、

日本では採用されていない。

色んな反対論があるからだ。

 

国内で行われている美術品の取引の全てを把握するなんて

無理じゃないのか?

日本全体でいうと、貰うお金より支払うお金の方が多くなるんじゃないか?

絵の持ち主が作家への支払いから逃れるために、

追及権のない国で商売するようになるだけなんじゃないか?

などと言われている。

(追及権のせいで市場が縮むことはないという調査結果もあるが)

 

世界知的所有権機関WIPO)や日本政府内でも、

検討の議題には上がっているが、議論はあまり盛り上がっていない。

 

そして、当事者の美術家自身が、

作品という「モノ」を売ることばかりに忙しく、

追及権に興味がないように見える。

(日本美術著作権協会という団体が日本への導入を主張してはいるが、

 本気で切実に求めているようには見えない)

 

これが日本の追及権の現状だ。

 

美術家なら

もしあなたが美術家なら、追及権を勉強してみてはどうだろう。

今の状況なら、

ガッツリ勉強すれば短期間で「追及権の第一人者」になれると思う。

学者としての意見ではなく、

美術家ならではの視点で追及権について語れるようになろう。

追及権という「新たなアイディア」を世間に与える

ユニークなアーティストになろう。

今までにない切り口からの仕事も舞い込んでくるかもしれない。

挑戦してみてはどうだろうか。 

 

最後に

以上、3回にわたって美術について書いてきた。

著作権という立ち位置から美術の世界を眺めると、

なんとも特殊で奇怪なジャンルに思えて仕方がない。

 

・ 表現よりもアイディアで目立とうとする現代アートの存在。

・データよりモノを大切にする考え方。

・途方もない金額が動く美術品市場。

 

 著作権の目線で言えば、理解不能だ。

しかし理解不能だからこそ、

美術の世界には何とも言えない魔力があるのだ。

私もついつい引き込まれてしまう。 

 

今日もゴッホの絵を見つめながら、

不思議な魂の世界へ旅立ってみることにしよう。

 

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あなたもエコひいきしてませんか? ピカソ、バンクシー・・なぜ美術品だけが、あんなにも高額なのか 美術の特殊な世界(2)

以前の記事で「ダウンロード違法化」について解説していた。

 

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その後、法改正に向けて文化庁自民党の内部で

スッタモンダがあったようだが、最終的には見送られることになった。

ネット世論に配慮した安倍首相から、削除の指示が出たという報道もある。

 

●なぜ自民は了承したのか 首相の「鶴の一声」で違法DL項目削除へ

https://www.sankei.com/affairs/news/190308/afr1903080003-n1.html

 

●ダウンロード違法化法案、通常国会提出見送り 自民

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000027-asahi-pol

 

これでひとまずは安心だ。

(一方で、専門家のあいだでは評価の高かった

 「リーチサイト規制」に関する法改正も一緒に見送られてしまったが。)

 

私が著作権を勉強し始めた十数年前は、

著作権法は一部の業界の人しか気にかけない本当にマイナーな法律だった。

それが今や、総理大臣までもが気遣うようなメジャーな法律になってしまった。

著作権は国民全体の関心事になったのだ。

時代は変わるものである。

 

前回のタイトル

前回の記事のタイトルを

現代アートと芸術の歴史を5分で理解する」 としていたところ、

「5分じゃ読めないよ!」という声が聞こえてきた。

 

思った以上にじっくり読んでいただいるようで、有難いかぎりです。

「10分くらいで理解する」に修正させていただきました。

 

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今週も美術をテーマに考えよう。

 

なぜ美術品だけが、あんなにも高額なのか?

世界の美術品市場が活況だ。

今日も多くの作品が取引され、多額のマネーが流れ込んでいる。

 

●美術品市場にマネー流入、18年6%増の7.5兆円 世界のカネ余り映す

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42438150U9A310C1MM0000/

 

東京では、旬のアーティストであるバンクシーの作品(?)が発見され、

小池都知事を巻き込んで大騒ぎだ。

 

●都内で見つかったバンクシーらしき絵 小池都知事が対応を説明 「贈り物だと思います」「落書きを勧めているわけではない」

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1901/18/news107.html

 

なぜ騒ぐのか?

答えは決まっている。

本物なら物凄い値段がつくからだ。

 

でも、なぜだろう?

ニュースになるほど高値で取引されるのは、なぜいつも美術品なのだろう?

