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スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ 日米2大ヒーローの対決に完全決着!(2)

今回は、ルフィがスパイダーマンンに勝てない理由の

2つ目を説明したい。

 

マーベル映画の勢い

マーベル社のコミックを原作としたハリウッド映画の勢いが止まらない。

『アイアンマン』、『キャプテン・アメリカ』、

マイティ・ソー』、『インクレディブル・ハルク』・・・

次々と実写映画化され、ヒットを飛ばしている。

 

そして、彼らコミック・ヒーローが集結し、

莫大な製作費を注ぎ込んで作られた

超巨大作『アベンジャーズ』シリーズ。

このシリーズも大ヒットとなった。

マーベル映画は、単発で終わりがちだったアメコミ実写映画を

別次元に引き上げつつある。

 

一連のマーベル映画のプロデューサーを務めたケヴィン・ファイギ氏は、

プロデュース作品の全米累計興行収入が、

スティーヴン・スピルバーグ氏を抜いて歴代1位となってしまった。

あのスピルバーグを超えてしまうなんて、とんでもないことだ。

 

来年はシリーズの総まとめとなる

アベンジャーズ/エンドゲーム』の公開が予定されているし、

アベンジャーズ』以外のマーベル映画の企画も着々と進んでいる。

マーベル・キャラクターの勢いは止まりそうにない。

 

一方で、マンガ大国・日本の現状はどうか?

 

人気ヒーローの数、魅力では全く負けていない。

集英社の「週間少年ジャンプ」出身のキャラだけでも、

ドラゴンボール』の孫悟空

ONE PIECE』のルフィ、

北斗の拳』のケンシロウ

聖闘士星矢』の星矢、

ジョジョの奇妙な冒険』のジョジョ

NARUTO -ナルト-』のナルト・・・

挙げだしたらキリがないほど沢山の素晴らしいヒーロー達が活躍し、

輝かしい歴史を刻んできた。

 

実写映画化の例も多く、最近では

銀魂』(主演:小栗旬)、『BLEACH』(主演:福士蒼汰)などの作品が

制作・公開されている。

 

では、日本のコミックヒーローも、

マーベル映画のように次々とヒットを重ねることができるだろうか?

アベンジャーズ』のように映画の歴史を変えてしまうようなシリーズを

作ることができるだろうか?

 

このままでは、できない。

 

日本映画とハリウッド映画のCG技術の差や、

資金力の差を言っているのではない。

魅力あふれるコンテンツなら、海を越え、

ハリウッド映画として制作されることだってある。

2009年公開の『DRAGONBALL EVOLUTION』や、

今後ハリウッドで制作される『進撃の巨人』のように。

 

今回は、

制作体制の差ではなく、ヒーローそのものの差について分析したい。

 

日本のコミックヒーローは、ある❝限界❞を背負っているのだ。

 

見れば分かる。

アメリカと日本のヒーローの差。

その答えは簡単だ。

見れば分かる。

 

これが、マーベル社のヒーローたち。

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マーベル公式HPより ©MARVEL

 

そしてこれが、「週間少年ジャンプ」のヒーローたち。

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週刊少年ジャンプ50周年ゲーム「ジャンプチヒーローズ」公式HPより

 

どこが違うのか? 

 

そうだ。

アメリカのヒーローの大半がマスクで素顔を隠しているのに対して、

日本のヒーローは、ほとんどが素顔なのだ。

 

マスクと素顔。

 

この極めて単純な違いが、長期的には大きな差となって表れてくる。

 

素顔のヒーローにマスクをかぶせることで

さまざまな効果が生まれるのだが、

大きなメリットとしては、3つある。

 

 メリット1:描きやすい

マスクヒーローの方が、描きやすい。

上手く描ける。

 

論より証拠だ。

 

筆者の描いたスパイダーマンを見てほしい。

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次は、ルフィだ。

 

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 どっちが本物に似ているだろうか?

どっちがヘタに見えるだろうか?

(念のため申し上げると、どちらの絵も真剣に描いている)

 

我々の脳は、人間の顔の表情に敏感だ。

微妙な違いでもすぐに気づいてしまう。

 

かなりの訓練をつまないと、

尾田栄一郎氏が長年描いてきたルフィそっくりに見える顔を

描くことはできない。

 

一方でスパイダーマンの顔は、人間の顔とは全然違う。

目の形、顔の模様を再現するだけで、

誰にでも「スパイダーマンだ」と分かる程度には似せて描くことができてしまう。

子供にだって簡単に描ける。

 

この違いは、ファンを増やすうえで、長期的には大きな差となる。

自分が描いたキャラクターを「上手に描けたね!」と褒められた体験が、

その子のキャラクターへの愛を育むことになるだろう。

絵に自信のないアマチュア

人気コミックのパロディなど二次創作作品を発表するときも、

マスクキャラの方が扱いやすい。

そんなクリエイターの卵たちが、いずれはプロとなり、

子供のころから親しんだキャラクターを思う存分に描くようになる。

 

「誰でも描きやすい」という特徴は、

前回の記事で説明したアメコミの「分業体制」という特徴とも、

ぴったりとマッチする。

経験の浅いクリエイターでも、ある程度のレベルのスパイダーマンは描けるのだ。

これにより、多くのクリエイターが組織的に作品を生み出せるようになり、

キャラクターの強さが安定し、いつまでも「元気」でいられるということは、

前回書いたとおりだ。

 

メリット2:実写化しやすい

マスクヒーローは、素顔のヒーローに比べて

実写の映画にしやすい。

 

実写化はマンガキャラクターにとって非常に大切だ。

今までとは違う媒体で表現されることで、

新たなファンを獲得できる。

それに、キャラクターのイメージをリフレッシュして

作品の寿命を延ばすことだってできる。

 

しかし、実写化は簡単ではない。

マンガのキャラを実写化するときに大きな障害となるのが、

「マンガだと格好よかったのに、

 実写にすると何だかヘンテコリンになってしまう」

という問題だ。

筆者はこれを「テコリンの壁」と呼んでいる。

この壁を越えるのは、なかなか難しい。

 

 スーパーマンは、マンガの中だと華やかなコスチュームに身を包んだ

宇宙からやってきたスーパーヒーローだが、

実写化したとたんに、現実感が出てしまう。

青い全身タイツ着て赤いパンツをはいた

「変なおじさん」になってしまうのだ。

だって、顔が人間のおじさんなんだから。

 

ルパン三世』の実写映画では、

セクシーキャラの峰不二子黒木メイサ氏が演じた。

でも、どうしても彼女が峰不二子には見えなかった。

「なんで黒木メイサが「ルパン♡」なんて言っちゃってるの?」

という気持ちになってしまう。

想像上のキャラクターを生身の人間が演じるのは難しい。

我々がすでに持っている役者のイメージと、

キャラクターのイメージが頭の中でケンカしてしまうのだ。

そのせいで、ヘンテコリンな感覚が生まれてしまう。

 

テコリンの壁は高い。

 

しかし、マスクがあれば、この壁がかなり低くなる。

 

マーベル映画快進撃の出発点となった映画『アイアンマン』(2008年)で、

主役のアイアンマンを演じたのは、

個性派俳優ロバート・ダウニー・ジュニア氏だ。

ロバート氏は私生活で薬物問題を起こしたこともあり、

イメージの悪い存在だった。

『アイアンマン』の主演が発表されたとき、

「え!?あのロバートがスーパーヒーローに!?

 無茶でしょ!?」

と多くの人が感じていた。

 

しかし、アイアンマンとロバートは、そんな不安を吹き飛ばした。

ロバートがスクリーン上でアイアンマンのマスクを装着したとき、

紛れもなく、「本物のアイマンマン」がそこにいたのだ。

 

ロバート氏の素晴らしい演技が、映像に説得力を与えたのは間違いない。

しかし、マスクの効果も極めて大きい。

ロバート氏の顔をマスクで隠す。

そうなると、見た目がアイアンマンなのだから、

有無を言わさずアイアンマンなのだ。

これ以上に説得力のあるものはない。

 

ロバートが・・

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映画『アイアンマン』より

 

マスクを装着すると・・

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映画『アイアンマン』より

 

アイアンマンの出来上がり。

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映画『アイアンマン』より

 

「あ、この人がアイアンマンなんだ!」と、誰の頭にもスッと入ってくる。

 

人間の顔を隠し現実感をなくしつつ、役者のイメージも消すことで、

違和感が、かなり減るのだ。

 

メリット3:役者個人とヒモづけずに済む

3つ目のメリットも重要だ。

マスクを付けることで役者個人の影響を受けずに済むようになるのだ。

 

先に述べたように、素顔のキャラクターを実写にする場合、

立ちはだかるテコリンの壁は高い。

この壁を、役者の本格的な役作りと見事な演出で乗り越えることに成功し、

映画が大ヒットしたとしよう。

 

こうなると、新たな問題が生まれる。

「その役者こそが、そのキャラクター」になってしまうのだ。

 

銀魂』の実写映画では、主演の小栗旬氏が主人公・坂田銀時になりきった。

彼の完璧な役作りにより、原作ファンからも評価の高い映画となった。

しかし、こうなってしまうと

映画の展開を考えるうえで小栗氏の意向に沿うかどうかが、

非常に重要な問題になってしまう。

 

小栗氏のような人気の高い有名人には、

パブリシティ権」という特殊な権利が発生する。

簡単に言うと、「タレントパワーを勝手に使わせない権利」だ。

小栗氏が銀時の姿をした写真を使った

銀魂グッズ」を売り出すためには、小栗氏の許可が必要になる。

 

それに、もし『銀魂』の続編映画を作りたくなった場合、

今さらキャストの変更はできない。

坂田銀時というキャラクターと小栗氏の顔は、

ファンの中で完全に結びついてしまっている。

小栗氏には絶対に出てもらわないと困る。

(実際『銀魂2』でキャスト変更はなかった。)

 

スタッフは、小栗氏の機嫌を損なうようなことは出来なくなる。

 

つまり「坂田銀時」というキャラクターの権利が、

原作者や映画会社だけではなく、実質的に「小栗旬のものでもある」

ということになってしまうのだ。

 

前回の記事でも説明したとおり、

キャラクターの権利が集約できず、複数の人が持っている状態は、

ビジネス的には弱い。

 

また、個人とヒモづけられたキャラクターは弱い。

小栗旬氏という個人に何か問題が発生するだけで、

銀時のイメージまで悪くなってしまう。

キャラクターの生命が脅かされることになりかねない。

 

一方で、マスクを付けたキャラならどうだろう?

 

スパイダーマンは、ここ15年ほどで繰り返しシリーズ映画化されている。

主役を演じる役者は、

トビー・マグワイア

→ アンドリュー・ガーフィールド

  → トム・ホランド

と、次々と変わっているが、問題ない。

誰が演じても、ちゃんと「スパイダーマン」になっている。

3人の顔の系統はかなり違うが、役者の顔がどんなであっても、

あのマスクを付けさえすれば、「本物のスパイダーマン」になれるからだ。

 

今後トム・ホランドに何か問題が起きたとしても、

続編は作られ続けるだろう。

 

また、スパイダーマンのビジュアルに役者の顔は入っていない。

グッズ展開をするときに役者の許可を得る必要もないのだ。

 

マスクを付けたキャラクターは、役者個人のものではない。

ということだ。

 

マンガキャラは人間と違い、 

文句を言わない。問題を起こさない。いくらでも働かせられる。

と言われている。

マスクによって、このメリットを全て受けることができるのだ。

 

その他のメリット

他にもメリットはあるが、もう一つだけ挙げておきたい。

 

マスクのキャラクターは、人種の壁を越えやすい。

もともとは白人の設定だったキャラクターを、

インドで映画化するときはインド人の役者でリメイクすることだって出来る。

どの国の人であっても、マスクをかぶれば同じキャラクターになれる。

つまり、ローカライズしやすい。

ビジネスの海外展開を考える上では、

忘れてはいけないポイントになるだろう。

 

デメリットは?

ここまでは、メリットばかりを強調してきたが、

もちろんマスクは万能ではない。

デメリットもある。

 

マスクの1番の悪いところは、

顔の表情が見えなくなってしまうことだ。

 

ヒーローは、悪者に対して怒る。

ピンチにおちいり苦しむ。

逆転勝利をつかんで笑う。

 

その様子にファンは自分の気持ちを重ねて一喜一憂する。

これが、ヒーローの楽しみ方だ。

 

しかし肝心のヒーローの表情が見えないと、

泣いているのか笑っているのか分からない。

感情移入がしづらくなってしまう。

 

実写映画の場合だと、特にそのデメリットが大きくなる。

 

ふつうの映画なら、一番盛り上がるクライマックスのシーンで、

役者には最高の演技・表情を見せてほしいところだ。

しかしマスクヒーローは、

その一番大事なところでマスクをかぶっちゃっている。

 

せっかくスター俳優に高額のギャラを支払っていても、

これでは何のことか分からない。

映画の制作費を効率的に使えていないことになってしまう。

 

役者にとっても不満は溜まる。

主演を務めているのに、一番大事なところで自分の顔が映らないのだ。

これでは、実力のある役者がマスクヒーローを演じたがらなくなってしまう。

バットマンの役者が短期間のうちに、

 マイケル・キートン → バル・キルマー → ジョージ・クルーニー

 と次々と交代したのも、この辺りに原因があるのではないか。

 顔を隠された彼らが「ちぇっ、悪役の方が目立ってるじゃないか」

 と考えたとしても無理はない。)

 

これがマスクの最大のデメリットだ。

マスクヒーロー達は、長年この問題に悩まされてきた。

 

マーベル映画の努力

しかし、最近のハリウッド映画(特にマーベル映画)は、

長年の試行錯誤を経て、徐々にこの問題を乗り越えつつあるようだ。

 

いくつかの例を挙げよう。

 

 2000年代に制作された映画『スパイダーマン』の3部作を思い出してほしい。

クライマックスになると、

必ずスパイダーマンのマスクは燃えたり、破れたりしていた。

役者の表情を見せるため、

スパイダーマンのマスクは、燃えやすくないといけなかった。

 

一方で、アイアンマンのマスクは鉄でできているので、

簡単には燃えたり破れたりしない。

そこで、マスクの外側と内側の画面を切り替えるという手法を使っている。

 

マスクの外側ではこうだが・・

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映画『アイアンマン』より

中身はこうだ。

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映画『アイアンマン』より

ちゃんと表情がみえる!

 

ブラックパンサー』で、マーベル社はさらに新しい手法を編み出した。

ブラックパンサーのマスクは

ナノマシン」という技術で作られたことになっている。

この技術によって、一瞬でマスクをつけたり、顔を出したりすることが

可能になったのだ。

 

マスクを付けているが・・

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映画『ブラックパンサー』より

 

ナノマシンのおかげで・・

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映画『ブラックパンサー』より

 

顔が見えるようになった!

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映画『ブラックパンサー』より

 

このアイディアにより、画面を切り替えることなく

いつでも好きなときに顔の出し入れができるようになっている。

 

ナノマシンは使い勝手が良かったようで、

その後に制作された映画では

アイアンマンやスパイダーマンにも同じ技術が応用されている。

 

マーベル社は様々な手法を駆使しながら、

マスクのメリットと素顔の良さの両方をいかそうと努力し続け、

大人気シリーズを育て上げたのだ。

 

マスクのまとめ

ここまでをまとめる。

 

マスクヒーローの特徴は以下のとおり。

・描きやすい。

・実写化しやすい。

・役者の影響が少ない。

・弱点は表情が見えないこと。(でも乗り越えられる。)

 

素顔のヒーローの特徴は、上記の逆になる。

・描きにくい。

・実写化しづらい。

・役者個人に振り回される。

そしてこれが、日本のマンガヒーローが

最近のマーベル映画のような大活躍をできない理由だ。

 

アメリカ文化

アメリカのヒーローは、なぜマスクをかぶっていることが多いのか?

はっきりした理由は分からないが、

アメリカの歴史・文化に関係がありそうだ。

 

アメリカに移民としてやってきた白人たちは、

自分の身は自分で守るしかなかった。

異なる民族・人種との軋轢もあった。

彼らは銃を手に取り、自警団を組織した。

自警団たちは復讐や処罰を恐れ

素性をかくすために覆面をかぶるようになった。

 

民間人が武装し、マスクをかぶって戦うというスタイルは、

アメリカ(の白人)の伝統なのだ。

 

アメリカが「銃社会」であることと、

アメコミヒーローがマスクをかぶっていることは、

同じルーツをもっていると思う。

 

スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ

ここまで来て、やっと最初の問題に戻る。

スパイダーマンとルフィ、どちらが強いのか?

 

この日米2大ヒーローの最大の違いは、マスクの有無だ。

 

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ⒸMARVEL

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ONE PIECE』第1巻


もし尾田栄一郎氏が病気になってしまい、

弟子にルフィの絵を描かせ始めたらどうなるだろう?

微妙なタッチの違いにファンはすぐに気づく。

尾田氏以外の人にルフィを任せるわけにはいかない。

 

もし  『ONE PIECE』を実写映画化したらどうなるだろう?

簡単にテコリンの壁は越えられない。

非常に違和感のあるルフィが「海賊王に俺はなる!」と叫び、

観客をゲンナリさせているだろう。

 

もし奇跡的に実写化が成功したらどうなるだろう?

ルフィを演じた役者の影響を受けるようになる。

役者の意見や役者の起こす問題に気をつかわないといけなくなる。

 

一見、天真爛漫に見えるルフィだが、

実はたくさんの「悩み事」を抱えているのだ。

 

一方でスパイダーマンは、そんな悩みとは無縁だ。

 

描き手や役者といった個人の影響を受けず、

実写化されるたびに新たな命を吹き込まれ、

これからも大活躍を続けていくだろう。

 

ルフィは素顔。スパイダーマンはマスク。

これが2つ目の理由だ。

ルフィは、スパイダーマンに勝てない。

 

次回は

ここまでは日米のコミックヒーローを比較し、

アメリカのヒーローの方がビジネス的に強いと論じてきた。

 

では、日本のマンガヒーローは、

アメコミヒーローにどうやっても勝てないのだろうか?

 

そんなことはない!と私は思う。

 

次回は、アメコミの弱点、

日本のヒーローのあり方について考えてみたい。

 

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スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ 日米2大ヒーローの対決に完全決着!(1)

スパイダーマン VS モンキー・D・ルフィ

今回は、スパイダーマンと『ONE PIECE』のルフィ、

どちらが強いのか?について考えたい。

 

スパイダーマンは、

マーベル社のコミック『アメイジングスパイダーマン』から生まれた

キャラクターだ。

冴えない高校生だったピーター・パーカーが、

特殊なクモに噛まれることで超能力を手に入れる。

壁に貼りついたり手から飛び出るクモの糸を使ったりして、自由自在に動き回り、

悪者をやっつける。

1960年代に誕生して以来、何度もアニメ化、ドラマ化、映画化されている

超人気キャラクターだ。

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初期の『アメイジングスパイダーマン』のコミック表紙 ⒸMARVEL

 

一方で、モンキー・D・ルフィは、

集英社の少年ジャンプで連載中の『ONE PIECE』(作:尾田栄一郎)の

キャラクターだ。

海賊にあこがれる少年・ルフィは、

悪魔の実」を食べることで、全身伸び縮みするゴム人間なってしまう。

この能力をいかし、両手両足を自在に操り悪者をやっつけながら、

冒険の旅を続けている。

1997年の連載開始以来、

日本人なら誰もが知っている超人気キャラクターに成長した。

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ONE PIECE』(作:尾田栄一郎)第1巻

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コミック『ONE PIECE』より

 

アメリカと日本を代表するマンガ・ヒーロー。

どちらも、❝ビヨーン❞と伸びる力を使って

変幻自在に空間を移動する能力をもっている。

この2人、いったいどっちが強いんだろう・・?

日米のコミックファンなら、議論が尽きないテーマだろう。

 

しかし、この「夢の対決」の勝者はどちらか?という難問に対し、

答えは簡単に出る。

 

スパイダーマンの圧勝だ。

 

ファンにとっては悔しいだろうが、ルフィではどうやっても勝てない。

 

理由は2つある。

これからそれを説明したい。

 

勝敗の目線

スパイダーマン VS ルフィ。

すぐには決着がつかないだろう。

どちらも幅広いファンを持ち、

映像化やグッズ化など収益化の手段もたくさん持っている。

どちらか一方だけが力尽きるということは、簡単には起きそうにない。

 

しかし、10年後ならどうだろう?

スパイダーマンもルフィも、今と同じように❝元気❞だろうか・・?

30年後なら?

 

きっとスパイダーマンは元気だ。

でもルフィは、元気を失っているだろう・・。

 

このブログの読者なら、もうお分かりだと思うが、

2人の人気キャラを空想の中で殴り合わせて決着をつけさせよう!

という話をしているのではない。

2つのキャラクターは、どちらがビジネス的に強いのか?

という話をしたいのだ。

 

ビジネス的な観点でいうと、

・キャラクターの権利をちゃんと集約できているのか?

・キャラクターの権利を集約しているのは誰か?

という点が重要になる。

 

結論から言うと、それぞれ以下のようになる。

 

ルフィ

・権利は(当面は)集約できている。

・権利を集約しているのは、マンガ家の尾田栄一郎氏。

 

スパイダーマン

・権利は集約できている。

・権利を集約しているのは、マーベル社。

 

この違いによって、スパイダーマンとルフィの❝強さ❞に差が出るのだ。

 

まずは、

・権利の集約

・誰が権利をもつか

について、1つずつ解説しよう。

 

マンガキャラクターの権利を分解

マンガの著作権は、大まかにいって2つの著作権に分解できる。

1つは、マンガの「ストーリーやセリフ」についての著作権

もう1つは、マンガの「絵」についての著作権だ。

 

日本では「ストーリーやセリフ」と「絵」の両方を

1人のマンガ家が作っているケースが多い。

 

しかし、そうでない作品もけっこうある。

人気マンガ『DEATH NOTE』のストーリーやセリフは大場つぐみ氏が考えているが、

絵を描いているのは小畑健氏だ。

 

もしも、大場氏と小畑氏がケンカしたらどうなるだろう?

 

小畑氏が自分の描いた『DEATH NOTE』のキャラクター(例えば、死神のリューク)を

グッズ化したいと考え、

キャラクターの絵を新たに書き起こす。

そして、リュークの絵がプリントされたマグカップを売り出す。

でも大場氏には、これが気に食わないとしたら・・。

 

リュークはマグカップが似合うキャラじゃない!

 湯呑みにプリントするべきよ!」

と主張する。

カチンと来た小畑氏も反論する。

「あなたの作ったストーリーもセリフも一切使ってませんよ。

 あくまで、私が生み出したリュークの絵を使っているだけですよ。

 あなたにとやかく言われる筋合いはありません!」

大場氏も負けてはいない。

「私が考えたストーリー、キャラクター設定があったからこそ生まれたものでしょ?

 リュークは私の許可なく使えません!」

 

あくまで想像上のケンカだが、両者の主張どっちが正しいのだろうか?