 

文化的に価値が高い作品は、美術品だけじゃない。

文学、音楽、映画、ゲーム・・・

色んなジャンルの文化作品がある。

しかし、文豪の直筆の原稿や、有名作曲家の直筆の楽譜がオークションに出て

「〇億円で売れた!」というニュースを耳にすることはない。

(ごくたまにあるかもしれないが、レアケース)

 

なぜ高額取引で話題になるのは美術品ばかりなのか?

みんな、美術品だけを「エコひいき」しているのではないか・・??

 

この理由を考えてみたい。

「たまたまそうなっただけ」という説(ネットワーク効果説)もあるが、

私はちゃんとした理屈があってそうなったと考えている。

 

著作物は手でさわれない

 ここに1人の音楽家がいるとする。

自分のコンサートの最中に気持ちが乗ってくる。

良いメロディーが頭に浮かび、アドリブで1曲演奏したとする。

当然、楽譜は無い。

この音楽に、形になったものはない。

演奏の瞬間に空中を漂っているだけだ。

しかし著作権は発生している。

アドリブであっても、著作物だからだ。

音楽の著作物は手でさわれない。

 

もう一方で1人の美術家がいたとする。

良い絵柄が頭に浮かび、その場で絵を描き上げてしまう。

作品が出来上がる。

この絵画には著作権が発生している。つまり著作物だ。

そしてこの絵には、紛れもなく形がある。

手でさわることができる。

 

こう書くと、

「著作物には2種類ある。

 手でさわれるものと、手でさわれないものに分類できる」

と思うかもしれない。

 

しかしそれは間違いだ。

全ての著作物は手でさわることができない。

 

「いやいや、絵はさわれるじゃないか!

 彫刻だってそうだ!形があるよ!」

と納得できない人も多いだろう。

 

でも本当だ。

 

絵を勝手に撮影したり、勝手にネットに流したりしたら、

著作権侵害になる。

この場合、犯人は絵という「物体そのもの」を

コピーしたり、アップロードしたりしているわけではない。

その絵に表現された「形や色などの構成」を写し取り送信しているのだ。

つまり、絵画というものに含まれる情報、今風に言うなら「データ」を

著作権で保護しているということになる。

 

音楽でも文学でも、全ての著作物について同じことが言える。

音楽の著作物は、楽譜やCDという物体ではない。

メロディーやリズムといったもので構成されたデータだ。

文学の著作物は、原稿や書籍という物体ではない。

文字という形式で表現されるデータだ。

 

全ての著作物は、データである。

手でさわることはできないものなのだ。

(そして著作権は、データをコントロールする権利と言い換えることも出来る)

 

そもそも、著作権とは人間が作ったルールにすぎない。

人の頭の中で勝手に作ったものであり、

物理的なモノに基づくものではないということだ。

 

ひらめきからファンの感動へ

著作物はさわれない。ということを前提に、

アーティストが作品をつくり、ファンへ届けるまでの流れを整理しよう。

 

大まかな順番でいうと、以下の4ステップになる。

 

1.アイディアがひらめく。

  ↓

2.具体的な表現に落とし込む。

  ↓

3.媒体を使って送り出す。

  ↓

4.ファンの心に届く。

 

ステップ1は、

アーティストの頭の中にインスピレーションがやってくる瞬間だ。

「欲張りな金貸しをトンチでやっつければ面白い脚本ができる!」

「ジャジャジャジャーンという音を繰り返して交響曲をつくろう!」

「女性の顔を複数の角度から描けば、みんな驚く!」

こうして作品の元になるアイディアが生まれる。

 

ステップ2で、アーティストは具体的な表現活動をしていく。

ウンウンとうなりながら、原稿や楽譜を書いたり、筆をふるったりする。

こうして作品が完成する。

 

そしてステップ3だ。

作品を何らかの方法でファンに届ける必要がある。

脚本を俳優に演じてもらったり、

楽譜を楽団に演奏してもらったりしなければ、ファンには伝わらない。

 

最後のステップ4で、

ようやくファンが作品を受け止め、味わい、解釈し、感動することができる。

 

こうして、アーティストの思いがファンの心に届く。

 

本当に価値があるのは、ステップ1のアイディアなのだろう。

アーティストの頭に浮かんだものを

そのままファンのハートに送ることができれば、

つまりステップ1からステップ4にダイレクトにデータを送信できれば、

それが一番いいのかもしれない。

しかし人間はスマホでなないし、テレパシー能力も持っていない。

どうしてもステップを順番に踏んでいく必要がある。

 

美術品の特殊性1:ダイレクト性

先週の記事でスポットを当てたのは、

ステップ1とステップ2の部分だ。

ステップ1で生まれたアイディアを保護しないでいいのか?