著作権的には、すでに結論は出ている。

 

キャンディ・キャンディ事件」(最高裁平成13年10月25日)という

裁判があった。

人気少女マンガ『キャンディ・キャンディ』の権利について争われた裁判だ。

 

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キャンディ・キャンディ』の表紙絵

ストーリーを考える水木杏子氏と、絵を描くいがらしゆみこ氏が、

モメてしまったのだ。

いがらし氏の描いた主人公の絵を使ったグッズを販売したことに対し、

水木氏は

「私のストーリーから生まれたキャラクターは、

 私の許可なく使えません!」

と主張し、

いがらし氏は

「表紙絵は、ストーリーとは関係なく描いたもの。

 水木氏の許可はいらないはず!」

と主張した。

 

裁判所の出した結論は

「水木氏はマンガの原作者にあたるので、

 水木氏の許可なく勝手に絵を使うことはできません」

というものだった。

 

専門家からは

「いくらなんでも、水木氏の権利を広く認めすぎじゃないか?」

と批判の出ている裁判だが、最高裁が出しちゃった結論なんだから仕方ない。

 

結局2人がモメてしまったせいで、

キャンディ・キャンディ』は絶版になってしまった。

アニメ化もされた人気作品だったのだが、今ではそのアニメを見ることもできない。

ファンにとっては非常に残念な事態になってしまっている。

 

これを先ほどの『DEATH NOTE』の例に当てはめると、

ストーリーを考えた大場つぐみ氏の主張の方が正しいことになる。

 

つまり、マンガのキャラクターについては、

ストーリーやセリフを考えた人と、絵を描いた人の、

両方の意見が一致したときだけしか使えないということになる。

 

これは、キャラクタービジネスを考える上では非常に不安定な状態だ。

キャラクターグッズを売り出す人は、

常に「権利者の2人がモメることはないか?」と、

おびえながらビジネスを進めることになってしまう。

 

権利を1人に集約できていないと、ビジネス的には不利なのだ。

 

権利は個人のもの?会社のもの?

次に「誰が権利をもつのか?」について解説しよう。

 

 例えば新聞社に勤める記者が、事件を取材し記事を書いたとして、

その記事の著作権は誰のものになるだろう?

 

記者個人ではなく、新聞社のものになる。

 

日本には「職務著作」という考え方があり、

社員が会社の仕事として著作物を生み出した場合、

その会社のものとして発表する性質のものなら、権利者は会社になる。

 

アメリカにも似たようなルールがあり、

しかも日本より少し「会社のもの」として認められる範囲が広い。

 

個人と会社、どちらが著作権を持っている方がビジネス上有利だろうか?

 

会社が持っている方が有利なことが多い。

 

会社の法務部門やライセンス部門が、

専門的な知見からビジネス展開を考えることができる。

 

作家個人の「気に食わない!」などの感情に振り回されることなく、

(良くも悪くも)冷静にビジネス的観点で判断できる。

 

悪質な業者に権利侵害されても、組織的に対応できる。

 

作者個人が何らかの理由(事故、不祥事、スランプなど)で

作品を生み出せなくなっても、

会社という組織で作品を続けることができる。

(『るろうに剣心』は作者・和月伸宏氏が不祥事を起こしたせいで、

 使いづらい作品になってしまった。

 「和月氏の作品」ではなく「会社の作品」だったら、

 このようなことにはならなかっただろう。)

 

作者個人が亡くなってしまった後も、会社は残る。

会社が権利者になっていれば、

作者の遺族全員に著作権が相続され、権利がバラバラになってしまうこともない。

 

会社が権利を持つと不利な点も多少はあるが(「保護期間」など)、

全体的には有利なことの方が圧倒的に多いのだ。

 

ONE PIECE』について

ここまでの解説をまとめる。

 

キャラクターの「ビジネス的な強さ」を考えた場合、

・権利は1人に集約しておくべき。

・個人ではなく会社が権利を集約しておくべき。

ということだ。

 

この観点でみると、『ONE PIECE』はどうなっているだろう?

 

「 ストーリーやセリフ」も、「絵」も、

両方を尾田栄一郎氏が生み出しているので、

尾田氏1人に権利を集約できている。

 

しかし、その権利を持っているのは、尾田氏という「個人」だ。

(おそらくは、尾田氏の個人会社で管理していることになっていると思うが、

 実質的には「個人」の管理だ。)

 

今のところは、

出版社である集英社と連携しながらビジネス的な展開を組織的にできているだろう。

 

でも、将来は分からない。

尾田氏と集英社がモメてしまうかもしれない。

不吉なことを言って申し訳ないが、尾田氏個人に何かの問題が起き、

ONE PIECE』を続けることができなくなってしまうかもしれない。

遠い将来には、尾田氏の子どもや孫に権利がバラバラに相続されているかもしれない。

そのとき、モンキー・D・ルフィは「元気」でいられるのか?

キャンディ・キャンディのように、徐々にファンに忘れられていくのではないか?

非常に心配だ。

 

また、『ONE PIECE』が無事最終回まで描きあげられたとして、

その後はどうなるだろう?

グッズは販売され続けるだろうし、関連作品は制作され続けるかもしれないが、

❝尾田氏個人のもの❞であるルフィが、尾田氏自身によって❝引退❞させられた結果、

キャラクターの勢いは少しずつ失われていくだろう。

日本のコミックキャラクターは、ほとんどの場合そのような流れをたどる。

 

アメイジングスパイダーマン』について

一方で、スパイダーマンの方はどうだろう?

 

アメリカン・コミックの世界は、

日本では考えられないほどに「分業体制」が発達している。

 

ストーリーや脚本を作る「ライター」。

鉛筆で下書きをする「ペンシラー」。

下書きにインクでペン入れする「インカー」。

絵に色をぬる「カラリスト」。

(アメコミは、全ページカラーなのが普通)

文字や擬音語(「ゴゴゴゴ!」みたいな)を入れる「レタラー」。

これらの人の共同作業で作品を作り上げている。

 

そして、それぞれの「ペンシラー」や「インカー」なども、

1人でやっているのではなく、分業している。

 

ちなみに、先日惜しまれながら亡くなったスタン・リー氏は、

上記の「ライター」を主に担当していた。

本当に天才的なクリエイターで、

スパイダーマン」、「ハルク」、「X-MEN」、「アイアンマン」、

マイティ・ソー」、「アントマン」、「ファンタスティック・フォー」など、

多数の魅力的なキャラクターを生み出している。

冥福を祈りたい。

 

アメコミの世界では、 スタン・リー氏のような大天才でも、

1人で作品を生み出すわけではない。

多くのクリエイターとの共同作業でキャラクターを生み、活躍させている。

 

そして、彼らを集め、雇い、賃金を払い、作品を作らせているのは、

マーベル社のような出版社なのだ。

 

このような体制を作り、

上記で説明した「職務著作」という考え方を使うことで、

マーベル社という「会社」に権利を集約できている。

 

分業にすると権利者がたくさん生まれてしまい、

作品の権利がバラバラになってしまいそうなイメージがあるが、

その分業を徹底することで、かえって権利を集約できてしまっているのだ。

 

これは、キャラクターのビジネス展開を考える上では非常に有利だ。

 

クリエイターの1人に何か問題が起こったとしても、

作品を作り続けることができるからだ。

実際スタン・リー氏が亡くなった後でも、

マーベル社のキャラクターは元気に大活躍を続けている。

 次の世代のクリエイターが力を合わせて書きつないでいるからだ。

 

10年後、30年後であっても、スパイダーマンは大活躍し、

バリバリとお金を稼いでいるだろう。

 

(会社が色んなキャラクターの権利を集約してしまうことで、

 色んなキャラを総出演させる『アベンジャーズ』のような企画も

 やりやすいというメリットもある。)

 

(実は、スパイダーマンの権利については、

 その50年にもおよぶ歴史の中で何度かモメている。

 でも今回の記事の趣旨とはズレる話なので省略)

 

以上をまとめると、こうなる。

 

ルフィは作者個人に生み出され、個人が権利をもつ。

だから、その個人の状況に左右される不安定な存在だ。

 

スパイダーマンは、組織的に制作され、組織が権利をもつ。

だから、特定の個人に振り回されることもなく、常に「現役」でいられる。

 

これが、ルフィがスパイダーマンに勝てない理由の1つ目だ。

 

 

日米文化比較

一般的には、

アメリカ人は個人主義だが、日本人は組織に所属することを好む。

とよく言われる。

 

しかしマンガの権利の世界では、全く逆の現象が起きている。

 

アメリカのマンガは、組織に所属した多くの人が協力して作品を作り、

組織が権利者になる。

「キャラクターの権利は組織のもの」という文化が根付いている。

非常に「日本的」だ。

 

日本のマンガは、個人が作品を生み出し、個人が権利をもつことで、

有名作家になれば大金をつかめる。

まさにアメリカン・ドリーム!

非常に「アメリカ的」だ。

 

この不思議な違いがどういう経緯で生まれたのかは、よく分からない。

日本のマンガが成長し始めたときに、マンガの神様・手塚治虫氏が、

そのような体制を作ったことが原因かもしれない。

もしくは、日本人特有の「職人信仰」のようなものが原因かもしれない。

単に、日本の出版社と作家が明確な契約を結ばなかったせいで、

気づいたらそうなっていただけかもしれない。

 

いずれにせよ、この日米の文化の差によって、

日米のコミック・キャラクターの寿命に違いが生まれている。

 

スーパーマンバットマンスパイダーマン・・・

アメリカには、1930~60年代生まれの「ご長寿ヒーロー」が多い。

 

日本のマンガに、彼らに匹敵する長命のヒーローがいるだろうか?

全然いないのではないか?

(あえて挙げるなら、マンガ作品として生まれ、

 今は特撮ドラマの世界で生き続けている仮面ライダーぐらいか。

 それでも1970年代生まれだが。)

 

「マンガ大国・日本」で、この状況は悔しい。

 

2つ目の理由

最初に述べたとおり、スパイダーマンの方が強い理由は2つある。

 

1つ目の理由は「組織と個人の差」によるものだった。

2つ目の理由は、もっとシンプルな理由だ。

 

それは、

最初にあげたスパイダーマンとルフィの絵を見れば、一目瞭然の理由なのだ。

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ⒸMARVEL

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ONE PIECE』第1巻

 

次回は、そこを説明しよう。

 

その後に、アメコミの弱点や、

日本のヒーローコミックの素晴らしさと未来についても

語りたいと思う。

 

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人生最高のパロディ

先週は世界知的所有権機関というところに行ってきた。

特許や著作権などについて、世界的なルールを作っている場所だ。

そこでは、テレビとインターネットの関係を決定づけることになる

刺激的な議論が交わされている。

後日あらためて記事として取り上げたい。

「最近のテレビはつまらない」

「テレビはオワコンだ。これからはネットだ」

というような、よく聞く議論とは一味違う話ができると思う。

 

最高のパロディ

前回は、

「パロディ、オマージュ、原作、原案・・・色々あるけど、どうちがうの?」

ということをテーマにした。

結論としては

「どの言葉を使うかは、あまり気にしなくて良い」

ということだ。

 

今回は、私が今まで読んだ本の中で最高のパロディ本を紹介しよう。

 

パロディには「元ネタ」がある。

私が紹介したい本の元ネタは『無人島の三少年』。

今から160年前に書かれた少年少女向けの冒険物語だ。

 

内容は以下の通り。

 

ラルフ、ジャック、ピーターキンという3人の少年が嵐にあい、

無人島に流れ着く。

大人は誰もいない。

自分たちでサバイバルするしかない。

絶望的な状況だ。

しかし3人の少年は、めげない。

森の果物を食べたり、魚を釣ったりして食料を確保する。

ときには槍などの狩りの道具を手作りし、野生の豚を追う。

仲良く3人で水遊びををしたりもする。

正義感が強く頼りになるジャック、いつも落ち着いているラルフ、

ひょうきん者のピーターキンは、

仲良く協力しながら、明るく、たくましく無人島で生き延びていく。

そこへ悪い海賊がやってきて3人は大ピンチにおちいるが、

少年たちの友情はゆるがない。

みんなで協力してこの危機を乗り越えていく・・。

 

こんな、明るく楽しい大冒険のお話だ。

 

残念ながら、この本は絶版になってしまっている。

興味がある人は、中古の本を買うか、

児童書が充実している図書館で探してみてほしい。

 

 

でも、私が紹介したい「最高のパロディ本」を理解する上では、

上で書いた内容が分かっていれば十分だ。

 

『蠅の王』

 紹介したい本は『蠅の王』だ。

書いたのはイギリスの作家、ウィリアム・ゴールディング

 

物語は『無人島の三少年』と同じように、

子供たちが無人島にたどり着くところから始まる。

 

子供たちの数は数十人。

島で生き延びるために、

彼らはみんなで協力してやっていくべきだと自覚した。

そしてラルフがリーダーとして民主的に選ばれる。

ラルフの指揮のもと、

焚き火をして狼煙(のろし)をあげるプロジェクトがスタートする。

近くを通る大人たちに気づいてもらい救助されるためだ。

こうして、少年たちの明るく秩序正しい生活が始まるかと思われた。

 

しかし、すぐに規律は崩れてゆく。

彼らはまだまだ子供だ。

粘り強く焚き火を燃やし続けることに飽きてしまう。

好き勝手に水遊びを始める。

焚き火は消えてしまう。

 

ラルフと協力関係にあったジャックは、野生の豚を狩ることに夢中になる。

子供たちにとって、焚き火よりも狩りの方が断然楽しい。

狩りに参加するメンバーが増えていく。

森の中で豚を追い回すうちに、彼らの中で徐々に新しい感覚が芽生えてていく。

野生の感覚、獣のような凶暴さが目覚め、人間らしさを失っていく。

 

もはやラルフの指示を聞こうとするメンバーは、ほとんどいない。

ジャックを中心としたグループとラルフは激しく対立し、憎みあうようになる。

豚狩りのために作った槍を、人間相手に向けるようになっていく。

 

そんな中、ただ一人だけ冷静なのが、サイモンだ。

彼だけは、

「人間らしさとは何か?

 秩序正しくお互いに愛情をもって協力して生きていくことか?

 それとも、獣のように本能のままに生きることこそが人間らしさなのか?」

と一人静かに考える。

そして、たった一人で「蠅の王」と対決する。

(タイトルにもなっている「蠅の王」が何を指しているのか?については、

 本書を読んで確かめてほしい。)

 

ラルフとジャックが対立する中で、

ジャックは自分が狩った豚の肉をみんなに振る舞うパーティーを開催する。

肉にかじりつきながら踊り狂ううちに、彼らの凶暴性が爆発する。

そして、ある恐ろしい事件が起きてしまう・・・。

 

こんな物語だ。

 

この本の中で、たびたび『珊瑚島』という本のタイトルが出てくる。

これは『無人島の三少年』の原題だ。

作者のゴールディングは明らかに『珊瑚島』を意識して

『蠅の王』を書いている。

ジャックやラルフといった、主要な登場人物の名前も一致している。

 

『蠅の王』は『珊瑚島』の素晴らしいパロディだ。

(もちろん、「オマージュ」といっても「原案」といっても良い。)

明るく楽しく無邪気な冒険小説の設定を借りながら、

人間の残酷な本性に迫る哲学書のような物語に作りかえてしまっている。

私が今まで読んだ本の中で、間違いなく最高の❝パロディ本❞だ。

 

中学生のときに初めて読んで以来、繰り返し読んでいるが、

読むたびに共感してしまう登場人物が変わる。

 

楽天家だが、リーダーシップを発揮できないことに悩むラルフ。

みんなのために頑張っているのに、

ラルフに認められなかったせいで意固地になってしまうジャック。

一番頭が良いのに、見た目のせいでいじめられてしまうピギー。

仲間を愛しているのに、うまく表現できないサイモン。

 

それぞれのキャラクターが、魅力的で人間臭い。 

 

何度でも楽しめる名作だ。

ぜひ読んでほしい。

 

 

 

関連本

 無人島で少年たちがサバイバルする物語として一番有名なのは、

ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』だろう。

 

無人島の三少年』が書かれた時期と、『蠅の王』が書かれた時期の

あいだに書かれた小説だ。

  

 


内容的にも中間的な内容になっていて、
無人島の三少年』では、少年たちは最初から最後まで仲が良いのに対し、
十五少年漂流記』では、彼らの中に対立が生まれグループが二つに分かれる。
しかし最後は仲直りして、熱い友情が生まれる。
一方で『蠅の王』では、少年たちの対立は深まる一方で恐ろしい結末に向かう。

 

無人島の三少年』→『十五少年漂流記』→『蠅の王』

この流れを見れば、一つの作品をもとに新たな作品が生まれ、

さらにその作品をもとに素晴らしい作品が生まれるプロセスがはっきり感じ取れる。

こうして我々の文化は発展してきたのだ。

 

冬の寒い日には、

自宅にこもって読書をしながら、こんなことを感じてみるのも良いと思う。

 

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パクリならNG! オマージュならOKか?

質問

以前の記事で、「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」のパクリか?

という問題を題材にして、

著作権の制度を理解する上での基本的な考え方を解説した。

 

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この記事に関連して筆者のもとには、

「パクリはダメなのは分かったが、パロディなら許されるの?」

「「あなたの作品を尊敬したオマージュです」といえばOKになるの?」

といった質問が寄せられた。

 

たしかに「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」に非常によく似ていた。

でもこれは

ジャングル大帝」を元ネタにしたパロディだったと言えないだろうか?

 

ディズニー側が、実は手塚治虫氏を尊敬していて、

その気持ちを表現するために「ジャングル大帝」に捧げたオマージュとして

ライオン・キング」を作ったのだとしたらどうだろう?

 

今回はこの疑問に答えたい。

 

パクリ・パロディ・オマージュ・リスペクト・インスパイア

「パロディ」や「オマージュ」以外にも、

よく使われる言葉として「リスペクト」、「インスパイア」がある。

 

「「ジャングル大帝」へのリスペクトを「ライオン・キング」に込めました!」

「「ジャングル大帝」にインスパイアされて、「ライオン・キング」を作りました!」

という風に使われる。

 

これらの言葉、どう違うのだろう?

 

ネット上で「わかりやすい!!」と話題になった投稿に以下のものがある。

 

 元ネタがバレて困るのがパクリ、

 バレなきゃ始まらないのがパロディ、

 わかる人にだけわかればいいのがオマージュ、

 元ネタの製作者にわかって欲しいのがリスペクト、

 暗黙の了解がインスパイア。

 

どうだろうか?

これでスッキリ理解できただろうか?

 

たしかに、うまいこと説明できている感じはする。

(最後の「暗黙の了解がインスパイア」だけはよく分からないが。)

 

おおまかな理解としては、これで良いと思う。

 

著作権的な解説

次に著作権的な目線で解説したい。

 

「パクリ」「パロディ」「オマージュ」「リスペクト」「インスパイア」。

それぞれの意味の違いはどこにあるのか?

どう使い分ければ良いのだろうか・・?

 

答えはこうだ。

「考えても仕方ない。」

 

それぞれの言葉に、ちゃんとした定義はない。

作品を見た人が「パクリだ!」と思っても、

作った人は「オマージュです」と言うかもしれない。

作者本人は「リスペクト」のつもりで作っても、

見る人は「元ネタをバカにしたパロディだ!」と理解するかもしれない。

 

そもそも、作者が相手を本当に尊敬しているかどうかなんて、

誰にも分らない。

 

これらの言葉に、あまりこだわっても仕方がないということだ。

 

ある作品が他の作品の著作権を侵害しているかどうかは、

以前に解説した通り、「3つの条件」で判断される。

 

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3つの条件は以下のとおり。

 

1.そもそも自分の作品が「著作物」である。

2.相手が自分の作品を見た上で制作した。

3.自分の作品と相手の作品が似ている。

 

これが全てだ。

「パロディなら許される」とか、「オマージュならOK」とか、

そんなルールは一切ない。

 

なんとも味気ない結論だが、少なくとも日本の法律ではそうなっている。

 

(もちろん、単にアイディアを借りただけなら著作権侵害にはならない。

 「アイディアはみんなのもの。」だからだ。)

 

原作?原案?

「原作と原案の違いは?」という、よくある疑問にも簡単に答えておこう。

 

「原作」は、

小説を元にしてマンガを作ったり、マンガを元にして映画を作るときに、

よく使われる言葉だ。

著作権が働く場合がほとんどなので、

原作者の許可がないと勝手にマンガや映画を作ることはできない。

(この場合は、ちゃんと「原作:◯◯」と表示しないといけない。)

逆に、原作のない作品は「オリジナル」と言ったりもする。

 

一方で「原案」は、

単にアイディアを使わせてもらっているだけで、

ストーリーの中身には関わっていないときに

よく使われる。

「アイディア」に著作権はないので、

原案者の許可がなくても作品を作ることができる。

 

おおまかに言うと、こういう理解で良い。

 

しかし「原作か?原案か?」についても、あまりこだわっても仕方がない。

ちゃんとした定義はないので、はっきりと線引きできないからだ。

 

著作権的には、「3つの条件」で判断される。

それだけだ。

 

素晴らしいポスターを発見!

「原作」「原案」「パロディ」「オマージュ」・・・

これらの言葉の意味にこだわらなくて良い。

自分の中で一番❝しっくりくる❞言葉を選んで使えばよいのだ。

 

先日、このことを完璧に理解している素晴らしいポスターを発見した。

舞台『ゲゲゲの先生へ』のポスターだ。

舞台は『ゲゲゲの鬼太郎』で有名なマンガ家・水木しげる氏を

テーマにしたものだという。

 

https://www.gegege-sensei.jp/

 

あいにくホームページにはポスターのデータが掲載されていないが、

私の発見したポスターには以下のような言葉が書かれていた。

 

「原案=水木しげる

水木しげる原作としか呼べないオリジナルの演劇に挑戦!」

水木しげる作品への大胆なオマージュ」

 

もはや、「原案」なのか「原作」なのか「オリジナル」なのか「オマージュ」なのか、

さっぱり分からない。

 

でも、これで良いのだ!

この舞台の制作者の心の中で、全ての言葉が❝しっくり❞きてしまったのだろう。

 

ポスターを見る人にとっては、「いったいどんな作品なのか?」と

謎が深まるばかりだ・・・

この謎を解くためには舞台を見るしかない。

残念ながらら公演は終わってしまっているようなので、再演を期待しよう。

 

正しいルールは?

パロディやオマージュだからといって、著作権的にOKにはならない。

これが日本のルールだ。

 

これって、厳しすぎではないか?

 

ある作品を元にパロディを作ろうとしたら、

どうしても著作権侵害になってしまう場合が多い。

つまり、自由にパロディ作品を作ることはできないということだ。

 

でもパロディだって、一つの文化のあり方だ。

 

『ウエストサイドストーリー』は『ロミオとジュリエット』のパロディだ。

日本には古くから「本歌取り」という伝統だってある。

(「本歌取り」とは、『万葉集』に掲載されるような有名な和歌をパロディすること)

コミケコミックマーケット)で販売されるマンガの多くは、

有名なマンガのパロディだ。

パロディ作家からプロのマンガ家へ成長する人も多いという。

 

パロディによって、我々の文化が発展してきたという歴史があるのだ。

 

それなのに、パロディを作ったら著作権侵害になってしまうって、

おかしくないか?

 

こういう疑問をもった人はこれまでにもいた。

実際、日本の政府でも「パロディはOK」という法律を作れないか

検討されたことはある。

 

しかし、法律化は見送られているのが現状だ。

 

(欧米には「パロディやオマージュならOK」と法的に認めるルールが

 一部にはある。)

 

人が作った作品の著作権を尊重することは大切だ。

それと同じくらい、人の作品を元に自由に創作できることも大切だ。

どういうルールにすれば、より良い文化・世界を作ることができるのだろうか?

 

これは非常に深いテーマなので、また改めて記事でとり上げたいと思う。

 

質問募集など

今回お答えした質問以外にも、

何か聞きたいことがあれば「お問い合わせフォーム」でお送りだください。

記事の中で回答させていただく場合があります。

 

お問い合わせ - マネー、著作権、愛

 

 

※筆者は来週、

 世界知的所有権機関ジュネーヴ)というところに取材に行く予定です。

 このため来週の記事はお休みします。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(5)

より良い関係へ

前回までの記事では、ドラマを制作するにあたって、

出版社、放送局、作家がそれぞれの立場で考え行動した結果、

残念な結果になってしまうまでの過程を見てきた。

 

これじゃダメだ。

こんなことを続けていると、みんなが不幸になってしまう。

 

そこで今回は、三者がより良い関係になれる方法を

それぞれの立場から考えてみたい。

 

難しく考える必要はない。 

考え方は、いたってシンプルだ。

 

 出版社の戦略

今後、出版社はどうしていくべきだろう?