ステップ2の具体的表現を守るだけでいいのか?

ということをテーマにした。

 

今回注目するべきなのは、ステップ2、3、4の部分だ。

 

ステップ2から4へ行くにあたって、

脚本や音楽はどうしてもステップ3を必要とした。

 

しかし美術は違う。

絵の鑑賞方法は、だた「見る」ことだ。

作品をそのまま見れば、ダイレクトに心に届く。感動できる。

つまり、ステップ3をすっ飛ばせる。

ここが、美術品が他のジャンルと圧倒的に違う点だ。

 

我々人間は単純なので、

感動させてくれた目の前のものを「すごい!」と思う。

 

舞台劇やコンサートの場合、役者や歌手に人気が集まるのは、

彼らがファンに直接感動を届ける担い手になったからだ。

(もちろん、役者や歌手自身も十分に素晴らしいのだが。)

舞台で彼らが拍手喝采をあび、サインをせがまれている一方で、

作品を生み出した脚本家や作詞・作曲家は舞台袖で地味にたたずんでいる。

 

美術作品の場合、そんなことは起こらない。

ピカソが代表作の『アヴィニョンの娘たち』を展示したとき、

ギャラリーのオーナーが拍手喝采を受けたりはしなかった。

スーパースターのピカソと、そして何より作品そのものが絶賛されたのだ。

 

作品の良さがダイレクトに分かる。これが美術品の特徴だ。

 

美術品の特殊性2:モノ性

美術品の値段を高くするもう一つの要素が、

作品がモノ、物理的な物体である(ことが多い)ということだ。

 

今や多くの作家や作曲家は、パソコン上で創作している。

できあがる作品は、最初からデータの姿をしている。

 

しかしほとんどの美術家は、

いまだに絵の具を塗ったり、粘土をこねたり、部材を組み合わせたりして

作品をつくっている。

出来上がる作品は、モノだ。(データでもあるが。)

 

美術作品は形や色で表現されるものだ。

文学や音楽と比べて、モノとの「距離感」が近い。

また、何枚も同じものを作る写真などと違い、

美術作品は基本的に「一品もの」だ。

「美術作品は物体である」という考えが、人々のあいだで常識となりやすい。

この常識が「勘違い」を生み出すのだ。

 

ピカソの展覧会で、ファンが絶賛すべきだったのは、

作品の中に表現された構図や色彩というデータだった。

ファンが感動できたのは、絵に素晴らしいデータが詰まっていたからだ。

しかし、人々は勘違いする。

自分を感動させたのは『アヴィニョンの娘たち』というモノなのだ!

このモノこそが凄いんだ!と思ってしまう。

こうして、キャンバスに絵の具を塗りつけた物体の値段が跳ね上がることになる。

 

もし、ピカソの時代にIT技術が発達していて、

展覧会をLEDのスクリーンで行っていたらどうなっていただろう?

「勘違い」が起きづらくなる。

あの絵の価格は、今よりずっと低く据え置かれたに違いない。

 

データとモノの距離感が近い。これが美術品のもう一つの特徴だ。

 

美術品だけが高い理由:まとめ

ここまでの話をまとめよう。

 

・全ての作品の本質はデータだ。

・アーティストの脳内で生まれたデータをファンの脳内に届けるためには、

 いくつかのステップを経由しないといけない。

・美術品はそのステップの一つをショートカットし、

 直接ファンに届く。

・ファンは価値のある場所を、データではなく物体だと勘違いしてしまう。

 

こんなことが起きるのは、今のところ美術品だけだ。

だからこそ、美術品だけが「エコひいき」され、

値段がやたらと高いのだ。

 

イルカの原画を買うべきか?