 

ここまでの連載で書いたとおり、出版社には権利がない。

権利を持たないままインターネット時代に突入するのは恐ろしい。

恐怖にかられ、ネットの浸透を少しでも遅らせるよう頑張ってみたり、

権利を持っている作家に近づき権利者のように振る舞うような行動をとってきた。

 

しかしそんなことを続けていても、

第二の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を起こしてしまうだけだ。

そのうち作家からも放送局からも相手にされなくなってしまい、

長い目でみると「本当の敗者」は出版社だった。ということになりかねない。

 

では、どうするべきか?

 

シンプルに考えよう。

 

出版社の「恐怖」を克服すれば良いのだ!

恐怖の原因が、権利を持っていないことなら、

権利を獲得してしまえば良い!

 

権利を持つ方法として、3つの方法を提案したい。

 

・権利を共有するパターン

・プロモーションを頑張るパターン

・制作工房になるパターン

 

1つずつ説明しよう。

 

権利を共有するパターン

編集者がよく言うセリフがこれだ。

「今回の作品については、とことん作家と話し合いました。

 テーマや登場人物について掘り下げ、2人で考え抜きました。

 作家と私の二人三脚で作り上げた作品です!」

 

これを受け、作家もこう言う。

「編集の〇〇さんがいなかったら、この作品は生まれていませんでした!」

 

これを聞いた私は思う。

「じゃあ、なんで作品の著作権は作家が独り占めしてるの??」

 

作家と編集者が本当にいっしょに作り上げた作品なら、

その作品の権利もいっしょに持つ。

これは、ごくごく普通の発想ではないだろうか。

 

昔なら、出版社は権利を持たなくても十分やっていけた。

ヒット作が出れば、紙の本を沢山印刷して売れば儲かったからだ。

「権利」ではなく、紙の本という「物」で商売が成り立っていた。

だから、出版社が作品づくりにどれだけ貢献していても、

その対価として権利を要求することは無かった。

 

しかし時代は変わった。

もし本当に編集者が作品づくりに深く関わり、

作家にとって無くてはならない働きをしたのなら、

その分の取り分をもらっても良いはずだ。

 

作家の権利を要求するなんて、

長年のやり方に慣れた人にとっては抵抗があるかもしれない。

でも作家の方だって、本当に編集者を必要と感じているのなら、

交渉に応じてくれるはずだ。

 

出版社が本来もっている

「作家の才能を見出す力」と「作家を育てる力」に自信を持とう。

そして、遠慮なんかせず腹を割って、

堂々と権利について作家と話をしよう。

 

作品が出来てからではなく、作り始める前に、

ちゃんと話し合って契約しておいた方が良いだろう。

(例えば、出来上がった作品の著作権を「作家:出版社=8:2」で持ち合う。

 のような条件を決めておく)

 

こうすれば、出版社は「本当の権利者」だ。

これからは放送局に対して

「出版社も権利者です!」などと無理に威張って見せる必要もなくなる。

作家を囲い込んで、外部の人に会わせまいと頑張る必要もなくなる。

肩の力が抜けたスムーズな交渉が進むようになるだろう。

 

こんなことを言うと、一部の人からは、

著作権の教科書には「作家が権利者で出版社は権利者ではない」と書いてある!」

という、ピントはずれの反論があるかもしれない。

 

それでも、やってみよう。

法律で決まっているルールであっても、

お互い納得していればルールに縛られる必要はない。

 

もちろん、出版社が作品づくりにちゃんと貢献することが大前提だ。

何の役にも立っていないのに、作家の権利を搾取(さくしゅ)するなんてことは、

やってはいけない。

 

ある意味、これまで以上に出版社の存在意義が問われることになる。

それでも、自分を信じてやってみよう。

きっと道はひらける。

 

プロモーションを頑張るパターン

次に紹介する方法は、プロモーションを頑張るパターンだ。

 

音楽出版社」という会社があるのをご存知だろうか?

音楽業界では昔からある業態の会社だ。

 

音楽を作る人は、作詞家・作曲家だ。

しかし彼らが曲を作るだけでは、誰の耳にも届かない。

ヒット曲にするためには、

才能ある歌手に歌ってもらったり、ラジオでたくさん流してもらったりして、

沢山の人に聞いてもらえるよう頑張る必要がある。

つまり、「プロモーション」が必要だ。

そのことが分かっている作詞家・作曲家は、

自分が作った音楽の著作権を、音楽出版社に譲ってしまうのだ。

 

音楽出版社は、プロモーションを頑張る。

あらゆる手段を使って、その曲が人々の耳に触れるよう努力する。

例えば、テレビ局のプロデューサーと交渉して、

ドラマの主題歌に使ってもらえるようにしたりする。

 

そして、その努力の代償として、しっかりお金も取る。

音楽著作権で儲かったお金の一部を、自分の取り分としてもらうのだ。

(例えば、儲けの50%だったり、33%だったりする。)

その残りを作詞家や作家曲に配分している。

 

これが、音楽出版社の仕事だ。

 

これと同じことを、出版社もやってみよう。

 

作家から作品の著作権を譲ってもらい、その作品のプロモーションを頑張るのだ。

テレビ局のプロデューサーに

「次のドラマの原作に使ってみませんか?

 その代わり、ドラマの視聴率を上げるために我々も最大限に協力しますから!

 サービスしますよ!!」

などと売り込みをかけても良いだろう。

(もしこんな関係が出来ていたら、

 NHK講談社の交渉は、全然ちがう流れになっていたはずだ)

 

紙の本を売るためだけに宣伝費を使うのではなく、

もっと多方面に展開しよう。

 

そして、プロモーションの貢献度にふさわしいお金を、堂々ともらおう。

 

作家にとっても、

出版社がこれまで以上に積極的にプロモーションしてくれるのは大歓迎だろう。

 

もちろん、プロモーションという名目で作家の権利を搾取するのは、

言うまでもなくダメだ。

 出版社がプロモーションを頑張ることが大前提になる。

 

実際には、先に挙げた「権利を共有するパターン」と

「プロモーションを頑張るパターン」は、組み合わせるのが現実的だろう。

 

出版社の果たす役割、つまり、

「作品を生み出すことへの貢献」と「作品をプロモーションすることへの貢献」を

はっきりと認識した上で作家と話し合い、

出版社の貢献に見合ったお金が手に入るように、

権利の持ち方を整理することが必要だ。

 

制作工房になるパターン

3つ目の方法は、制作工房になるパターンだ。

 

このパターンの場合、小説よりもマンガ作品の方がイメージしやすい。

 

マンガ『ONE PIECE』の作者は、尾田栄一郎氏だ。

彼は、作品を1人で書いているわけではない。

複数のアシスタントと一緒に書いている。

 

尾田氏とアシスタントは、全体として

「マンガ制作工房・尾田栄一郎」として仕事をしている。

 

尾田氏とアシスタントの契約がどんな形態になっているか詳しく知らないが、

おそらくは尾田氏の個人会社がアシスタントを雇っている。

正社員がいたり、アルバイトがいたりするのだろう。

そんなアシスタント達と尾田氏は、協力して『ONE PIECE』を書いている。

 

しかし、作者の名前として

「作:尾田栄一郎山田太郎・佐藤二郎・鈴木花子・・・」などと

アシスタントの名前が一緒になって表示されることはない。

あくまでも「作:尾田栄一郎」と表示される。

 

また、

作品の著作権

尾田氏とアシスタントが共同で持ち合うこともない。

権利者は尾田氏1人だ。

 

なぜこんなことになっているのか?

アシスタントがかわいそうではないのか・・?

 

尾田氏がストーリーを組み立て、主要な絵を描いているからだが、

それだけが理由ではない。

 

尾田氏が『ONE PIECE』の制作を企画し、自分のお財布から彼らに給料を払い、

作品を完成させる責任を背負っているからだ。

 

詳しくは別の記事で書きたいと思うが、著作権的に考えても、

尾田氏1人だけが権利者として扱われるのは、間違ったことではない。

 

この尾田氏と同じ立ち位置に、出版社も立てば良いのだ。

 

出版社が主体的に作品の企画を立てる。

この作品を制作するためのクリエイターを集める。(1人でもよい)

正社員という形でも、アルバイトという形でも、派遣社員という形でも良い。

彼らにはしっかりと契約内容を理解してもらい給料を支払う。

作品が完成するまで責任を負って面倒をみる。

そして「作:講談社」として発表する。

そうすることで「作家の作品」ではなく、

「出版社の作品」にしてしまうのだ。

 

作家個人ではなく、出版社が主体となった「制作工房」になるということだ。

これで、「正真正銘の権利者」になれる。

 

実際アメリカンコミックの出版社は、この方法で自らが権利者になっている。

(近いうちに、記事でとりあげたい)

 

以上、3つの方法を駆け足で紹介した。

どれも「権利がなくて恐いのなら、権利を持とう!」という

きわめて単純な発想に基づく戦略だ。

 

放送局のドラマ作り

次に、テレビ局の立場から考えたい。

 

テレビ局のプロデューサーは、

原作者が積極的にドラマ制作に関わることを、あまり歓迎しないことが多い。

 

原作者は自分の書いた小説にこだわりを持っていて、

内容を変えられてしまうのを嫌がる。

脚本家は映像のプロとして仕事をしているのに

原作者にケチをつけられていると感じてしまう。

そのことが分かっているから、

プロデューサーは脚本制作の打ち合わせに原作者を呼んだりしない。

原作者と脚本家がケンカになってしまっても困るからだ。

どちらがヘソを曲げてもドラマ制作が止まってしまう。

 

しかし、ここでも私の提案はシンプルだ。

 

もっとクリエイターを信じよう!

原作者だって、脚本家だって、少しでも良いものを作りたいと願っている。

彼らの熱い気持ちをぶつけ合えば、きっと「化学反応」が起きる。

顔を合わせて話し合おう。

原作者が作品に込めた思いを聞こう。

脚本家が原作をどう解釈したのか?それをどう脚本に表現したのか?

その狙いを伝えよう。

もちろん、監督にも参加してほしい。

そうすれば、新しい発想が生まれる。

もっと面白いドラマになる。

もし何も解決策が出てこなかったとしても、

顔をみて話し合っていれば、相手の情熱だけは分かる。

「あいつら、全然わかってない!」とお互いにストレスを溜めあい、

対立を深めるようなことにはならないはずだ。

 

楽観的すぎるだろうか?

しかし第二の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を起こさないためにも、

主要なクリエイターが腹をわって話し合うことは非常に重要だ。

私は、あくまでもクリエイター達の前向きな気持ちを信じている。

 

放送局のもう一つのドラマの作り方

テレビ局のプロデューサーには、あともう1つ提案したい。

 

プロデューサーが原作を読まない。ということだ。

 

ドラマ制作のスタッフの中で、

プロデューサーは「船長」としての役割をになっている。

船長は最も冷静でいなければならない。

そして、作品を視聴者と同じ目線で評価できないといけない。

「私はこの原作が大好きだ!この作品の世界観をドラマで表現したい!」と

熱くなりすぎると、

視聴者には伝わらない空回りした作品が出来上がってしまう。

 

だから、「あえて原作を読まない」という選択肢は、アリだと思うのだ。

原作を知らないからこそ、初めて脚本を読んだときに

「このセリフじゃ、原作を読んでいない視聴者には伝わらない」

「この表現にこだわる必要はないんじゃない?」

といった意見を適格に言えるようになる。

 

原作にのめり込み、「ぜひドラマ化させてください!」と原作者を口説き落とし、

その熱い思いで俳優やスタッフ全体を巻き込み、

素晴らしいドラマを作るタイプのプロデューサーも、もちろん必要だ。

 

しかし、それ以外のパターンの作り方も積極的に試してみてほしいと思うのだ。

もっともっと自由にドラマを作って良いと思う。

 

作家のあり方

作家も、どんどん外に出よう!

 

出版社に囲い込まれている時代ではない。

出版社の人が

「先生はゆっくりしていれば大丈夫です。

 面倒なことは全てお任せください」

と言ってきても、言うことを聞く必要はない。

積極的に、その「面倒なこと」に関わろう。

 

もしドラマ化の話があれば、打ち合わせに出席させてもらうべきだ。

出版社やテレビ局の人に最初は戸惑われてしまうかもしれない。

でも気にしなくて良い。

前向きに「私もドラマづくりに貢献したい!」という気持ちを伝えれば、

拒否する人はいないはずだ。

脚本家や監督など、自分と違う考え方をするクリエイターの意見を聞けば、

必ず作家自身にとっても勉強になる。

 

ドラえもん」の脚本を引き受けた辻村深月さんのように、

積極的に違うタイプの仕事もやってみよう。

映像化する上でのセオリーなど、

今までなかった視点から自分の作品を見ることができるようになる。

次の作品づくりにも生かせるだろう。

 

もし出版社から

「作品づくりやプロモーションに貢献するから、権利の一部を譲ってほしい」

と言われたら、ちゃんと話を聞こう。

契約内容についても、ややこしがらずにちゃんと聞こう。

本当に納得できたときだけ契約すれば良い。

 

もしテレビ局のプロデューサーから

「私はあなたの作品を読んだことがありません。

 でも、ドラマ化したいと思っています」

と言われても、

「失礼な!まずは作品を読んでから申し込むのがスジだろう!」

と怒ってはいけない。

色んなタイプのドラマ制作があって良いはずだ。

 

作家も、もっともっと自由になろう。

 

まとめ

今回の連載では『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を題材に、

出版社、放送局、作家、それぞれの立場を解説した。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化が散々にモメた末に裁判になり、

辻村氏にとって極めて残念な結果になってしまったのは、

結局のところ、

お互いが自分の立場に捉われて本音を言える場を作れなかったからだ。

 

今回の連載の結論はこうだ。

 

出版社も、放送局も、作家も、

もっともっと自信を持とう!

自由になろう!

そして、思っていることをぶつけ合おう!

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(4)

第3章:辻村深月

前回までの記事を振り返ろう。

 

作家・辻村深月氏の小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を

NHKがドラマ化しようとした。

しかし、脚本の内容について辻村氏が納得しなかったため、

講談社がドラマ化の許可を土壇場になって取り消した。

怒ったNHK講談社を訴えたが、裁判では負けてしまった。

 

講談社の立場で考えると、

自分では権利を持てないので、権利を持っている辻村氏と一心同体となり、

NHKに対して強い態度に出る必要があった。

 

NHKの立場からは、

俳優やスタッフみんながドラマ制作のために頑張っているのに、

講談社だけが邪魔しているように見えていた。

裁判しても勝てる見込みは低かったが、

今後のドラマ制作のことも考えて、あえて裁判を戦った。

 

以上が、これまでの流れだ。

 

残る謎は1つだ。

・結局のところ、損をしたのは誰か?

 

ここまでは、ずっとNHK講談社という大企業の目線で考えていた。

講談社が「辻村先生の作品を変えるな!」と主張すれば、

NHKは「辻村先生に会わせろ!」と対抗し、

両者は激しくぶつかっていた。

 

この間、当の辻村さんは何を考えていたのだろう?

 

今回は、辻村氏の目線で事件を考えたい。

「第3章:辻村深月」だ。

 

辻村氏について

辻村深月さんは、山梨県出身だ。

小さな頃から読書が大好きだった。

また『ドラえもん』のファンでもあったそうだ。 

 

大学卒業後は地元で働きながらも小説を書き続け、

ついに講談社の新人賞を受賞する。

これをきっかけに講談社とのつながりが出来たのか、

その後の作品の多くが講談社から出版されるようになる。

順調に作品の発表を続け、徐々に人気作家として認められるようになっていく。

自分を見出し育ててくれた講談社に対しては、強い信頼感をもっていただろう。

 

辻村さんの作品には、

若者の微妙な気持ちを、分かりやすい言葉で丁寧に描いたものが多い。

そんな作品の中でも、当時の辻村さんが「自分の代表作」と考えていたのが、

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』だ。

 

この作品の主人公は、

山梨県から東京に出ていき、また山梨に戻ってきた女性ライターだ。

設定、経歴ともに辻村さん本人に非常に似ている。

主人公を自分自身に重ねるような思いで書き上げたに違いない。

かなり思い入れの強い作品だっただろう。

 

当時、辻村さんは31才。

仕事をやめ作家に専念して3年ほどたっていた。

これから作家としてもっと上を目指そうとしていた時期だったと思う。

 

そんな時期に、日本最大の放送局・NHKから

「ぜひドラマ化させてください」と依頼が来たのだ。

しかも自分の代表作に対して。

嬉しかったに違いない。

 

しかしこの後、NHK講談社の交渉は難航し、

最後は不幸な結末を迎えることになる。

 

交渉の役割分担

事件の話に入る前に、

一般的に言って「交渉」とはどういうものか、確認しておきたい。

 

交渉とは、自分の希望と相手の希望をぶつけ合い、すり合わせ、

ほど良い落としどころを決定するプロセスだ。

 

日常生活では、その全てを自分1人で行うことがほとんどだが、

大きな組織同士の交渉では、

「交渉担当者」と「意思決定者」が分かれていることが多い。

 

なぜ分かれているかというと、そちらの方が上手くいくからだ。

 

営業担当者がお得意様から「もっと値下げしてよ!」と求められた場合、

意思決定する人が別にいるからこそ、

「一度社に持ち帰って上司と相談します」

と言って時間を稼ぎ、検討することができる。

 

意思決定する組織のトップが

「正しいのは我々だ!絶対に譲らない!」

と吠えている一方で、

相手と向き合う実務の担当者が

「トップはああ言ってますが、本心では仲良くやりたいと思っているんです」

とささやき、交渉をうまく進めることもできる。

トランプ大統領は、この方法で北朝鮮とのトップ会談を実現してしまった)

 

逆にトップ同士はにこやかに握手する一方で、

交渉担当者同士が厳しいやりあいをするパターンもある。

 

とにかく、「交渉担当者」と「意思決定者」が分担し、

「俺はこう言うから、お前はこう言え」としっかりと打ち合わせをし、

それぞれが違う役割を演じれば、何かと話を進めやすいのだ。

 

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のケースで言うと、

「意思決定者」は「改変禁止権」を持っている辻村氏だ。

そして「交渉担当者」は講談社となる。

 

この2人の役割分担はどう進行したのだろうか?

事件の流れを振り返ってみよう。

 

事件の流れ(辻村氏目線)

 2011年9月11日

NHKから講談社

「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』をドラマにしたい」

と企画書が送られる。

 

すぐに講談社から辻村氏にも連絡がいっただろう。

自分の代表作をNHKがドラマ化して全国に放送したいと言っている。

これは嬉しい。

 

「予定キャスト」として、長澤まさみ黒木華など、

そうそうたる役者の名前も挙がっている。

辻村氏が「小説のイメージにぴったり!」と思ったのか、

「少しイメージとは違うけど、どんな演技をしてくれるんだろう?」

と思ったのか、分からないが、

ワクワクしながら講談社に話を進めてくれるよう伝えただろう。

 

それからおよそ3か月後の12月19日、

第1話の脚本がNHKから講談社に提出され、それが辻村さんにも渡される。

 

脚本では原作と大きく変えられているところがあった。

主人公が母親とすぐに会ってしまっているのだ。

NHKは、主人公と母親の難しい関係を、

 ちゃんと分かってくれているのか・・?」

少し不安になってくる。

 

実は、この時点での辻村氏には『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の他にも、

映像化の話が進んでいる作品があった。

『ツナグ』という作品の映画化が、講談社東宝のあいだで進んでいた。

また、『本日は大安なり』という作品のドラマ化が、

こちらは角川書店NHKのあいだで進んでいた。

 

しかし、どちらも翌年に公開・放送する予定のものなので、

この時点では、完成作品として出来上がった映像はなかったと思われる。

辻村さんには自分の小説が映像作品になるという一連の流れを、

最後まで体験したことがなかったのだ。

 

自分には「映像化の経験値」が少ない。

そんな中で、自分にとって一番大切な作品がドラマ化される。

自分の思いとは全然違うモノになって全国の視聴者に届いてしまうかもしれない。

大丈夫だろうか・・・?

不安になって当然だ。

 

辻村さんは、映像化の経験が豊富なはずの講談社に相談しただろう。

「この部分、気になるんですけど、大丈夫でしょうか?」

 

これに対し講談社は、前回の記事で書いたような、

「ドラマ化する上での都合・セオリー」を説明した上で、

「大丈夫だと思います。第2話以降の脚本がどうなるか、様子を見ましょう」

とは答えなかった。

「先生のご懸念わかります。ちゃんと修正してもらいます」

と答えたようだ。

 

12月22日

講談社NHKに対して、

「主人公がいきなり実家に行くのはおかしい。

 原作の中の母と娘の関係を変えないようにしてください」

と要望した。

 

12月26日

NHKから講談社

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールが来た。

 

このメールの内容が、そのまま辻村氏に伝えられたかどうかは分からないが、

このあたりから、講談社NHKへの態度が厳しいものになっていく。

 

12月28日

講談社NHK

「一切譲歩できない」と伝えている。

 

以前の記事に書いたとおり、私は講談社の態度が変わった理由は、

講談社と辻村氏が「一心同体」であることを、NHKが疑ったからだと考えている。

 

疑われた講談社は、「我々は一心同体だ!」と示すことに必死になってしまう。

辻村氏に対しては

NHKは何にも分かってないですよねー。ガツンと言ってやりますよ!」

と言い、

NHKに対しては

「辻村先生の意思です。一切譲歩できません!」

と強く出ることになる。

 

こうして徐々に、相手と交渉する上で大切な「役割分担」のバランスが、

おかしくなっていったのではないか・・・。

 

辻村氏は、経験豊富な講談社に、自分とは違う目線でのアドバイスが欲しかった。

しかし「分担」するどころか「一体化」したい講談社

「辻村先生の言うことが正しいです!NHKの方が間違ってます!」

ということばかり言うようになる。

 

それなのに、NHKから送られる脚本では、

気になっているポイントが全然修正されてこない・・・。

 

脚本制作の現場や、NHK講談社の交渉の現場から遠いところにいた辻村さんは、

どんどん不安に、そして、孤独になっていったのではないだろうか。

 

年の明けた1月10日、撮影開始のスケジュールが近づく中、

第1話の脚本(修正版)と第2話の脚本が、

講談社に届く。

第1話の脚本の中で、

主人公が最初から母親と会ってしまう点は変わっていない。

しかし、自分から進んで会いにいったわけではなく、

仕方なく行った。ということが分かるように設定が変わっていた。

 

これを読んで、辻村氏はどう考えたのか。

 

あることを考え、辻村氏は講談社NHKへのコメントを託す。

そのコメントの中で辻村氏はこう書いていた。

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、

 ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

 

このコメントを読んで、あなたはどう感じるだろう?

 

脚本に対して、仕方なくOKを出しているように読めないだろうか?

「今後の第3話~第4話で、

 母親との関係の描き方をちゃんと意識して作ってくれるなら・・

 納得したわけではないけど・・・OKです。」

そう言っているように感じないだろうか?