もしあなたが、海で泳ぐイルカの絵を部屋に飾りたいと思っているなら、

高いお金を払って「原画」を買う必要はない。

そんなことは、勘違いした人のすることだ。

 

精細なコピー(海賊版ではないもの)を買って堂々と飾ろう。

 本当に絵が好きな人にとっての絵の価値は、

「モノ」の部分にはないのだから。

 

あなたが「投資対象」として原画を買うのなら、それでも良い。

その場合は、人々が勘違いから目を覚ます前に

高値で売り抜けて儲けてしまおう。

 

もしあなたがクリエイターで、

これから新しい作品を生み出すのなら、一工夫できるかもしれない。

それがどんなものであれ、「原作品」というモノを作ってしまうのだ。

出来あがったデータに何らかの物理的なものを付加して

「これこそが原作品です」と主張しよう。

(作曲の時に使った楽器と楽譜の組み合わせや、

 ゲーム開発時の特殊なキーボードと1本目のプログラムのコピーなど?

 適切な具体例を示せなくて申し訳ないが、もっと良い案があると思う)

この考え方を頭の片隅に置いておこう。

ピカソを見習い正しくマーケティングできれば、

新たな価値が生まれるかもしれない。

上手くいけば、データとモノの両方を売ることだって可能になるだろう。

 

著作権的には

著作物とは、突き詰めると「データ」だ。

「モノ」にではなく、データの方に価値の本質がある。

 

しかし美術の著作物だけは、

例外的にデータではなくモノの方に価値が偏っているのが現実だ。

 

モナリザ』のデータを元にして

本物と全く同じ絵を再現して展覧会を開いたとしても、

誰も見に来てくれないだろうが、

本物が来日すれば、日本中から「一目見よう」とお客さんがやってくる。

 

絵画という「モノ」でお金を稼ぐという構造になっているのだ。

 

もし私がピカソから

「『アヴィニョンの娘たち』の所有権と著作権、どっちが欲しい?」

と聞かれれば、

「所有権!」と即答する。

つまりデータよりモノが欲しい。

そっちの方が稼げるからだ。

(オークションに出してもいいし、展覧会で世界を回ってもいい)

 

東野圭吾に同じことを聞かれたら

「あなたの手書きの原稿なんか要りません!

 それより、作品の著作権を譲ってください!」

と答えるべきなのとは対照的だ。

 

そのあたりは著作権法をつくった人もよく分かっていて、

美術の著作物には特別な決まりがある。

 

美術作品の展覧会を開いてお金を稼ぐ権利は、

絵を描いた人ではなく、

その絵を買った人にあるということになっている。

つまり、著作権よりも所有権の方を優先させているのだ。

(「著作権法」なのに・・!)

 

(※厳密な説明をすると以下のようなことになるが、あまり気にしなくて良い。

 美術の著作物の展示権は原作品にのみ働き著作権者が専有するが、

 原作品の所有者またはその同意を得た者が展示する場合は権利が制限される

 

その作品を手に入れるのにウン億円も使ったんだから、

展覧会を開いてその資金を回収することぐらいは許してあげましょう。

という考え方になっている。

厳しいというイメージのある著作権法だが、なかなか柔軟だ。

 

美術品だけを「エコひいき」していたのは、我々だけではなかった。

法律も美術品だけを特別扱い、ある意味「エコひいき」しているのだ。

 

次回

美術品だけは特別で、「モノ重視」「所有権重視」

という考え方になっていることは分かった。

 

それでは、もしも画家が自分の作品を売った後に

(つまり所有権を手放した後に)

作品の評価が上がり、値段が何百倍にもなったらどうだろう?

画家はどうすることも出来ないのか・・・?

 

といったことを、これから考えよう。

 

今週の記事で書いてしまうつもりだったが、

このままいくと「10分じゃ読めないよ!」と言われてしまいそうだ。

次週に回したい。

 

 

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金魚を電話ボックスに入れちゃダメ! 現代アートと芸術の歴史を10分くらいで理解する 美術の特殊な世界(1)

金魚電話ボックス事件

現代アートの作家・山本伸樹氏が、奈良県の商店街を訴えた。

「自分のアートをパクられた!」という主張をしているのだ。

 

●「金魚電話ボックス」巡り提訴 金魚の街、奈良・大和郡山の商店街に「著作権侵害」と美術家

https://www.sankei.com/west/news/180919/wst1809190028-n1.html

 

金魚の名産地として有名な奈良県大和郡山市の商店街が

注目を集めるために、あるオブジェを設置していた。

そのオブジェというのが、電話ボックスの内部に水をため、

その中に金魚を泳がせている。というものだった。

 

商店街の狙いはバッチリ的中し、

インスタ映え」する写真を求める人々が全国からやってきた。

商店街はにぎわった。

 