私はそう感じる。

 

これは、辻村氏からの「隠しメッセージ」だ。

講談社は「先生の言う通り!」しか言わなくなってしまっている。

こんな講談社に対して、

「やっぱり、OKすることにしました」

とは、直接には言いづらい。

そんなことを言えば、「一切譲渡できない!」と自分のために頑張っていた

講談社の顔を潰すことになるかもしれない。

講談社にはお世話になっているし、そんなことは出来ない。

かといって、スケジュールの差し迫ったNHKが困っているのも分かる。

せっかくのドラマ化の話が壊れてしまうのも嫌だ。

 

ひとまず、NHKに「OK」という自分の気持ちを、さり気なく伝えよう。

それで何か状況が動くかもしれない。

講談社も、自分のメッセージをくみ取って理解してくれるかもしれない。

 

こんな、ささやかな希望を込めて辻村氏はコメントを書いたのだ。

「第1話で母と会うことの必然性が映像としてある、

 ということでしょうか。

 正直なところ、まだ承諾しかねる部分はあります」

 

裁判へ

しかし、状況は変わらなかった。

講談社NHKへの厳しい態度を崩さない。

撮影スケジュールがどんどん迫ってくる。

NHKとの交渉を講談社に任せてしまっている辻村氏は、

「隠しメッセージ」が届かなかった以上、もう何も言えない。

講談社の意向に沿う形で、手紙まで書くことになってしまう。

 

撮影ギリギリになってNHKは大幅に譲歩する。

脚本は辻村氏と講談社の希望にあう方向に修正されることになり、

撮影は延期されることになった。

それでも講談社は態度を変えなかった。

NHKに対して

「許可を取り消す。今回の話は白紙にする。」

と通告した。

ドラマ化の話は無くなった。

 

こうして、

最初は「ウキウキ」した気持ちで始まったものが、

「不安と孤独」をさんざん感じさせた末に、

最後は「絶望」で幕を閉じることになった。

 

しかし、これだけでは終わらなかった。

今度はNHKが怒り出すのだ。

「無駄になった6000万円を賠償しろ!」と講談社に要求する。

 

こうなると、裁判になる可能性が出てくる。

講談社にとっては、

「出版社は権利者だ!作家の味方だ!」

と示すために、絶対に負けられない戦いだ。

 

講談社には、ますます辻村氏と一枚岩になる必要が出てくる。

NHKがこんな恥知らずなこと言ってきてますよ!

 我々は先生を守るために戦ったというのに!」

のようなことを言って、辻村氏の意思を確認しようとしただろう。

 

辻村氏は内心

NHKはそんなに損しちゃったんだ・・。悪いことしたな」

と思っていたかもしれない。

しかし今となっては、講談社に「そうですよねー」と返答するしかない。

 

こうして、NHK講談社は裁判に突入する。

日本を代表する放送局と出版社の戦いだ。

当然、大きなニュースになる。

 

かといって、多くの人はニュースの内面までしっかり理解するわけではない。

「作家の辻村深月が何かモメたんだ」とだけ記憶される・・。

 

敗者

NHK講談社の対決。

「本当の敗者」は、辻村深月氏だ。

 

さんざん苦労したのに、

ドラマ化で入ってくるはずだった権利料は入ってこなかった。

ドラマの効果で、原作の本があらためて沢山売れるはずだった。

その分の印税も入ってこなかった。

 

何よりも、

自分が心を込めて作り上げた作品を、より多くの人に届けるチャンスが失われた。

作家にとっては、一番残念なことだ。

 

でもそれだけじゃない。

 

「作家・辻村深月」に、脚本が気に入らず許可を取り消したという

「実績」ができてしまった。

 

将来、辻村氏の小説を読んだ若いプロデューサーが

「これ、ドラマにできないか?」と考えることもあるだろう。

そこで、ウィキペディアなどで辻村氏のことを調べてみる。

そこにはなんと、

ドラマの撮影開始の当日になって許可が取り消された事件のことが

書いてあるではないか!

これはプロデューサーにとっては、考えたくもない事態だ。

 

「辻村先生って、難しい人なんだな・・」と多くのプロデューサーが考える。

それだけで諦めてしまう人は多くないとしても、

ドラマ化を検討する上での1つのハードルになることは確かだ。

 

事件の後、辻村氏の作品がドラマ化されることが、

全く無くなってしまったわけではない。

東海テレビWOWOWなどで数件のドラマが作られている。

 

しかし辻村氏の作品の魅力を考えると、これでは少なすぎると、

筆者は感じてしまう。

 

半沢直樹』や『下町ロケット』など、

書く小説が片っ端からドラマ化されてしまう

池井戸潤氏のような作家もいるというのに。

 

ドラマ化されることが全てではないし、

池井戸氏と単純に比較しても仕方ないが、

辻村氏の作品だって、十分にドラマ化に合った小説だ。

 

なぜこんなことになってしまったのか?

 

NHK講談社が大々的に戦ったからだ。

NHKが「辻村先生に分かってほしかった!」と主張し、

講談社が「辻村先生が変えるなと言っている!」と主張する。

この戦いの様子を少し引いた目線から見ると、

2つの巨大企業が協力して、1人の作家について

「私たち、辻村先生のことでモメてます!」と世間に大声で宣伝している、

というグロテスクな構図が浮かび上がってくる・・。

 

私は思う。

そんなことをしたら、辻村さんがかわいそうじゃないか!!

NHKは、辻村さんの作品に惚れ込んでドラマ化しようと思ったんじゃないのか!?

講談社は、誰よりも辻村さんの将来を考え、

守らないといけないんじゃなかったのか!?

それなのに、何で自社のことばかり考えて戦ってるんだよ!

 

以前の記事で触れたように今回の事件については、

辻村さんが出産直後だったという特殊な事情があったのかもしれない。

だから「辻村先生には会わせられない」ということになり、

余計に話がこじれたのかもしれない。

しかしだからこそ、何よりも辻村さんのことをちゃんと考えてほしかった。

 

相手に対する怒りや、絶対に勝ってやる!という思いに駆られるのではなく、

作家のことを大切にする気持ちを忘れずにいてほしかった。

そうすれば、もっと他の解決方法が見つかったのではないだろうか?

非常に残念だ。

 

その後

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化は無くなってしまったが、

それとは別に話が進んでいた『本日は大安なり』については、

無事にドラマが完成し、NHKで放送された。

この話の窓口になったのは、講談社ではなく角川書店だった。

 

講談社に任せたドラマ化の話は失敗した。

一方で、角川に任せたドラマは放送され、多くの人に届いた。

 

この結果について、辻村氏が何を思ったのかは分からない。

しかし、デビュー以来ほとんどの作品を講談社で出版してきた辻村氏が、

この事件以降は、他の出版社で精力的に作品を発表するようになる。

そして、講談社で出版する作品を極端に減らしている。

辻村氏が講談社との間に距離をとっているように思える。

 

そして、最近では小説以外にも仕事の幅を広げているようだ。

なんと、憧れだった『ドラえもん』の映画の脚本の仕事を引き受けている。

来年の3月に公開予定だという。楽しみだ。

 

辻村さんは、実力のある作家だ。

今後も沢山の素晴らしい作品を生み出してくれるに違いない。

 

次回

 今回の連載では、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件について、

出版社、放送局、作家、それぞれの立場から、

何を考えてたのか?について推理した。

 

それぞれの立場で頑張った結果、不幸な結末になってしまった事件なのだが、

全体的には、講談社について厳しい見方をすることになった。

講談社がもっと上手くやっていれば、違う結果になっていたのでは・・?

と、ついつい考えてしまう。

 

私は出版社を嫌っているわけではない。

以前の記事にも書いたが、私は紙の本を愛している。

出版社がなくなってしまうと、本当に困る。

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そこで次回は、出版社、放送局、作家のそれぞれが、

将来に向けてどう向き合ったら良いのか?について考えてみよう。

特に、出版社のあり方については、重点的に検討したいと思う。

 

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NHKと講談社の対決 「本当の敗者」は誰だ?を突き止める(3)

第2章:NHK

前回の記事では、講談社の目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返った。

 

出版社は自分では権利という武器を持っていない。

だから、権利を持っている作家と一体化するしか、生き残る道がない。

作家の権利を預かりつつ、対外的には自分も権利者であるかのように振る舞う。

このような基本戦略に従って、講談社NHKと向き合った。

NHKが作家と直接会いたいと希望し、

出版社と作家が一心同体であることを疑う姿勢を見せたので、

講談社は、ドラマ化の許可を取り消した。

このような流れだった。

 

この事件について、残る謎は2つだ。

 

・なぜ、NHKは勝ち目のない裁判をしたのか?

・そして、最終的には誰が損をしたのか?

 

今回は、NHKの目線に立って、事件を振り返ってみよう。

 

ドラマ化の権利の仕組み

テレビ局のプロデューサーが、小説や漫画を原作にしたドラマを作りたいなら、

その小説や漫画を映像化するための「許可」を得ないといけない。

ここまでは、常識だろう。

 

しかし著作権的に言うと、この「許可」は、2種類の許可に分解される。

プロデューサーは2段階に分けて許可をもらわないといけないのだ。

 

原作者は、映像化について2つの権利を持っている。

「映像化禁止権」と「改変禁止権」だ。

 

映像化禁止権は、

原作をもとに映像化する作業をスタートすることを禁止できる権利だ。

つまり、この権利の許可がないと、脚本を書き始めることもできない。

ドラマ化をスタートするときに「瞬間的に」働く権利と言える。

(違う説明の仕方をする専門家もいるが、実務上はこの理解で良い)

 

この権利は、もともとは作家が持っている権利だが、

出版社との契約によって出版社に預けられていることも多い。

 

一方の改変禁止権は、

原作の内容を変えることを禁止できる権利だ。

この権利の許可がないと、ストーリーの流れを変えたり、

登場人物を増やしたり減らしたりすることも、セリフを変えることもできない。

 

許可をとる側の人間からすると、この権利の扱いはやっかいだ。

改変することで、ストーリーがさらに面白くなっても、

登場人物がもっと魅力的になっても、それでOKとは限らない。

改変することで作品が良くなるかどうかは、直接は関係ない。

この権利の許可が出るのは、原作者の気に入ったときだけだ。

 

脚本を作り、俳優に演技をしてもらい、それを撮影し、編集するという

一連のドラマ化の作業の流れの中で、

「原作者が気に入るかどうか?」を常に気にしておかないといけない。

 映像化をスタートする瞬間に働く権利ではなく、

ドラマが完成するまで「連続的に」少しずつ積み重ねるように働く権利と言える。

(実務上は、脚本のチェックだけで済ませることも多い) 

 

この権利は、出版社に預けられることはなく、原作者が持ったままになる。

 

理屈上は、映像化禁止権の許可だけあれば、映像化することはできる。

しかし実際には、そんなことは有りえない。

映像化するときに原作を一切変えないということは、不可能だからだ。

文章と映像は違う。

何らかの改変をする必要が出てくる。

 映像化禁止権と改変禁止権は、必ずセットで働く。

 

まとめると、こうだ。

 

・原作をもとにドラマ化をする場合、

 「映像化禁止権」と「改変禁止権」の2段階の許可が必要。

 

・映像化禁止権の許可を出版社から得て、ドラマ化の作業をスタートできる。

 

・脚本→撮影→編集という流れの中で、

 原作者本人がもつ改変禁止権はずっと働きつづける。

 

「ドラマ化する上で原作のOKが必要」ということは、常識として知られているが、

原作の許可は2段階に分かれているということを、理解しておくことが重要だ。

 

ちなみに、

専門家は映像化禁止権のことを「翻案権(ほんあんけん)」と言ったり、

改変禁止権のことを「同一性保持権(どういつせいほじけん)」と言ったりする。

覚えておこう。

 

切り分けが大事

ドラマ化するプロデューサーは、

頭の中でこの2つの許可をはっきりと分けて考えておかないといけない。

そうしないと、無用なストレスが生まれてしまう。

「最初はOKって言ってたのに、なんで途中でNGなんて言うんだよ・・・」

という考えに、おちいりやすくなってしまうのだ。

 

男子中学生が憧れの女の子に

「付き合ってください!」

と告白し「OK」をもらったとする。

しかし、デートに行ってもなかなか手を握らせてもらえない。

キスも断られる。

男子中学生は怒り出す。

「なんだよ!付き合うって言ったじゃんか!

 なんでキスがダメなんだよ!」

 

しかし、交際をスタートすることが「OK」でも、

キスが「OK」ということには、ならないのだ。

 

 ここまでを押さえた上で、

NHKの目線で『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を振り返ってみよう。

 

事件の流れ(NHK目線)

「小説をドラマ化したい」と申し込んだNHKに対し、

2011年の11月15日、講談社

「社内の上層部の会議でOKが出ました。ドラマ化を進めてください」

と返答した。

 

「2段階の許可」のうち、「映像化禁止権」のOKが取れたことになる。

(厳密に言うと「この時点では正式な許可ではなかった」と後の裁判で

 言われているが、細かい説明が必要になるので省略)

 

これで、晴れて映像化の仕事をスタートすることができる。

 

NHKは、脚本家の大森寿美男氏に「脚本を書いてください」と依頼する。

そして、大森氏が第1話の脚本を書き上げる。

 

この脚本の中で主人公は、原作とは違う行動をとっていた。

原作では、主人公は母親と仲が悪いので、母親に会うのを避ける。

しかし、脚本では主人公はすぐに実家に行って、母親に会う。

なぜこんな改変をしたのか?