しかし、山本伸樹氏はこれが気に食わなかった。

商店街が企画するずっと前から、

電話ボックスに金魚を入れ自分の「芸術作品」として発表していたのだ。

それなのに、商店街のオブジェの方が有名になってしまった。

 

「パクられた!」と思った山本氏は商店街に以下のことを要求した。

 

・金魚電話ボックスが山本伸樹の著作物であることを認める。

・オリジナル作品である(山本氏による)緑の電話機への付替えを認める。

(お金は要求しない)

 

しかし商店街はこれに応えなかった。

トラブルを避けるために

オブジェをさっさと撤去してしまうことを選んだ。

 

こうなると、山本氏の方は振り上げた拳の落としどころに困ってしまう。

もともとはお金目的ではなかったが、

330万円の損害賠償を請求するために裁判所に訴えることにした。

これに対し、商店街側は争う姿勢を見せているという。

 

これが事件の概要だ。

 

これを見て、あなたはどう感じるだろう?

 

著作権的に考えると・・

このブログの読者なら、以下のように指摘するだろう。

 

「電話ボックスに水を入れて金魚を泳がせるなんて、

 ただの「アイディア」じゃないか。

 単なるアイディアは著作権で保護されない。

 山本氏の訴えは、的外れだ!」

 

この意見は正しい。

以前の記事で解説した通り、著作権制度の根っこには以下のような考え方がある。

 

「アイディアはみんなで共有すべきもの。

 でも、具体的な表現は、その表現を生み出した作者のもの」

 

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素晴らしいアイディアは、みんなで共有しよう。

その方がみんなが豊かになれる。

でも、越えてはいけない一線がある。

作家が苦労して生み出した「具体的な表現」までパクるのはやりすぎだ。

具体的な表現は著作権で守ろう。

こういう考え方が著作権のベースにはある。

 

これを電話ボックスに当てはめれば、答えは明らかだ。

電話ボックスに金魚を入れるのは、ただのアイディアにすぎない。

こんなものに著作権を認めてしまえば、

「金魚を電話ボックスに入れちゃダメ!」ということになる。

誰もアートとして電話ボックスに金魚を持ち込めなくなってしまう。

こんな結論は、不当だ。

アイディアが同じだからといって、著作権侵害にはならない。

 

実際の裁判がどういう展開になるかは分からないが、

山本氏が圧倒的に不利なのは間違いない。

(最近の裁判所に何でもかんでも「著作物だ」と認めたがる傾向があるのは、

 以前の記事で書いた通りだ。

 だから、部分的には山本氏の主張が認められる可能性はある)

 

著作権的には、これで一件落着だ。

「やれやれ。またやっかいな人が出てきたよ。

 単なるアイディアなのに、著作権を主張するなんて。

 困ったもんだ」

ということになる。

 

でも、本当にそれだけで片づけて良いのだろうか?

山本氏の主張には、何らかの意味があるのではないか?

もっと奥深い問いかけが含まれているのではないか?

 

10分くらいで理解する美術史

山本氏の主張の本当の意味を理解するためには、

「芸術」というものの歴史を理解する必要がある。

 

少し遠回りになるが、西洋の美術史を簡単に振り返ったうえで、

もう一度、電話ボックスに戻ってくることにしよう。

 

理解するのは、西洋の美術史だけで十分だ。

日本の美術史、中国の美術史、アボリジニの美術史などを振り返る必要はない。

山本氏の属する「現代アート」は、

ほとんどが西洋美術の歩みから生まれたものだからだ。

 

現代に至るアートの大まかな流れを理解したければ、

分厚い本を開く必要はない。

以下の3点だけを把握すれば良い。

 

・「人間至上主義」の発展

・資本主義の成長

・カメラの発明

 

順番に見ていこう。 

 

「人間至上主義」の発展

今から1000年ぐらい前、つまり「中世」と呼ばれる時代は、

神様が中心の時代だった。

 

教会の教えが世界に意味を与えていた。

「神様の命令が聖書に書いてあります。

 だから人間はそれに従って行動すべきです」

 

ローマ教皇キリスト教徒にこう言った。

「中東に行って、イスラム教徒を殺してきなさい。

 神様がそう望んでおられるのです!」

こうして十字軍が結成され、たくさんの人間の血が流された。

 

こんな時代には、芸術家も教会の言う通りに絵を描いた。

神様や、キリストや、天使の絵ばかり描いていた。

上手く絵が描けたとしても、それは画家のおかげではなかった。

神様が画家に「インスピレーション」を与え、神様が描かせたものだからだ。

手柄は画家から取り上げられ、神様のものになった。

だから芸術家は大して稼げず、モテなかった。

やる気を失った彼らは、

死んだ魚の目をした魅力のない神様や聖人を描くことしか出来なかった。

 

しだいに教会の支配にウンザリした人が増え始める。

そんなとき、十字軍に参加していた人が帰ってきて

イスラム世界で保存されていた古代ギリシャ古代ローマの文化を紹介する。

これを1つのきっかけにして人々が気付きだす。

大昔の文化は素晴らしかった!

大昔の作品は躍動感がある!

神様だけじゃなく、人間自身を題材にして、自由に創作している!

この方向で行こう!!

 

これが「ルネッサンス」だ。

レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロのような天才が、

生き生きとした本当の人間の姿を描くようになっていく。

 

この流れはヨーロッパ中に広まった。

少しずつ神様の地位が下がっていく。

そのかわりに「人間こそが尊いのだ!」ということになっていく。

 

「人間至上主義」が生まれ、世界中に広がっていく。

 

フランス革命の闘士は

「神から与えられた使命、神の前の平等、神の愛」を重視しなかった。

彼らが唱えたのは「自由、平等、友愛」つまり

「人間の自由、人間の平等、人間同士の愛」という

人間中心のスローガンだ。

そして、神様から権力を与えられている王様の首を

ギロチンでちょんぎってしまった。

 

哲学者のニーチェが「神は死んだ」と言えば、

政治家のリンカーンは「人民の人民による人民のための政治」と言い出す。

 

神は必要ない。

大切なのは人間だ。

価値観はガラリと変わった。

 

「人間至上主義」についてもっと知りたければ、

ベストセラーとなった『ホモ・デウス』を読めばよい。

人間が神の座を奪い取っていく様子がよく分かる。

 

 

人間至上主義は、芸術のコンセプトにも影響を与える。

人間である画家が世界をどう見て、どう表現したか?が大切になってくる。

こうして「印象主義」のような、

画家独自の目線を全面に押し出した作品が生まれ始める。

画家の人間としての個性が重視されるようになる。

 

絵が評価されたとしても、昔のように神様に手柄を奪われることもない。

その絵は、画家自身の魂から生み出されたものだからだ。

芸術家が正当に評価される時代がやってきた。

「もっと評判になる絵を描こう!」と画家はがぜんやる気になる。

「野獣派」「キュービズム」のような、

新しい絵画が勢いよく生み出されるようになった。

 

資本主義の成長

人間至上主義と歩調をあわせて、「資本主義」も生まれた。

 

人間にこそ価値がある!という考えが広まれば、それはつまり

「人間が価値があると感じるものに本当の価値がある」

ということになる。

 

もう神様に価値を判断してもらう必要はない。

人間こそが基準なのだ。

 

この考えを押し進めれば

「多くの人が価値があると感じるものに、より多くの価値がある」

という概念が生まれる。

 

これにより「株式会社の株」にも間違いなく価値があるということになった。

だって、みんなが「あの株はいい」と言ってるんだから。

 

株式、債券、不動産・・・

人間への信頼が高まるにつれ、

みんなの評判が良いものを安心して買えるようになっていく。

お金がどんどん回りだす。

 

人間が人間を信頼する。

これが資本主義の本質だ。

 

絵画のような美術品も同じだ。

人間に価値があるので、その絵をみた人間の評価が価値の基準になる。

そして、多くの人の評価を集める絵は価値が高いに違いない。

美術作品は投資対象になった。

 

こうして、美術市場にも大量のマネーが流れ込む。

評判を集めた絵の値段が、爆発的に跳ね上がるようになる。

 

カメラの発明

次に美術界に大きな影響を与えたのが、カメラの発明だ。

 

昔は「リアルに描く」ということが大事だった。

 

自分のかっこいい姿、美しい姿を残したい人は、

絵の上手い画家に肖像画を描かせた。

画家も依頼者に気を使って、多少は美男美女にみえるように描いただろうが、

それでも大切なのは「本物のように見える」ことだった。

 

殺風景な部屋に飽きた貴族は、画家に美しい風景画を描かせ部屋にかざった。

「窓の外に本当にステキな景色が広がっている!」と思えるような

写実的な絵が評価されていた。

 