 

脚本家の大森氏は、

大河ドラマ風林火山」や「精霊の守り人」などの脚本を担当したこともある、

実力も実績もある脚本家だ。

何らかの狙いがあって主人公を実家に帰らせたのだろう。

 

ドラマは、全てを映像とセリフで表現しないといけない。

小説なら

「主人公は実家に帰ることも考えたが、

 母親に会うことを考えると気持ちが乗らなかった」

と文章で書くこともできる。

しかしドラマではそれができない。

主人公の気持ちを表現するためには、

主人公と母親を直接会わせて、表情やセリフで表した方が伝わりやすい。

 

また、連続ドラマの場合、第1話は❝顔みせ❞の意味合いもある。

視聴者に

「このドラマには、こんな役者が出てるんですよ。

 だから、第2話以降も見てくださいね」

というメッセージを送る必要がある。

重要な登場人物は、早めに出しておきたい。

 

それ以外にも、映像作品としての演出上のさまざまな狙いがあって、

大森氏とNHKは、主人公と母親を第1話で会わせることにしたのだろう。

 

しかし、原作者の辻村氏は、この改変ポイントが気になった。

辻村氏は、主人公と母親がずっと会わないということ、

そして、最後の大事なときに初めて母親と出会うという物語の流れに、

強いこだわりを持っていた。

最初から母親と会ってしまうと、

最後のシーンのインパクトが弱くなってしまう。

 

辻村氏と大森氏、どちらのストーリーの方が良いのだろうか・・?

私は、どちらのパターンも見てみたい気がする。

しかし「どちらの方が面白いか?」は、著作権の世界では重要ではない。

先に述べたように、原作者は「改変禁止権」という絶対的な権利をもっている。

「辻村氏が気に入るかどうか?」だけが問題になるのだ。

 

権利の強さにおいて、原作者と脚本家のあいだには、明確な差がある。

同じクリエイター同士、あまり良い印象を持っていないことも多い。

原作者の方は「自分の大切な作品を変にされる」と感じ、

脚本家の方は「映像化のセオリーを理解せずに、文句ばかり言う」と感じがちだ。

そのことを知っているプロデューサーも、

ドラマ制作の打ち合わせに原作者を呼びたいとは、ほとんどの場合考えない。

最初の「顔合わせ」や、撮影現場に「お客さん」として来てもらう。

という程度になることが多い。

 

この時点で、

2段階の許可のうち、後半の許可はまだ得られていない。

 

12月22日、NHK講談社から

上記のポイントを修正するように要請される。

 

しかしNHKも、ちゃんとした理由があって、

あえて主人公を母親と会わせている。

できればこのまま行きたい。

 

12月26日、NHK講談社

「第1話の脚本だけだと、全体の流れが分からなかったのだと思います。

 第2話の脚本が出来た時点でお送りしますから、

 それを読んだ上で、もう一度考えてもらえないでしょうか?」

とメールしている。

 

その後、講談社から「一切譲歩できない」と言われたNHKは、

やむをえず脚本を修正することにする。

主人公が最初から実家に行くことは変えないが、

仕方ない事情があって行くという話に変えることにしたのだ。

 

しかし、それでも講談社は首を縦に振らない。

 

こんなやりとりが続くうちに、NHKにフラストレーションが溜まっていく。

上記の男子中学生のように。

「なんだよ!OKっていってたじゃないかよ!」

 

NHKは辻村氏と直接会って話せば、分かってもらえると信じ、

「先生と会わせてください」とお願いする。

しかし、前回の記事で説明した通り、講談社は作家を外の人に会わせたくない。

いくらお願いしても、講談社は断る。

NHKにとっては、講談社が邪魔しているように見えてくる・・。

 

ドラマ作りの現場

NHKのプロデューサーが、

「2段階の許可」を明確に切り分けて理解できていたかは分からない。

作家と一心同体であることを強調したい講談社から、

わざわざ「映像化禁止権は講談社、改変禁止権は辻村先生。別物です」と、

丁寧に説明されることは無かっただろう。

NHKの認識が甘かった可能性は高い。

 

しかしそれでも、私はNHKに同情してしまう。

 

ドラマは、沢山のスタッフの共同作業で制作される。

脚本家、監督、出演者、撮影監督、美術監督、編集マン、音楽監督・・・

などなど、みんな、こだわりの強い❝曲者❞ぞろいだ。

全員が「この作品をこう作りたい」という考えを持っている。

プロデューサーは、そんな彼ら全員をまとめ上げながら、

予算内で期限までにドラマを完成させるという、重い責任を負っている。

 

プロデューサーからして見れば、原作者や出版社は、

沢山いる関係者の1つにすぎない。

もちろん一番重要な関係者だが、原作者と出版社から許可がもらえたとしても、

それだけでは、ドラマは完成しない。

関係者全員の協力が必要だ。

 

ドラマの撮影中に長澤まさみ氏が

「わたし、このドラマに出るのやーめたっ!」

と言えば、それだけでドラマ化の企画は失敗におわる。

脚本を書いた大森氏が

「この脚本を使っちゃダメ!」

と言い出せば、全ては1からやり直しだ。

 

しかし彼らは、そんなことはしない。

「みんなで1つの船に乗っている」ということが分かっているからだ。

 

ドラマの制作プロセスは、

乗組員の全員が爆弾をもって1つの船に乗り込むようなものだ。

何か気に食わないことがあれば、

誰もが「やーめたっ!」と言って、爆弾のスイッチを押すことが出来る。

船は大破し、ドラマ作りは失敗する。

しかし、そのスイッチを押した本人も大ケガを負う。

「ドラマの制作に協力する」と契約した上で、船に乗り込んだ以上、

爆弾を押せば「契約違反」になってしまうからだ。

 

だから、よほどのことが無い限り、誰も爆弾のスイッチは押さない。

最終的には、船の船長であるプロデューサーの指示に従う。

 

しかし、そんな乗組員の中で、だた1人スイッチを押しても無傷で済む人がいる。

改変禁止権というバリアで守られた原作者だ。

原作者だけは契約違反になることもなく

「やーめたっ!」と爆弾を爆発させることができる。

 

不公平のような気もするが、

このこと自体は、法律で保証されていることなので、

悪いことでも良いことでもない。

 

ただ、その極めて❝特殊な乗り組み員❞である原作者とは、

船長でさえ会うことはできない状況だった。

講談社を通してしか、やりとりが出来ない。

せめて、乗り組み員の1人である講談社には、

船長の立場を理解した上でドラマ制作に協力してほしい。

 

しかし、この乗り組み員からは、船長に協力している気配が感じられない。

原作者と一体化してしまい、原作者の気持ちばかりを押し付けてくる。

船長の気持ちを原作者に理解してもらおうと努力している様子がない。

 

乗り組み員全員が1つの目標に向かって頑張っているのに、

1人だけ違う方向を向いている。

しかも、どんどん態度を固くさせ

「言うことをきかないと爆弾のスイッチを押す(許可を取り消す)」

などと言ってくる。

 

なんとも、もどかしい。

こうして、NHK講談社に対するフラストレーションがさらに溜まっていく。

 

裁判

それでもNHKは譲歩した。

 

講談社からの要望を聞き入れ、脚本を修正することにした。

予定していた撮影開始(クランクイン)のスケジュールは諦めた。

 

大森氏に大幅な脚本の修正をお願いしないといけない。

スケジュールを押さえていた俳優や撮影スタッフを、

一旦キャンセルしないといけない。

船長の面目は丸つぶれだ。

 

しかしこの状況でも、まだ船を進めることは可能だった。

今は船が止まっただけだ。

まだ爆弾は爆発していない。

 

ドラマ制作の現場でスケジュールが遅れてしまうことは、たまにあることだ。

天気が悪いせいで、撮影が延期になることもある。

ドラマの設定に似た事件が現実に起きたせいで、

大幅に内容を変えないといけなくなることもある。

そんな場合でも、上手くやりくりしてドラマを完成させるのが、

プロデューサーの腕の見せ所だ。

 

クランクインを1週間程度遅らせても、何とかなるという計算は立っていただろう。

「まだ何とかなる。

 乗り組み員みんなで力を合わせれば、もう一度船出できるよ!」

船長は、必死で様々な関係者と調整しながら、船の再出発の準備を進めていた。

 

しかし、よりにもよって、

このタイミングで講談社が爆弾のスイッチを押したのだ。

「信頼関係が壊れたので、もう協力できません」

と言って。

 

この時の、船長の気持ちを想像してほしい。

 

なぜこのタイミングに?

まだやれたはずなのに!

これじゃ、がんばっていた他の乗り組み員に顔向けできないじゃないか!

もともと講談社は協力的じゃなかった。

最初はOKと言ってたのに態度を変えた。

原作者に会いたいと言っても邪魔してきた。

それでも俺は我慢した。

スケジュールを変更し、脚本も言う通りに変えた。

それなのに、一方的にみんなの船を爆破させた。

なぜ?なぜそんなことを?なぜなんだ?

くやしい!

講談社が憎い!

 

NHK講談社を訴えた直接の原因は、この時のNHKの「怒り」だと思う。

NHKは、ドラマ制作の妨げになっていた改変禁止権を持っていた辻村氏ではなく、

あくまでも講談社を訴えている。

どうにも講談社のことが許せなかったということだ。

NHKは「脚本に口出しするのは検閲だ!」とまで言って、講談社を責めている。

 さすがにこれは言い過ぎだが、よほど腹に据えかねたのだろう。)

 

しかし訴えた狙いは、それだけでは無かったはずだ。

講談社を訴えるにあたって、NHKは弁護士に相談しただろう。

改変禁止権という明確な権利がある以上、

「改変されないために許可を取り消しました」と言われてしまえば、

勝ち目はほとんどない。

訴える前にNHKは、そのことも分かっていたと思う。

 

でも、NHKは「船長」なのだ。

今後も別の船で、多くの俳優やスタッフを連れて、新たな船出をしないといけない。

乗り組み員に船を爆破されたのに、怒りもしない船長は、ナメられる。

他の乗り組み員に対しては

「悪いのは船長ではない。講談社だ!

 これから不届きな船員をこらしめてやるぞ!」

という姿勢を示す必要があった。

 

裁判という「戦うポーズ」を示すことで、今後も船長でいることができる。

数年後に裁判に負けたとしても、

その頃には、この事件に対するみんなの興味は薄れているだろう。

 

こうして、

講談社に対して溜まりに溜まった怒り。

・俳優やスタッフへの威厳を保つ必要性。

という理由で、NHK講談社を訴えたのだ。

 

その後、裁判ではNHKの必死の訴えにも関わらず、以下のような結論が出された。

・原作者のもつ改変禁止権は尊重されないといけない。

講談社が許可を取り消したことが、間違った行為だとは言えない。

講談社にはNHKへの配慮に欠ける面があったことは否定できないが、

 義務違反だとまでは言えない。

(裁判所に、講談社の配慮が不十分だったと認めさせることには成功)

・損害賠償する必要はない。

 

負けたNHKは、それでも高等裁判所に訴えた。

そして、2015年12月に和解している。

その頃には、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』事件を話題にする業界関係者は、

ほとんどいなかったと、私は記憶している。

 

そして、その後もNHKは多くの俳優、スタッフと共に、

面白いドラマを作り続けている。

 

溜まった怒りを吐き出し、俳優やスタッフへの威厳を保つ、

という意味では、NHKの裁判は成功したと言えるかもしれない。

 

以上が「第2章:NHK」だ。

 

次回は、物語の視点は講談社NHKのような大企業ではなく、個人に移る。

「第3章:辻村深月」だ。

 

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