画家にとっては、本物のようにリアル描くという「技術」が大切だったのだ。

 

しかし、カメラの登場によって全てが変わってしまう。

 

カメラの性能が向上するにつれ、画家はリアルさでは勝てなくなっていく。

人々は肖像写真を撮り、部屋には写真のポスターを貼るようになる。

画家だけのものだった技術が、機械に置き換えられていく。

当時の画家たちの焦りは、

「AIに仕事を奪われる!」と騒いでいる現代人よりも

はるかに切羽詰まったものだっただろう。

 

拠り所を失いかけた彼らが見つけた突破口が、人間至上主義だった。

人間に価値がある!

大事なのは小手先の技術じゃない!

画家の魂から生み出されたものが大切だ!

画家の魂が世界をどう見ているか。それをどう表現したかが重要なのだ!!

 

こうして画家たちは、「腕前」ではなく「頭と心」で絵を描くようになる。

できるだけ写真とは違うフィールドで勝負するようになっていく。

技術に頼らず、魂の奥底から絵を生み出すようになっていく。

何を書いているのか分からない抽象的な絵が描かれるようになったのは、

こういう訳だ。

 

ピカソの登場

・「人間至上主義」の発展

・資本主義の成長

・カメラの発明

この3つの動きが、美術界を揺るがしていた。

 

でも、個々の画家たちは歴史の大きな流れの全体像を分かっていたわけではない。

目の前の状況に対応していただけだ。

「〇〇主義」が流行ればその流行にとびつき、

絵がたまたま高く売れれば喜び、

周りに合わせて芸術論を語っていた。

 

そんな20世紀の初頭に、

美術界の巨大な変化の全てを完璧に理解していた男が1人だけいた。

 

パブロ・ピカソだ。

言わずとれ知れた20世紀最大の芸術家である。

 

 

ピカソは子どもの頃から素晴らしく絵が上手かった。

父親も画家だったが、息子の描く絵に勝てないと感じ、

自分で描くのを諦めてしまったという逸話があるくらいだ。

 

しかし、そんな彼が描く絵は「上手な絵」ではなかった。

もともとはリアルに描く腕前を持っていたのに、その技術を封印した。

そして、ガタガタに歪んだ女性の顔を描いた。

めちゃくちゃに「ヘタな絵」だった。

ピカソは「元祖・ヘタうま」だ!)

多くの批評家は、ピカソの絵の良さが分からなかった。

 

ピカソはマスコミを巧みに利用し、

ピカソという偉大な人間の魂が個性的に表現されている」

というメッセージを送り続けた。

「私は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」

「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」

などの「名言」(つまりキャッチコピー)を言い続けた。

 

そのうち「ピカソの絵、凄いかも」と思う人が増えていく。

評価が上がっていく。

批評家も空気を読んで絶賛するようになる。

「みんなが良いと思うものには価値がある」の法則にしたがい、

彼の作品の値段が一気に上昇する。

資本主義のビッグウェーブに乗ったピカソは、大金持ちになる。

 

たまにピカソは作風をガラリと変える。

これは、人気のあるブランドがリニューアルするようなものだ。

彼の絵は、また話題になり、また注目される。

ピカソ自身がブランド化していく。

 

彼は、スーパースターになった。

妻以外にも複数の愛人を持つようになった。

 

以前のブログで「ピカソは史上最高のマーケターだ」と書いたことがあるが、

こういうわけだ。

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世の中の流れを読み、これまでになかった視点を世間に届け、

それを信じ込ませ、大儲けする。

これこそ、理想的なマーケティングの姿でないか!

 

20世紀の芸術

ピカソによって「新しい時代の芸術家像」が示された。

後に続く者たちは、彼からの教訓を正確に理解した。

つまり、こういうことだ。

 

「とにかく目立てば、儲かる。モテる。」

 

20世紀の芸術が幕を開けた。

それは、「目立った者勝ち」の競争となった。

 

サルバドール・ダリは、クリンと巻いた口ひげとギョロリと見開いた目で、

グニャリととろけた時計を描いた。

 

ジャクソン・ポロックは、キャンバスに塗料をぶちまけただけの、

誰にも理解不能なグチャグチャな物体を自分の芸術だと言い張った。

 

世間をアッと言わせた者は、批評家に認められた。

 

この流れに乗って、人より早く行き着く所まで行っちゃったのが、

マルセル・デュシャンだ。

彼の代表作の一つに「泉」という作品がある。

彼は、ただの男性用小便器に「泉」というタイトルを付け、

美術展に展示した。

本人にしてみれば、ただの冗談だったらしいが、

これを見た批評家がうっかり感心してしまった。

「1人の人間の魂がこれを美しいと感じたのだ!

 それなら、価値があるのかもしれない!」

「この作品は、美術というものに対して我々が持っている固定観念

 揺り動かしてくれる!素晴らしい!」

 

これをきっかけに、芸術は「何でもアリ」になった。

もはや、何かの作品を作り上げる必要すらない。

とにかくアイディア勝負だ。

新しいことをやって、世間を驚かせたり、感心させたりすれば良い。

 

スープの缶詰を並べただけの絵を「アートだ!」と言う男が現れた。

アンディ・ウォーホル

 

大きな建物をスッポリと布でくるんで見る人をビックリさせる芸術家が現れた。

(クリスト&ジャンヌ=クロード)

 

自分のウ〇コを缶詰に入れてアートとして売り出す奴まで現れた。

(ピエロ・マンゾーニ)

ちなみに、それを高額で買う人もいた。

 

もはや「やったもん勝ち」だ。

芸術は「社会を舞台にした壮大な大喜利大会」になった。

上手いウン・・ではなく、トンチをひねり出せば良い。

そうすれば、圓楽師匠や歌丸師匠が

「うまい!ざぶとん1枚!」と言ってくれるかわりに、

サザビーズのオークションで「欲しい!200万ドル!」と言ってもらえる。

 

これが現代アートの現状なのだ。

 

現代アート著作権

以上、中世から現代アートに至るまでの道のりを、駆け足で振り返った。

 

芸術家たちは神を乗り越え、人間を信じ、

人間の奥底から生まれたアイディアに価値があることを見出した。

 

世間の注目を集め、

今まで誰も思いつかなかったような新しい世界の見方(アイディア)を

提示することにこそ、価値がある。

というのが、現代アートの一般的な考え方だ。

 

つまり、大切なのは「具体的な表現」ではなく「アイディア」である。

ということだ。

 

しかし、この考え方は著作権とは相性が悪い。

悪すぎる。

先に述べたとおり、「アイディアはみんなのもの」なのだ。

著作権現代アートを保護することは難しい。

 

山本氏の行動

こうして考えると、

山本伸樹氏が金魚電話ボックスに著作権を主張していることに対して、

少し違う見方ができるようになる。

 

山本氏は現代アートの作家として、

我々が持っている「著作権固定観念」を揺り動かそうとしているのかもしれない。

 

山本氏の訴訟は、その行動自体がアートだ。

「本当に表現の保護だけでいいの?

 アイディアは保護しなくていいの?

 もっと違う考え方もできるんじゃないの?」

と問いかけてくる、一種のパフォーマンス・アートになっている。

 

山本氏自身がそこまで考えて行動しているかどうかは知らないが、

結果的に、私に著作権を考え直す視点を与えてくれた。

 

無数の芸術家たちが何百年もかけてたどり着いた

「アイディアこそ大切」という結論。

著作権では守れませんから」と言って

あっさり切り捨ててしまって良いのだろうか・・?

 

著作権という思想も

「人間が生み出したものは尊いから守ろう!」

という考え方をしている点では同じだ。

著作権現代アートも、

人間至上主義という同じ親から生まれた兄弟なんじゃないか?

なぜアイディアだけが、不当に低く扱われないといけないのか・・?

 

山本氏は裁判でどんな主張を繰り広げてくれるのだろう?

芸術家らしく、目新しく、奇想天外なアイディアを、

ぶちかましてくれるのではないか?

注目したい。

 

「アイディアではなく具体的な表現を侵害されており・・」などと、

普通の弁護士が言いそうなことを主張するのは、くれぐれもやめてほしい。

 

山本氏が新しい価値観を提示することに成功すれば、

裁判では負けるだろうが、アーティストとしての名声が得られる。

つまり、目立った者勝ちだ。

賠償金の330万円をはるかに超える利益を得ることもできるだろう。

 

山本氏には、皮肉ではなく本気で期待している。

 

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次回は、もう少し美術と著作権の関係について語りたいと思う。

私の好きなゴッホも登場する。

 

 

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